人間にとって他人を非難することは簡単だ。感情のままにやればいいし、人から咎められようと無視すればいい。冷静で理性的な批判は非難とちがって難しい。非難された人を弁護するのはどうか?実はこれもやさしい。なぜなら、どちらも自分とは関係のない他人のことだからだ。横やりも無責任という点ではやさしい。だから自発的な意見をいうより横やりが無難とこちらに噛みつく。
何事も自分自身が責任者になってやれば、それに対する批判や煽りを覚悟せねばならない。自分のなかでは横やり専門だったフィフィが、主体的な発言をした途端に墓穴を掘った。あげく間違い発言をしたにもかかわらず、素直に謝らず自己正当化をしたことで、フォロワーからも批判された。人間というのは良いことをいってるときは善い人にみられがちだが、何かと土壇場になるとその人の人間性が現れる。
批判や非難や横やりとは別に素直に沸き立つ、「共感」というのはそれらと違う。「私もあなたと同じ考えですよ」という気持ちはおべっかでなく、「世の中がよくなるといいね」ということで意義あること。また、それとは別の、これまで自分が気づかずに生きてきたことに対し、新たな気づきを与えられたことへの謝意であったりもある。これらはいずれも底浅な同調主義とは別のもの。
ネット内のあちこちで批判合戦が目につく。何の足しにもならぬことを互いが批判し合う原因はツイッターにあるらしい。ネット参入者が増え、ブログやツイッターなどの発信が増えると、他人の意見に関心が向くようになる。これまで芸能人というのは、自分たちの世俗とは別社会に生きているようであったが時代は変わった。ネットに常駐し、発信する芸能人が増えたのも時代の流れであろう。
人が何かをいえば喧嘩の火種になる希薄な人間関係に加え、思い付きで書く短文は感情主体になりやすい。それがツイッター。「口から出まかせ」ではないにしろ、噛みつこうと待ち構える狂犬病が如き人間の多き哉。いうのも聞くのも嫌な小言ならツイッターに関心はない。その内容をいちいち記事にするメディアの狙いは芸能人だからである。名ばかりジャーナリストたちはこぞって芸能人化している。
先の木村太郎の発言しかりである。ポピュリズムという言葉を耳にする昨今だが、明確な定義はなく、「大衆迎合主義」とでもいうのだろうか。別棚に放置された商品の善悪をはぐらかし、店員が片付けるべきなどというが、そんなことは当たり前で、店員が片付けなければ他に誰がそれをやるのか。そうではなくて、そんなことをしていいか悪いかといった発言もしないで、どこがジャーナリストであろう。
そういえば木村氏は以前こんなことをいっていたのを思い出した。「放送というのは送って放っておくことで、責任なんかとる必要なんかないんですよ」と、これが彼なりの放送の定義である。個人的な定義はともかく、放送には公共性があり、影響力を伴うのも事実である。発言に突っ込みを入れない安藤優子も問題だ。「木村さんがそうするとしても、いけないことです」とキッパリいうべきだった。
ジャーナリズムというのは権力の監視が主目的であるが、日本のジャーナリズムが芸能人化する理由は、政治家と同様に大衆の支持を得たいからである。だからか、タレントや芸能人を選挙に担ぎ出す。当選させるのは有権者だから、問題あれば次回に落とせばいいこと。芸能人が政治家にするのは選挙民だが、芸能人はジャーナリストにはなれないし、ジャーナリストの芸能人化もダメだ。
「バカ」、「カス」、「ボケ」などの言葉が飛び交う社会である。身近で親しい人間関係を超えての立ち入りが、相手の素性も知らなければ日常において一緒に飯を食う間でもない。それらの影響もあってか、ぶしつけな言葉が乱舞する。「バカ」といえば「バカ」と返ってくる。相手をバカ呼ばわりして優越感に浸ろうと相手もこちらをバカと見ている。だから紅白バカ合戦となる。年末じゃあるまいに…
先に相手をバカといえば勝った気分になるのか?世の中は他人と自分で成り立つから、自分も他人から見ればバカということになる。だから性懲りもなくバカ合戦をやるのだろう。子ども時代にやった喧嘩を思い出すといい。「あんたはバカ!」、「バカというもんがバカ!」と誰もが遣り合った単純な言い合いだが、実はこれは正しい。子どもの喧嘩と見下すなかれ、いい大人が同じことをやっている。
橋下徹が水島聡をバカ呼ばわりし、それで橋下は自分はバカでないと思っているのだろうが、水島は当然橋下をバカと思っている。ただし、橋下のバカ発言を水島は黙殺する。バカとはかかわらないという大人の態度だろう。ゆrに橋下はこどもであり、チンピラヤクザの煽動家に過ぎないと、2月16日に絶縁宣言。これまでの彼への敬意・信頼を止めた。どちらもバカなのが村本大輔と高須院長。
バトルの挙句、高須は以下の卑怯な言葉で鉾を収めた。「知識はないが才能のある可哀想な芸人だと誤解して育てているつもりでした。百田先生のお話で、ウーマンが学習能力の欠如したつまらない芸人にすぎないと理解できました。彼は育ててタニマチをやろうとしている僕の意図がわからずネタにして嘲笑して生き残ろうとしているのですね。見捨てます」。これをインテリが懐に隠し持つ見下の原理。
男のケンカは個対個である。百田を味方につけた時点で女々しい。だからか、「あんたと絡んできたのはスポンサーになって欲しいわけでも、学びでもなく、考えは違うけど発信する姿勢を評価してただけ。タニマチとか育てるとか、俺におこがましい口の利き方するな」。などといわれる。言葉は悪いが村本なりの筋は通っている。育てるだの、タニマチなどの言葉を口に出す高須は議論を踏み外した。
村本と高須、どちらも嫌いではないが、「村本を教育する」と息巻いた高須の結末残念である。失うものを所有するインテリの弱さと失うものなき人間の強さがくっきり。対等意識を隠して最初から村本を見下す高須は、媚びず従わず向かってくる彼に手を焼いた。相手が誰であれ臆せず立ち向かう村本を教育するなど所詮は無理。それはさて、嫌でも目に入るネット上の喧騒は外でやってくれ。