小学校の社会の授業で、「物々交換」というのを知った。習ったというべきだが、その時はじめて原始社会の物流の在り方を知った。「物流」というほどではないにしろ、自分の物と他人所有物とが交換できるのは自然なことであり、それを自然と肯定しながらも、「物々交換」という言葉があるのか、そういういう知識を得たことにちょっぴり感動もした。子どもは同じ行為を友人と交わすがその際に、さっそく、「物々交換をしようぜ」などといったりもした。
こんにちフリーマーケットが盛ん行われている。個人が持ち寄った様々なものを金銭売買するが、お金(貨幣)の存在は物々交換をさらに合理的にした。例えば、自分が作った土器の椀と衣類を交換したいが、気に入った衣類はない。相手は自分の椀を気に入り欲しがっている。こうした互いの交換が成立しない場合は普通に生じるだろう。その際、物に変わる同価値のものとしての何かあればよい。そういう考えのもとから貨幣が生まれた。
そう考えると、「貨幣」がいかに素晴らしい発明であり、近代経済社会のなかで貨幣は不可欠であるかが判ろう。近年はカードが貨幣の代わりをするが、カード類も貨幣の変形である。「マーケット」、「分業」、「貨幣」の発明で人類の経済発展は飛躍した。貨幣の役割は主にふたつあり、一つは取引を簡単にしたこと(取引の効率化)。もうひとつの役割は、「価値の貯蔵」である。かつては富を貯蔵するのに大きな蔵を建てる必要があった。
ところがこんにちのお金持ちはそんな必要はない。お金は銀行に預けておけばいつでも必要な時に引き出して買い物ができる。物々交換はお金が役割を果たすが、富の貯蔵という観念はなかった。ところが便利な貨幣が誕生し、貨幣経済が中心となると、物々交換という面倒なマーケットが廃り、お金さえあれば何でも買えるようになった。有史以前では今の貨幣の代わりに大きな石や貝殻を用いたことが遺跡の発掘から分かっている。
また貨幣には不思議な要素もある。「日本銀行券」と印刷された1万円札だが、一枚の印刷費用はたったの10円程度といわれる。紙代や流通諸経費を含めてもいいとこ数十円程度の原価が1万円に変わるわけだから、まるで打ち出の小槌のようなカラクリである。つまり貨幣というのは壮大なる虚構で成り立つが、貨幣経済の利便性はいうに及ばずだ。マーケットには様々な形態があるが、金融マーケットでは金や諸外国通貨まで売買されている。
「必要は発明の母」といわれている、世の中の多くのものが必要から生み出されたことを示す言葉だが、貨幣もそうであった。貨幣が生まれたことで人間の欲望は無限大に広がって行き、したがって、貨幣を手に入れることが欲望を叶える何よりもの近道となった。「お金が欲しい」、「お金があれば…」そのために労働が生まれ、労働とお金の交換が合理的に行われるようになる。その目的はいうまでもなく人間の生活を豊かにすることだった。
人間の欲望は限りない。だからといって高校生の月の小遣いが2000円から一気に20万円になったらどうなるか?彼(彼女)らの欲望はとどまるところを知らず、欲しいと我慢していたものを金にものをいわせて手に入れようとする。だから女子中高生が売春をするようになった。低年齢の彼女たちの売春の真の問題点は何か?見知らぬ他人とのトラブルもリスクだが、欲望の拡大こそ問題である。そのために手っ取り早く身体を売る少女たち。
生活苦からやむにやまれぬ手段として娼婦となる女性が、いつしか遊ぶ金欲しさから、年端もいかぬ少女が売春をする時代に堕ちていった。なんという嘆かわしい時代であろう。女の堕落はいかんともしがたく男の比ではないが、片や、中高生のパンツ見たさに大枚をはたくスケベオヤジたちが恩恵に預かっているのは間違いない。男のセーラー服願望は昔からあった。だからその種の8mmフィルムにはババぁにセーラー服を着せていた。
それでもババぁがセーラー服を着たその手の8mmを観たことは有るが、あれが男のロマンであったのだから笑えてしまう。不細工で年増女の出演が通例だったブルーフィルムは過去の遺物、近年は美女やかわい子ちゃんが、惜しげもなくあられもない肢体で喘いでいる。これもお金欲しさの欲望である。何とか普通の人と同じ生活をした、最低限に着飾って暮らしたい、そんな誠実(?)な女の欲望が、虚栄にまみれて堕落していく現代社会。
こういう時代になってしまった以上、もはや昔に戻ることはないだろう。いじめは昔からあったが、ストレス社会がいじめを増幅させたことがかつてと今の変容である。いじめの解決は複合的で難しいが、少女売春の防止はいじめほど難しいことではないとし、自分なりの考えを述べてみる。少女売春には二つの側面が考えられる。「虚栄心」と、「劣等感」ではないだろうか。誰にでもあるが、この二つを何とか軽減できないものかを考えてみる。