こどもとは一体何のか?かつて自分がこどもだったころの記憶もこどもに思索である。イギリスのロマン派詩人のワーズワースは、「こどもは人の父である」といった。意味は、実際どんなこどもに育てられるかで、その人がどんな大人になるかが決まる。これは絶対的真実ではないが、幼年期が人生の基礎的期間として大変に重要という一般認識の裏付けは真実であろう。
人類といういう種が特殊な進化を遂げた結果、我々はこどもに与えられた豊かな約束を満たすよう設計された種でもある。我々は、「〇〇でなければならない」と教育された大人像になるより、こどものまま成長・発達するよう定められているが、だからといって、幼児段階のままで止まっているよう設計されたのではなく、生涯にわたって成長・発達するよう設計されている。
大脳を極度に進化させてきた人類も実は宇宙人である。ただし異星人から見ればの話。エイリアンという映画がヒットしたが、alienとは「外国人(外国)の」を意味する形容詞で、名詞として「外国人」、「在留外国人」。原義では、「人間でないもの」のみを指すものではないが、SF小説や映画などで「宇宙人(異星人)」や、「敵対的な地球外生命体」の意味で用いられた。
それもあってか近年はそうした一般名詞としても用いられる。日本の空港の看板等ではかつては来日した外国人を「alien」と表記していたが、これはどうかということになり、同じ意味の「foreigner」に変更された。人類の進化の設計図には、こどもに与えられた豊かな約束を満たすよう書き込まれている。人類は創造主によるものと進化論によるものと大別されている。
前者は宗教的、後者は科学的思考による。映画「エイリアン」の第五作『プロメテウス』では、それらとは違う新たな考え方として、同じ創造論的発想である創造主(神)に代わって、「エンジニア」なる宇宙人が存在し、それが人類誕生の謎を解く創造主だと語る考古学者が登場する。第一作の、「エイリアン」はホラー的恐怖映画だったが、ここまで話を拡大させたのに驚く。
エイリアンのことはさておき、「こどもは宇宙人」、「こどもはエイリアン」という言い方がなされるが、いずれも比喩的な意味。我々大人は幼児段階の発達のままでプログラミングをされていないので、こどもの異次元的行為をそのような言葉で表すのだろう。「設計されている」という言葉を用いたが、決して、「計画者」が存在するということを示唆したものではない。
人間が個々で違うように、こどもも違っており、それはむしろ人の教育されうる可能性の多様性であり、生涯にわたって成長発達しつづけるよう設計されるこどもは、最善の、健全発達を目指した進化の結果であろう。何が最善、何が健全というのも難しいが、実際こどもは、"成長"するものとして楽しげに自らを実現しようと努めるが、それが大人の目にはエイリアンに見えてしまう。
「こどもは見ていて飽きない」という言葉を聞く。自分もそういうところがある。こどもが好きでなかったかつてに比べて、著しいこの変化がなぜに起こったのか自分自身分かっていない。「こどもは見ていて楽しく癒される」と思うに至る何かしら人生の修羅場のようなものを通って生きてきたのかも知れない。そうして最後に辿り着いたものが純粋・無垢なこどもへの帰結か。
そう考えるのも決して無理ではなかろう。人間がどのような知識をため込もうと、技や術を身につけようと、何も知らないこどもの心に適うものはない、そんなリスペクト感をこどもに抱く自分である。「こどもが遊んでいるのを眺めていると心が洗われる」という表現は、なんと的確であろうか。彼らには大人が備わるであろう妬み、僻み、狡さ、腹黒さなどを持ち合わせない。
こどもと共に時間を過ごすと心が洗われる。宗教的精神も大人の特徴であるなら、こどもにはなんら宗教的精神はない。彼らは善くも悪くも非宗教的な精神に充たされている。たとえば、他者を愛し愛されたいと思う欲求、好奇心、詮索好き、知識への渇望、学習欲、想像力と創造性、偏見のなさ、実験の精神、ユーモアさ、遊び心、歓び、楽観、誠実さ、快活さ、思いやり…
そのようなものこそ精神と呼び得るものであり、思想や宗教に組み込まれないこどもの素直で正直な精神をリスペクトする自分がいる。もはや逆立ちしても身に着けることのできないそれらは、人生を達観した老熟風情の羨望もしくは懐古趣味か。若さを求めて女性がシワ伸ばしをし、コラーゲンを注入するがごとく、こどもの無垢な精神を求めるも、「ないものねだり」と思いつつ…
こどもは自然であるがゆえに賞賛されるものである。ルソーの『エミール』の序文を読んだ時からその思いは強まった。「自然の秩序において、人間はまったく平等であり、その共通の天職は人間であるということ。そして、よく人間として教育された人ならば誰でも、それに関するものを立派に果たすことができる。(中略) 生きるということが私の生徒に学んでもらいたい職業である。
私の手から離れるとき、彼は法律家でも、軍人でも、牧師でもないであろうことを認める。彼は、まず人間であろう」。さまざまな幸福論が書かれているが、ルソーのいう幸福とは実にシンプルであり、老荘などの東洋思想の影響が感じられる。幸・不幸に関連する、「苦痛」・「快楽」・「窮乏」を三段論法を用いて説得力ある言葉を述べているのが読み取れる。
「一切の苦痛の感情はそれを免れたいという欲望から切り離すことはできない。また、一切の快楽の観念はそれを楽しみたいという欲望と切り離すことはできない。一切の欲望は窮乏を予想している。我々が感じる一切の窮乏は苦しいものである。それゆえ、我々の不幸は、我々の欲望と能力の不均衡に存する。その能力と欲望が同じである存在は、絶対的に幸福である存在であろう。」
真の幸福に至る道を要約すれば、「自身の能力を超える余計な欲望を減ずること。能力と意志とを完全な平等のうちにおくこと」。これは老子の、「跂者不立」がモチーフか。「跂(つまだ)つ者は立たず、跨(また)ぐ者は行かず。自ら見(あら)わす者は明らかならず、自ら是(よし)とする者は彰(あら)われず。自ら伐(ほこ)る者は功なく、自ら矜(ほこ)る者は長(ひさ)しからず。」
現代語訳は、「背伸びをしようと爪先立ちをする者は長く立っていられない。早く歩こうと大股で歩く者は長く歩いていられない。自分が目立とうとする者は誰からも注目されないし、自分の意見を押し付ける様な者は人から認められない。自分の功績を自慢する様な者は人から称えられないし、この様な者は長続きしない」。欲な人間、足るを知らぬ者への戒めである。