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人生の何がむつかしい? ①

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人生の何がむつかしい?について考えてみる。人が生きる場は社会である。社会とは「家庭」や「職場」とような様々な「人間関係」の場であるからして、人生の難しさは人間関係の難しさという事になろう。人間関係の何が難しいのか?順を追って考えてみる。まずは「家庭」だ。家庭の人間関係は、夫婦関係を軸に、親子関係、兄弟関係で成り立っている。

犬や猫などのペットは、相性そぐわずとも人間関係と言わない。親子とは何?親子とは実態であり、肩書きである。年齢差の違う人間と人間であり、子の製作者が親というのはその通りだが、子は親の所有者というのはどうなのか?子が親の所有物であるかを親に聞いてみると答えはどうか?また、子は親の所有物であるか、子に聞いてみるなら答えはおそらく一つ。

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前者は、「当然、子は親の所有物」という人、「所有物ではなく、別の一個の人格者」という人。いろいろだろうが、「所有者」は間違いで、正しくは「保護者」である。所有者と保護者の言葉の違いは各々で調べられたし。ともかく、"人が人を所有する"という言葉は存在しない。「所有」とは、主としてマルクスの社会理論の中で厳密化されてきた概念である。

吉田民人(よしだ たみと、1931年8月20日 - 2009年10月27日)は日本の社会学者で東京大学名誉教授。上野千鶴子や宮台真司らに恩師と仰がれている。吉田はマルクスの所有概念を、「一定の社会構成体の内部で社会的に保障された、一定の類的または個的主体による、一定の生産または生活諸条件に対する、一定のわがものとしての関係行為」と要約している。

「所有」をさらに分りやすくいうなら、「所有」とは人間が生存する上で不可欠な、外界の物資に対する支配を表す概念である。したがってそれは、第一義的には人と物の間の関係である。一義的とは"根本的"の意であるから、所有は人と物の関係である。ところが上記の問いにあるように、「子は当然にして親の所有物である」という親がいるのはなぜか?

答えは「無知だからである」。「バカだからである」。所有の意味を知らないという点で無知、子の製造者たる親としての所有意識を抱く点においてバカである。粘土や木工で何かを作れば作った人の物となるし、花壇や畑に種を撒いて作った植物、野菜は、その人の所有物であっても、人間は製作者の所有物ではない。理由は簡単、子は物品でないからだ。

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子には固有の意思があり、親がいくら所有物と喚いたところで、子は親のいう事を聞かない。親の思い通りにならない。子は犬や猫のようなペットではないが、ペットを飼育すると同じ論理に当てはめられる。それは飼い主として、果たす責任の存在だ。何の躾もせずに飼育をすると、散歩中に人を噛んで怪我をさせたり、人に社会に迷惑が発生することになる。

人間の親を飼い主とはいわないが、親は子の保護責任者としての躾が成されていなければ、ペットと同様に他人を傷つけたり、迷惑をかけたりする。また、他人と意志の疎通ができなかったり、会社や学校などの始業時間に平然と遅刻したり、他人との約束を守らなかったり、働こうとする意志のない人間になるなど、社会参画の出来ない人間になったりする。

よしんば、「子は親のもの」というのなら、「好きに、自由に扱っていい」ではなく、責任もって育てなければならない。車にも所有者管理責任義務が発生するが、いい加減な手入れしかしなかったり(例えばタイヤがスリップしたり、ブレーキがきかなかったり)の場合、人を殺傷する凶器になる。所有者としての認識を持つ必要は、責任と言う点に現れる。

車にも「整備不良」があり、整備不良車は他人に迷惑をかけるように、人間にも「不良」は発生し、他人や社会に迷惑をかける危険な存在になる。誰がいったか、「子は神様からの預かりもの」という言葉をたまに聞く。「子は社会からの預かりもの、だから社会に役立つ人間になるよう育てる義務がある」という言葉もいわれ、いずれも躾の大事さをいったもの。

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親子関係に最も顕著なものは、躾をする側とされる側の関係であろう。それこそが親子関係の難しさとなる。幼児期から学童期に子どもの人間関係は一段と広がる。それまでメインの親子関係より、友人関係が大事になって行く。幼児期までは何の問題もなかった親子関係にコミュニケーション不全が起こる。これらは「反抗期」といい、巣立ちのための準備である。

子を思うあまり、心配をし、注意もするが、子はそれを嫌がるようになる。発生していない注意をいくら言われようが、起こってない事への想像力は、なかなか喚起されない。「大丈夫、そんなに心配しないでいいよ」という言葉は、どこの家庭でも普通に聞かれる。極度の心配性の親に対して子どもは過干渉の親と見定め、自身の行動を内密にするようになる。

「何でそういうことを親に言わずに勝手にしたの!」。ある問題において親は言うが、子をそうさせたのは実は親である。多くの親は自分に原因がありながら、そこに気づくことなく子の責任、子の過失とする。以下の例は珍しくない。社会人晴れて一年生の娘の勤務先に、公私に面倒をみてくれる30歳で同性の先輩が出現、親以上に慕い、憧れの先輩となる。

ある日、その先輩から宗教の勧誘をいわれ、親に内緒に入信してしまった。または、その先輩がマルチ商法まがいの個人営業をしており、補正下着、化粧品を契約させられるケース。未成年者ではないし、契約に親の承諾を得る必要はない。「あなたの肌はきれいだし、その美しさを維持するためにも今からキチンと手入れをした方がいい」などの言葉で勧誘する。

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女は、「きれい」と「やせる」の言葉に弱い。化粧品に興味も知識もないが、業界大手の「ノエビア化粧品」が、Amwayと同じマルチ形式らしいことは聞いたことがあった。そうはいっても上場企業であり、代理店販売とネットショップ販売の「ノエビア」の印象は悪くない。マルチと知って実際驚く女性も多いが、化粧品自体のクォリティは悪くないらしい。

新興宗教やマルチ形式の化粧品を勧誘されて契約した時の対処法として、ネットに様々な被害情報が決め手になる事が多い。親はそういった裏の面を子どもに見せて解約にもっていけるケースが多い。このように被害者の生の声が情報として得れるのはネット社会の利点である。自分は母親が新興宗教に入り浸っていたことで宗教に極度の嫌悪感を持っている。

だからか、自分の子にはいかなる宗教にも入らぬように厳命していた。孫に宗教の摂理を説く母親にも直言した。「宗教の狭い価値観でしか物事を考えないような人間にはさせたくないから、今後一切施設には連れていかないでくれ」と。宗教者は自分だけが信じていればそれでいいが、一族に累を及ぼすこともあり得る。そこは断固阻止すべく立場に自分はいた。

自分が好きなことを片っ端から批判した母親である。自分が物心がついたとき、母親が熱狂する新興宗教をボロクソ批判をし、仇を討った。母親は息子から受けた批判が余程こたえたのか、熱心さに翳りが見え始めていた。しかし、宗教教団と言うのはなかなかどうしてしつこいし、金銭的収入源としての信者を手放さいもので、定期的に寄付を取りにくる。

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考えてみるに宗教の存在は、信者の寄付で成り立っている。信仰があろうがなかろうが金の無心は欠かさない。いわば、寄付を充てにした商売である。2人の知人女性に宗教を脱会させたことがある。天聖真美会と、神慈秀明会という宗教だ。配布された数珠の玉の中を壊してみると、紙切れに印刷された「光」文字が笑えた。退会すれども自分で壊せないという。

「これを処分してくれない」、「いいとも」。といって、バラバラに粉々に壊してやった。こんなもん、どこぞの零細業者に図面を渡して安く作らせてるだけの代物。壊すことに何ら躊躇いはなかった。子どもの頃は、神社の境内の社に小便をひっかけて、バチがあたるかどうかを試した事があったが、年端も行かない子どもであったし、その時はビクビクした。

数日経ってもバチは当たらず、「神」の存在を嘘と知った。それが講じてか、神仏に手を合わせる平均的な日本人とは意を異にする人間となる。日本には神道を始めとする様々な新興宗教がある。「天理教」や「金光教」、「創価学会」など、それなりの歴史のあるものに比べ、「幸福の科学」は比較的新しく、大川隆法が1986年10月6日に設立した。

東大法学部卒者が興した宗教であることに驚き、彼がエル・カンターレを自認することに驚いた。エル・カンターレとは、奈良県の東大寺盧舎那仏像を指し、エル・カンターレ意識の一部はインドに釈迦として生まれ、古代ギリシアではヘルメスとして生まれるなどと定義している。さらにはキリストや孔子などの歴史上の偉人などが大川の口を通じて語ると主張する。

イメージ 6東大法卒から商社勤務を経て宗教者という驚きはあったが、前世は仏陀であるとか、イエスや孔子のチャネリングは茶番として、驚くことではない。美輪明宏が「私の前世は天草四郎」とほざいてると同じ認識である。1991年、「幸福の科学」が宗教法人となった年に、いわゆる「フライデー事件」が起き、会員の景山民夫や小川知子が講談社にデモ行進をした。あれは、宗教者と出版社のトラブルという認識しかなかった。自由主義国家の日本には信教の自由も報道の自由も保障されてはいるものの、一方的な報道は慎むべきであろう。「三浦事件」の時もそうであったように、「フライデー」の記事はその点どうだったのか?それにしてもだが、「幸福の科学」にしろ、「オウム真理教」にしろ、なぜこのような宗教が日本に生まれるのか?

物質文明の先端を行く日本には、精神的な虚脱感のようなものが人々の心に広がっているのではとの認識であった。真の宗教者たるは、自分たちの信仰する対象を冒瀆されたときこそ、寛容であるべきである。これは「ファン」の概念と同じで、批判されて目くじらを立てるようでは自らに「真」がないということ。信者である前に、ファンである前に、己を悟れ。

「ファン」でない者がいて当然であり、信者でない者がいて当然である。なのに、自らの崇拝対象の冒瀆は許さないのが、これまで宗教が犯してきた最大の過ちであり、それはイスラム対キリストの争いとして今なお続いている。「人生の何がむつかしい?」という書き出しで始めたが、さらに目を外に広げると、世界が、地球が、民族がむつかしいのである。

宗教が矛盾を内包しているのは明らかであるが、幸福の科学の人間は、「聖霊を冒瀆することだけは許されない」というが、大川隆法の著作自体が、他の宗教を冒瀆するのだから何をかいわんやである。宗教の本質は一神教であるがゆえに排他的であり、排除の論理を旨とするが、これは世俗の人間関係にも通じる。何か一つの絶対正しいを信じる人間と会話はできない。

宗教に入信する動機は、自分が知る限りで失敗や挫折、疾病などがある。「エホバの証人」に入ったある女性は大学受験に失敗し、予備校の近くで声をかけられた事がきっかけだった。当時、予備校近辺には宗教勧誘者がうごめいていたという。大川隆法も宗教家として立つまでは、世俗社会での成功を夢見ていた。それが東大法学部であり、司法試験受験であった。

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上級公務員試験もそうであるが、大川はその夢を叶える事ができなかった。それが法学部から商社勤務への転身である。当然ながら商社マンなどは彼の夢を叶えるものではない。大川は父と二人三脚で宗教活動を始めた。父のペンネーム善川三朗名で『言霊集』が刊行され、予想以上の売れ行きに自信を深めた大川は商社を退職、宗教家としての道を歩み始める。

世の中たった一つの挫折が人生を変え、たった一つの自信が人生を変える。人間は喜劇のバルザックには、人間悲劇のシェークスピアとは違った名言が多い。「俺の青春は雲一つない空のようにまだ青く晴れわたっている。偉くなりたい、また金持ちになりたいと願うことは、嘘をつき、頭を下げ、へつらい、偽ることを自ら決心したことではないか。」には笑ってしまう。

人間関係の難しさに対しては、「ヤマアラシのジレンマ」を常に思い出す。これは人間関係の基本である距離感を呈している。「あまりうちとけ過ぎる人間は尊敬を失います。気やすい人間は馬鹿にされます。むやみに熱意を見せる人間はいい食いものにされます。」と、バルザックも言っている。自分に親切にしてくれる先輩や同僚にも適宜な距離感がある。

「わたしはあなたを信頼し、尊敬しています」などとむやみに熱意を見せると、食いものにされるという事だ。物事の道理を押さえているできた人間は、そういう相手を利用などはしないが、利用しようとする人間にはこれ以上のものはない。自分を慕う女性にマルチ形式の化粧品を契約させられたことで、母娘が言い合いになった事があった。自分は母にいった。

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娘さんには罪はない。純粋におねえちゃんと慕う人からこのような利害関係に発展するのは、おねえちゃんこそ問題であり、罪人である。母親のターゲットは娘であってはならない。娘は慕うおねえちゃんの人間関係を損ないたくないだけだし、だから娘を責めてはいけない。娘を説得し、納得させるために汗をかくべきであろう。幸いにして、母親は娘を理解させた。

人生には虚実が多い。気をつけるべきは虚実を見抜くことだが、なかなかそれは簡単ではない。「人を見たらドロボウと思え」と、古人は知恵を授けてくれている。人を信頼すべきか、疑うべきか、そういう岐路に立つことは多だある。その際、自分が心掛けているのは、「相手を本当に信じたいという前提で、疑うことは何ら悪ではない」と、言い聞かせた。

自分は実は神の存在を信じたい人間である。徹底的に本当に神の存在を信じたい、ゆえに疑っているのであって、神社の社に小便をひっかけたのも、神様を信じたかったからであった。本当に信じたいのなら疑いましょう。盲信は戒めることだ。



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