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自己中のこと

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自己中は常用語となっているが、昔はない言葉だった。この言葉がなかった時代にそういう人間のことを「自分勝手」と言った。ワガママと自己中はちょっとニュアンスが異なるが、「自己中」は自分の周辺においていつごろから使われだしたのかを考えてみた。同僚にこの言葉をよく使う奴がいて、1980年代初頭くらいにこの言葉はあったように思われる。

自己中は、自己中心的の短縮だから、縮め言葉が流行ったころに「自己中心的」が縮められたのだろう。新しい言葉がどんどん生まれると広辞苑が厚くなるばかりだが、逆に「死語」といわれ、死んで行く言葉もある。新しい言葉といっても、多くは短縮形言葉でなかろうか。「自己中」は非難の言葉として使われるし、「利己的」と似ているが少し違う。

"利己的な人"は、他人がいること(存在)は見えているが無視。に対し"自己中な人"は、他人がいることが見えていない。存在が見えていてもどうしても自身の「我」(利益)を通したい利己的人間、存在なんかまるでないかのごとくふるまう自己中人間。どちらも厄介な対象だ。他人が見えていようがいまいが、他人を他人と見なせない自己中人間も中にはいる。

他人も自分と同じ「自己」を持った人間と思えないのだろう。あるいは、そういう認識ができないところが自己中か?利己主義者は自分の利を断固追うが、人間は誰しも自分が可愛く、ならば当然にして自分の利を追って当たり前と思いがちだがそうではない。「譲り合いの精神」という標語があるように、自分の分量、分け前を相手に譲ろうとする人間はいる。

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交通事故の防止は「譲り合いの精神」を大事にすることだと、免許更新時に講習でいう。昔は超絶利己主義者のことを「我利我利亡者」と言ったが、今では死語である。「ガリガリ亡者って、御寿司屋さんのガリが好きな人か?」などと言われかねない。利己主義的でない人間は、「自分はかわいい」けれども、「相手も自分と同じ人間」という思考がなされる。

ならば、「相手も相手がかわいい」だろうと、相手の気持ちになって自己主張を抑える。これが成熟した大人の思考だが、子どもの自己中心性や利己主義性は、社会性の認識が備わっていないことを示す。子どもはこれから社会性や共同体への帰属意識を身につけていかねばならないから許される部分もあるが、大人で利己的、自己中は、社会性の欠如である。

備わるべく大事なことが欠如するのは、備わっていないか、備わってはいるが自己の利益を極度に追うかいずれかだ。人間は誰も自分以外の他人との関わりの中で生きている以上、助け合い、協力し合って始めて共存できるし、決して一人では生きられない。だからこそ仲間意識をもち、互いに協力し合って行こうとする。大なり小なり、それを共同体という。

であるなら、「自分は共同体の一員」という意識が必要となる。共同体は自分のために役立っているし、自分は共同体のために役立っているという感覚も大事で、それが生きていることの実感でもある。「自分は周囲から好かれている」、「必要とされている人間」、そういう共同体感覚がない子どもは、生の喜びがなく、どんどん自分を傷つけていったりする。

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他の人と共同できなくなってどんどん孤立していく。いわゆる不良というのは、そういう図式をたどる。他の人との共同意識がないから他人に迷惑もかけたりする。言い換えると、他人に迷惑をかけても平気なのは、共同体感覚がないことを示す。自分が孤立してしまっている以上、他人はどうでもいいということ。共同体からあぶれた人間の心理はそういうもの。

自己中や利己的になると、だんだん相手からも避けられる。自分のことしか考えないのは、個人的には得したようでも、仲間はずれや共同体の一員から外れるという損失を受ける。自分の望むことを相手にして欲しいと言っても見向きもされない。「お前のような自分勝手な人間の頼みごとなんか、誰がきくか!」と、口に出されなくても、腹で思われている。

どうもみんながそっぽを向いたり、自分のことを嫌ってるなと、気づいたときはも遅かれし。自己中な人は他人が存在が見えていない。といったが、他人の視点から見た自分を見ようとしなくなる。つまり、自分を客観視できない。他人が見えるから、他人の目で自分も見える。どんどん人から嫌われる前に気づいて修整しないから、自己中人間は孤立を深める。

自分の針で相手を突けば人は逃げつよ。「人には針がないのに、何で自分に針がある」という悩みを持つ人がいる。自己中人間は、自分が他人を刺すが、他人が自分を刺すことに鈍感である。だからか、自分は自己中でないと思い込んでいる。自己中とは、「人間は誰しも針を持っている」という考え方のできない人であり、相手が持っている針が見えない人をいう。

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こんなに勝手、きまま言ってたら、相手はうんざりして逃げていくだろうなどと思えない人間は、ある種の障害者である。共同体意識の欠如というのは、立派な障害であろう。反面、そういう人は、「考えを押し付ける人は大キライ!」みたいに言う。考えを押し付けるって、よく考えたらオカシイ。自分の母親はすべてにおいてそういう人だったからよく分る。

考えを押しつけられるのが嫌なら聞かなければいい。押しつける行為に添わなければ押し付けられた実害はない。自分はそのように母の押し付けを無視したから、押し付けられて困ったことはなく、押し付ける母をバカだと思っていた。親だろうが、教師だろうが強引に押し付ける人間をバカだと思っていた。今でもそれは変わらない。押し付ける人間はバカである。

「押し付けられた」と愚痴をこぼす前に、聞かなきゃいいだろう?自分の弱さを問題にせず、「押し付けられた」は笑止千万。何ではね返そうとしない?自分の弱さもあるが、そこに何らかの利害もあるのだろう。嫌なことは聞くな!である。『ダーティー・ハリー』、『ダイハード』などの刑事映画を見ていて、スッキリするのは主人公が上司に逆らうシーン。

それで停職などの罰を受けても平然としている。業務命令違反は罰を受けて当然だが、罰より信念を重視するからだ。反対に、被害者意識の強い人間がいる。これも言い換えると自己中な人。自分は人を見るとき、被害意識の強い人は弱そうで実は強度の自己中である。被害者意識は自己増殖する。相手の言い分を自分で勝手に判断し、相手を責めている。

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これを自己中といわずして何と言う。人の良さそうなふりをする人が多いが、経験的に被害意識の強い人間に騙されることはない。人の言葉や発言を勝手に罪にする人の被害意識は、自己愛の強い自己過保護人間である。相手をすべて敵に回しながらいい人ぶっている。バラには棘があるが、棘は表面に見える。棘を隠して見せない女は性質が悪いから注意が必要だ。

いい人ぶって擦り寄ってくる人間にも気構えがいる。稚拙な褒め言葉には裏があると思っていい。見事に足元をすくわれた男の多いこと。そんな男に「脇が甘い!」と叱ってみても、ビギナー男が女に甘いのは当然である。間に受けるではなく、「騙すなら騙されてやろう」という腹づもりで傷ついてみるのも一興。それが男が女に支払う月謝だと思えばいい。

何事も問題もなくとは限らない。女の色仕掛けには、金品を注意しておけば失望感はそれほどないが、腹黒女の狙いは金品である。「男らしくないわね」、「あなたってケチなの?」、「やさしいわね」などと、あらゆる手段で手玉にとる。バカで見栄を張る男は、女に嫌われたくない一心で、カッコをつけ無理をする。最後はケツの毛まで抜かれてトンズラだ。

同じ男だから気持ちは分るし、同情もするが、それで癒されるほど男もバカじゃない。そもそもゼニ・カネ・モノをいう女に愛などあるはずがないのよ。女に対する愛情も、ねだられると消えるもので、ねだらないからしてやりたいと思うもの。その論理からいえば、物をねだらない女に対する愛情は増すばかり。物をねだる女に、愛などないと思う男なら一人前だ。

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ねだる女は男の愛を求めるが、それを物質に換算する。ねだらない女は男に負担を強いらない愛を持っている。男に「いい人ね」という女がいる。あれはほとんど社交辞令。女が異性として本能を刺激されない、差し障りのない人が「いい人」で、言い換えれば「どうでもいい人」。自己中=悪という図式ばかりでない。自己中男は、基本自分に自信もっているのが多い。

そのオーラに女の本能が呼び起こされる。同性から見た男の「いい人」は、可もなし、不可もなし、毒に薬にもならずの優柔不断。良くいえば地道で保守的。男の自信とは、弱点がないのではなく、弱点をその都度克服してきた男であろう。人間はだれにも弱点はあり、人は弱点を突いてくるし、それで地団駄を踏んでいて弱点を克服できないし、自信は備わらない。

自らの弱点に向き合い、足りないところを補ってきたからこそ自信。自己中といっても、自分の考えを基本に行動する以上、様々な考えに触れて、吟味し、咀嚼し、自分の理念として取り入れてこそ、自分の考えが基軸になる。単に傲慢に突っ張っているだけの自己中は、ヤクザや不良と変わりない。そういう意味での自己中は男として持つべき大事なものだ。

セレブにも貧乏にもランクがあるように、バカにも利口にもランクがあるように、自己中といわれる中にもランクがある。何事にもランクがあると思えばいい。自分勝手の自己中と存在感の際立つ自己中があるということ。美人にもランクがあるからコンテストで順位がつくのだろうが、先日発表された「日本一可愛い女子高生」には、これが?どうして?であった。

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これ「日本一普通の女子高生」の間違いでは?関西グランプリと関東グランプリの両名の写真には、大いに賛否もあろう。こんなのなら、道端でいくらでも出会うし、振り返ることすらない。発表は自由だが、従わせられる決まりもないから、騒ぎたい奴は騒いでおれ。批判のある奴はみんな自己中だし、同調する奴はタコチュウ(他己中)だ。そんな言葉はないが…

女子高生の美人はともかく、自己中関連で「いい身体のイケメンほど自己中なことが科学的に判明」という記事があった。結論からいえば、カッコイイ男ほどアースホールだということ。へ~、そりゃまた何で? ロンドンのブルネル大学が、男性63人、女性62人の身体を3Dスキャンして、性格判断を行い、モテ度と自己中心度の関係性を調べて出した結果である。

身体のモテ度は判定の難しいところだが、スキャン画像でスリムさ、胴囲と胸囲の比(女性はヒップとウェストの比)など、数々のモテ基準をベースに割り出し、審査員による評価も加味した。自己中度については、お金、平等に関する意識調査、などを行った上で、一定額のお金を与え、他人にどれぐらい分け与えるか調べる実験も行った上で総合判断されたという。

その結果、モテ男ほど自己中なエリート主義で、他者にやさしくない傾向にあることが判明した。ただし、モテ子にその傾向は見られなかったという。モテモテでいい気になってるのは、どうやら男だけのようだ。調査ではまた、モテ男・モテ子が他者にどういう目で見られているかも調べられた。別の審査員たちに写真を見せ、その人がどれだけ平等主義で利他主義だと思うか?

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見た目だけで判定を下すという方法。するとやはり「美男美女ほど自己中のエリート主義という偏見で見られていた」と、リード調査員の同大心理学部上級講師MichaelPrice博士は話している。世の中にはモテ系で性格いい人はいるが、「とかくそういう目で見られることは知っておいたほうがいい」と博士はいう。がそんなの分りきったことで、経験的に知っている。

「金持ちほど他人への思いやりに欠け、平等社会を気にしない傾向にあるという調査報告もある。が、われわれの調査ではそうした態度に影響を及ぼす要因としてモテ度も金持ち度と同じぐらい重要なことがわかった」(Price博士)と、研究というにはちょっぴりジョーク交じりの結果である。こんなのは『罪と罰』や『金色夜叉』が教えているではないか、とイチャモン。

気になる原因についてだが、論文では「人類は古来、身体的に魅力的で強い個人が他者に恩恵・危害を与える能力に長けていた。そのため対人関係では駆け引きで優位に立てた」と述べている。要するに「モテ男は社会的価値が高いので、わざわざ人に尽くさなくても認められる。ほんでもってそうなっちまったのではないか」と、博士が動画でそのように述べている。

イメージ 9ロンドンのブルネル大学心理学部上級講師Michael Price博士を知らない人間はすごい人のように思えるが、やってる事は暇つぶし程度の研究に思える。そもそも心理学という学問は統計学と変らないし、数少ない被験から正しい結果が取れないのは常識となっている。ま、他の要素が多いということ。フロイトの弟子であったユングは師の牙城を突き崩した。『リビドーの変容と象徴』の中でユングは、「フロイトの『性理論』は、神経異常の原因の一部を説明するにすぎない。私は各個人の深層心理の中には、人類全体に共通の無意識が残存していると考える。これに縛られたとき人は神経症となる。そして、その束縛から逃れたいとき、始めて真の成長が訪れる。」この言葉をフロイトは認めず、その時点でフロイトは最愛の弟子を失った。

フロイトとユングの違いを端的に言えば、「ある女性が何らかの心理的原因で手足が動かなくなったとする。フロイトはその女性の過去に遡り、父親との近親相姦的な関係や現在の夫との愛情関係にその原因を求める。ユングも患者の過去や無意識を探るが、性的面だけで捉えない。患者の症状は、その人が本当の自分になるための、一つの過程として現れるとする。

二人の決定的な違いは、フロイトが無意識を、"人を抑圧するもののうごめく暗礁としたのに対し、ユングは無意識を、"光の射し込む大きな統一ある世界"とした。1913年、フロイトは「ミュンヘン国際精神分析学会」の壇上で、「私はユング教授の革新を、私が基礎を築いた精神分析を正当に受け継ぐものとは認めない」と発した。ユングはその場を立ち去った。



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