十年はひと昔。イーグルスが再結成されたのは1994年だが、十年前の2004年~2005年にかけて、「Farewell I Tour」(第一回さよならツアー)と題されたツアーが行われた。「さよなら」はジョークであり、その後も米国内外で公演が行われている。このツアーでも高い人気ぶりを見せつけ、2004年には来日公演も行った。その時の公演スケジュールを以下記す。
◎ 10/24 札幌ドーム
◎ 10/26 横浜アリーナ
◎ 10/30 東京ドーム
◎ 10/31 東京ドーム
◎ 11/03 大阪ドーム
◎ 11/05 福岡ドーム
◎ 11/07 ナゴヤドーム
◎ 10/26 横浜アリーナ
◎ 10/30 東京ドーム
◎ 10/31 東京ドーム
◎ 11/03 大阪ドーム
◎ 11/05 福岡ドーム
◎ 11/07 ナゴヤドーム
この時のメンバーは、グレン・フライ、ドン・ヘンリー、ジョー・ウォルシュ、ティモシー・B・シュミットの4人で、再結成時に参加したドン・フェルダーは入っていない。フェルダーは2000年に解雇されていたのだ。解雇理由は、「バンドに対して貢献していない」と言う事で、それも突然の通告であった。フェルダーは不当解雇であると、解雇取り下げ訴訟を起こしている。
フェルダー解雇の件は後に記すとし、再結成時の状況に戻る。あれほど強い確執があったイーグルスが再結成する理由はマネーとしかいいようがない。80年に活動休止し、解散の正式発表は82年であった。再結成は94年であるから、十年ひと昔という程にわだかまりも消えたかと思いきや、再結成後、グレン・フライとドン・フェルダーには新たな火種が勃発する。
それも後回しにして、イーグルスの解散はメンバーにとっても深刻だったようだ。「バンド解散は悲しかった。一体何をしたらいいんだ?」(ジョー・ウォルシュ)。「とても落ち込んだ。僕がいたのはわずか3年だけど、イーグルスが大好きだった」(ティモシー・B・シュミット)。「僕らの作りあげた怪物が、僕らを支配していたのだ」(ドン・フェルダー)。
その中でマネージャーのアーヴィング・エイゾフは楽観的に見ていた。「こんな風に言われていた。地獄が凍りついたら、彼らは再結成する」。意味はメンバー同士の軋轢が地獄状態であったのを、もっとも分っていたのはアーヴィングであった。メンバーはとりあえず、彼のところに不満や苦情をいいに来るが、最も不満を抱いていたのがフェルダーである。
アーヴィングの言うように、地獄が融け出したのだ。再結成が決まり、5人の記者会見が行われた。そこでは厳しく辛辣な質問が次々と彼らを襲った。「メンバー間の激しい対立がバンドを解散に導いたわけですよね?どうやってそれを乗り越えたか、分りやすく説明してくれますか?」これにはフライもヘンリーも他のメンバーも一様に苦虫顔で口を開かない。
ヘンリーが口を開いた。「(ダメダメ)そんな質問は」。この言葉にメンバーは一様に笑っている。「そんなこと知りたいのか?」ヘンリーが誤魔化すと、グレンが口を開いていった。「真面目に答えると、バンドが解散して以来、再結成の可能性は何度も打診された。最初は第一回USフェスティバルのときで、主催者は100万ドルを提示してきた。でも断った。」
グレンもヘンリーもソロに転向、それなりに実績も評価もあげていた。ヘンリーはMTVで活躍した。「確かにMTVには助けられた。いくつか賞ももらっているしね。でも、その世界とは手を切りたいと思っていた。僕はソングライター、レコードを作るアーチストで役者なんかやりたくない。」グレンはテレビや映画に出演し、トム・クルーズと共演もした。
解散後のヘンリーとグレンの関係は修復できず、ヘンリーはイーグルスの曲を何曲か手がけたJ・D・サウザーに共作を依頼するようになる。サウザーは言う。「ヘンリーとグレンの亀裂は僕とグレンの間にも影響し始めた。今までグレンとは楽しくやってきたが、僕はヘンリーのパートナーになる事にした」。再結成の記者会見では次のような質問も飛んだ。
「グループとして、個人として、どう変わったと感じていますか?」。この質問にはグレンが口を開いた。「それを示すのは、成長しかない。成長することこそ人生のすべて。ミュージシャンでも、シンガーでも、ソングライターでも、どんな分野でも少しづつよくなっていると思いたいよ」。控え目なティモシーは、再結成の意気込みを次のように語っている。
「ずいぶん長いことこの仕事を続けてきた自分は、いい仕事もしたし、キチンと休みも取れた。だからもう一度やるのさ。バンドが解散して何をしていいかわからなくて、いろいろな仕事を受けた。TOTOやジミー・パフェットのレコーディング、ウォーレン・ジヴォンやダン・フォーゲルバーグ、後悔してる仕事もある。ポイズンやツイスティッド・シスター…
ただステージで叫んでるだけだった。大した仕事じゃないが、家族を養えればそれでよかった」。いきなり、「ドラッグの問題は?」の質問が飛び、これにはジョー・ウォルシュが丁寧に答えた。「確かに僕らの世代はあらゆるクスリを試してきたけど、今はこう言いたい。ドラッグがなくてもいいバンドになれる」。ジョーは薬中、アル中を根性で直してきた男。
「ヘミングウェイは素面であんな作品が書けただろうか?ヘンドリックスは幻覚剤なしであんなに凄いギターが弾けたか?多分"No"だろう。それで自分を納得させていただけ。彼らの死にまで考えが及ばなかった。現実逃避なんだよ。落ちるところまで落ちたし、あのまま続けていたらもう終っていた。おそらく死んでたよ」と、ジョーは回想する。
問題だらけのジョー・ウォルシュであったが、メンバーは黙認していた。「ジョーをみんなで持ち上げてたんだ」と、グレンは言う。1990年代初頭、イーグルス再結成の話が本格化した。「みんなが集まった事があったが、グレンはやる気がなかった」(ティモシー)。「アーヴィングから召集がかかり、グレンも新曲をもってスタジオにくることになっていた。
グレンは来なかったが、他の3人と自分とアルバムを作るために、とにかくスタジオに入った。リハーサルをはじめて、3日目か4日目だったら、グレンから自分は参加しないと電話がかかってきた。それで計画は中止となった」(フェルダー)。グレンは言う。「正直言うと、ソロ活動を心から楽しんでいた。自分にとっては、再結成より大事なことだったんだ。」
マネージャーのアーヴィングは、「グレンがいつその気になるか?それが問題だった。ヘンリーは大層乗り気だったよ」。「グラミーをもらい、ヒットも出し、ツアーでも大きな成果を上げた。ソロ活動はもうやるべきことはやった。そんな気分だったからバンドに戻るのも悪くないと思った」(ヘンリー)。ある事が契機となり、グレンはバンドに戻る決意を示す。
「覚えているのはいいことばかり。悪いことは考えないようにした。あの頃の友情や楽しかったことだけを思い出した」(グレン)。紆余曲折はあったが、これでイーグルスは演奏活動再開となる。と…、なったのはいいが、再結成に際して、グレンはアーヴィングにある条件を出していた。それはグレンとヘンリーの取り分を他のメンバーより多くすることだった。
グレンの言い分はこうだ。「僕らは14年間、キチンと成果を残して来た。二人がメディアやコンサート会場でイーグルスの名を守りつづけてきた。だから、僕にもヘンリーにも満足のいく契約内容になった。これについては、ティモシーもジョーも納得してくれたが、フェルダーは不満だったようだ。そこでフェルダーの代理人に電話をしてこういったんだ。
『やあ、君にはつくづく同情するよ。あんなクソ野郎の代理人だなんて…。これからいうことをよく聞いてくれ。陽が沈むまでに契約書にサインしないなら、僕らはフェルダーの代わりを探す。これが最後通告だ。日没までにサインするか、バンドを去るかだ!』そう伝えて電話を切った。結局フェルダーは契約書にサインをし、僕らはツアーを開始した。」
プライドを傷つけられたフェルダー、「もう仲間意識はない。彼と視線を合わすのは移動とライブのときだけ…。一緒にいなければ問題は起きない。ビールを飲みながら話したり、友情を確認したりするより、一人静にしている方がいろいろな事が上手く行く」。文句があるなら辞めろと言わんばかりのグレンの露骨な仕打ちに、フェルダーの心情いかばかりか。
「フェルダーは満足しておらず、彼の不満はこちらにも分っていたが、バンドは民主的な組織じゃなく、スポーツのチームみたいなものさ。一人じゃ何もできない代わりに全員でタッチダウンできることもない。彼の不満はどんどん膨らみ、僕がいくら稼いでいるか詮索も始めた。そんなフェルダー決断を下した。彼をクビにした。もう一緒にやれないと…」(グレン)。
「傷ついたよ。一緒に演奏できないことが辛かった。友情と音楽を失ったんだから…」(フェルダー)。「何かの決断を下すとき、僕とグレンは一つになる。みんなが平等に発言するなど難しい。それで40年間やっている。だから、こんな風に言えるのさ」(ヘンリー)。フェルダーの代わりにスチュアート・スミスがサポートで加わった。彼は正式なメンバーではない。
「レコーディングの際、アレンジ、プロデュース、曲づくりなども任されて嬉しかった。ヘンリーと一緒に作った曲もある」(スチュアート)。「スチュアートは僕らにとってカンフル剤のようなもの。彼は素晴らしいミュージシャン」(グレン)。スチュアートはメンバーに好意的に迎えられた。そんな彼はフェルダーの最高傑作、『ホテル・カルフォルニア』のギターソロについて…
「あれは非常によく練り上げられたソロだと思う。なんだか宇宙服を着るみたいな感じがするしね。ただ、あの曲を演奏するのは複雑な気分だね。ファンの反応や興奮が半端じゃないし…。でもあれは僕の曲じゃない。僕は助っ人として協力するただの一ギタリストさ、メンバーじゃないし、だからその重さも分らないんだよ」(スチュアート)。
再結成時の年齢からみてもグレン(46歳)とフェルダー(47歳)は、過去を水に流したと思われていたが違っていた。2~3年もすればフェルダーにアレコレといちゃもんをつけるようになる。「イーグルスは本来、歌を志向するバンドで、お前はその事に貢献していない」などといいだす始末。歌で呼んだわけではなかろう。2000年、グレンはそれを解雇理由としてフェルダーをクビにする。
フェルダーは、解雇撤回と報酬の見直しを求めて告訴する。法的にはフェルダーの言い分が相当優位で、2006年における示談はフェルダー有利に決着した。ただし、法的な解決があっても、フェルダーの地位保全要求はあくまで法的な名目であり、ヘンリーやグレンと打ち解けれるはずもなく、彼がイーグルスとしてプレイすることは、事実上できなくなった。
フェルダーの功績はなんといっても、『ホテル・カリフォルニア』。この曲はフェルダーによるほぼ完成形のデモテープにヘンリーが詞をつけた。イントロ、ベースライン、ジョーとのツインリードのかけあい一切をフェルダーが考えた。『呪われた夜』の印象的なギターソロとベースラインもフェルダーによって作られた。彼のイーグルスへの功績は大きい。
フェルダーは後年『ドン・フェルダー自伝 天国と地獄 イーグルスという人生』を著す。読んではないが、イーグルスファンには様々に感じられたろう。フェルダーを支持するもの、フェルダーをヘタレとこき下ろすもの、人によって違うし誰も定点観測などできない。それぞれのファンにあるグレン、ヘンリー、フェルダーが、一つのイーグルスにはならないようだ。
1970年4月10日、ポール・マッカートニーは英国『デイリー・ミラー』誌上でビートルズからの脱退を発表。同年12月30日にはロンドン高等裁判所にアップル社と他の3人のメンバーを被告として、ビートルズの解散とアップル社における共同経営関係の解消を求める訴訟を起こす。翌1971年3月12日、裁判所はポールの訴えを認め、ビートルズの解散が法的に決定された。
原因を遡るとカネの問題に行き当たる。1967年、ビートルズは彼らの財産を運用会社、アップル・コアを設立。この会社は音楽以外の映画や芸術等の傘下7部門を持つ巨大な企業だったが、経営に関して全くの素人である4人が会社をコントロールできる筈もなく、成功したのはレコード部門だけだった。ジョンは設立後に「会社は半年で無一文になる」と語った。
4人はアップル運営をきちんとした経営能力を持つ外部の実績者に委任することを検討し、その際にバンドは2派に分裂した。ポールは妻のリンダの父親であるリー・イーストマンへの委任を主張したが、これ以上ポールの発言力が強まるのを危惧した他の3人は、ローリング・ストーンズのマネージャーであった悪名高いアラン・クレインの起用を主張した。
これが引き金となってポールと他の3人の訴訟問題に発展する。多数決の結果、クレインがアップルの運営に携わることとなったが、経営の悪化に対し明らかに力不足であり、起用は遅すぎたようだ。アップルは1975年にレコード・リリースを停止する。世間はポールがビートルズを真っ先に脱退したとの理解だが、ポール脱退の一年前にジョンは脱退の意を示した。
1969年9月20日、ビートルズの4人と当時のマネージャーであるアラン・クレインは、米国キャピトル・レコードとの契約更新の手続きのためアップル本社で会合を持つ。その席上において、ジョンとポールはバンドの今後を巡って口論となる。ポールはライブ活動の再開を望み、小さなクラブでのギグをやろうと提案したが、ジョンはこれに猛反発したらしい。
その席でジョンはポールに、 「契約書にサインするまでは黙ってろと言われていたが、君に教えてやろう。俺はもうビートルズを辞めることにした」と吐き捨てた。しかし契約更改するまでは脱退を許さないとクレインに説得され、ジョンの脱退宣言はこの時点では契約上では却下されたが、ジョンはこれ以降ビートルズとしてスタジオに戻ることはなかった。
イギリスで最も成功したビートルズ。アメリカで最も成功したイーグルス。成功するとカネの分配でもめる。かつて日本に「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」なるバンドがいた。メンバーの井上大輔が曲を書き、必然的に彼の収入が多くなる。井上は印税を含む収入一切を公平に分配するようマネージャーに伝えていた。そんな気遣いの井上は自殺する。享年58歳であった。