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Channel: 死ぬまで生きよう!
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身体の売買マーケット ②

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「虚栄心」と「劣等感」を無くすためには、夢中になれる仕事や何かをもつ以外にない。誰が何といおうと自分はこれが好きだ。それをやっている時は何もかも忘れて生き甲斐すら感じられる。そんな情熱が救いとなる。NHKの朝ドラに『ふたりっ子』というのがあった。双子の姉・麗子と、妹・香子のお話である。姉の麗子はまじめな性格で秀才で京都大学経済学部を卒業する。妹の香子は破天荒でやんちゃである。

学校の問題児で呼び出しも受けていた。そんな香子が将棋会所で出会った老人が契機となり、将棋棋士を目指して努力する。二人の対比がドラマの主題である。原作・脚本の大石静はこう述べていた。「虚飾の世界に生きる姉、実力世界に身を投じて汗と泥にまみれる妹。私の幼少期はまさに姉の麗子を自らへのアンチテーゼとして描きました」。少女期から虚飾を演じ日本女子大を出た大石である。

一般的女性にありがちな虚飾も、将棋界のような場に持ち込めども通用もしない。大石はそんなひたむきな香子を描きたかった。どんな人間でも〇〇大卒という名声は欲しい、女性なら美貌も欲しい、金銭は誰かれ憚りなく欲しい。がしかし、人間の止め難い虚栄心が昂じた欲望の愚かさを自覚すれば、少女売春などは防げるだろう。「自覚」とは、人間としてそれを望むが、同時に虚しいものと感ずる心である。

有用と思いたい学歴、お金も欲しい。そうした自分の望むものを疑い、虚栄という心に羞恥を抱くこと。見知らぬスケベオヤジに身を任すのは、羞恥を超えた人間の尊厳の放棄ではないのか?お金欲しさに女として自尊心を失ってもいいのか?食うため、生きるためなら同情もできよう。人間はだらしないのは分かっている。外見に惑わされたり、地位や名声や資産や、高価な身なりの人に尊敬心を抱く。

が、人の中身は見通せない。本当の人間の価値とは何か、くらいは考える頭は持つべきではないのか?それがないのは脳タリンである。足りないものは仕方がない。が、人間が自分の頭で物事を考えることで、宗教に対する反省心や、欲望に対する懐疑から無用な物を購入させられることもなかろう。さらには奉仕の精神をもつことが大事。これは自分だけの価値を高めればいいを戒めるために。

社会のためになどと大それたことを考えなくとも、自分たちの仲間や隣近所の人々のために役立ちたいという気持ちで十分。奉仕というのは自分の野心や虚栄心のためではなく、誰も見ていずともコッソリやろうという精神は尊い。自分が近所の奉仕作業に率先して参加したのは、「一銭の得にもならぬことでも一生懸命にやる」姿を子どもたちに見せたかった。子どもがどう思うかは別にしても…。

他人への思いやりも大事だ。人間は矛盾に満ち、不安で不安定な存在だからこそ弱い人間として互いがカバーし合う必要がある。売春を援助交際と言葉を変えながらも、「わたしの身体をわたしがどうしようと勝手でしょう。人の自由と思うけど」という子がいる。こんなことをいった記憶がある。「当たり前だろ、そんなこと。自分の身体を似て食おうがそこらのハゲに舐めさせようが自由に決まってる」。

自由とは人の陰に隠れてもできる。同じ自由を供与されながら売春する子としない子は愚かと利口の違いである。利口な者は賢く自由を使うが、愚か者は、自由の使い方も愚かである。遊ぶ金欲しさにギラギラと臭いオヤジに好き勝手させたいなら、一年中やってろといったことがある。これをショック療法というが、道徳的なことが通じない人間にそれ以外の何をいうことがあろう。

時給1000円と、時給数万円のバイトとの違いをどこに置くかの違いだ。「自由」というものを人間内部の問題として考える場合、自由はどこか不自由と結びついており、それが自己規制といいうものだ。だから、自己規制がない人間をバカと呼んでいる。少女や少年だけではない大人にもいる。人間とっての本当の自由とは、「自覚」あっての自由である。自覚なき人間は図体は大人であっても、心は幼児であろう。

アル売春をする無自覚な少女にも、「自覚」という言葉はない。15歳で始めて18歳で止めるか、21歳で止めるか、25歳で止めるか、止める時期は来る。彼女たちが将来どんな母親になるか分からぬが、誇れぬ真実は自らの胸にしまっおけばよい。しかし、我が娘の売春は望まぬだろう。であるなら、娘が売春をしないためにどうすればいいか、折角の体験者としてそれを生かしたらいいのではないか?

それがせめてもの罪滅ぼしである。大っぴらに人にはいえない愚かな体験であれ、生かせてこそ貴重な体験となろう。自身になかった自覚を子どもに身につけさせたら立派な親だ。自覚という不自由は人間の財産である。寿命が湯水のようにある若い時代に比べて、ある程度の年齢になれば死について考えるのは妥当だ。不治の病気や老衰はともかくとして、死は不測のことである。

我々は日常的に健康状態にある時は死を忘れているが、死の方は決して人間を忘れていない。この厳しい制約の中において、人間は自由について際限なく考えることになる。最近、「終活」という言葉も聞く。いろいろすることは有るようだが、大事なのは心の整理であろう。「いつ死んでもいい」ということか。まだまだそこまでには至らぬが、とりあえず今は、「死ぬまで生きよう」である。

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