「人間は自然である」というルソーは、子どもは大人ではないとし、「自然は、子どもが大人になる前は、子どもが子どもであることを欲する」と記している。そんな意識はなかったが、母親から指にタコができるくらい、泣きながら漢字の書き取りをさせられた場面が映像として頭の隅に残っている。嫌なことを強要させられるこどもの心は傷み、辛いのは当たり前だ。
ペンダコができる過程の記憶まで残っており、、まさに拷問であった。孫を叱る長女もイジメというしかない。叱る親の手前もあるから余計な口出しはしないが、いたたまれずその場を去る。子どもには子どもの固有の特性がある。しかるにその感じ方や物の見方において、子どもは独自のものを持っている。であるからして、子どもは子どもとして尊重されるべきである。
大人が果物の静物画を描くときは、実体としての果物を描こうとするが、子どもは食べて美味しい果物の絵を描くこともあるという。子どもを大人の論理で成熟させるのではなく、子どもを子どもの中で成熟させることに大人は目を向ける必要もあると児童心理学は説く。子どもに存在する絶対的特性を、大人は奪うことも、犠牲にさせることもあってはならない広い視野が必要。
子どもを取り巻く上記の抽象的概念を軸に、子どもにどう接すればいいかは、明晰な頭脳が必要である。文字や言葉を読んで意味を知ることと、意味(本質)の理解とではまるで違うこと。このように書いてあるから、どのようにすればいいかを考えるだけではなく、それを実践するための工夫やアイデアも人間のセンスである。それ以前にやってはいけないことはやらない。
これがもっとも重要である。未来は間違いなく不確実である。小学生のころの優等生に将来的な展望が約束されているわけではない。それを勝手に創作するのを夢想家という。あるいは幻想ともいう。そういう親が問題である。子ども時代という貴重な時間を、不確実な未来のために犠牲にさせていいものだろうか。それは束縛であり拘束ではないだろうか。
優等生というキーワードについて考えてみるに、自分たちの少年時代、「優等生」と称号は勉強ができるだけでは授からなかったが、自分はなぜか、「優等生」という称号は大人寄りで好きではなかった。「優等生」であることは、やんちゃやいたずらやおふざけができない境遇だからでもある。ちなみに優等生に属する友人はいたが、勉強もできる以上に品行方正であった。
彼らのことを当時は分析できないが今ならできる。優等生といわれる人間は、「大人向けのいい子」、「優等生であることが邪魔をして、やんちゃができない」、「真面目で固く融通が利かない」、「野性味、意外性、頓智や知恵、ユニークさというものが無い」、「高慢なくせに臆病」、そんなレッテルが当時の優等生たちに重なる。広場に遊びに出てこないで閉じこもる奴もいた。
優等生だからそういうことをしないのか、そういうことをしないから優等生と呼ばれたのか?腹立たしいのは、「大人向けのいい子」で、大人の中には教師も含まれる。こんなつまらない優等生などに、なりたい者の気が知れなかった。頭がいいとはいえ、小学生の教科書は図鑑程度と何ら変わらず、学問というより遊びである。そんなことより生きることを楽しむのが子どもであろう。
ところが、優等生の奴らは生活を楽しんでなんかいない代わりに、教師の使い走りに満足する人種であった。大人(教師)の評価を拠り所にする、姑息な裏切り者である。レッテルが貼られるのを好む人間がいる。レッテル無しで自由に立ち回るのを好む人間もいる。いうまでもない自分は後者。男の子にやんちゃが止められるハズもなし。いたずら以外の何が楽しい?
やんちゃ坊主は、やんちゃ坊主の自負もあろう。昨年5月の北海道。親の躾ということで置き去りにされた7歳男児、山口では2日間行方不明だった2歳の男児、いずれもやんちゃ坊主。だから寂しく暗い夜を孤独で通せる見事なまでのやんちゃ精神である。やんちゃ坊主には、やせ我慢も含め、肝が備わっている。かつてエリートのことを、「青白インテリ」と呼んだ。
青白(顔面蒼白)といわれる奴らに肝っ玉はない。玉も縮みあがって半分女のオカマである。頭がよくとも面白くなく、大人に媚びる優等生というのは、変に子ども離れして許せないところがあった。そんなものになりたいハズがない。「あなたは優等生なのよ」とある教師が言う。褒めてるつもりが、そんな言葉は屁でもない。大人を敵と定める自分を誰が手名付けられよう。
優等生の本質は、「優等生症候群」という病だ。彼らは早い時期から大人に属そうとするあまり、適応という便利な社会の殻を自覚し、発達させるに勤しむ、「小さな大人」である。周りをみて生きる日本人における最大の予備軍こそが優等生。子どもは周囲のことなどおかまいなしで、だからこそこどもであるが、優等生は正体の定まらぬ不確実な、「自己」を生きている。
優等生という響きに親が酔うのは、見栄や欲望をみたすもので、一つ返事で大人に対処する気持ちのよさに加えて扱い易さもあるだろう。やんちゃな悪ガキよりおとなしい子どもは大人には都合がよい。「おとなしい」は、「大人しい」と表記するが、これは、「大人らしい」という言葉から派生した。子どもが姑息でいい訳ないが、子どもを姑息にするのは、実は大人である。
姑息の、「姑」はしばらく、「息」は休むの意から、一時のがれ、その場しのぎとの意味だが、長男が高学年の時だった。彼の書いた、「父の日作文」を書いたのを見て(ワザ)と大笑いしたことがある。そして(ワザと)言った。「お前な~、こんな嘘っぱちを書くより、ぐーたら父さんの家での実態を正直に書く勇気を持った方がいいんじゃないか。こんな嘘を書かれる方も恥ずかしい」。
姑息な子ども、卑屈なこどもを作らないのは親の重要な役目である。姑息な人間は、「調子のいい奴」ともいう、こういう人間は人から絶対に信用されない。調子のいい奴は鍛冶屋にでもなってくれと言いたい。「いいこ」も、「優等生」も、演じるという点では軽度の精神疾患ではないだろうか。彼(彼女)らは、心に潜む病理を巡る共通の苦悩を所有しているはずだ。
かつて、「よいこの苦悩」、「よいこの悲劇」などの言い方で社会問題化されたが、どちらも大人との対人関係を通して、発達的に形成されるもの。それとは別に友人などの人間関係からも、「よいこ」は作られる。その根本動機とは、親や大人や友人の愛情や評価を求める、あるいは失いたくない、いじめられたくないというような、いじらしいまでの対人指向に発している。