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こどもとは何か? ⑦

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以前から頭の良さと勉強の出来・不出来は関係ないと思っていた。ただ、勉強を熱心にやることで、頭の良さという項目の中の、記憶力や読解力を育むことはできるのは間違いない。ただし、自分が頭の良さを、「知能や独創的発想」と思うのは、これらが答えのある問題の解答探しではなく、勉強というジャンルを超えた世の中の多くのことに関わるという広い視点からである。

かつて自分は将棋の谷川浩司が好きだった。将棋の強さだけでなく種々の面で尊敬に値する棋士であった。ところが、彼が連盟会長の職にあるときに起こったいわゆる、「将棋ソフト不正騒動」の際に、彼のとった行為のあまりのお粗末さに失望してしまった。将棋の強さや人格者であっても適材・適所の人でなかったといえばそうだが、やはり社会人としての能力が欠けていた。

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谷川会長の判断の甘さというのは、当事者の三浦九段に対する名誉を棄損するだけでなく、三浦九段の行動一つで刑事事件に発展するほどの失態を作ったことにある。誰が誰を疑おうとも、「明らかに不正行為がみられる挑戦者とはタイトル戦を戦えない」とした渡辺竜王(当時)の我がままにひれ伏したのは、連盟会長としての不甲斐ないリーダーシップの欠如である。

在りもしない疑義をかけられた三浦九段が、もしも怒りを爆発させて刑事告訴を行ったとするなら、三浦を罪に貶めたとされる千田翔太五段は、「偽計業務妨害罪」、渡辺明竜王は、「威力業務妨害罪」しかりの有罪判決が出た可能性もある。いうまでもない将棋連盟は公益法人である。内閣府に公益法人と認定されるには、以下の要件が満たされていなければならない。
 
 ◎主な事業を公益目的にする
 ◎運営が公正で透明性がある、
 ◎特定の人(将棋連盟の場合は棋士)に特別な利益を与えない、
 ◎男女の差別をしない

さらには国から委託された第三者機関に事業内容を厳しくチェックされ、運営面で重大な不正を犯して公益法人を取り消された場合、公益目的の財産は国に没収される。これに該当するような事件を、証拠もないままに棋士の独断的な思い込みを谷川会長が明晰な対応で収拾できなかった。これには社会人である氏の実兄ですら、「弟を会長から引きずり降ろせ」といわしめた。

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話がそれたが、れもまあ、将棋の永世名人になるような人は、局面を明晰に捉えて判断をできる有能者と自分が勝手な判断をしていたのが誤りだったということ。世の中、金持ちを自慢する人も、学歴や家系を自慢する人もいるが、資産家が賢いわけでも、高学歴や名家出身者が頭がいいわけでもなかろう。何かを成しえた人は立派だが実はバカであるのが幸いした場合もある。

受験戦争は長きに及んだが、頭の良い人間をつくろうという学問の目的が、いつしか、有名小・中・高⇒有名大⇒有名企業に入るためであったことを、国はもっと早い段階で改善すべきだった。勉強をしたいから大学へ行くという国民と、「学歴」を重要視する国民とのギャップが改善されないままに、無駄な受験勉強に青春の労力を使い果たすこどもたちを救うことはできなかった。

「お前は勉強が嫌いだから、手に職でもつけろ」。それが大工・左官であり、理美容師であり、職工といわれる人たちだが、親がキチンと我が子の度量を見切っていたがゆえに適材人を生んだ。勉強嫌いな子に金を出して勉強させる必要があるのか?子どもの将来のためと他人と我が子の見栄の張り合いに躍起になるも、とどのつまり勉強嫌いの子に落ちこぼれ感を植え付ける。

親自らが、「正しい望み」をこどもに託せばいいと思うが、そのためには昔の親のように、我が子を見切るのも親の力量である。幸福という価値を均一に向けるのは、あまりの付和雷同性だ。人間は生まれつき知能に程度の差があるのだから、平等の幸福などはそもそも間違いであり、知能の程度と、幸福の度合いというのは、正比例しないものだと思っている。

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などと単に理想を述べているとの反発もあろうし、「現実はそうもいかない」という声も耳にする。が、そんな言い分にすら異論がある。「現実はそうもいかない」というのは、「現実を理解したくない」ということで、つまり、「親の欲は捨てたくない」といってるに過ぎない。「したくない」ことを、「できない」という人は多いが、「したくない」ことを「したくない」というなら正直である。

無理やり我が子の底上げに躍起になる親を見ると、バーゲンセール会場で少しでも得をしようと掘り出し物を奪い合う光景に似ている。親がこうしたこどもへの見栄や欲を鎮めれば、どんな子も愛する我が子と輝いて見えるのではないか。金さえ出せば何とかなる時代に、「足るを知れ」の自覚は強い意思がいるが、「自惚れ」より正しい自信を子に持たせる素敵な親は存在する。

勝利した人たちがよく言うのは、「自分の持てる力を出せました」である。勝利できなかった人たちは、「自分の力が出せませんでした」という。人と人の力の差があっても、それですべてが決まるわけではない。だから、努力も鍛錬もしがいがある。10の力があっても5しか出せないなら、7の力しかなくても100%出せば7であるから5の力より上回ることになり、それが勝ちにつながる。

谷川浩司が名人になったのは1983年6月15日で、21歳の最年少名人の記録も作った。谷川は記者会見の場で、「名人を獲ろうなどと欲の深いことを考えなかったのが良かった。とりあえず1年間は、名人を預からせていただきます」と述べた。なんという謙虚な人格者であろうと、彼のファンになった。同じ関西の内藤八段は、「いかにも谷川らしい用意してきた言葉」と茶化した。

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人の力の差は当然にある。だとするなら人間の値打ちというものは、その人の仕事や勉強の成績によってではなくその人の力の表し方で決まる。10の力を持つ人が10の仕事をしたのと、5の力を持った人が5の力をしたのと、成績上は倍の違いがあるが、努力の値打ちは同じことだ。5しかないなら5を出せるようにすればいい。人間は結果だけで判断をされない場合もある。

自信を持った人は素敵だが、自慢する人、自惚れる人に反発を感じることはある。自信がないから自慢する憐れさとみる場合もあるが、自信を持つ人は確信に満ちて生きている点において、心打たれ魅きつけられる。自惚れとは実力以上に自分を買いかぶるだけではない。持ち合わせた器量(容姿)や力量そのものを、「人間の値打ち」と思い込んでいるところが滑稽である。

人間の値打ちはその人の生き方で決まるといったが、現実的に世間は美人をチヤホヤし、力量ある人を重宝する。働き手の仕事量に合わせた、「能力給」体系が持ち込まれたが、実はこれが諸悪の根源だった。能力給の本質とは、「能力を見ること」ではなく、社員の能力に疑問符をつけ(合法的に)給与をあげないこと。要は、「働く人を使い捨てにする時代」の始まりだった。

最近、何かと体育系の連盟や協会に無能の理事たちの乱立が目立つ。名選手を名監督としないアメリカ人はクレバーと思うが、日本的な情緒はそれを許さない。名選手がよい経営者ではなかろう。即刻、外部招聘をすべきである。谷川も名棋士ではあたが、リーダーには不向きだった。その点、日本棋院はトップを外部招聘している。相撲協会にも必要性がいわれている。

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