二十年はひと昔。昨日3月20日は1995年に起きた「地下鉄サリン事件」の二十年目に当たる。現場となった東京の地下鉄・霞ケ関駅では犠牲者の慰霊式が行われたが、遺族の一人の女性は、「二十年というと長いようですが、あっという間でした」と思いを語る。バカな男がいたとしても、バカの神輿を担ぐバカなエリートがいなければサリンは精製できなかった。
賢いとされる高学歴者が、麻原と言うバカを見抜けなかったのは、学歴と頭の良さは無関係ということを現す。賢い人間はバカを見抜く能力を持つがゆえに賢いのであって、高学歴所有のバカがバカに翻弄される社会不適合者を我々はこの目でみた。低学歴者が殺人を犯せば「バカ」と言えば済むが、高学歴エリートの起こす殺人は、「バカ」では済まない。
「バカ」では済まないなら何?「バカ」の上にある言葉だ。「糞バカ」でも「超バカ」でもいい。とにかく社会に与える影響が甚大だ。17世紀フランスの劇作家モリエールはこう言った。「学識の深いバカは、無知なバカよりも、いっそうバカだ」。なぜ学識のあるバカはいわゆる無知なバカよりバカであるのか?学識のある人は一般的には「バカ」と呼ばれない。
例えば一流大学を出ているというだけで「自分はバカではない」と思い込んでいたりする。「大学教授」、「医者」、「弁護士」、「議員」、「(H元総理)」などの肩書きにある人たちの多くは、おそらく「自分は利口だ」と思っているはずである。「先生と呼ばれるほどのバカでなし」と慣用句が示すように、それほどのバカであることに気付いていない。
その前に、「先生と呼ばれるほどのバカでなし」の意味を正しく理解している人は少ないのかも。一言でいうと、「先生」という敬称が必ずしも敬意を伴うものではないということ。にもかかわらず、先生と言われて気分をよくする人間ほどバカはいないという意味である。つまり、「先生」と呼ばれていい気になっている者をあざけて言う言葉でもある。
世の中見渡すに、「先生」という呼称の何と多いこと。自分が謙っているのか、相手を尊敬しているのか、いずれにしても心で思っていれば済むことを、あえて「○○先生」と呼ぶ人。真意は分らぬが、ポイント稼ぎでやってる奴もいたりする。つまり、その様に呼べば相手もいい気持ちがするし、自分も相手から、"よしよし、何とかわいい奴だ"と思われる。
そうかどうかは断定出来ないが、そういうタイプにはそんな姑息さを感じる。以前、将棋の大内九段を定期に自宅稽古に招いている宅に、招かれて行ったことがある。出向くとそこには数人の将棋愛好家がいた。彼らはみな「大内先生」と呼んでいる。「先生」と呼ぶべき人かはともかく、家の主は「大内さん」と呼ぶので、自分も「大内さん」と呼ぶことにした。
するとある人が、「さんじゃなく、大内先生じゃないんですか?」と耳元で囁いた。公の場であり、それについて言葉を返さなかったが、自分のことを常識のない非礼者とでも思ったのだろう。「大内先生」と呼ぶのはかまわないが、抵抗があったので自然な呼び名にしただけで、「先生」と呼ばずとも充分すぎるほどに尊敬はしている。が、人に押し付けられるものではあるまい。
「大内先生」の方が、「大内さん」より尊敬が深いとかでもあるまい。「先生と呼べ」と押し付ける気持ちも分るが、なんというか、人に物を教わるときの、あまりに媚びた態度の不自然さが好きでない。大内九段自身が、「きみきみ、先生と呼びたまえ、先生と…」と言うならそうするが、主人の呼ぶ「大内さん」が自然で親しみがある。自分もそちらを取った。
「先生」をつけるのがいかにも「礼」の姑息な日本人。以前学校でPTAをやってるときに、「先生同士が名前で呼ばないで、先生と呼ぶのは変じゃないか?」と教師に言ったことがある。自分は生徒じゃないから先生を自然に「○○さん」で呼ぶし、先生同士も苗字で呼び合うのが自然と思うが、問われた教師は面食らってか、「う~ん」といいながら言った。
「子どもの手前、そう呼んでいるんでしょう」。予測どおりの答えであった。「じゃ何かい、もし子どもの前で○○先生といわず、○○さんと呼ぶと、子どもが真似をするとでも?」、「それはないと思いますが、慣習です。習慣かな…」。それ以上は言わないことにしたが、互いを先生と呼び合うけったいな社会である。それがまともと思う人たちである。
子どもは裏ではセンコーである。先生同士が「センコー」と呼んだほうがいいんじゃないか。とにかく人を「先生」と呼びたがる人はいる。まるで人を「先生」と呼ぶのが趣味ではないかと思うくらいに「先生」が好きな人間だ。変というか、妙というか、日本人にある謙りの技だ。おそらくそういう人は、自分も人からそう呼ばれたい気持ちを有しているのだ。
そこまで謙らなくとも「心」に礼があればよいではないかと思うが、これも性格であろう。本人の利害関係もあろうし、注意義務もないし黙ってみている。「おいおい、先生は止めてくれんか?"先生と呼ばれるほどのバカでなし"っていうだろう?」と言われたこともある。そういう気さくな人もいる。礼にうるさい人は、こちらもかしこまり、打ち解けにくい。
老子が儒家を批判した理由はそこの点である。「ざっくばらん」と言う言葉は、心をざっくり割って、ばらりと明かすという意味のようだ。江戸中期には、すでに今と同じ意味で使われていたという。自分が萎縮するのもよくないように、人を萎縮させるのもよくないはずだが、相手を萎縮させることで自身がいい気分に浸る奴もいるから、人はいろいろだよ。
若い頃の自分は強い言葉を発していた(らしい)。自己主張は歯切れのよい言葉で明確に自信をもって…、そういう思いであるが、キャパのない上役には生意気に思われていたようだ。遅刻をしていい訳をしないのも、"可愛げがない奴"と見られていた。人はイロイロである。人のイロイロに合わせて対応を変えるべきなのか?思考の結果、「No」と答えがでた。
いちいち人に合わせてどうなる?そんなの媚び人間でしかない。八方美人といわれるが、八方美男子とはいわない。女に多いということか?ならば、男の領域ではあるまい。男に「男らしく」の概念は理解できる。当時、高倉健の映画に「男らしさ」を見た。それが「スジを通す」という概念であった。自分がコロコロ変わっていては、逆に相手が面食らう。
人から見て自分はこういう人間と思わせるのが最適と考えた。それなら人に媚びなくてもいい。媚びるというのは、相手に自分を売り渡すことでもある。自身に正直でありたい。自身を偽らず、作為も廃した自然な生き方、自然な行為。老荘の説く、「無為自然」なる本を読み漁った。「無為」とは「作為」の反語である。ところが実際、自然とやらが難しい。
吉田拓郎の「自然に生きてるって分るなんて、何て不自然なんだろう」という言葉が頭に引っかかった頃でもある。「自然に生きるとは何だ?」、「自然に生きるのが分るのは不自然なのか?」などと葛藤する。「自然」とは何なのだ?自己愛や自己の利益を追う人間が、「無為」の境地になれるのか?そんなことを突き詰めてみて、完璧になどできるはずがない。
それは正しい。完璧になどなり得ない。完璧を目指す事が間違っている。できることから少しづつやればいい。100m走も、42.195kmのマラソンも、少しづつ記録を伸ばすように。時には前より下回ることもある。そういうことに一喜一憂せず、人生と言う長いスパンで考えればいいし、レースは長い。自分は「自然」を無理しない事と定義して、それを信条とした。
無理をすれば、無理をした事への不満が出る。その時は出なくとも、必ず後に出る。これらは経験的に知っている。だからか、「先だしじゃんけん」の論理で、今は嫌でなくてもおそらく後で嫌であろうことは、最初からしない。誘われても断る。それで嫌われても自分が自分を嫌うよりはいい。人は人を嫌う権利はあっていいが、自分が自分を嫌うのはよくない。
自分に無理をしないというのは、究極自分を嫌いにならない事である。自分を好きでなくてもいいから自分を卑下しない事が重要である。そういう生き方を目指せば人に媚びなくなる。人に媚びるというのは自分の心の卑しさである。人間は自尊心があるゆえ、無用な自己卑下や極度の謙遜は、高邁心を隠すもので、やけに謙った人間が実は自尊感情が高い。
何より自分のやりたいことを見つけること。それが自分を好きなことでもある。無理をせずにやれて、それが楽しくなれるなら、そういう人は生き甲斐を見つけたも同然である。一日中、将棋を指してもいい、一日中YouTubeで音楽を聴いていたり、映画や過去の映像など見ていたり。そんなことで楽しいならそれで充分である。やりたい事があるのは幸せだ。
自分がしたい事が分らないというのは自分の問題である。自分の生きる姿勢、生きたい欲求から生まれる実存的な要求であるが、それがないのは、「生」に対する実在感が薄いのであろう。会話していて相手が傷ついたと感じる事がある。それを怒りに現す人、悔しさで現す人、悲しさで現す人、逃避で現す人、ネットはこちらが選ばない相手がくるところ。
数日前、久々の題材に遭遇する。噛み付き転んで収拾つがずの女。最後は相手の言葉を利用して被害者を装う。このズルい手を女はよく使う。女がそうするか、自分は見ているフシがある。相手を罪人にし、「あなたってひどい人」というのが女の専売特許であるが、(自分の思う)いい女は、そういうことをしない。こういう羞恥が通用しないのを分っている。
下衆な女はそれで気が済む。ならば許してやる。女は行き詰ると都合よく自己完結するが、言葉は支離滅裂である。つまり、女がそういう生き物であるなら、その代表が田嶋陽子嬢だ。キチンと言葉で対処してくる女もいる。話が美しく噛み合う女は、言葉も美しい。上品ぶっても汚い言葉は露呈する。男にも同じようなのはいる。そういう男は女以下である。
だから「女の腐った男」と言う。すぐに被害者ぶって、「ひどい」と言われるのも慣れているし、罪人になるのは構わない。留置場に入れられるわけではないが、できるなら、そういう子どもの喧嘩はしたくない。得るものがなく相手はむかつくだけ。しつこい面倒臭いが、さっさと逃げてくれるならありがたい。せっかくなら美しい言葉を目にしたいものだ。
女は嫌いじゃないから、楽しく美しい会話がいい。題材の女の、「あまり○○に誤解を招く書き方はなさらないほうがよろしいかと…」。この言葉がなければ好意的に感じたろう。上のような陰険な物言いの人間は、あちこちで人から嫌われてるはずだ。でなければ無造作に出る言葉じゃない。温厚(?)な自分でさえ腹を見透えて好意を抱けない人間である。
人をたばかる言葉の最たるもの。自分に無理をしないと言うのは、こういう物言いを受け入れないことでもある。人が好きで使いたい言葉は各自の自由だが、自分に対しては拒否するし、自分の前では吐かせない。そういう言葉は指摘する。「お前その言葉、もうちょっと言い方変えたらどうだ?ヤクザが脅迫文に使用するような慇懃さを感じるよ」などと言う。
まあ、こういう言い方をする奴は陰険な性格だし、言葉は人そのものである。同じ言い方でも、「その言い方だと誤解を招くかもしれませんよ?」なら、ずいぶん印象が違う。こういう性格の人であり親切感に満ちている。「文は人なり」は間違いない、どういう言葉を選ぶかがその人の心を表している。他人に説教するのはおこがましいと思っている。
だからいちげんさんにそのようなことはしない。無作法なら追い払うだけ。「和をもって尊し」というが、こちらの選ばぬ人間に媚びる必要はない。人目を気にした人間関係を危惧と仰せの輩もいるように、そんなのお体裁の人間関係に決まっている。"上のような言葉使いはよくない"と教えるは親切かもだが、初対面の輩に何かを諭したところで、相手に耳はない。
心許した相手や関係であるなら、親切心も芽生えるが、初対面には無用である。人間は嫌な奴とは付き合わぬ方がよい。いろいろ要素はあるが、自分が人を選ぶ目安はある。ウザイと思われても伝えたい相手はいる。そうでない人間もいる。その違いが相手を選ぶ目安の何かである。記憶にあるのはフランス在住の日本人が、「フランス人は○○で驚いた」と書いていた。
それを読んだフランス在住の自称学者が、「そんなフランス人はいませんよ」という。フランス在住の日本人と書かなかったからか、自分の定義とおもったのか、決め付けるなといいながら、自分は「そんなのいない」と決め付けている。この言葉を聞いて、「お前は千里眼か?」と腹で思う。言い方一つだ。「そんなフランス人もいるんですね~」なら分る。
人の決めつけを指摘しながら自分が決め付けるのを"押し付け”という。押し付けは嫌いだし、こういう思い上がりも嫌いだ。良好に付き合う人間とならない。案の定、些細なことを頑強に押し付けることとなり、そういう性向とっくに読んでいる。嗜好や価値観が違えども、それは現時点で違うのであり、交流でどう変わるか分らない。変わるもよし、変わらぬもよし。
嗜好合うもよし、合わぬもよし、大事なのは互いの生き方に対する敬愛心。すべてが一致などあり得ない。ならば人は相手を許容できるキャパを身につけるべきであろう。それが手っ取り早い人間関係術だ。人生は蹉跌…、自分の危さに早く気づくのが修整が楽になる。高学歴を自認する学者は、自分のバカに気づかぬこと多し。