優等生について書いたが、劣等生をどう分析・判断すべきだろうか。というのも、劣等生とは一般的に勉強ができないこども(いわゆる頭の悪い)を指す場合が多い。素行に問題のある子は非行(不良)と呼んでいるが、劣等生は頭は悪くとも、わりと自らに正直に生きており、「優等生」症候群的な心的な問題点はないのかも知れない。以下はある大学一年生女子の書き込みだ。
「わたしは勉強以外は目もくれないで一流大学に入学したのですが、失ったものというか、趣味のようなものは何一つやっていません。勉強以外に熱中するものはなく、親友もいません。ひたすら与えられた課題だけをこなしてきたように思います。大学には普通に通っていますが、性格的に異性の友達もできそうにありません。こんな自分をどうしたらいいでしょうか。」
経験はないが似たような話はいくつか知っているので、こうれが「優等生」の心の深層であり、病理といえるものかもしれない。「たすけて欲しい」という叫びであっても、誰も彼女を救うことはできない。劣等生は気負うところもなく、むしろのびのびと生きているからか、こうした優等生の心に潜む闇など理解はできない。では、「おちこぼれ」といわれるこどもはどうなのか?
劣等生にくらべて、「おちこぼれ」という響きはどこか暗い影を感じる。おそらく優等生のような心の闇があると思われる。そういえば、「おちこぼれ」という言葉は自分たちが10代、20代にはなかった。30代にあったかどうかは定かでないが、いわゆる昔にはなかった風俗用語である。「おちこぼれ」のことを心理学用語では、「学業不振児」という言葉を用いるという。
劣等生は学業不振というより学業嫌い児だろう。勝手にそんな名を宛ててみた。心理学でいう、「学業不振児」という概念にくらべ、「おちこぼれ」には学校生活からドロップアウトした非行少年や登校拒否児(不登校)なども含む、「学校不適応児」的ニュアンスがある。「おちこぼれ」という表現は辛らつで、これに該当する少年・少女の精神は軽やかではないと察する。
「うちはおちこぼれ~」とあっけらかんにいう子がいる。屈託なく自分を受け入れている点は自然である。学校においては、「おちこぼれを作らない」というスローガンで授業の補習などをやってはいるが、授業内容が生徒たちにどれだけ理解されているかという、小・中学校の調査では、中学の場合で半数以上の生徒が授業を理解していないという回答を見たことがある。
「おちこぼれ」をテーマに開かれたとある小学校のシンポジウムでは、さまざまなこどもの例が報告されている。小学生で「おちこぼれ」というのだろうか?中学・高校の思春期時期の、「おちこぼれ」の深刻さは理解する。学業不振ということから、学校へ行きたがらない、家出を繰り返すなど、小学生には見られない行動がみられることから親の心配も増すことになろう。
なぜ、おちこぼれるのか?本人の問題とはいえ、結局は家庭や親などの環境的要因、学校というものが本人にそぐわないなど、ケースバイケースということになるが、『学業不振 落ちこぼれを防ぐ教育の理論』、『伸びる子・伸ばす親 たくましい心を育てる』などの著書のある教育心理学者で大阪大名誉教授の北尾倫彦氏は、学業不振に関する要因を3つの次元にまとめている。
一次的要因:学習活動の失敗、基礎学力の欠如、不適切な教授法・教授内容
二次的要因:性格上の問題、学習意欲の喪失、知能の問題
三次的要因:学校への不適応、教師との関係や友人関係の失敗、親子関係の失敗
これらが複雑に絡んでいることが多いとされる。が、一次的要因だけが原因の場合は、基礎学力の補充、学び方へのアドバイスによって学力が向上する場合がある。しかし、二次的、三次的な要因がこどもたちの背景に存在する場合、おちついて勉強する以前の状態である。二次的要因の性格の問題はさまざまあるが、学業不振の小・中学生児童の性格特徴を以下に挙げる。
情緒不安定、神経質、劣等感、社会内内向、不安的傾向などが指摘されている。ただし、これらの性格は、学業不振が原因で派生したことも考えられ、性格特性との因果関係を軽々には言えない。「おちこぼれたこどもたち」のなかで幼少期においてはおとなしく、反抗期もなかったというケースをみると、彼らが自律性を延ばす場面や境遇に恵まれなかったと感じられる。
発達心理学でいうなら、母性原理がいきわたった環境こそがこどもの本来的知的好奇心や自発的意欲を延ばすことができるとされる。自分の記憶でいっても、主体的に何かをやる方が伸び伸び自由にやれるが、だからといってゲームばかりやろうものなら、母親のストレスも蓄積される。こどもに制限は必要だが、ゲーム機を隠されたことで家に火をつけ親を殺す事例もあった。
自宅の近くの高校の部活で、部員が5人づつ50m走をするのを見ながら思った。歴然の走力差は先天的だろうと。どう頑張っても遅い子が速い子を超すことはない。学力に差がつく様々な諸条件(記憶力・読解力・集中力・継続力)も先天的なものではないだろうか。運動神経と同じように熱心に取り組む姿勢が多少向上するとしても、バカが賢くなることはあるのだろうか?
教科書や参考書の記憶や過去問題の反復で学力は伸びるが、受験学力の高い子を頭の良い子と思わない。彼らは受験の技術は得てはいるものの、実際に話してみて頭の良さを感じない。物を覚えている(知っている)のと、知識の有用な活用性は別で、学力数値である偏差値=頭の良さではない。東大出の芸能人にそのことを感じるように、彼(彼女)らは決して頭がよくはない。
運動神経を良くする塾(教室)はあっても、先天的に有した奴を超すことはできないと思われるが、塾で即席につけた学力でハイレベル校に入るも、相当の努力をしなければおちこぼれるだろう。人為的(強制的)につけた学力でおちこぼれた人間は多く、心まで卑屈になったり荒んだりしては哀れである。無理をしなければそうはならなかったのに、親が夢を見たのだろう。
親がこどもに無理を強いればこどもも無理をする。こどもは嫌なことでもやらされなければならないのか?好きで自分に無理をするのは、こどもにとっては無理の意識はない。中学の同級で他校からきたKは、脳レベルが別格の極めつけ才媛で、彼女は地元の国立大理学部に自力で現役入学した。「この子は毎日朝まで勉強してるんで心配ばかりでした」と母親が愚痴をこぼしていた。
勉強し過ぎて愚痴をこぼす親も珍しい。ふと彼女の氏名を検索してみたところ、同級生にも関わらず独身であった。彼女の仕事は、年に数回のセミナーを独自に開いている。受講料3000円で安い会場に数名を集めて、「心霊現象についてお茶を飲みながら話しましょう」というお題目である。インドのサイババに感化されている彼女にふとオウムのエリートたちが重なった。
理系エリートはなぜそっち方面にいくのだろうか?「有能な科学者が、麻原の空中浮遊をなぜ信じたのかを理解できない」と大槻教授は言うが、教授のみならず誰もが思う謎である。Kさんも同じようにあのインチキといわれたサイババに興味津々だった。あれほどの才女にして彼女の現在は意外だったが、彼女を孤立させたのはあまりに違い過ぎたからでもある。
天才や秀才が孤独なのは、周囲への文化的適応と自己実現、愛情欲求と自己存在確立という矛盾を孕む。本人の自己実現欲求レベルが周囲との文化的軋轢を必然的に生みなら、天才は孤独な道を歩むしかない。卒業文集に、「想い出は 懐かしいもの 淋しいもの いつも一人で偲ぶもの」と美しい文字書かれた彼女の文字は、現在の彼女の心を映しているのだろうか…