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再び「十年はひと昔」 ③

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2005年10月19日午前10時ごろ、大阪府枚方市のマンション一室で、住人の女性(40)が倒れているのを訪問した中学教諭が発見、110番した。室内にいた中学1年の長男(12)が、「勉強しろと注意され、母親を殴った」などと関与をほのめかしたため、府警枚方署は長男の身柄を同署に保護し事情を聴いた。長男は母との2人住まいで、父親は離婚して東京在住である。

この日は中間テストだったが、長男が無断欠席したため、同9時20分ごろ、担任教諭がマンションを訪問。インターホンを押したところ応答がなく、学校に戻り電話すると長男が出て、「体調が悪いので休みます」などと答えた。ところが同10時前ごろ、東京在住の父親から学校に、「息子が『母親を殴ったら動かない。』と話している。様子を見てほしい」と連絡があった。

イメージ 1教頭ら2人が家を訪問したところ、母親の遺体を発見した。駆けつけた枚方署員が自宅にいた長男に事情を聞いたところ、「母親を殴った」と供述。同署は傷害致死事件として調べているが、長男が14歳未満で刑事責任を問えないため、事実関係を確認し次第、児童相談所に通告する。長男は、「日頃母親から『勉強しろ』、と口うるさく言われた」と話しているという。 
十年前の12歳の少年の事件ゆえに、以後の情報はないが、彼も22歳になっている。母親を殺したのは殴打による過失致死で、まさか死ぬとは思っていなかったろう。人は殴られたことによるショックで死ぬこともある。撲殺というのは、固い物で人を殴って殺す事で、原始人並みの理性と知性が低い犯罪者による、野蛮な殺害方法であり、撲殺の死因は部位によって異なる。

内臓破裂で出血多量で死ぬことも、ショックのあまり死ぬこともある。頭を強く殴打された場合に一番多いのは脳内出血や、脳の腫れが原因で小脳や脳幹を圧迫され、生命を維持する運動機能や自律神経が働かなくなり、呼吸が停止する。人間は脳挫傷程度では死なない。意外なのは、頭蓋骨骨折した方が助かる可能性が高い。脳の腫れによる圧力が開放されるからという。 

「窒息死」、「窒息プレー」について書いたが、首を絞めて殺す絞殺は実は窒息死とはならない場合が多い。なぜなら、窒息させるには10分以上気道を塞ぐ必要があるからで、一般的には首の動脈を押さえることで、脳を酸欠状態にし、失神させて殺す。これは柔道の締め技と同じである。ショック死というのは、急激な経過で死に至る現象全てを差し、原因・場合が多い。

路上で揉め、相手の顔を殴ったらショックで死んだというのを聞く。殴った側も死なれて驚くというやつで、上の12歳の少年もその点運が悪い。人から驚かされると、「止めてくれよ、心臓に悪い」の言い方をするが、心臓が止ってしまうようなショックもある。数あるショックの中で、これは直ちに心肺蘇生(人工呼吸と心臓マッサージ)するだけで生き返る?ので治療しやすい。

人を殴打するとそのリスクもあるので注意されたし。人間は実に簡単に死ぬ生き物でもある。よく医師が注射をするときに、注射器の針を上に向けて垂直に立て、中の液をぴっと出す場面があったが、あれは液の中に空気をなくすためで、人の血管に空注射(空気注射ともいう)をすると死ぬといわれている。かつて舟木一夫という歌手がこれで自殺未遂を起こす。

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2005年6月20日、東京都板橋区で15歳高一が両親を殺害した丁度一年後の2006年6月20日、奈良県田原本町で凄惨な事件が発生した。高校一年の息子が自宅に放火し、母、弟、妹を焼死させた事件である。少年は1989年、泌尿器科の病院勤務医の父と、大阪の開業医の娘だった母親が見合い結婚、翌年、少年が誕生した。少年が3歳の時には妹も生まれている。

一家4人は奈良市内のマンションで暮らしていたが、父親は妻にたびたび暴力をふるう一方、息子には1歳から幼児教室に通わせるなど、かなりの期待をかけた。幼稚園に入ると、学習塾、スイミング、サッカーなどの教室に通わされ、夜には父から足し算・引き算・ひらがななどの勉強をさせられた。私立の医科大卒の父親は、そのことにコンプレックスを持っていたようだ。

暴力などが原因で両親は別居。妹は母がひきとり、少年は田原本町の父親の実家で暮らし始めた。少年は以後母親とは1度も会っていない。少年が小学校に入学した年、離婚調停を経て、両親の離婚が成立。実母は、「少年と会わない」という条件を呑んだ。半年後に父親は医師で総合病院の同僚と再婚、やがて弟、妹も産まれ、田原本町の家で、一家5人の生活が始まった。

少年は継母とは気が合い、弟妹たちの面倒もよく見ていた。小学校の卒業文集に少年は、「将来は医師になりたい」と書き、同時に父への憧れも記した。明るく活発だった少年は、中学、高校に進むにつれて精彩がなくなった。中学生の頃、「成績が下がると父親はすぐに殴る」と友人に洩らした。常日頃から父から、「医者になれ」と言われていたことが重荷になって行く。

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少年はサッカー部でレギュラーも努めていたが、父親に辞めさせられ、父が学生時代にやった剣道を始める。高校でも剣道部に所属。二段の免状もとった。少年は県内にある私立難関校東大寺学園に入学。医学部進学を決めていた父親は、理系に進むための理科・数学・英語を重視していたが、少年はかんばしくない成績表の3教科の点数をコピー機で改竄した。

改竄は担任教師によって発覚、父親宛に電話が入る。父親は、「なんでこんなに成績が悪いんや!」と怒り狂い、少年を滅茶苦茶に殴った。成績が伸びないことで父は苛立ち、さらに厳しく勉強をさせるようになる。少年自身もこのままでは父の希望にかなう志望校には入れないと感じるようになる。塾がない日、少年は夜7時半から0時頃まで父親の書斎で勉強をさせられた。

目の前には父親が押し黙り、問題を解くのが遅かったり、間違えたりすると、父親は殴る蹴るの暴力をふるう。5月の中間テストの英語成績は、平均点より20点も下回っていた。正直に話したら殴られるし、「今度嘘をついたら殺すぞ」とも言われていた。こうしたなかで少年は父親を殺害して家を出ようと考える。「ゼロからやり直したかった」という供述をしている。

高校進学の前後から父親になんとなく殺意は芽生えていたが、具体的に考えるようになる。少年は英語のテストについて、「平均点より7点良かった」と父に嘘をついた。20日には保護者会が予定されており、その時に嘘はバレる。少年は追い詰められ、父親を殺す以外にないと考えた。包丁で殺害を考えたが、武道の実力者でもある父親相手に包丁は無理と判断した。

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バットやゴルフクラブで殺す方法は、高価で買えず、最終的に少年が凶器に選んだのは、素振り用で錘入りの竹刀だった。6月9日夜、少年は竹刀を1階の自分の部屋に持ち込み、父親の寝こみを襲うため、携帯電話のアラームをセットした。午前3時過ぎ、目覚めた少年は隣室の父親の様子を窺った。父親はいびきをかいて寝ており、チャンスであったが、怖くなって止めた。

それでも少年は父親の部屋に入ろうとする途端、父親は目を覚まし、「何してんねや」と尋ねてきた。少年は適当にごまかして部屋を出た。父殺害計画が失敗に終わった少年は、次に自宅放火を思いつく。「この家にはイヤな思い出しかないし、家を燃やせばイヤな思い出も灰になる」。灯油を探したが見当たらず、仕方なく父親の寝室を中心にサラダ油を撒こうと考えた。

18日に実行を決めた。18日夜、家族でサッカーワールドカップをテレビ観戦後に少年は就寝したが、未明のアラーム音に気づかず計画は失敗する。20日の保護者会のは間近である。19日午後10時、塾から帰宅した少年は、所用で父が帰宅しないことを知る。保護者会までには父を殺すことができないことを悟ったが、それでも自宅に火をつけることを決意する。

20日午前4時15分、少年は目覚める。貯金箱から金を出し、連絡がとれぬよう携帯電話を破壊、逃走の身支度をした。サラダ油2本を室内に撒き、ガスコンロでタオルに火をつけた。傍にあったいろいろな物を火の中に投げ入れた。そして火が燃え広がるのを確認しないままに家を出た。少年は自宅に近い田原本駅ではなく、近鉄線橿原線の大和八木駅まで歩いて行った。

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午前6時半頃に駅にたどり着いた少年は、よく眠っていなかったためタクシー乗り場のベンチに横になる。20日の晩と21日は公園で野宿した。滑り台で寝ているのを近所の人が目撃している。22日午前0時頃、修学院駅近くの公園で寝ていた少年は寒さで目を覚ます。少年は寒さと飢えをしのぐのと楽しみにしていたW杯日本・ブラジル戦を観る目的で民家に忍び込む。

午前0時頃、所持していたペーパーナイフで網戸を切って民家に侵入、電話線も切断した。冷蔵庫の中のジュースなどを飲み、ソファに寝転がってサッカー中継を観ようとしたが、疲れてすぐに眠った。翌朝、家の人に「誰?」と声をかけられ、あわてて逃げ出す。以後、付近をさまよっていたが、実家の放火が気になり、侵入した家の方角に戻った。

この時に警官に声をかけられ同行を求められる。少年は連れて行かれた下鴨警察署で保護され、母親や弟妹が死亡したことを知らされると、涙ながらに放火の事実を語り始めた。逮捕された直後、少年は家族に対し、概ね次のような供述をしている。

 父   ⇒ 「暴力が許せなかった」
 継母 ⇒「父親に告げ口するので頭に来ていた」、「恨んではいなかった」
 弟妹 ⇒ 「たまに腹は立つけど、恨みはなく、かわいそうなことをした」

この物語を読んだ大人は、子どもってこんなに子どもなのか?と驚くだろう。その通り、子どもってのはこんなにも子ども。そして、おそらく少年の父親は、自分が殺されなくて良かったと、胸を撫で下ろしたことだろう。こういう父親なのだ。と、思ったが…、父親と言う肩書きに世迷っていたのであって、彼も実は真っ当な人間であるのが、手記で分かる。

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「長男のしたことは決して許されることではありませんが、その原因をつくり追い詰めたのは紛れもなくわたしです。大人の都合で幼少時より複雑な家庭環境に置き、いい大学に入って医者になることが幸せにつながるという価値観を暴力に訴えてまで押し付け、知らず知らずのうちに精神的な極限状態に追い込んでしまいました。

そのことで妻や二男、長女は命を失い、長男も罪を償うことになり、今までの人生で築き上げた何もかも失ってしまいました。どうしてよく話し合って本当の気持ちを聴き出そうとしなかったのかと後悔ばかりです。結局は親のエゴを押し付けただけだったと思います。3人だけではなく長男もわたしの被害者でした。長男には多くの嘆願書や励ましの手紙をいただきました。

わたしへの怒り、おしかりのメッセージだと心に刻み、まずわたし自身が更生するために人の生き方など一から学び直す所存です。長男も深く反省しています。鑑別所で面会を終えて帰るとき、握手を求め「また面会に来てほしい」と言い、審判で「一緒に生活してもいい」と言ってくれたことが、せめてもの救いです。

父子関係の本来の在り方を一生懸命学び、長男の更生に今後の人生をささげ、2人で死ぬまで罪を背負って生きていくことが、3人に対する唯一の償いだと思います。皆さまには多大なるご迷惑をおかけし本当に申し訳ありませんでした」。

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父親は事件後、医師を辞めた。上の手記は判決後に公開されたもの。医師を辞めた理由は、医師である事が不幸を作ったからで、手記を後悔した理由は、詫びというより、世間に己の行状を恥じたと思われる。自らを恥じるは、人に詫びるよりも深い心情である。人は簡単に人に頭を下げるが、自らを恥じぬ者は多い。己を恥じる言葉は、表層の謝罪を無用にする。

父親が心から詫びるとするなら、息子と、自分の代わりに命を落した妻とその子どもたちである。「ご迷惑をかけました…」、そんな世間に対する詫びなどどうでもいい。映画『鬼畜』のラストで、父が小学生の息子にひざまずいて許しを乞うシーンが感動を呼ぶのは、謝罪に上も下も、親も子も、ないからだ。自らを恥じた謝罪か、上辺の謝罪か…は見抜けるものだ。

父親は事件後、始めて息子と面会した時の様子も手記を公開している。場面は息子は父に謝ってばかり。少年は何を謝ったのか?母や弟や妹をこの世から葬ったことに対する詫びであろう。罪の引き金になった父に謝る子どものいたいけさ。父に詫びたところで、どうにもならない少年が痛々しい。父も「暴力をふるって許してくれ」と息子に謝った。

父と子は大きなものを失うことで、大きな絆を得た。今、どこでどう生きているか分らないが、少年は24歳。過去は一掃し、父と離れて自らの未来に執着して生きて行くべきである。罪を背負って、という言い方は好きではない。彼らに委ねられるべく彼らの人生である。怖ろしい事件だが、この事件を知る多くの親は、「うちの子に限って…」であろう。

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