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こどもとは何か? 🈡

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最後にこどもを取り巻く問題のなかで、命にかかわるという点においてもっとも大事ないじめについて考える。これまで何度もいじめについて考えたがいじめが一向になくならないのは、皆が真剣に考えないことも原因に思える。いじめは昔からあった。いじめを自己解決できないこどもはまずは教師を頼る。それが学校内でのことだから、教師なら解決できると思うだろう。

人にもよるが大方の教師は無能である。教師はいじめを解決することより、いじめのないクラス運営が評価が高く、そうありたいの自負心が邪魔をしたりで、物事をフラットに見たり考えたりできない。その程度の自負ならないのがいいのだが教師とて人間である。良い教師と認められたい思いや多少の思い上がりもあって、いじめなどのマイナス因子を見て見ぬふりをする。

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本当に有能な教師なら、問題を起こさないことより、問題を率先して速やかに解決を図ることのできるそんな教師である。問題が起こらない、起こさないのは所詮は無理とのスタンスで、起こった時の対処法を常日頃から考えておく人間は、教師に限らず有能な人間である。「起こらない」、「起こさない」というのは、単に願望に過ぎない原発事故のようなものである。

何事も「想定内」という考えが危機管理意識の高さを示すもの。すぐに適切な対処ができる点において、彼は有能である。小学3年生のとき驚いたことがあった。当時の担任教師Yが自分とHくんに放課後教室に残るように言ってきた。そう命じられた時に自分が何を思ったかの記憶はないが、こんにち頭に残るのは、あの教師はこどもたちの全体を見渡していた良い教師だった。

Hは自分の家から50mの近所で幼稚園のころから遊び仲間で、3年生で初めて同じクラスになった時はうれしかった。近所の誰かと一緒になることは滅多になかったし、あえて避けているのかというくらいに不思議だった。自宅の隣のNも対面のFも6年間同じクラスになっていない。50人学級で7クラスもあればそういうものか。そんな中で唯一Hとは一緒のクラスになれた。

ところが担任に呼ばれたとき、自分とHは全く口を利かない絶交状態だった。見かねた担任が二人を残したのは事情を聴くというより、仲裁目的だったと思っている。何を聞かれてどう答えたかの記憶はないが、「どうした、喧嘩でもしたのか?前は仲よかったのに」という感じだったろうか。この教師は、義務感・使命感というより、二人が気になって仕方なかったのだ。

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こどもたちの動向を眺め、割って入って仲裁を買って出る、こういう教師を有能という。同様に有能な親というのは、人をいじめない子、いじめを受けない子を作るような躾というか、対処法というか、それはあると思っている。さらには機敏な対処も大事だ。どこかから我が子がいじめを受けている情報を耳にしたなら、即刻行動すべきで、早期発見・早期治療が鉄則だ。

いじめは昔からある問題だが、悲劇にいたる要因というのは、親がこどもと平素から十分なコミュニケーションがとれていない、親としての役割を十分果たしきれていないことだと考えている。いじめは学校で起こるが、新聞やテレビ報道によれば、いじめた側もいじめられた側の親はいじめに気づいていなかったという。自分はそのことが何より問題と思っている。

親が親として機能し、役割を果たしていたら、自分のこどもが学校でいじめに荷担していたり、いじめられたりしていることには、さまざまな手立てから気づかねばならない。物は見方である。教師に言ったところで、教師はいじめと認識しないだろう。しないものを認識しろといっても土台無理。あるいは、認識しても適切な手立てが教師にできるだろうかという疑問。

大前研一氏はこんな体験談を述べている。「 私の子供が学校でいじめられていることを察知し、もう限界と思ったので別の学校を見つけて転校させた経験がある。もちろん先生と子供、先生と親の対話も成り立っていないのだろうが、それよりも親子の“ノー・コミュニケーション”のほうに根本的な問題がある」。同じように、自分も教師にいじめ解決は無理と思う派だ。

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それもあって、もし自分の子がいじめを受けているようならこどもには、「先生に言っても何もしないよ。してくれるはずがない。だから宛にしないこと。いじめの解決は親がするもの」とまずは思わせる。とにかく、対処法などを話すよりも、いじめについての会話を始終こどもとするだろう。対処法なんてのは大人の考えであって、絵に描いた餅である場合が多いからだ。   

親が真剣になるしかない。「こどものことに親が口出しすべきでない」という偏った意見は、いじめ被害を救わない。確かに、対策は後手であり、対策を講じなくていいよう先手で教育するのが理想で、これは自分の考えでもあるが、万が一いじめを受けているとのことでの対処を記した。アメリカではいじめる子に対し、「今度いじめたら腕をへし折ってやる」などの親もいる。             

「ただいま」の帰宅の声の調子、足取り、雰囲気の変調さから、母親その日その日のこどもの体調・心を読み取っていく。家族そろっての夕食時の様子でもこどもを捉える。そんな素朴で当たり前のことが少ない時代なのだろう。学習の出来栄え以上に心の健康は大事である。確実にいえることは、いじめにあう子は弱い子である。弱さとはいろいろあろう。

それ以前にいじめをつきつめると、過剰な競争社会における犠牲者である。大人や社会に追いつめられ、人間的な価値を見出せないこどもたちである。大人もこどもも他人の不幸を喜ぶというそんな社会の縮図をいじめに感じるなかで、人を不幸に陥れたり、傷つけることがなぜに快感となるのかという、屈折した人間の心に歪に向き合わない限り、いじめはなくならない。

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単純に考えれば、相手を汚いと罵ることでどういう快感が得れるのか?これはその時点で自分のコンプレックスを一掃できるのだ。人を見下す人間ほど、「人より優位に立ちたい」気持ちが強いように、他人をバカにすることで、「自分の方が優れている」というアピールである。自分の有能さは他人に指摘されるものなのに、誰も授けてくれそうもない人間は、自らに授けるしかない。

「人の不幸は蜜の味」なども人間の心理的コンプレックスを現している。「自分が幸せになりたい=他人が不幸になる」が等価である。ふつうは、自分が幸せになれないなら、なれるような何かや物を探せばいいが、それを見つけようとしない。それで試験に落ちたなどの不幸な体験の怨念が、他人も同じ思いをすればとなる。短絡的で手っ取り早い気持ちを晴らす方法だ。

こんな風な人間にならないためにどうすべきか?他人のことには目もくれず、自己追及に精を出す、自分に一心を捧げる、いろいろあろうが、大事なのはまずは思考。「他人の不幸は自分の幸福とならない」という当たり前の原則を、思考できる頭を所有しているか。それを当たり前に感じられない人は、そうであると信じることだ。「信じる」はいつしか自分の信念となる。



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