「自分らしさ」を探す人、あるいは「自分らしさ」を確信する人。いずれも「自分らしさ」とは何であるかを知っているということになる。その前の段階では「自分」とは何であるかを知ること、探し求めることであろう。考えてみると面白いもので、自分は他人ではないし、自分は自分であるのに「自分」が何か分らないとはどういうことであろうか?
「自分」とは何者だ?5歳のときも自分、10歳のときも、20歳の、30歳のときも、50歳のときも自分であるなら、それらがそれぞれ違っているなら、いつの自分が本当の自分なのか?人間は心も体も成長するが、「自分」というものも心身の成長に合わせて、成長するのだろうか?ならば、いつの自分が本当の自分ということになるのか?「自分」は思考すれば分るのか?
その自分が分ったとして、ならば、「自分らしさ」とはどういうものなのか?この世のいろいろな人が今、老若男女を問わず、誰かが、「自分らしさ」と言ったなら、その「自分らしさ」とは、その時に浮かんだ「自分らしさ」を表現していると思われる。ちなみに、このブログを書いている自分が今、「自分らしさ」と言うと、どういう自分らしさなのか?
当たり前に言葉にする「自分らしさ」だけに、その実態が分かりにくいかも知れぬ。「自分らしさ」が何であるか、よく分らないなら、「自分らしくないこと」をあげてみるといい。「自分らしくないこと」が見つかれば、「自分らしさ」も見えてくる。はて…、自分はどう自分らしいのか?論理的に「自分らしさ」とは、自分を実現したこと。つまり「自己実現」をした人間であろう。
「自分」は一つ、沢山あってはいけないのだろうか?そして、「自分」というものが何か、考えると答えがでるのだろうか?で、考えてみた。答えが出た。自分とは何か?…の答えは「脳」である。自分とは脳、それは自分を知覚できるものの正体である。「脳」のことを自分といっているのだ。「脳」が自分なら、自分と自分の対話も出来る。人と対話できるように。
自分との対話を自己問答という。自己に問い、自己で答えを出す。そう言う事を誰もが無意識に朝起きて、夜に寝床につくまでやっている。それからもたらされたものを「行動」という。「行為」とも言う。「行為」であるなら、その中に「性行為」も含まれる。「行為」とは人の意思に基づいてなされる動作を言う。では、意思の伴わない行為はあるのか?
意思の伴わない行為の有無は本人にしか分らぬが、仮にある行為をした人間が、「自分の意思でやったのではない」と言ったところで、行為が行われていればそれは行為である。意思が全くない、少しあった、もう少しあった、沢山あった、すべて意思だ。そんなことは誰にも分らないし、本人でさえ量的度合いは分らない。が、行為がなされたなら、それは事実上の行為である。
そういえば福井大特命准教授の前園容疑者が、菅原さんを殺したのは、「殺して欲しい」と頼まれただけで、自分の意思ではないといっているらしい。人に何かを頼まれたとして、それが犯罪であるか、犯罪でないかくらいの分別が出来るのを常人という。そういう判断を人間が正しく出来ない国家は、危い国家といえるし、だからしっかりと民を教育する必要がある。
前園容疑者は何でそのようなことを言うのか?罪を逃れるための往生際の悪い方便か?殺して欲しいと頼まれても誰も人を殺さない。医師でも罪になる。では何でそのようなことをいうか、①事実である。②虚実である。のいずれか?供述が事実であったとして、殺せるものか?殺したことが愛情とでもいいたいのか?憎悪で殺していない=愛情であったといいたいのか?
愛情でなくとも、決して憎悪でないといいたいのか?もし、前園容疑者が「殺して欲しい」と頼まれて実行したなら彼は狂人である。狂人といっても精神鑑定を要する狂人の定義でなく、正真正銘のバカ、アホ、マヌケの類の狂人である。普通にいうキチガイである。頼まれてその人を殺せるか?首を絞めれるか?これが事実なら、他のいかなる理由よりもバカである。
巷でいろいろ推論されているどんな事実よりも、「殺してと頼まれたから殺した」という行為は、アホ、バカ、マヌケの極致である。難病・重病で苦しんでいるというなら理解も同情も出来ようが、健常者を"依頼があったから殺した"など、どこの世界にそんなバカがいるだろう。いるとしたら東大卒か?彼は今、聴取の段階だが、これが事実であるなら言葉を失う。
他の理由であってもらいたいと願う。人に殺人を頼まれて殺す人間はデューク東郷なら知っているが、あれは商売人だ。拝一刀もそうで、彼も同じく商売人だ。前者はゴルゴ13、後者は子連れ狼の異名があるが、どちらもフィクション。前園容疑者の「頼まれたから殺した」は、現時点で世間では言い逃れの嘘だと見ていよう。そりゃそうだ。それが真っ当だ。
が、供述に齟齬なしと断定され、承諾殺人罪の事実認定が怖い。「そんなことあってたまるか」、が菅原さんの親の心情であろう。自分や多くの国民も同じ思いだ。「そんなことあってたまるか!」。真実の供述が得られても納得も理解も出来ない憎き娘殺しであろうし、それが「頼まれたから殺した」など、絶対に信じれるはずがない。自分は信じないより、起こした行為が怖い。
それが前園泰徳という人間の本質で、彼の「人らしさ」なのか?相手は教え子だろ?実子と違うが、教え子も「子」だろう。そんな人間が日本人でいて欲しくはない。犯罪史に残る殺害動機であろう。自分が知る同種の有名な事件で「阿部定事件」がある。その事件は1936年(昭和11年)5月18日、東京市荒川区尾久の待合で、性交中に愛人の男性を扼殺し、局部を切り取った。
加害者は東京・中野にある鰻料理店「吉田屋」の女中で阿部定。被害者は「吉田屋」の主人、石田吉蔵。二人は愛人関係で、性行為中に首を絞めさせる窒息プレイを楽しむ関係だった。ところが、定は石田が睡眠中に腰紐で彼のクビを絞めて殺害し、局所を切り取った後、定は血でシーツと石田の左太ももに「定、石田の吉二人キリ」と、石田の左腕に「定」と刻んだ。
憎しみもない愛人を殺し、局所を切り取った定は石田を紹介してくれた大宮五郎に会い、繰り返し彼に謝罪した。しかし定の殺人を知らない大宮は定がもう一人の恋人を連れて行ったことを謝罪していると勘違い。大宮はさほど気にせず、その夜は定と肉体関係を持った。翌5月19日に新聞は阿部定事件を報じた。大宮は後に法廷でその夜の定との関係を証言する。
定は逮捕されると「彼を非常に愛していたので彼の全てが欲しかった。私達は正式な夫婦でなかったので、石田は他の女性から抱きしめられることもできた。彼を殺せば他のどんな女性も二度と彼に決して触ることができないと思い殺した」。性器切断の理由は「彼の頭か体と一緒にいたかった。いつも彼の側にいるためにそれを持っていきたかった」と供述した。
裁判の結果、事件は痴情の末と判定され、定は懲役6年の判決を受けて服役、1941年(昭和16年)に「紀元二千六百年」を理由に恩赦を受け出所している。釈放後、定は「吉井昌子」と名前を変え市井で一般人としての生活を送った。その後再び各地で色々な仕事を転々とするようになったが、1971年(昭和46年)に置き手紙を残して失踪し、以後消息不明となった。
前園の供述と似て非なり。吉蔵は「殺してくれ」と頼んでいない。愛人を定が独占したくて殺したというのが定説だが、歪んだ独占欲である。ただ、いかなる犯罪も、犯罪者だけができるものではなく、我々にも誰にも犯罪を起こさせる要素はある。坂口安吾は雑誌社の用意した対談で、阿部定と会話している。その中で、「この事件は犯罪と言える性質のものではない」と述べている。
男女の愛情上の偶然の然らしめる問題であって、愛し合う男女は、愛情のさなかで往々二人だけの特別な世界に飛躍して棲むもの。これは性関係を持ったものなら頷ける部分もあるだろう。阿部定自身、坂口にこう述べている。「私はあの事件のことは少しも後悔していない。世の中の女はみんな、もし本当に恋をすればああなると思っている。みんな同じ感情を持っている…」
これには異論もあろうが、"もし本当の恋"という注釈付きである。本当の恋をするものだけに分る心情だろう。よって、否定的なものには分らないことだ。「少しも後悔していない」というところが阿部定の「自分らしさ」であろう。「本当の恋をしても絶対にあんなことはしない」という「自分らしさ」を所有する人もいる。恋はノルマではないから、無理にするものじゃない。
恋に生きたあげく心中する人も、その人なりの「自分らしさ」である。人は自分の「自分らしさ」を噛みしめて、他人の「自分らしさ」を否定する権利はない。もし、前園が本当の恋、本当の愛で、菅原さんの気持ちに同化したという仮説は、残念ながら事後の行為からしてあり得ない。あのような隠蔽工作などは自己保身のなにものでない。そこにどうして愛などあろう。
度々、話題にする映画『うなぎ』の冒頭、夫は妻の浮気現場を目の当たりにし、包丁で妻を刺し殺し、自転車に乗って派出所に出向くシーンは、いささか衝撃的であった。なぜ、衝撃的かといえば、夫が妻を感情的にでなく、理性的に殺す場面を我々は目撃したからである。人は人を感情にかまけて殺すという認識しか持たない我々に、今村昌平は意外なものを見せてくれた。
夫が殺したのは妻と言う人間でなく、不貞という罪である。それを断罪して、口笛を吹きながら自転車で派出所に行き、「たった今、妻を殺して来ました」と言葉を吐く。こんな殺人はあり得ると思った。人を殺した罪の意識より、罪を咎めたという正義に満ちた夫の清々しさ。もし、何事かで人を殺す機会があれば、このような殺人をしたいと思わせるシーンである。
妻と夫が視線を合わせ、互いが無言で言葉を交わす。夫は妻に、「悪いがお前の罪を処罰する」の声が聞こえ、妻の視線は「もはやこの場はあなたに委ねます」と、そんな覚悟の言葉が聞こえる。「ごめんなさい」だの、「お願い、ゆるして」だの、そんな人間を今村は描きたくもないだろう。結果的にどちらも罪人となるが、いずれの罪人も覚悟が清々しく、共感を抱かせる。
女は、「ごめんなさい」を多用する。だからズルい生き物である。「ごめんなさい」で世を渡る術を身につけたのだろう。が、罪を犯して刺し殺されることの許諾を自身に与えた妻に、許しを乞う往生際の悪さがない。それが今村の欲する人間観である。「人間は汚くて、助平で、ズルい生き物だ」という彼の人間観である。せめて死ぬ時くらいはそれを認めて死んだらどうだろう。
と、今村のサイレントトークである。散り際の美学とでもいうのか、社会のしがらみの中で、汚く、ズルく、醜く立ち回らなければならない人間である。いつか、きれいさっぱり自分を晒す機会があることを望むべきかも知れぬ。貞淑な妻にある裏を描き、真面目で朴訥なサラリーマンの裏を描いて見せてくれた。人間の表と裏と、それを見せろといったのは今村である。
人間は醜く、汚く、ズルい…。自分も同じ人間である。市井にあってそれらを止めるのは難しい。ならば、自分がそうだと認めること。「私はわがままよ」、「うちはバカ」と平気で公言する女がいるが、おそらくそれらは何かあった時に、「だから、わがままっていったでしょう?」、「うち、バカっていったでしょう」と、責められぬための先だしじゃんけんである。
「先だしじゃんけん」なる言葉はないが、そういうことだ。それらと、「自分は、醜く、汚く、ズルいよ」と認識するのとは違う。後者はそうであるけれども、そうならないよう頑張るという公言である。向上心とはかくあるべきもので、「自分は善人です」、「悪い人間ではありません」という人に向上心など無用。向上していかねばならない人間は、不完全であらねばならない。
だから、自分はこのように言うし、同じような人間を信用する。「自分は善人です。悪人ではありません。」という人間は信じない。嘘つきが「自分は嘘を言わない」というように…。長々と書いたが、自分の思う「自分らしさ」の輪郭が見えてきた。書くことは客観的になれることでもある。「自分」が分かり、「自分らしさ」が分った様でも、常に付添って生きて行く自分である。
時に「自分らしくない」こともする。それらを自分にとって過ちとするか、容認するか、それで自分に対する厳しさも変わってくる。自分に厳しい人、自分に甘い人、そういう分類になるのだろう。しかし、人間と言うのは実にさまざまで面白い。楽しもうと思えば自分一人だけでも充分楽しめる。これほど面白く、不可解な対象はない。哲学者が止められない理由もよくわかる。
「自分らしさ」と「自己実現」はセットとしてみるべきだ。一人でいる事も孤独である事も好む一方で、人とのかかわりも楽しめる人間を自己実現人間と定義した心理学者もいる。して、究極の自己実現とは、「己のことをすると、それが人のためになる人間」としているが、この考えはいい。「おまえのためにしてやった」という思いあがりが無用となる。
「おまえのためにしてやった」を好む人間はいよう。恩着せがましく、暗に見返りを求めている人間だ。こういう奴には何かを頼まぬほうが賢明だ。「そこの物を取って」と言ったばかりに、一生その事を恩に着せられる。彼がその物の近くにいても、わざわざ歩いていって自分で取るのがいい。自分で出来ることは、なるべく自分ですれば気楽に生きていける。
「自給自足」の原則である。なるたけ依存心を捨て、自足の理念を基本に社会生活を、負担のない形で楽しみ、横臥する。無理を言わない、無理は聞かない、来るものは拒まず、去るものは追わず、人に媚びず、媚びさせず…。宮沢賢治の詩は貧乏くさい部分もあるが、時代の違いなら無理もない。が、得る言葉もある。目に触れて感動する言葉も多い。
食べるだけが大変だった時代と、現代のように物があふれる飽食の時代とでは、生活のレベルが違いすぎる。が、いつの時代も質素・倹約は大事であろう。トルストイはこう言っている。「食べて、着て、住むためには、ほんの少ししかかからない。その他のものは、ただ他人の趣味に迎合するためか、他人より目立たんがために手に入れるものである。」