「ブロガー」なる言葉はブログを書く人を言う。「ターミネーター」とは終結させる人を言う。「ライダー」とは乗り手を言うが、馬、バイク、自転車などであり、車に乗る人は「ドライバー」である。ならば仮面ライダーの愛車が車なら、「仮面ドライバー」である。いや、「仮面ライダードライブ」として、車に乗った仮面ライダーが昨年10月より放送されているらしい。
知らなかった。知るわけないか、仮面ライダー(1971年放送)の世代でもない。何でバッタのような恰好をしているのか不思議であった。オートバイに乗るヒーローと言えば、『月光仮面』、『まぼろし探偵』なら知っているが、彼らはそれなりにカッコよかった(今ではダサい白タイツ)が、バッタは人間というより昆虫だろ?さらにあの風貌は耐え難いものがあった。
1956年に公開された『空の大怪獣 ラドン』を見に行ったはいいが、映画の最初辺りに登場するラドンの幼虫がとても怖く、夢にまでうなされるほどであった。炭抗の坑道の奥からキリキリと金属音と立てて現れ、多くの抗夫を襲うシーンは、いたいけな子どもにとってショックであった。仮面ライダーはまさにそのラドンの幼虫である。当時の子どもはキリキリ虫と呼んだ。
「何でこんなものがヒーロー…?」時代は変わったものよ。『仮面ライダー』の原作者の石森章太郎が、「ヒーローをグロテスクなリアリティのある奴にしたい」という発想から生まれたらしいが、ラドンの幼虫を知らない世代だからいいけれども。さて、横道にそれたはいいが、何を書こうか忘れてしまった。書き始めに戻って確かめると、「ブロガー」についてである。
ブロガーという言葉に準じるなら、自分もブロガーである。"ブログを書く人"でもいいが、長ったらしいのでブロガーという。書いた記事を後で読み返すといろいろ発見がある。間違い字や送り仮名、同じセンテンスの繰り返し、オカシな文章、滑稽な文体など、書いているときは気づかないが、ピアノやギター演奏を録音してプレイバックで聴いたときと同じことだ。
「何でこんなに下手くそなんだ?」となる。弾いてるときはもちろん聴いてはいるが、聴くだけに専念したときとはまるで違う。文章も同じであろう。だからこそ「校正」は大事である。チャットなどで間違えた文字を、すぐに訂正したり、言いなおす人がいる。几帳面な人でもあり、失敗やミスに羞恥感を抱く性格に見受けられる。が、自分はあんまりそう言う事に拘らない。
誤記があっても相手が文意を感じればいいとあえて訂正しない。自分で読んでみても誤字・脱字が文意を伝えないことはない。人は単純なミスもするし、勘違いもする。先日知人が、こうメールに書いていた。" hanshirouさまも花粉症でしたよね?くしゃみで腰をギクッとなさいませんようお気をつけ下さいませ" 思わず笑った。自分は花粉症とは無縁である。
苦しむ人の症状さえ分らない。が、書き手は誰かと混同しており、「これこれ…、どなたと間違えてらっしゃるんですか~」と、あえて訂正はしなかった。それを言うと、相手も明るく、「あれ、そうでしたっけ?」となればいいが、こういう間違いにとても敏感で、羞恥する人もなくはない。そういう経験的配慮といえるかもしれない。以下のようなことはしばしばあった。
「前代未聞」を「ぜんだいみぶん」という人に訂正を進言した事があったが、自身の思い違い、読み違いを極度に恥る人もいる。その時の相手のバツの悪さがモロにこちらに伝わると、「言わない方がよかったな」と思う。言ってあげないと、この人は永久にそう言い続ける…、それだけの親切心であるけれども、一人で恥ずかしがり、弁解するさまを見ると困惑する。
そんなに羞恥ことなのか?である。間違いを指摘されたときは得した気持ちになるが、それをプラス思考というのか?知らないことを教わり、間違いを指摘されて、「羞恥」という自尊心を見せる人もいる。人の性格の多様である。そう言う人への知識があれば、自尊心を壊さぬよう指摘方法も見つける事も身につく。それを「思いやり」、「気配り」といえばそうなのだろう。
人間関係は気配りや思いやりがあって成り立つ。上のシュチに対し、得意満面な面持ちで、"教えてやるんだ"、の態度の人もいたりする。「あっ、そっか。勘違いしてたよ」などと屈託のない人間もいる。が、知識をひけらかして得意満面な人間からは何かを得た気にはならない。人が人に何かを教えるということ自体"傲慢"であるなら、教える側こそ謙虚になるべきである。
若い時はすぐに教えたくなるが、経年で控える事が多くなる。その違いを考えてみた。「老成」という語句がある。年をとり経験を積んで、熟達していること。または、そのさま。との意味だが、熟達はともかくとして、上記のような場合、相手に言わないのは、「老成」の一種であろう。若い時のようにアレコレが気にならなくなる。言うのは、やはり気になるからだ。
双方に人間関係があればためらわないのも事実。妻や子どもなら即座に指摘する。他人と肉親の差というのか、肉親の人生には関わるべきだが、他人の人生に関わる必要はない。他人には"おせっかい"となる。肉親に"おせっかい"の情が希薄なのは、運命共同体の意識であろう。もちろん、他者におせっかいを言うこともあるが、そういう場合は低く、低くあるべき。時たま自分の書いた記事を読んで思う。もし、他人がここまでクドく長々であるなら、余程身をいれないと読む気が起こらないだろうと…。自らが冗長な駄文を書きながら、他人だったら読む気がしないのも変かも知れぬが、魅かれて入り込む書籍や文がないわけではない。時たま自分を客観的に眺めると面白い。ブログの記事も客観的に読み返すと面白い。
自分の文章でありながら、「分ったようなことを書いて、コイツは何様?」と、思える部分が多だ見受けられる。が、書き手(自分)の実態を知っているので、「分ったようなことを書いているのではなく、思ったことを書いている」に収束する。書き手本人には分ることだが、ふらりと当ブログに触れた、「通りすがり」なる素性の人は、今どき流行らない長文にうんざり感。
中身の嫌悪も想像し得る。前にも書いたように、書くというのは調べる要素もある。発想力を鍛え、高める要素もある。仮説的構成力を養う要素もある。自己満足で「やったー!」と言える書き込みに意味はないだろう。結論を伴いながら、実は何も分らないから意味があるのだ。何かを身につけた人は、学ぶ必要がない。書くのは知的ストレッチの意味合いが強い。
書くは調べる要素もあり、調べるは考える要素を生む。また、考えるは答えを出す要素である。答えといっても"当面"のという形容詞がつく。断定した回答であっても、"当面"でしかない。真理は普遍的なものを求めるが、人は"当面"の答えに連なって生きている。その場その場で答えを求められ、その場に適した答えを出して生きているのであろう。それが"当面"の正体だ。
「考える」を最も効率よく、あるいは深くこなす行為が「書く」と「話す」であろう。人間は言葉によって思考する。言葉を持たない動物は、何によって考えるのか?おそらく本能であろう。つまり、本能に準じて行為し、回避しているのだ。人間がそうならないのは、言葉を持っているためであろう。すべての人間が本能に忠実に生きたら、どんな社会になるか想像できない。
ブログは中毒性があるようだ。早朝ジョギングなどのように…。中毒なる正体は脳内麻薬ともいわれる快感物質ドーパミンである。そのブログよりもさらに中毒性が強いのがツイッターといわれているが、やった事もなく、やる気もない。「一日一善」ではないが、「一日一ブログ」で、それが終ればネットを疎遠にする。ツイッターの短い文字制限か、一日に何度も呟く人は多い。
読んだ人が面白いと感じると、リツイートという一種の転送機能で、自分の発言がねずみ算式にどんどん未知の人にも伝わっていく。反対に自分が面白いと思った発言を、人に伝えることも可能であり、そういう情報交換的要素はブログよりも大で、好まれる要因となっている。情報化社会にはうってつけのツールで、人々は情報交換を日がな行って暮らしている。
ブログがブロガーなら、ツイッターはツイッタラーなのか?いずれにしろ、書く人は楽しそうである。「美味しいことはイイことだ。森永エールチョコレート!」という60年代のCMコピーがひらめいたが、「楽しいこと」はいいことであろう。「千里の道も一歩から」というが、ブログ5000字も最初の一字から始まる。最初の一字に何を選ぶかでブログの中身は決まるだろう。
と、なるのが一般的だが、自分の記事にそれはない。"桶屋のたとえ話"的で内容に一貫性がなく、後でタイトルをつけるのも難しい。最近、タイトルをつけなくてもいいアイデアを考えたので、たまにこの手を使う。ツイッターでの「つぶやき」や「つながり」は、フォロアーの多くなりがちな発信者においての有名性や、コマメさや、工夫などがなされているという。
ある事件を記事にするとき、どういう感想を抱くかで気をつけることは、同じ事件の感想が他人とダブらないことを重視し、自分独自のオリジナルな発想を心掛ける。おそらくそういうことは無意識的に成されているようだ。人と同じではつまらないし、嫌である。昔からそういう性向だ。あえて、無理に違えて…という場合もある。となると、書いたものは自身のウソの思考か?
自身の中のオーソドックス思考が90で、マイノリティ的発想が10であったなら、迷わず10を書くだろうし、少数派としての懸念はない。なぜなら、90の部分は他のブロガーが書くからいい。ない物心ついた時から少数派を自認することで論理を磨いてきたこともあり、体制に組みして安穏という気はない。多数派は楽であろうが、金魚のウンチみたいなものだ。
「単にへそ曲がりだけじゃないか?」おそらくそうである。が、ディベートとは"へそ曲がり"に論理をつけたしたもの。つまり、理屈磨きである。他人の起こした遠方の事件の真実がわかる道理がない。真実というのは、真実と言われているものに過ぎない。容疑者が吐いた真実も同様、真実といわれているものに過ぎない。だから、自分の想像は自由喚起でいい。
この世の真実と言われるものが、果たして真実であるかは疑わしい。とはいえ、規定外の自由発想に違和感を抱くものは多い。同調者を求めようなどが間違いである。自分の中にある自分の感情を認めたくないとするのが他人である。そこで「同調圧力」という重石に襲われるのだ。「和をもって尊し」の日本人は、同じ肌、同じ目の色、同じ髪の色を欲する。
様々な色が混じりあって一つの色という発想がない。赤は赤という単一の純色であろうとする純血主義の民族であり、文化であり、保守的であり、ネクラである。中山治が著書『日本人の壁』の中で、「日本人の国民性は、"内向性の極"と記したように、日本人の外交音痴はその内向性に起因するものだ。内向的日本人である以上、「抑圧」は当たり前である。
「抑圧」を論理的に説明すると、ある感情を意志の力で無意識の領域に追いやることを言う。抑圧の少ない人は、自分の感情を隠さない。よって、「タテマエ」を嫌う。上の90:10の場合、10の思考を臆面なく提示できるのは、抑圧がないからだ。誰かが、「それはないんじゃない?そんな独善的な思考するあなたってバカ?」と言われることの危惧がない。懸念がない。
自分は基本、人を見下げないのを信条とするが、逆に相手が見下げた発言をする場合には信条を取る。そうでない場合、どんな考えも尊重するし、異論があればキチンと反論する。が、他人のブログに出向いてまでそういうことをしなくなった。「人は存在するだけで価値がある」という成熟した考えに到達しつつあるのは、「老成」の一概念で、それを目指している。
他人の考えに異議を進言するなら、自分の論を提示すべきで、それこそが礼というものだが、他人の考えに反証も持たず、「バカ、カバ!」というだけの人間は、「バカ、カバ、アホ、マヌケのチンドン屋」であろう。それが2ちゃんねるのような、ネットイナゴの暴力性である。論理で反証するでなく、上のような暴言を吐き、気軽に人に「死ね」という人々だ。
まあ、自分のブログでありながら、人目を怖れて書きたいことを書けない人、中傷されてブログを閉鎖したと言う話は耳目にする。それもその人の生き方である。「そんなこと気にすることない」という、気休め言葉は、実は気休めにもなっていない。人は意識を変えれば自分が変わる。嫌な自分の洋服(性格)は、たたんでしまって、新しい洋服を身につけるのもいい。
装い新たに生きてみると、別の自分が楽しく、逞しく感じられることもある。とかく社会は規範を作りたがる。枠を作りたがる。社会規範や、社会の枠は、共同体に必要であるが、それを個人の生き方にまで及ぼすことはない。「これが人間の正しい人生だ」などと社会が決めることではない。確かに社会は、社会的同調圧力によって、集団の成員に強制をする。
それが社会規範という枠を超えて、人間個人に内面化され、内側から人間を規制してくる。そうした中にあっての人間関係は、触れ合いというよりお互い見られあう関係である。そして次第に自分を失っていく関係でもある。「束縛」とは自分の何かを失うことで、対等に互いが影響しあう関係がいい。自分の中にあるものを、その関係を通して発見していく。
発見し、変革していく過程の変化の中で、人間は再びあらたな自分を発見する。新たな相手も発見することになる。そうして変革しあった人間同士が、変化した新たな人間関係を築いて行く。知らず知らずのうちに互いは向上して行くのがいい。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの実質デビュー曲に『知らず知らずのうちに』という曲がある。素朴で好きな曲だ。