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Channel: 死ぬまで生きよう!
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ネットで言い合う目障りタレント ①

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「人間は真実とどう向き合い、真実をどう処理して生きていくかである」と、達観したようなことを億面もなく述べたが、自分の弱さや臆病さを認めて向き合うことも含めて、人間関係の中では真実こそが物事を解決してゆく。人と人の関係には様々な態様があるが、男女の関係にしても互いを偽った関係もあれば、相手に媚びたりおもねたりのない、本心をさらけ出した関係もある。どちらに信頼関係が生まれるかは、いうまでもない後者であろう。

自分に無理をするのは相手に嫌われたく気持ちが根底にあるが、上手く行かない理由はそれが続かないこと。女同士に、「誠実な信頼関係」は生じ難いといい、男同士でも、「良好な信頼関係」の構築は簡単ではない。人間の内部には、どこか他人と対立した何かがあり、それを埋めるためには心を許し合っていると互いが感じ合うことで、そのために多くの対話と時間が必要となる。その結果、意見や価値観の対立があっても互いが理解しあうのを実感する。

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理解とは互いが判るということで、同じ考えである必要はないが、どこか曖昧模糊とした統一や融合を好む日本人は互いの考えの違いを認め合わないのは、「和する」という文化が根底にあるからだろう。「和」を尊しとするなら、「異」は尊からずとなろう。他人を不幸にしなければ喜べない人に、平和の喜びなど分かる筈はない。人をいじめたり蹴落としたりでて喜びの快感に浸る人間は、それが不純な喜びであるという認識がない。

昔も今も人間の多様な性格は変わりようがない。彼らの情動はさまざまに識別されるが、多くは自己を把握しないで生きている。「自分を知る」のがいかに大事かであるが、自己をキチンと分析するのも知識や教養なのだろうか。「自身を知る」人が賢い人間ではと見るようになった。世間でいうところの学業成績がよいとか、有名大卒であったりとかは、人間の利口さとなんの関係もないと確信するようになった。これは多くの人間を見たからだろう。

人間は偉大になっても真に幸福にはなり得ない。そういうことも近年は実感するが、多くの人は外面だけで判断をする。が、幸福というものが、人の偉大さや地位や財産とは別のものであると、判かるに至るまでの自分は、やはり一般的な世俗人であった。宗教と幸福についても思考した。例えばキリスト教は絶対無比なものとして、"神の言葉"を掲げ、それを真理と称するが、「神の言葉=真理」と定義するのは自分には「?」である。

もしそうであるなら、聖書の中の多くの神の言葉をたくさん知っている者が、真理を得た者との摩訶不思議な現象となりはしないのか?だからかキリスト教信仰者は、受験勉強の暗記の如く、多くの神の言葉(聖書)を頭に蓄えている。これを自分なりに茶化すなら、"教科書を丸暗記した学業優秀者が、「自分は賢いのだ」といってる"と、同じことに思える。「茶化す」と遜ったのは、それを信じて聖書暗記を勤しむ人に、"悪な"の気持ちもある。

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人の一生懸命な行為を批判する理由はないが、自分の論理はそこに行き着く。自分はそれをしないし、信仰者を見下すなどもない。自身の論理を表明すれば当然ながら反論もある。以前、こんな風に問われたことがある。「あなたは宗教者をバカにしてませんか?」。自分は咄嗟にこう答えた。「自分如きにバカにされて失墜する宗教なんですか?あなたの信じる宗教って…。そうではないと知りつつバカにするほど愚かではありませんよ」。

誰が誰をバカにしているとか、人からバカにされたとか、お前は俺をバカにしただろう、などが飛び交うのがどうやら底の浅い人間関係のようで、最近そういうことがくだらんと考えるようになった。他人にバカにされたと気にしたり、真に受けたりせねばばいいものを、自尊心がそれを許さない。自分が他人をバカにするのも己の自尊心を満たすためにだろう。人と人が自尊心でせめぎ合い、ぶつかり合うのをネットでみながら感じたことがある。

それが、ネット内の人間関係がいかに浅いかであるということ。そんなことは以前にはなかったことだが、インターネットの普及は、たいして交流もない人間同士を戦わせることに寄与している。それが喧騒社会の実体というのがわかった。たかだかブログのコメントの内容で言い合いからケンカ腰になるケースもあり、それが基でブログを閉じた人もいる。それらを根底から思考したときに、いかにネットが知らない同士で成り立っているか。

これほどに知らない同士がまみえる社会になったということのようだ。日本がちっぽけな国とはいっても、それでも全長(最北端の択捉島から、最西端の与那国島までの直線距離)は3,264kmもある。それを瞬時につなぐのがインターネット。ばかりか、世界をつないで利用する人もいる。昔やったニフティーのパソコン通信では、西ドイツやアメリカ、北京や武漢からの論客も混じっていた(もちろん日本語の堪能な人たち)のが懐かしい記憶にある。

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時代はネット環境をさらに便利にした。「便利は反面、不便も生む」というのが持論だが、便利になり過ぎたことで、これまで当たり前だったことも不便と感じるようになる。慣れとは怖ろしいものであると、便利の奴隷にならぬよう気をつけている。極論すれば、「便利は人をバカにする」ともいえる。誤解なきよう説明すれば、便利の恩恵が人に物事を考えなくさせる。電車に乗って沈思黙考の時間は貴重であるが、多くの人はすぐにスマホを出していじくる。

「こういう人は考え事をしたくない人なのだろう」と思うだけで批判はない。それにしても、SNS上で言い争いをする芸能人らは目障りで仕方がない。勝手に個人でメールでやれば?と思うのだが、彼らもネット上でやる所が自己顕示欲を満喫になるのだろう。「目立ちたい=己の存在感」ということか。会ったこともない、人的交流もない同士が、たかだか意見の違いだけで、チンドン屋如きの大騒ぎは見るに耐えない、忍びない。静謐を望む者には迷惑千万!

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