遥か遠き彼方の我がこども時代だが色褪せてはない。小学生時代に限定して好きだったもの、嫌いだったものを挙げてみる。まずは好きだったものには、赤胴鈴之助、月光仮面、七色仮面、雷電為右衛門、若乃花、明歩谷、力道山、明智小五郎、植木等、チキンライス、漬物、ラムネ、みかん、日の丸キャラメル、渡辺ジュースの素、冒険小説、ものしり博士のケペル先生。
嫌いなものは、母親、化け猫、お岩、運動会、ラジオ体操、脱脂粉乳、怪人二十面相。好きだった偉人が松下幸之助。強く感動したものは砂漠のオアシス。興味があったのは星座・宇宙・天体観測。これだけでどんなこどもかを判断するのは難しいが、どんなこどもであったかの主観的な判断はできる。ただし、言葉で説明するのは難しい。人一倍好奇心が強かったのは確か。
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これは一般的なこども特徴であるが、他人に物足りなさを感じていたので、その意味で他人よりは強かったろう。″砂漠のオアシス″に感動したのは、冒険小説や冒険漫画を好んで読んだこともあり、砂漠で旅人が暑さと喉の渇きで死にそうになったとき、オアシスを見つけて助かるという話にとても感動した。見たこともないオアシスだが、人の命を助ける天の恵みに思えた。
我々こども時代の最大の恵みは学習塾がなかったこと。皆無ではなく、小さな個人塾はあったが当時のこどもは遊ぶことがこどもの仕事。そもそもこどもは大人のようにではなく、こどもとして発達することを自らに約束されている。ルソーのいうようにゆっくりと大人になればよいし、親が他のこどもより積極的に賢くする方法は、こどもの自身の能力によるしかなかった。
多くのこどもは金銭的教育を受けることもなく自然に子どもを満喫するなかで、足の速さと同じように頭の差もあったが、それは地頭の良さであった。こどものうちから先を見据えた自己達成感を持ち、家庭学習に励む子の多くは母親の意識が強かったと思われる。遊びに誘いに行くと、「遊べないから誘いに来ないでね」などという。こどもなりに可哀相と思っていた。
極度に地頭の悪い子はなぜかいた。発達の遅れが原因か、遺伝的なものか、自身の学習速度を認識しそこなって傷ついたままに落伍してしまったのか、理由は分からない。さまざまな境遇の子を同じ学年で揃えて一緒にするというのは、公平なようで実は正しくないのかも知れないが、横並びが原則のこの国では、諸外国の個人主義社会と違い、飛び級制度は作られなかった。
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熟達の速度や、科目の好き嫌いや、理解力なども人の能力とするなら、すべての科目を同時に、等しく、上手くこなすことをこどもに期待するのは、非現実的であろうが、小学校程度の勉強というのは、できる子には屁でもないくらいに簡単である。そういう子は、算・国・社・理など全ての教科ができるが、ダメな奴はなぜか全部ができない。これは地頭の問題だからか?
やはり、運動能力・運動神経と同等の、学問に向き・不向きという資質の問題であろう。もっとも創造的なこどもを除けば、勉強できるという資質は誰でも共通に持っているが、勉強に不向きというこどもの方が稀有である。天才と称されたアイザック・ニュートンは、こども時代を以下のように振り返っている。「私が世間の人々にどのように見えたか、それは分からない。
しかし、私自身にすれば私はただ海岸で遊ぶ一人の少年ごときであった。普通より滑らかな小石やきれいな貝殻をときどき見つけて楽しむ、そして真実の大海はすべてが未知のままで、私の前に横たわっていた」。普通のこどもが、何らかの影響を受けて、自発的に何かに動かされ取り組むようになったのであって、親が躍起になってこどもに金銭的教育をした偉人はほとんどいない。
時代が時代といえばそうだが、日本も第二次大戦後の学制改革では、教育を受けたいと希望するすべての人に門戸を広げるための方策として、「高校三原則」に沿った新制高等学校の設置が進められた。公立高校は入学試験もなく、希望者全入が原則だった。それが文部行政の転換や、旧制中学の名門校を復活させたい動きも入学試験による選抜を後押し、それが塾を生む要因となる。
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さらには高度経済成長期の豊かさが重なって、受験戦争へと過熱していく。家庭内の労働力としてのこどもはいつしか、家の中心に置かれ労働は免除され、親たちの愛が専ら注がれる存在へとのし上がっていく。当時の婦人雑誌は、「子供は王様」と煽るなどしてグラビアを特集した。子どもが核家族の中心に据えられる時代背景を機に、受験戦争の過熱が不良を生んでいく。
戦後の子どもの第一次非行は1951年である。これは戦災浮浪児というやむを得ない事情もあった。次いで第二次非行は豊かさと受験戦争の1964年に起こる。さらに1976年には少女非行も激増するが、その二年前の1974年に、校内暴力という形で第三次非行のピークを作ったが、鎮静には数年を要した。学校はその対応に管理主義で子どもを抑え、いじめや登校拒否を生んだ。
こどもといっても性格や個性に違いはある。性格は、一般に個人の行動に見られる一貫した傾向と定義されるが、個性とは、ある個人を一つの性格類型と分割できないものとして把握すべきものが個性であろう。「個性がある」とか「個性的」という表現は、その人の性格的特性は勿論、しぐさや顔の表情、物事に対する興味の示し方や対処の態度、あるいは考え方などをいう。
これら分割不可能なものとして他人から区別され、その人独自なものとして捉え得る際に用いられるもの。「個性が強すぎる」と教師たちにいわれたが、この場合の個性は長所というより欠点と指摘された。学校や学級という集団社会で、個性を絶対評価できる有能な教師はいなかった。全体主義の中に埋没してあぶれない人間こそが協調性のある人間と評価された。
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ある一人のこどもが運動的能力に秀でている場合、それを延ばすための特別カリキュラムが別枠で設けられることもないから、せいぜい部活動でいい指導者に巡り合えばの話である。いい指導者というのが問題で、こどもの個性を伸ばすどころかふみにじる教師も少なくない。だめなコーチがいたことで、サッカーがバスケが野球が嫌いになってしまった事例は少なくない。
こどもたちは社会とともに変貌している。愛らしくあることを止め、不可解なものへとこどもが変貌する時代になったのかと思うことがある。特に学校においては、生徒と教師が友達のような関係であることに我々のような旧世代人は驚くしかない。善悪はわからぬが、ただただ驚くということだ。敷居が高くないのは良い事に思えるが、師弟間に境界線はなくていいものか。