母とは何か?父とは何か?について、定義できるものはできるが、できないものはできない。定義できるものをできないとするのは、知識や素養のない浅学さであろう。定義できないものをできるとするのは事実ではなく、嘘八百もしくは思い込みだろう。書き手は嘘ではないと思っている、だから許せるものなのか?別によいではないか、学術誌ではない所詮はトーシロのブログだ。
いちいち目くじらを立てるものでもなければ、知識として信じるかどうかに書き手の責任はない。情報というのはそういうものだ。確かにインターネットの普及は情報を得やすくした。数十万の百科事典が売れる時代ではないし、出版社も編纂はしないだろう。が、巷に氾濫する情報の真偽についての書き手の責任は、あるといえばあり、ないといえばない。匿名であることが問題だ。
記名であっても嘘も書けるしデマも書ける。「自分はいい加減なことは言っていない。記名で責任もって発言している」という人は少なからずいる。悪いことではないが、ただの自己満足であろう。「自分は善人である」、「わたしは嘘はつかない」といってるのと何ら変わらない。善人と公言する人が善人なのか?嘘をつかないという人は嘘をつかないのか?
「人の言うことなんか信じちゃだめだ」といった時に、「だったら何を信じていいの?」と返されてビックらこいたことがある。この女性は人の言うことは正しいと今日の今日まで思っていたのだろう。「人の言うことを信じちゃだめ」といった自分が人の言うことを信じないわけではないが、上の言葉は騙された時に発したものだ。まあ、騙された人を前にすればそういうだろう。
当たり前に言う言葉であって、ありがたがられるものでもない。が、騙された挙句に、「人の言葉を信じちゃだめ」に少しではあるが反抗されたことに自分は驚いた。「そうだね」、「これからは信じないようにする」などが順当だろう。そうはいっても、人はまた人の言葉を信じて騙されるのだ。なぜ人は人に騙されるのか?言葉がコミュニケーションツールだからだ。
「それを言っちゃ~おしめ~だよ」という言葉がある。「おしめ~」の意味とは、いきなり結論じみたことをいっては会話が成り立たないってことだろうか。和気藹々と、「ああでもない、こうでもない」というのがコミュニケーションであるのに、いきなり結論をズバっといって去っていくのは頭が良くても嫌われるもの。が、彼に罪はない。罪は状況が作っている。
彼はコミュニケーションより、提起された問題を真面目には考え、答えを出しただけだろう。自分は女性の会話の中に入って堂々巡りするのが好きではなかった。今は好きかというと、コツを得たから差しさわりの無い程度にやる。要するに、女性はコミュニケーションが楽しいのであって、問題の解決なんかどうでもいい…と感じるに至った自分の対処法である。
自分が求めても変わらない状況なら、自分が変わるしかないということだ。なによりそれを感じるのが加藤諦三氏である。彼の初期の著作は一読すれば、強烈な女性蔑視感を抱かされる。決して女性蔑視ではなく、女性の甘えや思慮のなさが腹立たしいのだろうが、彼はそのあたりに遠慮がない。本が売れること以上に、書きたい事実、女性の本性的真実を辛らつに書いていた。
一例をあげると、「彼女にとって人生はママゴトでしかない。子どもがゴザを敷いてママゴトをして遊ぶのは、そこで起こることはすべて楽しいからだ。時間が来たらそれぞれ家に帰っていく。だから先のような女はママゴトをやっているのだがら、どんなお説教をしようが何をしようがダメ。こうした女は飢え死にするその瞬間にはじめて現実知るのではなかろうか。」
「子どもを甘やかしてばかりの妻に一言いったところ、逆ギレされたとき、彼は一切を理解した。こういう女を「ふしだら」というのだと。彼の絶望と怒りは大きかったが、父親として子どもにどう責任を取ればいいのかを苦悩するだけだった」。以前の加藤氏には「女性」より「女」という言い方が多く、上記のような言い方はこんにちの書籍ではまずあり得ない。
加藤氏は人生相談をしながら人の悩み(ほとんどが女性)に接したことで、女性の堂々巡りで理解を得ない発言に嫌気もさしたと想像する。それでも支えになりたい、光を見出して欲しいとの希望を抱いていたが、同調意識の強い女性は自分を否定されるのを嫌がり、肯定を望むあまり、たとえ相談といえども気分を損ねる。それもあってか加藤氏を毛嫌いする女性は少なくない。
同じ体験は自分も多かった。女性とはその日その場限りの楽しい会話が必要と感じる。個人批判はしないが女性の特質を述べるだけで自分のことだと早とちりしてムキになる女性は多かった。したがって、女性批判をする場合には実母を取り上げるのが一番。母を女性のすべてとはいわないものの、批判対象の女性としてはこれ以上ないくらい出来あがっていた。
悪いものを悪い、良くないものを良くないと感じることは、良いものを良いとすることにつながる。これが批判(理性的・建設的)と、非難(感情的・憎悪的)の違いである。加藤氏は確かに辛らつであったが、歯に衣を着せぬ発言に他意はなかった。それでも加藤氏の著書の文体には遠慮というより配慮が感じられる。が、彼の一貫した点は、自身に自身を気づかせたい、気づいて欲しいである。
人が人に何かを伝授したり教えるのは難しいのは、人間に自尊心があるからだ。自分では分かっていても、他人から指摘されればムカっとくるもの。若いころの加藤氏には勢いがあったが、若さ=至らなさでもあった。近況の加藤氏は以前のような上から目線と誤解されるような指摘でなく、「気づき」を主体にしている。人が救われるのは自らに気づくよりないだろう。
母とは何か、父とは何かについで、「こどもとは何?」は必然といえばそうかも知れない。何かについて思考する際は、根本から考え始めるのがいい。頭の悪い人間ならなおさらだ。哲学者のような秀逸な頭脳はなくとも、哲学的思考は誰にも可能。こどもについてより深くさらに深く考えるなら、それはそれで有効な時間である。分からないから考える価値がある。
確かに母の心は母にしか分からない。父の心もしかりである。あげくこどもの心もこどもにしか分からないといってみても、「それを言ちゃ~おしめ~だよ」とはならない。それぞれを体系的に分析し、学問としてまとめられる時代である。フロイトの、「精神分析学」、ユングの、「分析心理学」は多くの症例を土台にし、人間そのもの解明にいっそう突き進んでいる。