京都府警右京署などは今月17日、京都府迷惑行為防止条例違反(盗撮)の疑いで、京都市右京区、アルバイトの男(32)を逮捕した。逮捕容疑は2月20日午後2時20分ごろ、右京区のビルのエレベーター内で、同市の女性(19)の背後からスカートの下にビデオカメラを差し入れた疑い。1階についても男が降りず背後でしゃがんでいた。直後に逃げたため、女性は男を約200メートル追跡。
「盗撮したでしょ」と女性に言われ、男は「誤解です」などといい、その場を取り繕うためにか自主的に運転免許証を差し出した。女性はそれをスマートフォンで撮影し、後日交番に届けたことで逮捕につながったという。女性の機転により逮捕された男は、「若い女性の下着が見たかった。これまでに200回以上は盗撮をやった」と容疑を認めているという。
まあ、アレだよ。 「見えてる」 と 「見られる」 は、別ということのようで…
男がなぜ自主的に運転免許証を出したのか疑問に思われるだろうが、おそらくこの男は、痴漢的行為の常習性があり、万が一のときのため、"痴漢と疑われたときの対処法"なる書籍を読んで予備知識を得ていたのだろう。でなければ、咄嗟に免許証をみせるような行為をするはずがない。例えば、『この人、痴漢と言われたら』(中公新書ラクレ)には、以下の記述がある。
1.自分の身元を表す証明書(免許証(私はパスポートのカラーコピー))を携帯し、いざという時は提示する。これで裁判所の令状なしでは逮捕できなくなる。
2.痴漢冤罪事案に強いと思われる弁護士を調べ、予め携帯電話のメモリーに記録。すぐに連絡し、最悪でも逮捕後72時間の身柄拘束で済ませる。
3.警察庁の定めた痴漢事案捜査方針書、警察庁平成21年6月25日通達(※)も携帯し警察の事情聴取の際にはこの通りやる様要求する。違反していたら、釈放後監察官室へ違法捜査を進言する。(※)http://www.shinginza.com/chikan20090625.pdf
「備えあれば憂いなし」とはいうものの、ここまで用意周到でなければならないのかと訝りたくもなる。逮捕されたアルバイターのような痴漢行為の常習犯が、その場をすり抜けるための必読書といえず、その手の書籍が悪いとも言えない。売ってる書籍は読み手を選ばない。自分はこの女性の危機管理意識及び能力を称賛するが、バカな雑魚は以下のように茶化す。
・免許証を盗撮するなんて…酷い…
・で、実際の盗撮画像は出たのかな?
・パンツ見られたぐらいで追い掛け回すとは女もせこいな。
・で、実際の盗撮画像は出たのかな?
・パンツ見られたぐらいで追い掛け回すとは女もせこいな。
・自意識過剰すぎ
・また示談金目当ての女ですか
・俺が女だったらそんな男、かかわる事すらしないわ
・トイレや着替え中でもなければパンツぐらいはいいだろw 顔はNGだがスカートなんてはくなよ。
・パンツ一枚見られたぐらいで追いかけ回すって、バカ女。そんな見られたらまずいものならズボンでも履いとけ。見られて減るもんでもなし。
・仮にエレベーターの中で蜂が飛んでてたまたま手に持ってたビデオカメラで追っ払おうとして相手の女性の股の間に手が入っちゃった場合も有罪?
・俺が女だったらそんな男、かかわる事すらしないわ
・トイレや着替え中でもなければパンツぐらいはいいだろw 顔はNGだがスカートなんてはくなよ。
・パンツ一枚見られたぐらいで追いかけ回すって、バカ女。そんな見られたらまずいものならズボンでも履いとけ。見られて減るもんでもなし。
・仮にエレベーターの中で蜂が飛んでてたまたま手に持ってたビデオカメラで追っ払おうとして相手の女性の股の間に手が入っちゃった場合も有罪?
・女は金に困ったら嘘八百で被害者面出来るからいいよなあ…
・アメリカの殆どの州では、性器そのものを盗撮しない限り逮捕されない
・そもそもスカートという存在自体がおかしなものだ下から覗いたくらいで見られたくないものが見れるとか、むしろ露出狂だろ。スカートはいてるやつは露出狂
・そもそもスカートという存在自体がおかしなものだ下から覗いたくらいで見られたくないものが見れるとか、むしろ露出狂だろ。スカートはいてるやつは露出狂
こういう男ってなんだ?みんなでよって集ってこんなことを言いあって、実際は虫も殺せないクソマジメなヘタレども。発想が独断・独善で自己中心的でしかない。スカートの中を盗撮するような、チンケな行為を批判もできず、それを肯定するような男がチンケでなくてなんだというのか?チンゲ生えてんのか?おまえら…と言いたくもなる(実際、言ってるが)
あれあれ、3月6日には兵庫県警豊岡南署地域課の男性巡査部長(34)を女性のスカート内を盗撮したとして書類送検し、停職1カ月の懲戒処分にした。「ドロボウを捕まえてみれば警察官」ってやつだ。巡査部長はこれまで小型カメラを12台購入し、「県内で150~200回盗撮した」と供述している。自宅のパソコンなどには約150点の盗撮動画ファイルが保存されていた。
さらには御年49歳の摂南大学教授のスカート覗きである。3月12日午前9時ごろ、京阪電鉄樟葉-枚方市間を走行中の特急電車内で、隣に座っていた京都府の20代女性のスカート内にタブレット端末を差し入れて盗撮行為をした。女性が気づいて取り押さえ、枚方市駅で駅員に引き渡した。タブレット端末には、女性のスカートを写した静止画が数枚残っていた。
「パンツくらい見せてもいいだろう」などという奴もバカだろうな。手段が問題だろう?正規の手段(女をくどいて)で見ることもできそうにない、小心でモテないクンの戯言だろうよ。「姑息な手段を使わず、パンツみたいなら口説いてみろよ、このボケ!」と言いたくなる(実際、言っている)。その昔、大久保清という強姦魔がいた。その昔といっても1971年のこと。
十年ひと昔なら44年前は大昔になるのだろうが、1971年3月から5月にかけて、大久保清(当時36歳)は群馬県下で何人もの若い女性に「絵のモデルになってくれませんか」などと誘い、そのうち関係を拒絶したり、嘘を見ぬいた女性8人を殺害した。実際に声をかけた人数は不明だが、150人ほどの女性が彼の車に乗り、うち10数人の性交に成功したとの供述である。
この事件が明るみに出た時、大久保と関係を持った女は胸を撫で下ろしたろうし、そういう男の餌食になった後味の悪さを実感したろう。それにしても断られた女や、絵のモデルにという嘘を見抜いた女を殺すという彼の幼児体質というのか、自分の思うようにならないと怒り・キレるというのは、如何に甘やかされて育ったかが想像できる。彼は頭のハゲた子どもである。
とてもじゃないが、彼の行為はナンパ師の風上にも置けない愚行である。ナンパ師は断る女をその気にさせるのが奥儀であり、それでも断る女を尊敬の対象とするくらいの度量がいる。つまり、自分の能力が通用しないということ。これは有能なセールスマンが、買わなかった客をリスペクトするのと同じであろう。買わなかった客から多くの得るものがある。
「なんだ、あの野郎。こっちが一生懸命に説明してやったのに…。時間の無駄だったよ。こんチクショーめ!」と、こういう営業マンに向上する道理がない。落せなかった女ほど心理分析が未熟であったと、賢明なナンパ師(?)は反省するものだ。人を説得する、納得させるという行為の面白さが、営業マンの本質であり、悪いナンパ師の中にもそういう者もいる。
女性が、「ナンパ師ってイヤよね」という言い方をしたとき、その事をまともに受け入れたことはなかった。なぜだ?なぜ、男が女を口説いて、それがいけないことなのか?そういう素朴な疑問を当時は持っていた。が、だんだん、そんな女の言葉に疑問を持つのが間違っていると分ってきた。「ナンパ師ってイヤよね」は、本気でいってないのが分ったから。
「そういう風にいいたいものよ、女は…」である。ホンネとお行儀言葉を使い分ける生き物だ。ゴチャゴチャいいたい女、勿体つける女はいる。自分が素直になる事を、もう一人の自分が傍から見てセーブをかける、そういうホンネとウソの葛藤で生きるのが女である。ホンネが分っているなら、ウソの部分を正当化し、口実をつけてやるのが男の役目であろう。
「女は脱ぎたいために着飾る」。哲学者がいうように、脱ぎたい鎧をさりげなく脱がせる口実を習得するのが男の学問。女とナニをやるというより、人と人の真実の触れ合いであり、女を口説くのは男のロマン以上に、人間の心を読み漁る学問である。面倒臭いことは好きでないという男は簡単に女を買いに行く。女買いに憧れたことは一度もなく、むしろ卑下していた。
コミュニケーション不全で、ただやるだけの男女関係に魅せられるものはないといえば、「お前は男として変わっている」などと言われた。が、人間が人間を追及する面白さを、彼らは男女関係に見出せない。ただやるだけなら男はただのスリコギ、女はただのスリバチである。七面倒臭いことを嫌う男の生理に知性を加えると、女がただのスリバチでなくなる。
「御託を並べても所詮はやりたいんだろう?」なかなか理解は得れないもの。何も理解を得たいわけでも、「やる」事に遠慮も口実も無用であり、本来の目的に付加価値を求めることもあるし、それが講じてくると主客転倒なる事多し。健康のため、ダイエットのために始めたランニングであったが、その面白さに興じて走る事が趣味になった人はいる。
目的があまりに色濃い場合、人の思考は自分の域を出ない事がある。「人は自分の所有する程度の知識や価値観でしか思考できない」のはその通り。若いときからいろいろな体験をすることで、人間の幅を知ることになる。優等生気質のおりこうさんのような、無難な生き方から得るものは過小である。檻の外、枠の外から自分を眺めると、別の自分が発見できる。
大久保清は36歳にして母親から「ぼくちゃん」と呼ばれていた。幼少時期から大抵のわがままやいたずらは許されていたという。小学6年の時、幼女に性的いたずらをし、被害者の親が抗議に来た時も母親は、「ボクちゃんがそんなことをするはずがない」と頑なに信じなかった。どこまでホンネであり、どこが自己正当化は分らぬが、彼の供述を以下記す。
「兄は妻に離婚したほうがいいと告げ口したり、保護司に俺をもう1度刑務所に戻してくれるように頼みに行ったりした。兄は財産が欲しいので俺を邪魔にしていたのだが、血を分けた肉親にこんな仕打ちをされるなんてことがあるだろうか」
「警察や女にも恨みがあった。警察はいつも訴えた側の言い分ばかりを聞いて、俺の言い分は聞いてくれなかった。女たちは和姦なのに強姦だと言って俺を陥れた。それで俺は過去2回刑務所に入らられた。もともと嘘がつけない性格なのに、それが人に裏切られ、何度も警察の取調べを受けたり、刑務所に入ったりしているうちにだんだん嘘の言える人間になった」
「俺は肉親に裏切られ、女に裏切られ、社会に裏切られて絶望のどん底に突き落とされた。だから、俺は人間の血を捨てたんだ、冷血動物になることにした。冷血動物になって、社会に復讐してやろう。たくさんの人を殺してやろう。肉親や世の中に絶望した人間がどれだけ悪くなるか、世の中の人に見せてやろうと思った」
1973年2月22日、前橋地裁は大久保に死刑を言いわたす。大久保は控訴せず刑は確定した。控訴しなかった理由について、知人にこう話している。「生きながらえたとしても、かえって被害者の遺族を苦しめることになり、自分も苦痛から逃れたい…」。刑の確定から三年後の1976年1月22日、大久保は東京拘置所にて死刑を執行された。享年41歳であった。
怖じ気づいて腰が抜け、へなへなと床にしゃがみこんで動きも出来ず、刑務官が抱きかかえて処刑室に移動された大久保清。凶悪犯の姿・形の欠片もないのが、一般的な死刑囚の最後である。 が、遺族の心情は違う。高校生の娘を殺害された父親は、公判で大久保に飛びかかろうという気持ちをなんとかおさえ、「1日も早く大久保を死刑にして下さい」と言った。
その父も大久保清事件を題材にしたテレビドラマ(大久保役にビートたけし)を観て、「大久保もかわいそうなやつだね」とぽつりと言ったという。この高校生の父親は派出所勤務の警察官。警官に恨みもあり、また二度目に会った少女から、「この前関係したことは、強姦として事件になるんだってね」と、言われて逆上し、殺害したと大久保の供述にある。
何にを見ても、なにも感じない
何にを聞いても心の動揺も感じない
何にをしでかしても無味な答えすら返って来ない
何にを云われても他人ごとのように無感心でいる
ああ!私の心にはなにもない
おお!顔を歪めて笑う男が、ここに一人つくねんと座っているだけ…
(大久保清・獄中手記「訣別の章」より)
この詩を読んで感じたことは、無意味なことに意味はない。無意味をしでかし、獄舎に入れど虚無感増すばかり。人を殺す行為は、人が物に思えるからでは?温もりのない机や椅子と同じ無機的物体に思えるからでは?そのような非人間が、獄舎の中で少しずつ廃人になって行く様子が伺える。非人間は真人間になる機会を有すが、廃人にその可能性はない。