こどもは何でどうあるべきか思考した。その人の人生における貴重なこども時代の大事さを考えるとき、こどもはどういうこどもであるべきか?親が望むように、周囲のこどもとは別の差異化を図るべきか?そのことがこどもの将来の幸福を約束するものなのか?将来のためにこども時代を犠牲にする昨今のこどもたちを自分たちのこども時代に比べるのは無意味意味なのか?
「人類を偉大にしたのは考えることである」とパスカルはいった。こどもは考えることがすきだ。彼らは常にそうしたがっている。実際、こどもの生活のすべての過程は、終わりのない問題解決の過程だろう。考える衝動がこどものなかで強力であるうちに、考えることを学ばなければならない。そのためには考えることを周囲が励ましてやるべきではないだろうか。
「絶対的真実」というものはほとんどないに等しく、すべてのものは多かれ少なかれ、確率が高いということだが、それを真実と捉える大人はいる。大人だから仕方ないが、こどものうちは安易に物事を決めつけず、人は真実に向き合い改良しようとする姿勢を教えるべきだ。正しいことの証明ではなく、誤りを立証することを正しいとして教える必要を感じるのだが。
知る欲求は、学ぶ欲求と同じではない。「知る」はハッキリとした概念をもつ、あるいは理解するということ。「学ぶ」ということは記憶にとどめることである。が、こどもにとってこの二つは一緒のもののようだ。こどもは知りたいと思い、また知ることを学びたいと思っている。同時に、学ぶ方法を知りたいと思っている。学校に行くのは義務だが退屈な教師など必要ない。
のんべんだらりな親もしかりである。こどもの高い感受性をさらに高めるためには、こども以上の高い感受性を持つ大人が必要だ。果たしてそんな大人がいるだろうか?いる、いないに関わらず、せめて親がそういう問題意識を持つことだ。感受性の高い親に育てられた子の感性は当然ながら高いはずだ。この世界はおそらく素晴らしいはずだからこどもに教えるといい。
見るもの聴くもの触れるもの香るもの味わうものを総称して、「五感」という。問題集ばかりにらめっこをし、そこに記号を埋めていくよりも、五感という刺激を高める訓練を課すべきである。「そんなことをして何になる?」という親は、それをしなければいい。大事と思う親がすればいいことだ。真に学ぶとは、きづくこと、意識の範囲を広げること、それらを強化する。
丸暗記に力点を置く昨今の教育は、専門技術の伝授に過ぎず、学習から基本的な要素である創造性を奪うことになる。そんなことは考えればわかること。問題を解くことは宝探しのようであり、それのどこに創造性がある。真の学習とは、人生を生きる、そのためのものであるべきなのだ。「人は成長するこども」という言葉を聞いたことがある。誰の言葉か覚えてはない。
成長は大人になるためだが、上の言葉は永遠にこどものままでいろ、成長を止めずにし続けろということだろう。「幸福かどうかを自問したときから人は幸福でなくなる」といったのはミル。幸福は求めるたびに逃げていく。いっそ、幸福は手軽なものから味わっていくべきであろう。安定と幸福を求める者は、人生という本当のものに背を向けているような気がする。
「ZOZOTOWN」を運営する前澤友作氏が、交際中の剛力彩芽を引き連れて何を食った、何処に行ったとSNSで吹聴して顰蹙を買っていた。好きにしたらいいのに、いちいち反応するのはジェラシーか。金持ちがお金を社会に還元するのは、金融の理論からいっても正しい。だから、お金持ちはジャンジャンお金を社会に落とえばいいのに、文句をいう人間の心のさもしさ。
愛するとは物の生命を生かしきること。お金を愛すならお金を生かし、言葉を愛するなら言葉の命を生かしきる。言葉の命を生かしきるとは、その時、その所、その事、その人にもっともふさわしく一番必要な言葉を使うことか。『愛語よく廻天の力あり』は道元の言葉。愛語とは、挨拶だったり感謝だったり励ましだったり、賞賛だったり慰めだったり尊敬だったり…
言葉を正しく使うことも結局は愛語と同じこと。こういう言葉を使うことができれば、人間の人生から苦しみは減るのではないか。生きることへの喜びと勇気を与える言葉は、それを使う人にも、使われる人にとっても、大きな幸福を感じさせてくれるに違いない。『愛語よく廻天の力を学ぶべきなり』という言葉を噛みしめながら、若き日の過ちを偲んでみる。
社会は家庭と違って厳しいものとする。こんな言い方をしたのは、自分にとっては社会より家庭の方が数倍厳しかった。なぜなら、社会には優しさや愛もあるが、家庭(母親)の愛を感じたことはなかった。父の愛は消極的で素朴なものだったから、感じるというものでもなかった。暖かい家庭に育ったこどもも、甘やかされて育ったこどもも厳しい人生に一人で立ち向わねばならない。
社会は家庭と違って厳しいものとする。こんな言い方をしたのは、自分にとっては社会より家庭の方が数倍厳しかった。なぜなら、社会には優しさや愛もあるが、家庭(母親)の愛を感じたことはなかった。父の愛は消極的で素朴なものだったから、感じるというものでもなかった。暖かい家庭に育ったこどもも、甘やかされて育ったこどもも厳しい人生に一人で立ち向わねばならない。
親のエゴイズムとふやけた盲目の愛を断罪した自分は、そのことで依存心が芽生えず自立が加速されたのかも知れない。となると、甘やかされたこどもは社会の厳しさに立ち向かえないままに挫折をすることもあろう。家庭は社会の厳しさに負けないようにする訓練の場という視点を持った親がどれほどいるだろうか?せめてこどもを社会に放つ使命と責任は担うべきである。
家庭で厳しく躾をするのは、社会で苦労させないためであることも、親は知るべきである。そのためには社会の目を持たねばならないが、母親には難儀であるから父親の役目といわれている。環境もちがえば育ちもちがう、親の性格もさまざまだからか、びっくりするような言葉を親に投げかける奴もいた。「母には幸せになってほしい」と願っている女の子がいた。
その言葉を実際に親に投げかけたというのだ。どういう事情かはともかく、こどもが親に向かって、「幸せになってよ」というものか?言って悪い言葉ではないが、いうものなのか?「で、親はなんて応えた?」と聞くと、「そうね、なれたらいいね」と応えたという。おそらくこの親はこどもに慰め言葉をかけられても何の違和感もないのだろう。仮にも自分の子が…
「お父さん、幸せになってね」といったらなんと応えるだろう?用意した言葉はないが、このように言うしかなかろう。「お前に幸せになってほしい、そのために親をやったのだ」というだろう。確かに、そのための親だったから自然に言葉にでても不思議ではない。だから親が子に何かをするとしてもある年齢まで。それ以降はむしろ何もせずに、それが自立の手助けといえる。
自立の手助けとは、ライオンの親のように谷底に突き落とすのではなく、ただ飯を与えぬこと。こどもが社会人になって、自宅で親子同居する場合も、食費をとるのはそのためである。そのことをキチンと筋立てて話して理解をさせる必要がある。こどもからの食費請求は全然オカシなことではなく、必要なことであるのがわかろう。が、理解を共有するために筋立てた話をする。
こどもだけが幸せでいいというのではなく、親も幸せであるべきである。そのために親子は遠慮なく何でも話せることだ。コミュニケーションが円滑に上手く行ってる同士は幸せである。当然ながら人間は生まれたままの本能だけでは幸せになれない。幸せになるためには、なるための必要な行為や努力がいる。遠慮なく、気兼ねなく何でも話せるのは信頼があるからだ。
それとて十分に幸せである。世の中には親子、夫婦、兄弟、友人などの人間関係でギクシャク感やいがみ合いは多く、それのどこが幸せか?何気ない小さな幸せだが、いがみ合いからすれば雲泥の差。幸せ感とは何も大それたことではなく、支障のない人間関係だけで十分だったりする。身近に当たり前に潜んでいたりするものだから、気づいた者が幸せだろ。