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父とは何か? ⑥

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母の数ほど母がいるように、父にも様々な父がいる。そうした父と母が子どもの育て方や教育方針を巡って対立するのは当たり前に起こりうる。が、起こらないのが当たり前だった我が家を基準に物を言っても始まらない。起こるのがいいのか、起こらぬがいいのかという問題は、起こった時にうまく対処できればであるが、子どもの教育観の違いから離婚に至るケースもある。

離婚は夫婦の問題であるが、子どもを巡っての対立も夫婦の問題の範疇。子どもを巡る夫婦間の対立はない方がいいと、当たり前に考えていた自分は、我が家に対立を起こさぬ方策を実践した。その方法とは、自分の方針に妻が一切口を挟まぬことで、これなら対立が起こることはない。その時は考えなかったが、「なぜそうできたのか?」を今に考えるなら理由は明確だ。

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その前に「対立とは何か?」。これは善悪の規準についての考えの相違であろう。一人で生きていく場合における自己の内面対立を、迷いとか葛藤というが、善悪の規準はすべて自身が決定する。婚姻で二人以上の共同生活が始まれば、一人でいたときとは違った共同の利害というものが生まれる。子どもを巡る夫婦の対立は、子どもが成長すれば三者の対立となる。

幼少期の子どもは意見や主張が無視され、ないがしろにされるのは、親と子の力関係から生じること。同じように、夫婦の対立も夫と妻の力関係によって方針が決められることになる。我が家に対立が起きなかったのは、妻が夫にすべてを委譲していたからである。したがって対立のある夫婦というのは、力関係が拮抗している場合、もしくは妻に牛耳られている場合。

「夫唱婦随」が理想とされたのは、そういう家庭は夫婦仲が良いとされたからである。夫の立場や顔を立てることに心を砕き、夫を中心とした円満な家庭を築けたのは、妻の聡明さと理解をしている。夫がこれに応えて責任感を発揮して行動するのは言うまでもないが、女が婦随を行為できるのは、受動性という性差か、そのような育てられ方から派生するものか不明である。

男性ホルモンの攻撃性や女性器の受け身な形状からして、男は能動的、女性は受動的とされる基本習性は、あくまで個人単位の場合であって、集団を組むと男は受動的に女性は能動的に変質するとされる。即ち、男性が集団を形成すると女性化し、女性が集団を形成すると男性化するらしい。その理由は、男性集団は守備(静)に強く、女性集団は攻撃(動)に強い特性による。

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したがって、集団の中で攻撃的に見える男性は女性的な質を持ち、男性的な資質所有者は守り型になる。それらから、男性営業マンは一人で営業活動させ、女性の営業ウーマンはグループ活動させるのが効果的とされている。よって、「一匹狼」とは男専用の言葉になる。男性集団は、「タテ型」、女性集団は、「ヨコ型」の人間関係になることなども導き出されている。

基本は基本であり原則は原則であって、夫婦の力関係は個々の生育環境や性格の強弱が反映されるが、どういう女性であっても主導権は譲らない自分は、単に威張りたいのではなく、自分の能力を発揮できると知っている。従わない相手なら速攻で終わりにする。過去の異性関係においても、無理をしたり、我慢して付き合うことはなく、合わない相手とはさっさと離別する。

自分のためにならないのは相手のためにもならず、別離は双方の「利」と疑いの余地はない。人は自分にプラスになる相手を見つけるべきで、我慢を強いて合わない相手と付き合う理由は、同性・異性を問わないと考える。「別れたいのに別れられない」、「付き合いたくない相手にまとわれる」というのをよく聞くが、単に優柔不断であって、遠慮は互いのためにならない。

夫には夫の正しいがあり、妻には妻の正しいがある、そういう夫婦はどうやって解決を図っているのか?そういう経験がないから分からない。二つの規準のどちらが正しいかを決めるものは力の強弱でしかなく、その上に立って真の善悪を裁く規準がどこにあるのか自分は知らない。どちらも同じ人間、どちらももっともな言い分をもっている場合、その中間が正しいのか?

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確かに右と左の境い目は真ん中である。妻は子どもに中学受験、夫は公立中学を奨励の場合に中間とは何だ?妻はフィギュアスケート、夫は空手をやらせたい。してその中間とは?夫婦の意見が割れた場合の妥協とはどちらかが折れるしかないが、夫婦が交代に折れるというより、対立はいずれかの力を助長することになろう。面倒くさい対立などないのがいいに決まっている。

何でも妻に従う夫なら一切の責任を妻が取るしかないが、女は責任逃れの名人であり、責任は社会的にも男が取るのがいい。女が責任を取らなくてもいいようするのも男の力量なら、自信も大事、自信を損なわぬ努力も欠かせない。ビジネスにおいても、上司から細々うるさく言われるよりは、「お前に任せる。責任も取れ!」といわれる方が俄然と力を発揮できる自分である。

意見の違いはどちらかに決めねば進展しないが、どちらも正しいと思う以上、正しい裁定は二つ存在する。それを力で決めるわけだから、緻密な判断が必要となる。ところが、人間の善悪の判断は概ね個人の利害が規準になるかた厄介だ。多角的で視野の広い人間による判断が重要になるのに、つまらぬ幻想や欲望であらぬ判断をしてしまうときに、それを指摘する理性も必要だ。

そうした場合の真に正しい善悪の判断というのは、社会全体の利害が社会的な生産力の維持と発展に役立つこと、あるいは個人の真の幸福に寄与する、もしくは社会奉仕に寄与するか否かが善悪の規準となる。誰もが個人の利害・幸福を望む以上、決して棚上げされるべきものではなく、守り・高めることであるが、子どもの幸福といいながら無意識に親の欲望が働くもの。

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我が子を有名私立中学に入れたいという欲望を持つ妻。「公立中学でいい」とする夫に理屈をつけて引き下がらない。子どものため、子どものためと、夫を説得にかかるが、妻の性格を知る夫に意図は分かっている。無理やり中学受験を勝ち取るも、バカな子が金銭でつけた即席学力では落ちこぼれは必然。勉強好きで頭のいい子への進路のランクアップはそこが違う。

今の時代はバカでも塾で過去問を繰り返し仕込めば付け焼刃的学力はつくが、子どもらしさや遊びを犠牲にしてまで塾漬けにして、それで幸福が見えてくるということなのだろう。目先の学力躍起になる親は自分にはモンスターに見える。「足るを知る」や、「分相応」が失われ、親の欲望的過ちが子どもを苦しめる。即席ラーメンが生まれて60年、多くが即席化の時代となった。

個人的な利害を離れて社会的な利害に尽くすことが、同時に自分個人の利害として大きく生きてこないのは、その社会の仕組み自体が間違っている。社会の利害に逆らう個人ははじき出さねばならず、個人の利害を守ってくれない社会は作り変えるべきである。二度とないであろう貴重な子ども時代を犠牲にし、暗記ばかりを強いる受験学習を自分は是認できない。

日本文化は性善説というが、これは権力者の都合のいい論理。世の中には善人より悪人の方が多い。同じ目的の集団より、雑多な校風の中で悪の免疫力や耐性をつける必要がある。現実から目を背け、幻想にしがみつく限り、本質理解は遠のくばかりだが、幻想にしがみつくのが楽なのだろう。それこそが甘えなら、子ども以上に甘えているのは母親かもしれない。

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