いろいろ述べたが、父親の存在の正当性は、親子からなる小家族(核家族)が人類的な基本単位である以上不可欠なもの。共食単位・財産共有単位としての大家族制の発達した社会形態は、文明社会の所産である。父親が存在することと、父権の存否とは必ずしも一致をみない。普遍的な存在としての父親と、社会・時代・階層によって父権は強調⇔低下を余儀なくされる。
現在の日本が父権喪失などといわれるのは、かつて父権が確立されていたからである。しかし、かつて日本のすべての家族の父親が、父権の名に相応しい存在であったということもなかろう。自分たちが子どものころには、「地震・雷・火事・親父」といったように、「親父」は怖いものの一つだった。実の父でない近所のよそのオヤジですら悪ガキには怖いものだった。
親父は一家の長として君臨し、全権を掌握しているものとされ、親父への口答えは悪徳とされた。が、自分の家は違った。親父は怖いというより安らぎであり、心の支えだった。東京に出てからは遠き故郷の父を偲びながら日記を書いていた。母のことを日記に書いた記憶はまったくない。「お父さん、もう少し待っていてください。必ずや可愛い孫の顔を見せますから…」
こんな記述が記憶に残っている。自分が父にもっともしたかったことと見受ける。今に思えば我が家の実態は、「カカァ殿下」という形態ではなく、気丈な母に対して父の聡明な態度と思われる。家の基本的なこと、子どもの方針については父の主導だった。もっとも、これは自分が一切母の指示に従わなかったからで、父の強権というより必然的な流れであった。
実際、3歳~5歳頃の父は母を縛りつけ、母の泣き叫ぶ声、自分に助けを求める声を記憶に留めている。母に言われるままに靴や下駄を父に投げつけたシーンも覚えている。母の権威が強いのではなく、強かったのは彼女の性格である。それを思うと怖い父親というのは、実は社会が作り上げていたものではないか。有り体にいうなら、男尊女卑社会の産物であろう。
今や男尊女卑という言葉は、口に出すことすら問題になる。こうした社会は、必然と怖い父親を生むことはない。かつてのような、怖い父親を社会が求め、期待するということもないことは明白だ。もし、怖い父親像を家庭内で創作するなら、父親が自作自演するしかないが、果たして妻がそれを許すかどうか、あるいは、強い父親家庭を妻が理想とし、求めるかどうか。
自分は女性でないから、妻が夫や父親や家庭に抱く理想像は分からないが、上記のような想像は可能である。自分が妻にどうしたい理想はあるが、妻なら夫にどうしたいというのは実感として浮かばない。とにかく女性については一切が謎である。「怖い父親は社会がつくる」は期待という点で間違いなかろう。であるなら現代は強い妻は期待として求められる時代なのか?
女性の社会進出からはじまり、女性社長や女性大臣、女性〇〇という図式が公然と叫ばれる時代である。政治や経済面だけでなくスポーツにおいても、女性がマラソン?女性が柔道?女性がボクシング?つい数十年前では考えられなかった。こうしたことが、家庭における夫の権威を脅かすことになったのは当然の成り行きと考える。小家族家庭でそれがいいかといえば議論の余地はある。
子を産み育てるという女性の本来的作業のなかで、父親というのももともとかげの薄い存在である。特に日本人社会は、伝統的に母親の占める位置が大きいために、諸外国にくらべた父親の抱く疎外感は一層大きい。それに時代の推移というものが加味され、妻や子どもたちがなんとなく父親を敬遠することで、母親と子の親愛関係が強くなっているのではないか。
女性の社会参加は国家的政策だが、父親のイクメンを国が煽ろうとも、男の習性は子育てより遊びに主眼を置くものだ。自分は子育てに熱心であったが、もともと子どもは苦手でもあり、好きでなかったのが、6時間もののモーツァルトの伝記映画を観て少し様相が変わったように思う。母親を差し置いて熱心に子育てに参画した当時、「子育ては男のロマン」と公言していた。
これは本音であり、「こんな面白いことを妻にやらしておれない」なども言葉にした。産み・育てるという作業からしても、母親が家庭生活の中核であるのは間違いない。イギリスの社会学者はイギリス人家族について、「まずは母親と子どもからなるサークルがあって、それから少し離れたところに父親がいる」と述べている。が、家族はいかにも父親を重要な位置づけにいう。
これは、対社会的に家族を捉えた場合であって、いわゆる社交辞令的なもの。母親が子どもにかまけて、つい夫のことはなおざりになる、などの傾向はどこの世界や国にあることだ。夫を主人とは呼べない(呼びたくない)妻はざらにいる。その言葉だけで、夫をリスペクトできないのがわかる。主婦という言葉は本人・周辺が使い、「うちの主婦は…」と夫は言わない。
女性は自分を「主婦です」というが、男は自分を「主人です」といわない。主人という言い方は、社会的・対外的な公用語であり、「夫を主人と呼べない」夫婦は、社会性がないことを如実に示している。「夫と書けない(書きたくない)。夫はオットです」。という主婦は、オットットと茶化しているのか?個人で茶化すのはいいとして、対外的に茶化し晒すものなのか?
社会人なら社会性といいうものもあろう。いかなる理屈をつけようとも、「夫」と「オット」と表記する女性の夫への満足度を表したいのだろう。それが心中の屈折感として現れている。公開しない個人の日記なら、「オット」、「バカ亭主」、「アホ旦那」など、自分の夫を好きに中傷するもいいが、周囲にも気持ちを晒さなければ気が済まないのは未熟で幼稚である。
自分は母の行状を悪口というより事実として客観提示するが、彼女の罪は無知と行為であり、それらを真摯に受け止め謝罪をすればどうこうはない。人間は、「罪を憎んで人を憎まず」でいれるもの、謝罪がいかに大切かである。兄弟のいない自分に対して、「お前しか頼る者はない」が口癖だった母、そんな言葉を一切吐かない父。この違いを、「思慮」というのだろうか。
老父母をたらいまわしにする兄弟が批判されるが、少なからず兄弟にも言い分はあるようだ。ましてやそこに嫁が加われば、問題は大きくなる。結局、兄弟のなかでお人よしの誰かが貧乏くじを引くが、決して親思いというわけではない。中国には昔から「輪流管飯」といって、息子たちが交替で一定期間ずつ親の世話をする。そのやり方が巧妙にシステム化されている。
単に期間を公平にするだけでなく、親の世話の仕方や食事の内容までキチンと決められ条文化されている。これほど徹底したやり方でなくとも、兄弟姉妹が交替に親の世話をするのは他の諸社会でも見られる。日本でこれをやると親は落ち着かないし、「たらいまわし」感を抱くことになる。近年が老人福祉施設が用意され、均等に費用を割れば済む便利な時代になった。