すべての物事には「始まり」がある。何事においてもそれがある。初めての体験というのは誰にもある。セイコーに初体験があるようにエンコーにもそれがある。援交はまどろこしいのであえて売春とする。少女たちが、"身体を売れるもの"だと知るのは容易いことで、彼女たちが初めて身体を売った時、どういう思いが過ったかについて考えを巡らせた。分からないから聞くしかない。売春常習女子高生をみつけたが、客でないと分かるとすぐに逃げた。
彼女らにとってビジネス外の無用な話は避けたいのだろう。30年くらい前にそれ目的で会った女子高生があまりに美人で驚いた。正直、「何でこんな子が?」だったが、彼女たちは美人であるのが好条件(高く売れる)のを知っている。それがわかると「なるほど」であった。美人の役得は売春にもプラスになるのだと。「つい財布にお金を入れ忘れて…」と嘘をいって食事とカラオケに誘ったら、ビジネス外にもかかわらず、意外や喜んで了承を得た。
昔も今も県内トップ10内の進学校である呉・三津田高校に通う彼女に、こうしたことを制服姿でやるのかを聞きだすのは容易でないが、自尊心を傷つけぬよう遠まわしに聞いた。大きな理由としての二点は、家庭内における両親の不和と日常生活のストレスのようだった。また、初対面の見知らぬオジさんたちがあまりに無邪気で、お金をたくさんくれることに驚いたと彼女はいった。だから、高校名を隠さず、校章付きの制服が喜ばれるのを知っていた。
「美人で有名校で制服姿」という三点セットで彼女はどれだけ稼いだことか、週に3~4回の頻度だからスゴイ金額であるのは想像できた。別れ際に彼女はこういった。「楽しかったです。最初は警察の人かなと思ったりしたけど、そうじゃないとわかって、こんなおじさんもいるのかとちょっと嬉しかったです」。彼女の言葉は意外だったが、「嬉しかった」の意味は自分なりに分かったので聞かなかった。
カラオケ店で彼女は終始楽しそうだった。身体を売る汚れた女という先入観は感じられないほどに無邪気であった。おそらく…、少女の身体をいたぶり、むさぼるオヤジたちを彼女はビジネスと割り切りながらも、心の中では吹き荒む風の音を聴いていたのかも知れない。こういう男たちの喜ぶ餌を与える自分は何?だから、「こんなおじさんもいるんだ」の言葉が胸に刺さる。彼女は被害者であった。
そんな彼女は法学部を目指しているといった。今でも彼女の顔も声もくっきりと覚えている。「ごめんな。財布にお金を入れ忘れたよ、まったく…。お詫びに食事をおごるよ。何か美味しいものでも食べないか?」といった時、機嫌を損ねたかと危惧する自分に、笑顔で応えた彼女の顔は今も脳裏にある。以後彼女は同じように客をとっていたのだろう。大学の法学部にもいったろう。
そして彼女は今、50歳の少し手前である。おそらくどこかに嫁いで母親になっていることだろう。確かに美人であったし、そのことがショックで驚きの第一印象だったが、そんなことはおくびにも口にも出さずにいた。オヤジたちかはこぞって、「可愛いね」、「美人だね」、「秀才だね」、「テクが上手だね」というらしい。誉めてくれてるというではない耳障りなお世辞だったろう。
美人に美人は禁句。そんな言葉は飽き飽きな彼女たちは喜ばない。別の魅力を指摘するのが男の心得である。反対にブサイクに見え透いたお世辞も禁物。その辺を心得ていれば、多少なり「女心」の何たるかを知ることになる。女は難しいというが、難しいから楽しめる。難しい学問(哲学)や奥の深い将棋が楽しめるのも、同じ理屈である。いずれも楽しむためには深い思慮が必要だ。
売る側の御利益にあやかる男を思うと、彼女らを見下すことはできない。彼女たちはそんな男たちの公共物、しがない男たちにとって必要不可欠である。先日、千葉で殺され遺棄されたあどけなさの残る大学生だが、容疑者のダサい男も金さえ出せば女の柔肌にありつける。男は堪能したが後がよくない。自分の前途を脅かされたくらいで血気にはやって殺すなど言語道断。
ブラックリストとして拡散されれば、二度と買春できなくなるという切実さが、殺人に至るのだから女に縁のない男の心情も憐れというしかない。「お金の切れ目が縁の切れ目」とは古人の言葉。昔も今もそのことは変わらないようだ。お金は万能という考えもあるが、お金で構築された人間関係はこうも浅いものかと。それでもお金によってしか関係を持てない人もいる。
ラッセルの『幸福論』の冒頭の一文は何と含蓄に溢れていることか。これはラッセルの言葉ではなく、「ぼく自身の歌」と題するウォルト・ホイットマンの詩である。「あなた自身の道を他人が歩くことはできない」と、これもホイットマンの言葉。なぜラッセルがこの詩を引用した?『幸福論』の原題は直訳すれば、『幸福の征服』で、天から与えられたものでも、不意に掴めるものでもない。