無意識に我が子をいじめる親、意識してそれをする母親。どっちもどっちだ。前者を無知女、後者を性悪女というべき。儒者は、「親は尊いもの、敬うべきもの」といったが、こんなものは誰にも合致する言葉でない。儒教の教えというのは、教えに相応しい人間が存在していればの前提にある。よって、賢い子どもに求められるのは、正しい親の見定めとなる。
安吾は実母に、「もらい子」といわれて速攻喜んだが、自分は動揺した。ところが事あるごとにいわれ続けると、「バカの一つ覚え」と感じるようになる。女親というのは本当に卑怯者と子ども心に感じた。何らかの言葉が子どもに効き目があると分かると、奥の手といわんばかりに頻繁に持ち出すが、子どもとてバカじゃない。だんだん効き目がなくなるのは子どもが強くなるからだろう。
子どもと対峙するときのヒステリー丸出しの無思慮な母親を、父親はどのように見ていたのだろうか?母親の前で子どもに救いの手を差し出そうものなら、ますますヒステリーが増幅する。それを知る父は、母のいないときにフォローしてくれたのが今ならわかる。決して息子からポイントを挙げようとの私利ではなく、思慮ない母親の餌食になる息子を思う父心だろう。
自分も長女(娘)とその長男(孫)の言い合い場面に遭遇すると気分が悪くなる。孫に加勢したくなるほどに娘の暴論でしかないが、そこで孫に加勢しては母のメンツをつぶすことになるので黙っておくしかないが、実際その場には居れたものではなく即刻退散する。実母の親(祖父)も口出しすることはなかったが、一度だけ母を抑えつけたのは、運転免許を取ることに大反対の母に対してだった。
「ウルサイ、お前は黙っとれ!ワシが金も出すんじゃ。ゴタゴタ抜かすな!」祖父の迫力ある言葉を忘れない。それまでは、「今時免許証も持たんでどうなる?」とやんわりいってたが、聞く耳を持たぬ母に祖父は原爆を落とす。それ一度キリで、それ以外の母のガミガミには余計な口出しをせぬよう男の理性で抑えていた。明治生まれの祖父は怖かったと叔父貴(母の弟)もいっていた。
絶縁同様の母に頼み事はしたくない自分が運転免許証は祖父のおかげ。高3の春休みだったか、この時ばかりは祖父への感謝とバイトのお金で5合樽酒を祖父に渡す。自分はすぐに上京して不在だったが、祖父はそれを何か月も開封しないでいたと父から聞かされた。そういうものなのか?そういうものなのだ。若き自分に祖父の気持ちは見えなかったが唯一祖父への思い出である。
反面祖母はいつも体を張って母から守ってくれた。「そこまでいわんでも、叩かんでも…」と抱き寄せて庇ってくれた。女(祖母)は女(娘=母)に遠慮がないのか、母の行き過ぎた言動に躊躇うことなく口を出した。現在妻も、長女にあれこれ口出しするのは当時の祖母と同じ光景だ。祖父の口出しはなかったように自分もいわない。遠慮ではなく、男はこういうものと植え付いているのだろう。
どういう見方をしようとも母親の子いじめだが、意識のないところが女の性悪さだろう。親が子にムキになってどうする?血が昇って我を忘れるような男もいるが、それとは別の女の「業」というのもだろう。「いじわる婆さん」というのがいても、「いじわる爺さん」というのは聞かない。「鬼婆」はいるが、「鬼爺」はない。女は本質的に底意地が悪いのは姑を見てもわかる。
以前、「結婚は女の生きがい」という女性に驚いたのは、男と女の結婚観の違いにだ。男にとって結婚とは、あるいは家庭とは、自然現象のようなものといわれるが、女にはそうではないらしい。結婚というものは現実的なもので、好きな俳優に憧れたり、外国に憧れたりというのとはわけが違うものだが、女がそうでないのは、「結婚を生きがい」という感性に起因しているようだ。
女性にとって結婚とは、現実もひっくるめて、そこに憧れを抱き、その憧れを現実の厳しさを避けることで実現しようという傾向があるように感じる。男にとっては儀式以外の何ものでないが、女性が結婚式にあれほど執着するのはそういう意味があるのだろう。それほどにウィディング・ドレスを纏い、一生一代のヒロイン意識を自他に醸し出したいというナルシシズムに蹂躙されている。
しかるに女性は、生きがいよりも憧れが優先であり、社会的なことよりも個人的なことに興味を向けて、そういう中で生きていこうとする。とことが近年の女性の社会進出は、社会で働く現実の厳しさを多少なりとも女性に植え付け、社会で生きる(働く)ことの甘えが減衰したのはむしろいいことである。男と対等意識を持ちたい女性にとっては、是が非とも知っておくべき現実であろう。
勿論、男にも甘えはある。特に親から甘やかされて育った男にとって、甘えは致命的であるが、「男の子は甘やかせて育ててはいけない」という母親が少なくなったのは問題である。理由は簡単、父親が子育てに参加しなくなったこと。いや、させなくする母親が増えてしまったこと。「女だから」という甘えが抑制された社会において、男が甘えるなどは愚の骨頂としか言いようがない。