学校が荒れた時代があった。近年はそれが終焉したのは学校や教師や市教委などの体制側の努力によるものか?教師の実像の変化とともに生徒たちも変貌したからなのか?そのあたりの分析はできかねるが、教師と生徒が水平な人間関係にあるように感じられる昨今である。たしかに学校が荒れた時代、教育の荒廃の要因は教師と生徒のリレーションシップの欠如があった。
一例として以下のケースがある。ある「少年自然の家」における合宿。大食堂に八人用の円卓が4面ほどあり、20人ほどの高校生が食事をとっていたが、引率教員の姿はない。教員は教員だけが一つのテーブルで食事をとり、さっさと個室に引き上げて各々がテレビを観るもの、談笑するもの。合宿における食事とは、単に食欲を満たすだけでなく、感情交流の場と解している。
せっかくの合宿なのだから、生徒と教師が味噌汁をついだり、ご飯をよそおったりという相互関係があってもいいはずだ。夜は夜で教員は生徒の中にはなく、個室に引きこもってビールでも飲んでいるという。それがどうこうというより、生徒と談笑しながらビールを飲んでも何ら問題はない。合宿教育の真の狙いとは教師と生徒の触れ合いであることを教師は知らないのだろうか。
吉田松陰は塾生たちといっしょに左官仕事などをしたといわれている。師弟とは折を見て共同作業を通してリレーションが深まるのである。何かを説いたり語って聞かせたりだけが教育ではない。教育の核とは、教師と生徒の人間関係といっていい。でんければ、教師がどんなにいい話をしたところで、生徒は教師の話をうつろにしか聞かない、もしくは聞いたふりをする。
教師と生徒のリレーションの欠如が教育の荒廃の素因であるのは間違いないだろう。それからすると、昨今の教師と生徒の友達のような関係は良い状況といえる。自分たち旧世代人が驚いただけに過ぎない。リレーションの欲求は、人間の基本的欲求である。実際問題として生徒が教師にリレーションを求めるとの前提は、人間系において妥当であり、良い面が多い。
もっとも、リレーションには二種類あるとされる。一つは「役割関係」、もう一つは「感情関係」となる。教師と生徒のリレーションが良い状態とは、「教師という役割に対する教師自身の期待と生徒の期待が一致していること」。「生徒という役割に対する生徒自身の期待と教師の期待が一致していること」。この二つの条件が揃えば、師弟関係は活気に満ちている。
ちょっと上の世代のこどもならだれでもやった「馬跳び」や、「おしくらまんじゅう」は、冬の寒い日には体もあったまったが、学校のグラウンドで禁止された。なぜかはこどもには分からなかったが、教師は危険な遊びだという。なぜ危険なのかさっぱりわからず、とにかく学校ではやってはいけないことになった。それでこどもがこの遊びを放棄したのではない。学校ではやらないだけだった。
おそらくどこかの学校で事故報告があったのだろう。背骨が折れたのか?まさか…。事情は分からないが、責任を取れない、取りたくない学校は校則づくめになっていく。学校はなんの目的で行くのか?様々な回答があろうが、今と昔では自ずと答えはちがってくる。かつて学校は勉強するところ。そこ以外に勉強するところはないが、今のこどもは勉強は学習塾でする。
これがもっとも大きな違いだが、今も昔も変わらぬ点は、大勢の人間関係の中で社会性を学ぶ。つまり、学校とは世渡り能力を身につけ、高度な学問は塾で教わる。ならば学校の勉強は、「健康で文化的な最低限度の生活を営む能力」を教えるところかも知れない。昭和40年代、17歳で自殺した女子高生がいた。今ほど自殺が珍しくない時代であったがゆえにショックだった。
以下はその彼女が英語教師と衝突したときに担任に言われた言葉。「いくら正しいことでも、言って良いときと悪いときがある。社会に出れば年下はどんなことがあっても目上に逆らってはいけない。言いたいことがあっても言うのは自分の損になる。我慢する子が賢い。世の中は矛盾と不正に満ちているのだから、いちいち不正だの間違いだの反抗していたら生きていけない。
生きるためには現実の問題に全力を注ぐべきで、あなたが正しいと思っても何にでも突き当たるのはよくない。英語の先生は何も悪いことはいっていないし、あなたはすぎに謝ちなさい」。彼女は死を前に自身の思いを長々と綴った。英語教師も担任の言葉も承服できないから死を選んだ。教師であれ間違いは起こす、間違ったこともいう、そんなごく当たり前の認識であろう。
英語教師の間違いは明らかだが生徒からの指摘はプライド傷つける。さらに担任から「英語教師は間違っていない。自分が正しいと思っても逆らってはいけない。謝罪しなさお」と追い打ちをかけられた。真面目で正義感の強い彼女は教師に反抗できず、自身を追いつめるばかり…。「教師なんて所詮はこの程度。タコつぼのタコと同じで世間知らず」という柔軟性がなかった。
権威という重石と重圧に耐えきれず、自らに敗北するしかなかった。物事をぞんざいに思考できない真面目人間ゆえに追いつめられる。彼女は遺書の最後にこう綴っている。「教科書や幾多の書物には、いかなる強大な不正にも屈せぬ強く清い心を作れと教えていながら…、もう、先生なんか信じない」。もし自分が傍にいたら、「信じなきゃいいのよ」となだめたろう。
親が正しい?教師が正しい?そんなバナナ…。信じるものだけを信じればいい。信じれないものに苦吟することない。親、友人、教師、上司、信じれる相手だけを信じればいいし、信じたくない相手には適当に対処すればいい。思いつめたりせず、そうした処世術を学ぶことも大事である。信じたくない相手を信じねばならないという苦悩は、自身が勝手に作りだしたもの。
こどもの自殺は親への不信感である。生徒の自殺は教師への不信感である。こどもは家庭においては親と子、学校では教師と生徒という二重の存在で、教師が許せなくとも親に支えられる。なのに親が、「先生に反抗しちゃだめ」と言おうものなら、こどもの居場所はない。自分を守ってくれるはずの親が教師の肩を持つのはやるせなく、親にまで裏切られた気になろう。
こどもの前で教師批判はすべきでないというが、批判されるべきはされなければこどもの正義も自我も崩壊する。いじめる相手やいじめに適切対処しない教師の言動を親は漏らさず聞き、無能教師と分かれば文句を言ったとことで埒はあかないと悟ることだ。即刻、転校を願い出る。その際、校長に無能教師の保身とダメぶりをとくと聞かせることだ。とにかくこどもは親が守る。
こどもの気持ちに同化し、絶対にこどもを孤立させないことに全力を注ぐ。「親身」という字は、「親」と書く。親の支えをなくしたこどもは、突然、糸の切れたタコのように何処かに飛んでいってしまう。こうした最悪の場合の危機感を持ち、手遅れにならぬように、いつ動くべきか、動くのがいいかを見計らう。そのためには日々子どもを観察し、話やすい環境をつくる。
こどもを自殺で失った親に、そうした危機意識がなかったのではないか?「そんな感じはなかった」、「いつもどおり」、「まさかそこまで思いつめてるとは…」。こんなことは誰でもいえる。何かが起こった時には、おそらくそう思う以外に自を救う方法はない。自分を救ってどうする?親は我が子においては、どこの有能精神科医やカウンセラーよりも優れているはず。