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Channel: 死ぬまで生きよう!
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ファンという美学

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昨日、オフコース・ファンらしき女が来た。その事で中一の同じクラスだったKという女を思い出した。今は死語の「お転婆」とう言葉が懐かしいKは、畠山みどりという演歌歌手の大ファンであった。畠山みどりを知らぬ者も多い昨今だが、中一の少女が同性の演歌歌手の切り抜きやブロマイド(当時はグッズなど売ってない)を収集すること事態、異様に感じた。


畠山みどりのデビュー曲は1962年の『恋は神代の昔から』で、扇片手に袴姿という奇抜さ、骨太の声は浪曲歌手を思わせた。1960年、彼女はラジオ番組ののど自慢で優勝し、日本コロムビアに入社する。師である船村徹のレッスンを受け、颯爽とデビューしたのが、『恋は神代の昔から』である。♪恋をしましょう、恋をして~のイントロの浪曲風語りが印象的だった。

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翌63年の『出世街道』も大ヒットし、その年の「紅白歌合戦」に出場する。着物に袴姿がトレードマークだった彼女が、1964年に発売の『氷雪の門』では一転ドレス姿で世間の話題を呼ぶ。翌65年にフジテレビのディレクター千秋与四夫氏と結婚、同年長男を出産する。と、ここまでは何ら変わりない順調の人生であったが、彼女は55億5000万円もの借金を負うことになる。

バブル全盛期の時に彼女は演歌界きっての株トレーダーとして知られ、47億円儲けていたという。それがバブル崩壊と共に一変、残った借金額が55億5000万円であった。借金騒動の際に、「自己破産だけはしたくない」、「あの千昌夫だって頑張っている、私が負けるわけにはいかない」と奮起、精力的に活動。バラエティ番組にも進出し、借金返済に駆け回った。

現在は借金も完済し、歌手業に専念しているが、55億という借金額は想像もできない。人気絶頂時代の畠山にクラウンレコードへの移籍が持ち上がり、移籍第一弾の曲も用意されていた。それが『袴を履いた渡り鳥』である。畠山のクラウン移籍はコロムビア側の必死の説得で流れたが、同時期コロムビアからクラウンに移籍した歌手が水前寺清子である。

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水前寺は15歳時に出場した「コロムビア歌謡コンクール」に出場、それが縁でコロムビアに入社したが、11回もレコーディングしたものの、終ぞレコードデビューを果たせなかった。その水前寺がクラウン移籍し、元々畠山に用意されていた『袴を履いた渡り鳥』を、『涙を抱いた渡り鳥』とタイトルを変更し、彼女は念願のレコードデビューを果たす。

水前寺の『涙を抱いた渡り鳥』は、泣く泣くコロムビアからクラウンに渡った彼女の心情そのものである。水前寺清子は熊本県出身の「肥後もっこす」である。「肥後もっこす」とは熊本県人を表現した言葉で、「津軽じょっぱり」、「土佐いごっそう」と共に、日本三大頑固のひとつに言われ、非常に純粋な面もあってか、近年は良い意味に使われることも多い。

熊本県出身女性歌手といえば、水前寺の他に、八代亜紀、石川さゆり、島津亜矢らの名が浮かぶ。水前寺は役者をやるなど毛頭なかったらしく、そんな彼女を口説いたのが"ドラマのTBS"の黄金時代を築いた敏腕プロデューサー石井ふく子である。多くの俳優・女優を育てた彼女は「石井ファミリー」とも、「石井組」とも言われる大勢力を控えている。

「私は歌手、女優をやったら歌が売れなくなる」を頑なに通す水前寺を、局内の女子トイレで待ち構えて口説き落とした石井である。山岡久乃と母娘の日常を描くTBSのドラマ『ありがとう』は、民放ドラマ史上最高の視聴率56.3%を記録した。しかし、歌手活動一本に専念したいとの意向でドラマは3年で降板、第4シリーズからは主演が佐良直美に交代となった。

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水前寺は「あれ以降、歌が売れなくなった」と語っている。彼女の代表曲に『いっぽんどっこの唄』がある。1966年11月に発売され、ミリオンセラーを記録した。2年後の1968年11月に発売の『三百六十五歩のマーチ』も二枚目のミリオンセラーとなる。「いっぽんどっこ」 は「一本独鈷」と表記する仏教用語。「独鈷」は正式には「独鈷杵(とっこしょ)」という。

もとはインドで護身具として使われていたものが様式化され、煩悩を打ち砕く法具とされたもの。これが文様となったのが「独鈷紋」で、博多織の帯地文様として用いられた。一本の連続文様を一本独鈷、三本のものを三本独鈷と呼ぶ。♪ぼろは着ててもこころの錦 どんな花よりきれいだぜ~、という歌詞で始まる『いっぽんどっこの唄』は、誰が聴いても男の歌だ。

男心をくすぐる詞だが、これを女に歌われるなら、男としても奮起せざるを得ない。当時、水前寺は男帯びの和装で、髪はベリーショートのセシールカット。中性的な魅力を醸していた。歌の意味は複雑で、護身具であり煩悩を打ち砕く法具の事を示す元来の「一本独鈷」だが、密教では「雑念を振り払って真直ぐに行く」と言う教義を表す概念となる。

つまり、自分の夢を叶えるための一本道を正しく進み煩悩を打ち砕くということである。転じて、やくざ者は一本刀を例え、漁師は自分の銛を見立て、芸者は独鈷を帯に染めて「どっこ帯」にした。また、大組織に所属せず独立を維持している組織の事も言う。畠山みどりの『出世街道』にも一番の最後、「どうせこの世は一本どっこ」の歌詞がある。

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いずれも星野哲郎の作詞で、彼は「一本独鈷」精神が好きなようで、詞には任侠系・ヤクザ系の発想がみれる。星野は、2010年11月15日、心不全のため東京都武蔵野市の病院で85歳にて死去。葬儀・告別式では長年親交が深かった作曲家の船村徹と、愛弟子である水前寺清子が弔辞を読み上げ、星野の作詞による「男はつらいよ」の曲に乗せて出棺された。

水前寺清子が15歳時に出場したのど自慢大会で、彼女の才能に目をつけたのが星野哲郎だった。コロムビアからクラウン移籍後、国民的歌手の様相を示したのが、『三百六十五歩のマーチ』である。水前寺はこの曲に拒否反応を示す。演歌歌手としての自負が、歌詞の「ワンツー」という言葉と、行進曲スタイル違和感を抱き、レコーディングを行えなかった。

「息の長い歌手でいるには、違うタイプの歌も歌えなくてはいけない」というのが星野の意図だった。曲は大ヒットし、水前寺は後悔したという。役者にしろ、歌手にしろイメージは大事だが、「個」が強烈すぎてイメージに固執すると、イメージ打破に苦労する。「個」がないというのも、痛烈な「個性」である。何を演じてもはまるジョニー・デップは一体どれが本人だ?

「自分らしさ」というものを求め過ぎるあまり、「自分らしさ」アレルギーをきたすことになる。「自分らしさ」とはいかなるものか?役者は様々な「個」を演じる商売だから、「はまり役」という「個」も、役者の評価に属するものだ。いろいろな「はまり役」が浮かぶが、あえて記さないでおく。「自分らしさ」についても個々に思い浮かぶものはあろう。

イメージ 5その時に浮かんだ気持ち・感情は、その人自身の「今」を象徴する。「自分らしさ」と本来の「自分」が一致するとは限らない。その人が自分本来の到達する理想、究極の自分像はかけ離れていること多し。セルフエスティーム(Self-esteem)とは、自尊感情と訳される。うつ病者はセルフエスティームが下がり、自分のことを価値のない人間と思い込む。
セルフエスティームの高低は人と話すとよく分る。人はセルフエスティームを守ろうとの動機が働くが、セルフエスティームが低い人間ほどそれを守ろうとする動機が強い。セルフエスティームに自信のない人間は、ちょっとしたことで感情的になる。すぐさま相手を攻撃する行為などは、セルフエスティームを守るためで、文字会話だけでも峻別できる。

セルフエスティームの守り方は人によって異なるし、その人の性格と深い関係がありそうだ。セルフエスティームの守り方が、人格形成に強い影響を与えていると言っても過言でない。セルフエスティームの顕著な見方は、相手の予期していない言葉を発してみると分る。元々ない自己がさらに矛盾をきたし、セルフエスティームを守ろうとするあまり支離滅裂になる。

畠山みどりのファンであるKのことを思い出したのは、畠山みどりを腐すと、バカみたいに怒る彼女がバカに思えた。自分の好きなビートルズや、銀幕女優や、それ以外の自分が好きなものを他人が非難したところで、非難する側の問題であって、自分が腹を立てる理由がない。女が好きなファンの誰かを他人から非難されて怒るのを見て、「なぜ?」と不思議であった。

聞けば、「自分が好きなものを非難されたらイヤでしょう?」という。「ぜんぜん?自分が好きなものを他人が非難(批判)したところで、自分の好きは動かない」と言えども無理。批判されてマジギレする女は何とも滑稽であった。「自分が好きなものは他人も好きでなきゃダメなんか?」と聞くと、「好きでなくてもいいけど、貶さないで欲しい」という。全く理解できない。

イメージ 6「人の批判は人の自由だろ?なんで影響されるんだ?」といっても、「イヤなものはイヤなのよ」と論理なき感情で答える女。大人になっても変わらない。成長していないというより、感情でしか考えないから腹が立つ。こういうタイプはセルフエスティームに自信がなく、揺るがぬ自尊感情が見られない。男にたてつくなら、自己の発言に責任を持ち、論理思考をすべきである。自分が嫌悪する言葉に、「○○の誤解を招く書き方は、なさらない方がよろしいかと思われます」という言い方。こういう言い方を自分は断罪する。なんともフザケタ言葉である。「その言葉そっくりお返し致します」という言い方も同様、なんでこんな幼児的物言いをするのか?自分で考える思考がなく、マニュアルとして相手をのめす言葉と信じているのか…。

マニュアル言葉の多用はうんざり。咎めて直るものではないが、虐めてないのに、相手は勝手に傷つき、感情的になる。対話とは相手を納得させるためにするものだが女にその気はさらさらない。あってもできないだろう。一ファンとしてガーガーいうだけで人間についての考察ナシでは話が噛み合わない。ハイレベルというより「人間とはかくありき」くらいの道理(知識)は必須だ。

そういう思考があれば、無駄な噛み付きはしないもの。「昨日の敵は今日の友」くらいの道理でいい。何をいってもいいが、印象は言葉使いである。「です」、「ます」言葉が礼とはいえず、人をたばかったような言葉に、陰険さが出たらアウト。喧嘩を売ってることになる。よって物言いには気をつけた方がいい。自分自身への認識を変えれば人間は変わるよ。

相手を納得させようという会話をしないで、いちゃもんつけるだけの人間には、感情的になるのが多い。いちゃもんか親切かは、数行文を読めば分る。ファンだから特権階級なわけでもあるまいが、ファンという人間に共通するエゴがある。ファンであることを自負し、自慢する人間も少なくない。これらは自らが勝手に抱いている特権意識で、そんなもんファン以外は屁でもない。

誰かのファンである奴を批判する理由は何もないが、それと同様に、ファンはファンでない人間を尊重できないから、いちゃもんをつけるのだろう。神を信じる者が、無神論者を腹で卑下してるのと同じである。腹で卑下するものが見えようものなら、無神論者の攻撃が始まることを覚悟すべし。同じように、ファンもファンでない人間の自由さを尊重できなければダメだ。

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自分がどれだけ深いファンであるかは、ファンでない相手からいかに批判され、非難されようとも、動じない心、ファン意識をを持てばいのよ。好きなアーチストを貶されたら怒るのがファンたる資格ではないのよ。ファン意識は己の軌道の上に立つもの、相手の軌道上に立つものではない。ファンは狂信的あってもいいが、フアンでない者には冷静であるべきかと。

自然な欲求を追求し満たすことは、決してエゴイズムではない。むしろ、低次の欲求が満たされると、高次の欲求が出てきて、それは自己実現、さらには自己超越にまで到る、さらには人間成長につながっていく。そういう奥の深いファンには見るべきもの、教わるべきものがある。



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