貴乃花親方との離婚を赤裸々に綴った元妻河野景子の著書『こころの真実 23年間のすべて』。「真実」の文字があるが、「真実」と銘打ったものに真実はないのが一般的な見方。ないものをあるがごとく強調するために、「真実」を使う。嘘を書こうが言おうが当事者以外に真実を知る者はいない以上仕方がない。
真実を書こうとするなら別に、「真実」と前置きせずとも書くことはできようが、人間は言葉を操るのが好きだ。「私は嘘はいわない」という嘘つき女がいた。自分の歴史に燦然と残る女だ。「嘘はいわない」は嘘をつくカムフラージュだと、若き自分は彼女から学んだ。悪辣セールスマンの殺し文句が、「ぼくが嘘をいう人間に見えますか?」であり、これも嘘を本当だと信じ込ませるための前置きである。
前置きナシのうそより、前置きアリが罪が重いわけでもない。人間は言葉の動物だから、嘘を嘘だと思わせないための様々な工夫が必要となり、だから嘘つきには形容詞が多い。「これからいうのが本当の真実だから聞いて欲しい」という言い方をする男がいた。彼は嘘つきなのは誰もが知っており、仲間うちでは、「せんみつ」といわれていた。「せんだみつお」の芸名の由来で、千に三つしか本当を言わないの意味。
言葉の流れの中で一瞬見逃しがちだが、注意力のある人なら違和感のある言葉。それが、「本当の真実」という言い方である。真実だから本当なわけで、本当の真実って可笑しい。彼には「嘘の真実」というものがあり、だから「本当の真実」があるのだろうが、「本当の真実」でさえ嘘が多い。何度か彼に足元をすくわれた自分は周囲に、「彼はせんみつどころかせんゼロだよ。俺は奴のいうことは100%信じない」。
ここまでなればまともに付き合う相手もいない。金銭と時間の観念のない彼は、多くの知人に迷惑をかけたが、その後の言い訳もヒドイものだった。平気で嘘をつく人間は、「病気」と断定した方がよい。よくもまあ、あんなに嘘がつけるものかと驚いたり感心してる場合じゃない。ところで河野景子という女は、自分の都合や利益のためなら何でも晒すという点で性悪女である。これが自分の人間観である。
男女の区別はない。「性悪男」という言葉がないのは、男は力で身を守り、ひ弱な女は嘘で身を守るというのが自分の考えだ。よって「性悪女」に換わる言葉として「DV男」がある。まあ、性格の悪い男がいないわけではないが、女の方が巧みなカムフラージュをするところからそういわれるのだろう。性格の悪い男にもっとも顕著なのが、「器の小ささ」で、男同士では"キンタマのない男"となる。
キンタマこそが男の象徴だからだ。性格の悪い女に、"オッパイあるんか!"というのはないが、理由はわからない。性悪女と性格の悪い女とは一般的に区別されるが、「性悪女」というのは、「性分」という言葉がいうように、直らないということだろう。注意したり啓発したりで変革できるものではない、底なし沼的な意味がある。簡単につかっていいかどうかは分からぬが、性格の悪い女を短く「性悪女」といったりする。
前回、樹木希林についても述べたが、他人の秘密をばらすというのが、自分の中での最大の性悪女である。底意地の悪い女ともいうが、「底意地の悪い女」の「底」と、性悪女の「性」は同列の意味であろう。昔から女性は秘密を守れないというが、確かにそういう経験は多かった。自分がA子に「これは内緒」という。ところがA子はB子に、「あなただけにいうけど彼には内緒にね」というのが通例である。
さらにB子はC子に、周り回ってC子から自分に戻る。ありきたりな一連の流れを思考するに、他人の秘密を知り得るのは快感である。人の秘密を知る自分は、何か特別な能力とか、人から信頼関係を得ているといわんばかりの自己顕示欲と見る。他人の秘密は知りたいという人間の性分が、「隣は何をする人ぞ」の句にも現れている。男でもっとも信頼できる人間は、やはり秘密を守れる男であろう。
離婚した後に妻が婚姻関係中の夫のことを唯一知り得る立場にあるのはいうまでもないが、河野景子は性悪女であることを世間の男に公表したことになる。男と女とでは受け止め方は違うだろうが、そんなことは男の自分に関係ない。河野も都合のいい事ばかり考えているわけでもなかろうし、批判覚悟の上なら批判も妥当である。性悪女というあらぬ代名詞がつこうと、「言い訳無用!」の自己責任。
中条きよしはこう批判した。「ふざけているよね。どこで離婚しようが何しようが。どこの家庭もみんなそうなんだろうから。男と女は、結婚しようが恋愛しようが同棲しようが好きなところがあって結婚したり同棲するわけだから、別れたら、別れたで、生意気言うわけじゃないけど、相手だって再婚するわけだし結婚するわけだし、家庭もあることになるわけだし、こんなことを後々、本にして書く必要性がない。
なんで書くんだって」。中条に付け加えるものはないが、貴乃花親方とて今後もある身であるのをなぜに考えない?だから河野は自分勝手な性悪女、底意地の悪い女である。彼女が縁あって親方の人生途上のある時期を独占(あえてこの言葉を)していたのは間違いないし、互いがそうである。ところが、縁も切れ切れに離婚は仕方ないにしても、親方の人生はそこで終わっていない。互いが先のある身である。
考えれば分かるからクドクド言わぬが、だから、一時が万時の如き暴露本が許されないのである。河野景子の見方は河野景子の見方であって、違う女性が妻であったなら河野とは別の見方がある。歴史家が自分の視点で歴史を論ずるのとはわけが違う。片側の一方的な視点で何かをいえば、人は傷つく。元横綱だから強靭な精神と肉体所有者ということでもない。だから河野景子は性悪女である。
「出しゃばり女の御都合主義」をもっとも嫌うのが男。自分が知り得た他人の秘密、ましてや共に人生の一時期を過ごした配偶者の秘密を晒すことの何の公益性があるのか。「隣は何をする人ぞ」は人間の業であっても、単なる思いである。それを隣はああだこうだと言ってくる人、言いたい人はいる。他人に無用な関心を抱くゲス人間は誉められたものではない。そういう人間になりたくないは自制心である。