夫婦対立の果てに離婚理由として、「子育てに対する価値観の違い」がある。妻が1人で子育てを抱え込んでしまい、何もしない旦那に怒りを覚えて夫婦仲が悪くなるという場合もあるが、せっかく子育てに熱心な旦那でありながら、いちいち妻から文句を言われると気力が失せることはある。やらなければ文句をいい、やればやったで価値観が違うと文句をいう妻はどうであろう?
これらは、人のすることなすことにいちいちケチをつけたがる性格の問題だろう。どちらにも文句をいうのは災いであり始末におえない。はて、こういう妻をどうすればいい?「わっしゃ、し~らん」としか言いようがない。片方だけに何かいうならまだしも、全方向に文句をいう性悪女につける薬はない。もっとも、他人夫婦の問題に、「上手い解決法」などあるハズもない。
互いが性格を熟知している以上、本人同士が解決するしかない。「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」というが、正しくは、「誰も食ってはいけない」が正解。離婚がポピュラーになったとはいえ、それでも離婚は深刻な問題である。ある社会学者のデータによると、現代人にとって心のダメージが大きい出来事の上位3つは、「家族の死」、「失業」、そして「離婚」となっている。
誰もが幸せになろうと思って結婚したわけだし、離婚を否定的に考える人間が多いのは当然であろう。離婚に否定的な理由の代表が、「たいたい子どもを片親にするなんて…」であるが、両親が揃っていれば子どもは幸せなのか?そうとは言えない実例はいくつもある。そもそも、愛情のない夫婦や、家庭内別居状態の夫婦ほど、子どもに精神的負担をかけるものはない。
となると、離婚によって失うものばかりではないし、得るものもちゃんとあるということだ。面白いのはフランスの劇作家アルマン・サラクルーの以下の言葉。「結婚とは判断力の欠如」、「離婚とは忍耐力の欠如」、「再婚とは記憶力の欠如」と彼は皮肉たっぷりに述べているが、再婚が記憶力の欠如とはどういう意味か?これは、離婚の原因を忘れた人を指していう言葉。
何度も離婚を繰り返す人がいるが、そんな輩においても、ひと歳とって性格が落ち着くまでは離婚を繰り返すことになる。独身で引け目を感じている男性・女性には、勇気づけられる以下の言葉がある。「独身者とは相手を見つけないことに成功した人である」。妻を大きく三つに分けるなら、「母性型」、「父性型」と、「子ども型」に分類されるといわれる。
夫には「父性型」、「子ども型」がある。「父性型」の妻は論外とし、「母性型」の妻と「子ども型」の夫、「父性型」の夫と「子ども型」の妻の相性が良いとされる。互いの欲求を積極的に満たすのは夫婦にとって大切だが、夫の悪口をいう妻は少なくない。悪口に晒される夫がどうかというより、妻の性格の方に問題がある。女の悪口・愚痴は病理なので黙って聞く。
吊し上げられる夫が欠点だらけとは思えないが、「うちの夫は亭主関白で困る」などの悪口はほとんど耳にしないのは、そういう夫が少なくなったからだろう。女性が社会進出して強くなったのはさておき、大和男児らしい勇気や実行力は一体どこに行ってしまったのだろうか?悪妻も多種であるが、自分の思う最低の悪妻とは、子どもに夫の文句をいったり蔑んだりの妻。
父親を尊敬しないようにと教えられた子どもが立派とは言わないまでも、順調に育つのか?同性の立場からいうなら、夫のやることなすことにケチをつける妻に、優しい言葉をかけ、家族サービスを惜しまぬ夫がどこにいるだろう。妻のいないところで夫が、「お母さんのような女になるなよ」と娘に言わないのはなぜだろうか?それが男だからとしか言いようがない。
父とは何か?は子どもの視点だが、妻からみれば父は夫である。「やれば何だってできる素晴らしい人」と夫を信じ、心から尊敬と信頼の念をもって接するならば、欠点ばかりに目がいっている限りは永遠の欠点だらけの夫となる。夫に敬意をもって接することで、夫は自身に誇りをもち、支えてくれる妻に感謝をし、日々の仕事にも邁進することになるのではないか。
男は単純だから、やる気を出させる方がよい。自信満々で物事に立ち向かう男は素晴らしい結果を生みだすことになる。「子どもは怒るのではなく叱る」、「叱るよりも褒めて育てる」などと、子どもに関する知識はあっても、夫を貶すだけで操縦法ができていない。男だから分かることだが、男にとって自分の自尊心を守ってくれる妻の存在は何よりも変えがたいものであろう。
「夫は妻からはじまる」という古い言葉がある。確かに夫は父性が芽生えるのは遅いが、そんな夫を生かすも殺すも妻次第。男は常にヒーローでいたいという性を持っている。男の子が子ども時期からヒーローに憧れて育つようにである。さらに妻は優雅な振る舞いとやさしさを兼ね添えたヒロインであればいうことなしで、こういう妻なら夫は、釣った魚に永遠に餌を与え続けるだろう。
人間が多面体であるのは、見る角度やまったく別の方向からみると、短所も長所に見えたりする。煮詰まった夫婦関係に新たな風を通そうとするなら、視点の変更してみるのもいい。自分らの年代になると、子どもが自分をどういう視点でとらえるかなどは考えなくなる。子どもが別の所帯を持っているからでもある。彼らはもう子どもというより子の親として存在している。
ところが妻とはいつまでたっても妻以外の何者でもない。よそのおばさんでもなければおばあさんでもない。妻から見れば自分もそうだ。妻は死ぬまで妻、夫は死ぬまで夫である。互いにくたびれ感はあるが、皺も年輪と思えばあって当たり前。親から独立して所帯を持ち、子の親となった我が子への接し方は変える必要はあるが、古女房への接し方は変える必然性がない。
アルマン・サラクルーは、「結婚とは判断力の欠如」といったが、「良い判断」だった結婚もある。良い判断というより、厳密にはたまたま的要素もある。若さゆえにか念入りに調査・研究したわけでもない。思えば昨年の11月、45年前の恋人に出会った。妻と同じ年齢の彼女に思ったことは、もし彼女と一緒になっていたなら、判断力の欠如だったかも知れない。
願ってもない昔の恋人との再会ゆえに、ときめきや驚きもあったが、交流を続けられるような相手でないというのが残念でしのびなかった。出会った当初は懐かしさと感動も加わり、どちらかが死ぬまで続くのではないかと思ったものの、2か月間に数回程度のやり取りで自分は二度彼女から去ったことになる。一度目はよりを戻すも、覆水は盆に返ることはなかった。
人の出会いも不思議だが、人の別離も不思議である。続かないと確信を抱く相手であるのを短期間で把握するのは、多くの女を知れば難しいことではない。45年の歳月が彼女を変えたというより、生来の資質だったか可能性もある。二度の離婚歴から読み取るものは、思いやりを欠いた頑固さであろうか。傷つけるので言葉にはしなかったが、人を不幸にする典型女性と感じた。