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人生の何がむつかしい? ②

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昨日は、主に親子について書いた。親子との問題はあり過ぎて書ききれるものではないが、子の性格の要因は実は親にあることを、親より子どもの方がよく知っている。「子は親の背中を見て育つ」というのは親子に関する象徴的な言葉であり、"背中"と言うところがいい。親の側からいえば、子を背にして何も見えていない。が、子どもは背中と対面している。

怖ろしいことだ。この年になっても親に背中がある以上、常にさらされ、見られている。別段、子に尊敬されなくともいいが、良くないものを吸収してもらいたくはない。が、よくないものが背中に現れる怖さを実感する。親は自分に無知である。子の心を見据える親は存在しない。子ならずとも人の心は見えない、よって思考するしか感じとる方法はない。

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子どもの心を思考するには、子どもがこれまで吐いた言葉の多くを、親は覚えていなければならない。それらから子どもの心のうちを思考するのだが、それでも正しい判断は難しい。正しい判断をしなければ、正しい助言は与えられない。相手に何かを言ったときに、まったく畑違いの返答をする奴がいる。それと同じことで、これほどバカげたことはない。

「うちのお母さんは、言う事がバカすぎる」。中高生くらいになればこういう判断はする。自分は小学生のときにそのように思っていた。つまり、小学生にバカにされ、見限られるようなことしか言わない母親だった。男の子を持つ母親は、指示や命令だけで息子を理解はさせられないことを体験する。男の子は「なんで?」、「どうして?」を常に返してくる。

女の子は面倒臭いことは考えない。感覚的に感じ取り、それで済ませる。だから、表層部分しか分っていない事が多い。要するに分りたくないのだろう。反面、男の子は分りたい気質が強い。女にとって男は謎である。男にとって女が謎であるように…。また、親にとって子どもは謎である。子どもにとっても親は謎であるように…。ドイツにこういう諺がある。

Kinder sind ein Rätsel von Gott.」(子どもたちは神から与えられた謎である)。ドイツ人にとってこれが子育ての基本であり、モットーとなっている。子どもが未知の存在であるのは世界の子どもに共通であるが、赤ん坊の持つ不思議な「謎」は、親でさえ関与できない一面をもつ。日本人の親は、日本人の子を生み、日本人の子どもを日本人のように育てる。

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"日本人のように育てる"とは異な言葉だが、いわゆる日本人らしさである。日本人らしさが何であるかを知るには、日本人以外の民族に指摘されるのが分りやすい。最近はテレビでも様々な外国人が、日本人らしさについてアレコレいう番組がある。彼らの言う日本人らしさとは、日本人の不思議さであるようだ。外国人からみて「ここがオカシイ日本人」である。

それを気にすべきか、すべきでないのか、日常生活の慣習などは、文化であるがゆえ気にする必要はあるまい。しかし、問題にしなければならない点もある。青年交流で日本に来たある外国人高校生が、日本人高校生との会話で愕然としたというのを読んだ。親善交流であるがゆえ、そのような日本人観をあからさまに口には出さないが、事実はそういう事だ。

外国人高校生曰く、「日本の若者は、人生でいちばん楽しいであろう時代に、実に不幸せそうな顔をしている」と感じとったという。そういう生気を失うと並行して、判断力も鈍ってくる。大学生は黙々とノートをとるが、それは断片的な知識を列記しているに過ぎない。彼らは断片的な知識を問われると答えられるが、彼らの意見を問われると黙り込んでしまう。

このような例はあちこちでみかけるが、判断力が大人になるほど影をひそめる原因はなんであろうか?日本の社会組織は、自分の意見を明確に表示したり、発言したり、独自の判断を下すのは、マイナス評価を受けることを誰もが知っている。そういった独自の判断力を持って行動する人間は、人間関係を阻害すると言われる。職場においても、学校においても。

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であるなら、日本の社会において、判断力とか自身の考えを表現する能力は必要ないのか?決してそんなことはない。今後日本が国際社会に進出するほどこの能力が強く要請されることに疑問の余地はない。となると、こういう風潮をどうすればよいのかを、国家が考え直す必要がある。"自分の意見を言うのは決して悪いことではない"ということを、である。

「日本人の国民性は内向性の極み」と目されるような社会心理が、生活の多くの場で指し示されている。また、クマもんや、フナッシーなど、どこもかしこも、日本国内あちこちに蔓延する"ゆるキャラ"に見る「癒し」ブームも、日本人の内向性を指し示す社会現象である。ディズニーランドにはミッキーやミニーはいるが、巷あちこちに、県を代表するゆるキャラ。

こんなお国は諸外国にはない。日本人の幼児性を象徴する、ある種の精神病理であろう。なんでもかんでも、「かわいい~」が先行する国民性である。生活の中で、たまたまそこにかわいいものがある…ではなく、かわいいものばかりを求め、それに浸りきった社会。これが日本民族であるのが気はずかしい。日本人型付和雷同性のなせる技である。

集団生活の規律を重んじるあまり、個性の芽を摘むなどあってはならない。が、日本はそういう社会環境のようだ。他の国のことは知らないが、「躾け」という言葉を持つ外国は少ないのではないか?ドイツにもアメリカにもない。「教育」という語源は、ラテン語の「educate」(その人の能力を引き出す)から派生するが、日本の教育とは「記憶させる」である。

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決まりや方程式や、年代や記号を憶えさせて、どのくらい憶えていたかというテストのやり方のどこが教育なんだろう?その人の記憶能力の開発に寄与はするが、これが教育とはおかしな話だ。レポート方式で個々の考え方や、構成の仕方や、取り組み方や、切り口や、掘り下げ方や、広げ方などを見る。と言うやり方を、どうして日本の学校はやらないのか?

さて、「表題」から少し外れたようで、親子関係から夫婦関係に進路を変更する。家庭の中心は夫婦といったが、これは正しくなく、夫婦が揃ってない一人親家庭もある。日本の母子家庭数は123.8万世帯(平成23年11月)、父子家庭数は22.3万世帯(同)となっており、母子家庭は増加傾向(前回115.1万世帯)、父子家庭は減少傾向(前回24.1万世帯)にある。

要因はいうまでもなく離婚の増加である。母子家庭の数が多いのは、子どもがいる夫婦が離婚する時に、母親が親権者となる場合が多いからだが、ちなみに1960年は、父親が親権者が47%と母親よりも多かった。その後比率は逆転し、1996年は、母親が親権者の割合は78%となっている。離婚はなぜ起こる?原因は様々だが、圧倒的正解をいえば結婚したからだ。

夫婦はよく喧嘩をする(らしい)。自分は夫婦喧嘩をした事がなく、理由は夫唱婦随であったこと。さらにいえば、喧嘩をしなくてもいいような女を結婚相手に選んだということもある。その点、自分の目に狂いはなかったことになる。「喧嘩したことないね~」と言うと、「信じれん」という返答をどれだけ聞いたことか。唖然とされるので、言わないことにした。

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それくらい夫婦の喧嘩は日常的のようだ。喧嘩の原因が自分にないわけでは決してないから、今に思えば出来た妻ということになる。夫婦喧嘩は仲のよい表れともいうが、仲のよい喧嘩がどういうものか分らない。大体において夫婦が喧嘩をすれば後味が悪かろうという想像しかない。そういう話はよく聞くし、だから好んで喧嘩をする夫婦はないはずだ。

それでも喧嘩になるのだろうが、自分には喧嘩の理由がよく分らない。娘夫婦などに喧嘩の理由をアレコレ聞くが、誰であれ他人の喧嘩はくだらんとしか言いようがない。そんな事が喧嘩になるのか?見たいな内容だが、当事者的には大変なことなのだろう。しばしば喧嘩をすると離婚につながるのか?"喧嘩するほど仲がいい"なら、その論理は当てはまらない。

喧嘩の理由のほとんどは、二人で生活するうえでの価値観や習慣のズレである。別個の意思を持った人間が同居すれば、いろいろ違いもあるだろう。結婚して最初の1年間は特に夫婦喧嘩が多く、ひどいときは家に帰りたくないと思うくらい殺伐とした空気が、二人の間に充満していたという話もある。こういう話は結婚した男女の数ほどあり、詮索すればキリがない。

ネコを飼いたい、いや、イヌがいいという喧嘩もある。外食しよう、もったいないので家で食べる、も喧嘩になる。出かける、出かけない、お風呂に入ってよ、入りたくない、いつまで寝てんの、まだ眠い、など、喧嘩のネタは尽きない。人は自分の思う自分と、人から眺める自分は大きく異なる。自分は自分に楽に生きてるが、他人から見るとそれが気に入らない。

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喧嘩の要因はそういうものでもあろう。人は誰も自分を知らない。社会の中で目に映るのは他人の顔ばかり。他人は自分にアレコレ寄与し、影響も受けるが、自分が自分の影響を受けない。だから、人間は自分をおろそかにしているし、それを教えてくれるのは他人である。自分で知る自分は甘やかした自分である。他人が指摘する自分は、結構辛辣である。

他人から、あんたはここがダメ、ここを直してだの、ああせー、こうせーなどと命令されると面白くない。自分は心地よい自分でいるのに、それを他人からうるさく言われていい気がしない。だから喧嘩になるのだろう。そういった日常の些細な問題も、積み重なると我慢できなくなる。「ああ、もうこの人と一緒にいたくない」。それが離婚の第一歩であるのか。

相手の浮気、とてつもない浪費などの許しがたい問題、などが離婚の要因としては大きいようだが、家事もしないぐーたら女房、子育てに興味を示さぬぐーたら亭主も、離婚の原因となり得る。離婚経験者に言わせると、離婚は結婚以上にエネルギーを要するらしく、確かに想像に難くない。元は赤の他人の男女とはいえ、それまで何年も家族として生活してきたのだ。

近年の日本の離婚率は上昇気味である。厚生労働省が発表しているデータによると、2000年代の離婚率は高度経済成長期のそれの約2倍である。かつて離婚は後ろめたいものであったし、社会の落伍者という見方もあったが、離婚歴が3回、4回といった猛者もいたり、あげくは離婚歴を隠すことなく堂々としているのも特徴的だ。離婚は恥ではなくなったようだ。

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離婚を恥と感じない人が増えたということは、「離婚が必ずしも悪とは限らない」と考える人が増えたということ。結婚生活の状態によっては、「離婚やむなし」という場合もあれば、離婚したほうがお互いにとっても、子どもにとっても最善と肯定的に考えるようになったようだ。確かに離婚は社会の落伍者とは言えず、"バツイチ"が、"プライチ"と言われ始めた。

何事も経験、何事も勉強というなら、+1(プライチ)の要素はある。結婚前に見えなかったもの、分らなかったものが、結婚で分ったことは多いはず。仮に、それが離婚という結果に終ったとしても、社会的制裁がなければ、苦痛な共同生活よりは遥かにいい。夫婦が陰険に暮らすのは子どもにとっても害悪である。修復不可能な状況なら離婚を勧めたい。

経済的な負担はもちろん女性側にのしかかるだろうが、そこはあえて自身の身の丈にあった暮らしをすればいいこと。かつてのように夫に先立たれて残った子ども3人、4人を女手一人で育てたという女性は決して珍しくはない。離婚に加害者も被害者はないというスタンスを持つのがいい。どちらにも言い分があるし、籍を入れた責任はどちらにもあるわけだ。

すべて相手に非があり、自分にはまったくないなどという女性がいるが、そういう人間は自分がまったく見えていないのだろう。また、結婚にロマンを求める女性は、現実と理想のギャップに失望するだろう。1年や2年の結婚なら難しくはないが、一生のものとするなら婚姻は至難であろう。男らしさ、女らしさが死語といわれる時代であるが、忘れ去られたものもある。

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男は優しくなければならない。女は気づかいがなければならない。これが自分の理想とする男らしさ、女らしさである。女が男の本当の優しさを知るとはどういうことか?その男と居ることによって、「素直になれる」、「安心できる」、「心を解放できる」である。女の気づかいは、衣食住全般にわたる相手への思いやりであろう。胃袋、玉袋などへの気づかいも…

男にとって妻の存在は、異性の常時入手可能を意味する。「男は家に帰り、そして留まる」というように、これが一夫一婦制の起源となり、ひらけた平原に生きる場所を求めた人類の新しい家族単位は、自然選択の上から有効に働いた。母と父からなる安定した社会単位は、長期間に及ぶ子どもの生存と発育、社会性の発達などの躾に寄与するのは言うまでもない。

男が狩りを、女が家事一般を、というのも生物学的身体能力においては自然な形態である。かつて女性が社会進出できなかったのは、家事育児がのしかかっていたが、現在では保育園やベビーシッターなどの社会インフラが機能していることで、女性がドンドン社会に進出した。ただし、そこに満たすものがあったとしても、多くの負の要素を生んだのも事実である。

イメージ 9口を開けば、"時代錯誤"なる言葉を意識する。かつては薩摩から江戸まで誰もが歩いた。文句をいう筋合いなど誰にもない。当時の人は、自転車も、バイクも、クルマも、鉄道も、飛行機も知らない。アスファルトで舗装された道路もなく、真冬に雨や雪でぬかるんだ道を、冷水の浸み込んだ草鞋を履いてテクテク歩く。スニーカーなどない。立派だと思うよ。

1000万円やるから鹿児島から東京まで歩いて行け、といわれて果たしてできるだろうか?現代人の脳は立派になったが、気力・体力・根性は、昔人間にはるかに及ばない。長い距離をあえて歩いて見るとき、昔の人に思いを馳せて歩いてみる。「負けてたまるか!」と思いながら…。すると、気力・根性が芽生えてくる。あとは体力…。



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