夫婦の問題は聞けばさまざまあるようだが、我が家のように問題のない夫婦が、夫婦の問題を取り上げてみても、根底がちがうからどうなんだろうか?それを言うなら、すべての問題は、すべての夫婦の性格や在り方が違うわけだから、当事者以外は解決できないのか?というと、そんなことはない。当事者が解決できないものを、第三者が入ることで解決することは多い。
「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」とは、何でも食ってしまうような犬でさえも夫婦の喧嘩は食えないとの意味。夫婦間の些細な内情であれ、内情には違いないから、内情の当事者同士が解決するか、すぐに元に戻るような問題なら放っておけということだ。2013年9月30日の日経に、「言い争いの原因は何だっけ? 夫婦げんかの勝者は… 」との見出しの記事がある。
原因はどこの家庭にもあるしょーもないことだろうが、問題はアンケートの示す結果である。夫が勝ち…11.7%、妻が勝ち…46.0%、勝ち負けナシ…42.3%ということだ。勝ち負けの意味するものは何なのだろう?夫⇒外食、妻⇒家食で、妻が勝つと家食になるということか?どうしてこうなるのか、を単純に夫の弱さと決め付けるのだろうが、果たしてそうなのか?
絶対に外食を「禁」の家庭ではあるまいし、その日に限って妻が「家で…」と言うのかも知れない。だったら、「いいからいいから、今日は上手い中華を食いたいんだから行くぞ!」と言ったらどうなるんだろう?素朴な(喧嘩の)疑問である。我が家は自分が外食といえば外食だから、反対というケースがない。だから、妻が「No!」と言った後のことは想像の世界となる。
要は説得すればいいことだが、妻が勝つ家庭では夫がすぐに妻に従うということなのか?喧嘩だから、「外食!」vs「家食」の応酬があるはずだ。応酬があるにも関わらず、妻が勝つというなら、それは夫の説得力に準ずるボキャブラリーがないか、根本的な力関係が妻上位ということか。夫婦喧嘩は殴りあいでなく、口喧嘩だろうから女が強いという世評である。
これまた自分は疑問である。女が口が立つなどと思った事がない。口喧嘩らしきものを女とやりあったことは数あれど、大概は泣かすか、相手が逃げて終る。それを勝ちというなら不敗であるが、へなちょこ論は言い負かして当たり前だと思っている。へなちょこ論とは感情論であり、あまりにギャ~ギャ~うるさいと、「喚くだけなら壁に向かっていえ!」と言う。
「聞いて欲しいなら、聞いてもらえるようなまともなことを言え!」なども言う。相手の論がまともであるかは本人には分らないが、それが如何にハチャメチャであるかを丁寧に示してやる必要がある。それをせずに、「聞くに耐えん」、「バカかお前は?」などとサジを投げると、女は言い負かした気になる。だから、相手の論が糞であることを説明しなければダメ。
面倒くさいが、幼児や子どもをあやすと思うしかない。「筋の通った道理やまともなことを言えないなら相手にしてもらえないぞ?ちゃんとした話なら24時間でもするよ」、という前置きが必要だ。むやみに始めない方がいい。なぜなら、呆れて黙ると相手は言い負かしたと思うからだ。そういう短絡的で自分勝手な相手だから、「バカとは話さんぞ」の宣戦布告がいる。
男は女の感情攻めに対しては論理で対抗できないと思っているが、だからと言って、「お前なんかと話してもラチがあかない」は禁句である。「お前みたいなバカと話してられん」も禁句である。そういうのは最初に言わなきゃダメ。途中からだと相手は勝ったと思うからだ。だから、最初に重々「バカとは話さんから、まともなことを言えよ」との前置きがいる。
そして了解をとる。それくらいの用意を相手に見せてやること。それと、「言い合いはしない!」とハッキリ言うこと。「相手を説得し・納得させる気で話すように…」それも言っておく。こういう風に、話し合いはあくまでも自分の主張を相手に示し、納得させるためにするものだという事を女には言う。感情にかまけた言い合いが女の本分だが、それはしない。
「(お前なんかと話しても)「ラチがあかない」、「バカとは話せない」などと言うと、大抵の女は、「ほら、そう言って逃げるんだよね~」と言う。バカ相手に押し黙った男を、黙らせたと思い込んで勝った気になっているから救いようがない。『孫子兵法』に、「無手勝流」という戦略がある。"戦わずして勝つ"の意で、これが最善と言われている。くだらんことをギャ~ギャ~喚く人間とは最初から戦わない。
最初に言い渡しているにも関わらず、支離滅裂なことをいう女も少なくない。そういう場合も、「男と話したいなら論理を磨け。女を言い負かせても所詮は幼児の喧嘩だろ?」などと、これは捨てゼリフではなく、説明である。江川紹子、櫻井よし子のような冷静沈着で説得力のある女性なら得るものが多い。男が黙るから勝ったと思う女は避けるべし。若い時の父は母を柱に縛りつけていたが、何を言われても黙り通すほどに変節した。
火に油を注ぐような無駄なエネルギーを使わぬことを悟ったのだろう。たまのガミガミ女ならいいが、毎日目の前にいる妻である。そんな父の変節を理解したのは、自分が40の年齢を超えてであった。幼児の頃は言われるままに母に加勢したが、そんな自分も成長するにつけ、母に文句を言わない父に憤慨した。よくもこんな女を娶ったものかと不思議であった。
夫婦には様々な価値観の違いが生まれるが、ここぞという核心に触れる問題が生じた場合、離婚するぐらいの覚悟でやり合ったらいい。子どもの教育は妻の専権事項と思わず、臆せず発言すべきである。父は、ここぞと言う問題には必ず自分で行為した。行動した。自分の楯となってくれた。後で何があっても責任を取るという態度で、母を無視して決めていた。
案の定、母から狂乱ともいうべき侮辱の言葉を吐かれていたが、息子のために良かれと思ったことに恐れなど抱いていない父の強さを自分は見た。うるさい母に伺いなど立てず、無視する強さである。貴乃花の兄の花田氏が離婚直後、「妻が子どもを有名幼稚園入園希望で、自分は子どもにそんなものは望んでいない」と言っていた。何も妻が正しい訳ではない。
妻は自己のイメージの高さが子どもをブランド漬けにする。そういえば妻は「あなたが正しいわけでもないでしょう?」と言うだろう。重要なのは「無私」の話し合いである。妻には「私」があり、夫にも「私」はある。子育てにおいて正しいものは「私」を捨てることで、それが話し合いからもたらされるが、もし、女が「私」を捨てれないなら実家に帰ってもらう。
誤ったものは断固拒否の姿勢で貫くべきだ。辞表を懐に入れて会社と対峙するような男に魅せられる。養育費でセレブ生活を楽しむ花田氏の元妻の現状に世間は批判の渦であり、百年の不作であったというしかない。価値観を妻に牛耳られる夫の不甲斐なさは見てられない。どうでもいい些細な事柄に中途半端な喧嘩をするくらいなら大勝負の大喧嘩をすべきかと。
子どもの進路や教育について夫婦は争えばいいが、大抵の場合は夫が降りるようだ。上記日経の記事はこうである。「先日、友人たちと飲んでいて『夫婦げんかはどっちが勝つのか?』と聞いたら、全員『カミさんに決まっている』と口をそろえた。『けんかしたら仲直りするまでが大変だろ。面倒だから白旗揚げておくのが一番だよ』。まったく同感である。」
なるほど、「逃げるが勝ち」の精神が、日本の家庭を守っているようだが、夫が妻に飼い慣らされた結果だ。夫唱婦随を信奉する自分にあっては、女は仕込むもので、最もある程度の見込みを立てて娶ることも大事。夫婦においても世俗の人間関係においても、重要度の優劣順位をつけるのはよくないと考える。小さき事が実は大事であったりすることもある。
大した問題じゃないからと、放置しておくのは危険である。いずれにも同じくらいに関心と重要度を持つことを勧めたい。大変なのは分るが、あとあと大変になったときは遅きに失すという事を考えれば、後の大変よりは先の大変を選ぶべしか。「ならぬ堪忍、するが堪忍」という慣用句を眺めながら思った事がある。ならぬ堪忍とは、到底堪忍できないこと。
それをしてこそ堪忍なのかと。なかなか人間も大変よのう。それから派生したのが「大事は雑事」である。「大事の小事」という言葉はあるが、「大事は雑事」は自分のオリジナル。雑事、雑事というけれども、雑事は大事につながり、決して手を抜かず、キチンとやっておくこと。「大」に気を取られるあまり、「小」を見下してはならない。という戒めである。
「夫婦のことは夫婦以外にわからない」これが夫婦喧嘩の実態か…。理由を聞いたところで、言い分を聞いたところで、確かに何でそんなことでと言うのが多い。傍目にはそうでもその場の当事者(夫婦)は一歩も退けぬ状況だ。夫婦喧嘩の経験がないから想像するに、相手を批判する、何事かを押し付ける、機嫌が悪いからと無視する、喧嘩を要約すればこういう事だろ?
ネットにある夫婦喧嘩の状況が書かれていた。これは夫婦喧嘩の絶えない家で育った子どもが、こんなことで喧嘩になる、母親がいらいらするというのを記したものだが、「父の無神経さに母が怒り、父は怒られたことは次からしないものの、母の怒りの原因を理解していないように思えた。父は大雑把な人なのだ」と分析している。以下が喧嘩の内容。
母 「何で大根を5本も買ってきたの?」
父 「安かったから…」
母 「こんなに誰が食べるん?」
父 「ああごめん、俺が食べるわ」
母 「そういう話じゃない」
これを見て妻が悪い、夫が悪いといえるのが傍観者。妻は食べきれない量を買ってきた夫が悪いと思い、夫は安いから買ったはずなのに妻は多いという。とりあえず謝っておこうという感じだ。「五本は多いよ、いくらなんでも…」という者もいるだろうが、妻を悪者にしようと思えば簡単だ。夫はいい性格のようだし、以下は、良妻賢母だった場合のやり取り。
母 「凄いね~。五本もあるよ。安かったの?」
父 「うん、普通の半額以下だった。歩きだから重かったわ」
母 「大根料理に磨きをかけます。2本くらいは天日で切干にしましょうね」
父 「切干大根、美味しいよな」
母 「干すと栄養価が上がるしね」
こういう思いやりのある女はいい。すぐさま夫の動機を理解してるし、物事を善意に考えられる女。確かに本数は多かったとしても、それを捌くのが才覚である。夫の善意を踏みにじってないし、女の「美徳」とまで言わずともこういう女は普通にいる。むしろ、上のような女が自分的には珍しいし、喧嘩を売っている。これが喧嘩を買う男だったこうなるだろう。
母 「何で大根を5本も買ってきたの?」
父 「安かったから…」
母 「安いからって…、考えないの?誰が食べるのよ、こんなに!」
父 「じゃかましい~、料理の才覚がないのを棚にあげて、文句しかいえんのか!」
母 「だったらあなたが作ってみたら」
父 「お前の仕事だ!料理もできないで文句を言うなら、ゴミ箱に捨ててしまえ!」
さて、どういう夫婦がいいかは一目瞭然。明晰で優しい女は、大根5本をプラスに考える。女がネガティブに文句をいうのは、才覚のない女。こういう女は、喧嘩にならないようなことでも喧嘩にする。思いやりの心を持った女は、一見問題ありそうなことも、喧嘩になどしない。こういうのは主婦講座というより、性格の問題だろう。上のような女を娶れば「不作」である。
現在の妻を悪妻だの、ダメ夫だの、相手は誰が見つけたんだ?言わずにおれないのだろうが、言って良くなるものなのか?それでも言わずにおれない夫婦ってのはどこかで失敗したんだろう。互いの悪口を言わなきゃならない相手が自分の伴侶だなんて不幸すぎる。こうなったらもはやどうしようもないんだろうよ。急に良妻に、急にいい夫になるわけない。
もうやり直しはきかない、今の状態を変えようがない、このままずっと現状維持なら、どこかに楽しみや生き甲斐を求めるしかない。人生の何がむつかしいかの最上位は、夫婦の現状を変えることでは?自分が変われば相手も変わるのか?その保証はない。その前に本当に自分が変われるのか?夫婦関係に先が見えた夫に問う。「妻が変わるなら自分も変わっていい」という。
夫婦に愛がないのに、さもあるかのように振舞う。どちらも欺瞞であるのは分っている。それでも離縁とまでならないのは、不満程度で収まっているからだろう。不満はやがて不安になり、そして不信に到達するなら離婚となる。拭えない不安や不信は、覆水盆に返らない。離婚もせず、夫婦に尊敬も愛情もみえないなら、夫婦を気取って生きていくしかない。
仮面夫婦というのだろうが、ホンネ優先のO型には到底無理だ。人に嘘をつく前に自分に嘘をつくのが耐えられん。だかたか、仮面夫婦を続けられるって凄いと思う。忍耐力とは思わないが、社交辞令がふつうにやれる人に思える。こちとら、社交辞令を言うだけで、ケツの穴が痒くなってくる。まあ、仮面夫婦でよいなら、その一生にサチあれ!と思いますが…