「即席」という言葉を耳にしなくなった。「インスタント」という横文字に変わった。「instant」とは、すぐにでき、手軽であることの意味だが、他の語句の上に付いて複合語を作り、「インスタントラーメン」、「インスタントコーヒー」などと使われる。流行りの、「インスタグラム」は、「Instant Telegram」を略した造語で、画像を電報(Telegram)のようにアップする。
詰め込み学習が即席秀才を作ったが、「インスタント秀才」という言葉は生まれなかった。言葉はなくとも即席秀才がたくさん生まれた。欧米人に比べて日本人が自力で何かを掴むよりも他人を宛てにする傾向は、土居健郎の著書『甘えの構造』から理解できる。刊行されて50年近い同著は、母子の甘えに発する心理構造を日本人の特質として解説した名著である。
母親の依存志向に比べて一般的な父親は、物事は人を宛てにせずに自身が主体的に取り組んでいくものだということを、社会体験から男の厳しさとして把握している。土居のいう甘えとは、「人間関係において相手の好意を宛てにして振る舞うこと」と規定するが、決して「甘え」そのものを否定しているのではなく、甘えから派生する「甘さ」の助長を憂慮している。
「甘さ」にはさまざまな事例がある。「お嬢さん、私の自宅でおいしいパスタを食べません?」とローマ旅行中の女子大生グループが加害者宅でレイプされた事件を当地では、「日本人は何とバカか!」と失笑を買った。見知らぬ相手からお茶を了解したことは、SEXをOKしたと同義といわれる。これは人間的な甘さも含めた日本人の危機管理意識の欠如だろう。
運が良くてレイプ、悪ければ殺されることにもなりかねない。したがって土居のいう、「人間関係において相手の好意を宛てにして振る舞うこと」の中の、「好意を宛てにして」という、「甘さ」こそが日本人的な「甘え」のエッセンスである。欧米人の母親に比べて日本人の母が甘えを過不足なく与えることで、「(人間的な)甘さ」も同時に育まれるのは自明の理となろう。
父親がその抑止力に機能しなければ、母親の子に対する甘えは底なし状態となる。甘えは新生児の段階から母子関係の中で発生する。「すなわち甘えとは、乳児の精神がある程度発達して、母親が自分とは別の存在であることを知覚した後に、その母親を求めることを指していう言葉である」と土居が指摘するように、成長段階において甘えは人間形成に不可欠なものである。
要は母親が、乳幼児期の甘えを自我の発育とともに、改めていくか、いけるかということにかかっておる、その監視役が父親となる。父親が、「甘やかせている」といったことにムキになって、「甘やかしてなんかいない。これは愛情です」と口答えする母親は、父親の機能を享受していないことになる。「嫁が怖い」からと何も言えず、見て見ぬふりをすることがこんにちの問題か。
例えば西欧の人々について土居はいう。「個人の自由を強調する西洋では、甘えに相当する依存的感情が軽視され……、この感情を一語であらわす便利な言葉すら存在しないのである」。前記した日本語が堪能なイギリス人の母が、子どもの相談を土居に持ち掛け、それまでの英語での会話を、「この子はあまり甘えませんでした」というときだけ日本語に変えたと土居は述べていた。
「なぜなのか?」土居の疑問に対して母親は、「これは英語では言えません」といったというが、父親の威厳が後退し、母親が父の役割をしなければならなくなった昨今において、「子を愛せない」母が問題になりつつある。「厳父慈母」はもはや死語となり、子どもを虐待する暴母が新聞に取り上げられることが多くなった。母性本能が非科学的といわれる時代、「慈母」とは、「厳父」あってこその産物だったのか?
母子関係の歪さがクロークアップされる問題に対し、精神分析学者の岸田秀は、『母親幻想』なる著書で、これまでの母親が子を愛するということを当たり前とする、″おかしさ″から議論をはじめるべきという。「母性愛」という社会が共同で抱く幻想は、近代になって子どもが社会の中で、労働の担い手として価値を持ち始めたとき、そうした子どもを育て将来は子どもに養って貰うとの考えから生まれたものだとする。
子どもは自立をして家を出ることに価値があり、母親もまた社会的な一員として、「自立」できる可能性があれば、母性愛という共同幻想は崩壊する。そのとき母親が子を前にして、「自分の心の中に母性愛を見出そう」とするも、もとよりそれは自身の内になく、社会というレベルの中で成立したもの。自分は母親としての資格はないのだろうか?母親は問い惑うことになる。
「子どもは自立すべきである」、「女性は社会進出すべきである」、「家族の成員は家族の一員である前に個人である」などという社会構造は、産業文明によって変革がもたらされた。変化の方向は一律ではないが、農業文明段階の母親像に戻っていくことはもはやない。ときに、パラサイト・シングルという逆戻り現象はも見られるが、これは甘えという心理的依存関係ではない。
そこに見られる、経済的依存関係という根深い因子は、これすら広義の日本人的甘えであろう。「人を好きになるってどういうことなの?」と、この言葉は自分の驚きのベスト3に入っている。発言の主は高校生の女性であった。第二次性徴をとっくに終えた年代において、恋愛の必然性というのが性欲の欲求であるとするなら、彼女は未だに生命運動を生じさせていない。
性欲は何ら疚しいものでも汚いものでもない。性欲が不浄なら生命そのものが不浄ということになる。性欲は生命の働きを司どり、自分の生命を次の新しい生命に引き継がせる働きである。性欲は犯罪の温床になるから悪いという考えは、樹を見て森を見ずであって、性欲犯罪は知能の問題である。ただ、「夫に性欲を感じない」という妻がいるが、これは夫を蔑んでいるからだ。
「子育てに追われ夫の誘いを断っているうちにセックスレスになり、それが嵩じて性欲もなく今さらセックスもしたくない…。それが続くと、夫が他の女性に走るリスクが高まる。もっとも妻も夫以外の男に刺激を求める時代である。携帯電話やSNSの影響で浮気のリスクが低減し、不倫天国と揶揄される新たな時代は、婚姻という箍を外した人間本来の姿かも知れない。
社会構造というのはあらゆる問題がかみ合い、絡んでいるわけだから、のっけに批判した「インスタント秀才」も、即席ラーメンやインスタントコーヒーのごとく、手軽な手法であるが、バカを賢くする根本的な手法というではなく、純金の地金と違って金メッキはいつしか錆びることになる。真に地頭のよい人間は、教科書のない社会の中で他人から一目置かれた存在となろう。