Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

「自分は」で書き始め、「醜い」で終った文。

$
0
0
「自分は何て不幸なんだ」と思う人は結構いたりする。程度にもよるが若い奴にも結構いた。20代、30代のころは、そういう言葉をよく聞いた。人に弱みを見せたくないから言葉に出さない奴もいたろうな。女の子の方が多かった気がする。特に失恋した子は、「自分は世界一不幸な人間」みたいに思っていたし、何をする気力もなく、夜の淋しさは尋常ではないようだ。

「不幸は誰にもあるよ。今の不幸をどうするかは自分にかかっている。人からの慰め言葉で癒されるか?瞬間はあるかもだけど、好きな男以外に抱かれても、終れば虚しいし、それって恋愛じゃないし…」などと、慰め言葉というより、つまらん自暴自棄になるなとよく言った。情緒が乱れた女はあらぬ行動を取ることがある。女の感情の乱れは男には理解できない。

イメージ 1

自律神経がかき乱され、とてつもない寂寥感に襲われる。落ち込みも半端でない。が、それらの処方箋は自分で探し求めるしかない。失恋した時は誰でもネガティブになり易い。自分は美人でない、性格が悪い、かわいい子が羨ましい…などと、いつもの自分にもまして卑屈になる。自分に欠けてるところは素直に認めた方が人にも自分にもやさしくなれる。

「私は美人じゃない」と認めることでやさしくなれる。変に背伸びをしたり、他人と比べるより、美人ではないと認めることでやさしさが生まれ、それがその人に美人以上の魅力をもたらせる。背伸びをしない素直さ、やさしさが人からの好感も呼ぶ。そういう性格の女は外観にも増して内側が魅力的だったりする。とりあえず、足るを知り、自分に満足することだ。

不満はあっても、その不満を捨て去れば満足だ。満足が人をやさしくする。やさしさは人に安堵感を与え、また、やさしさは相手を認める心のゆとりも生まれる。人が不平をいい、不満をいい、そういう欲に溺れるのは、自らに自信がないからで、いったんそうなると、どんどん不幸になって行く。イライラ、ストレスで夜も眠れない、吐き気がし、心身に異常がでる。

不幸も幸せも複利で増えていく。そういう場合にどうすればいいかは、それぞれにあった方法があるから、自分にあった方法を見つけないと、無理が返って抑圧を増大させる。処方箋は自分で…といったようにそれしかない。人の卑屈さは相手が感じるもの、謙遜も傲慢も同じように相手が感じるもの。苦しみ、悲しみ、辛さは自分が感じるもの。人に人の心は見えない。

イメージ 2

苦しい、辛いと言葉にしたところで、人の心の中を見ることはできない。チャックで腹を開いて傷ついた心を人に見せるわけにはいかない。どんなに言葉で辛さ苦しさを説明したところで、言葉でしか伝わらない。一緒に泣いてくれる女友達はいるだろうが、多くは共感と言う演技である。女はそうやって自身の演技力を高めていくし、相手も癒される演技をする。

「人生は舞台である」。人は面白いもので、"自分に欠けてるものが幸せの条件"と思い込む。ある母親が、「私(あるいは主人)が高卒なので、この子には大学に行って欲しい」という言い方をするが、それってオカシな言い草だと思っていた。子どもを大学に行かせたい理由が、なんで親の都合であらねばならないのか?それを誰もオカシイと思わぬ日本的親の心情。

自分はずっと以前からオカシイと思っていた。外国ではまず耳にすることのない親の言葉。大学に行く・行かないは本人の理由であるべきである。親に欠けてるものが子の幸せの条件と、子どもにそれを成就させようとする。「お父さんのように高卒だと冷や飯人生になるんだよ」と、あからさまに言ったりする。そんな動機で大学行った子が何の足しになるのだろうか?

親に欠けてるものを子どもに補わせようとするのは、親の自己満足である。となると、「親がそのようにいうから大学に行く」というのは、子どもの立派な動機なのか?持たぬより持つ方が得というが、なまじ持たぬ方がいいモノもある。大卒が大きな顔をできた時代は過去の遺物、今のような末端の人間までが大学に行く時代に、大卒=優秀というかつての図式はない。

イメージ 3

世に資格マニアという自己満足もある。使わない資格を10個も持って、まるで人に自慢するための資格か?自己満足なら自己満足らしく、人にいわなくてもいい。資格をとるのも、"ないよりあれば"の幸せ信仰に思える。本来自分に備わっているもので十分幸せに寄与するものは多い。欲張りな人は、自分が欲しい物を人が持っていること自体が嫌なのだろう。

表層より本質に目を向けて見えるものがある。人間は自分の好きなものを見つけると強い。「好きな事が何か分らない」という人は、ある意味不幸である。もちろん、自分自信をも好きになるべきだ。アレが足りない、コレが足りないの自分ではなく、ありのままの自分を肯定できたら十分に幸せだ。「幸せ」と言うのは言葉のあやで、「満足」というべきか。

「幸せ幻想」なるものを好まぬ自分は、物質から精神に至る広範囲な幸せ定義について懐疑的で、「幸せ」とは、とりあえず自分を好きになる事だと信じていた。人は人を羨んでいるとき、自分を好きではないはずだ。今の自分が楽しくないときも、自分が好きではない。時も移り変わるけれども、時々の中で自分を好きである事は変えないで生きる方がいい。

貧乏というだけで人から見下げられた。学歴のなさをハナであしらわれた。人はいろいろだから、差別主義者もいるはずだ。人は人の幸せを自己の基準で判断するから、あれこれ言いたい人はいる。人に嘲笑されたらこう思うがいい。そういう人間は実は不幸なのだと。なぜなら、人の幸せや不幸は自分の幸せと何の関係もない。なのに、人を蔑む人間は、幸せではないのよ。

イメージ 4

ましてや貧乏人にも幸せはある。「おカネなんかくだらない」と吐き棄てることではない。「学歴がなんだというんだ」というでもない。本当はおカネの欲しい人、学歴があったらいいと思う人が、自らを偽って、嘘を言う事が幸せであるはずがない。「貧乏が恥ずかしい」、「無学歴が恥ずかしい」と思う心がないなら幸せだ。なくても不満のない人は幸せなのよ。

嘘をいい、自分を偽らないと人から認められないと思う人は不幸である。貧乏だと人から認められないなら、そんな人に認められなくてもイイではないか。なぜそれほどそんな人間に認められたいのか?人が人を指差して「素晴らしい」というのはすべてにおいて本心ではないのよ。人を蔑むのも自己満足でやっている。そんな他人の評価など気にしない生き方を学ぶ。

「こうでなきゃ人に認められない」と勝手に思い込んでる場合もある。実は自己妄想であったりする。そういうものに固執し、執着し、見栄を張ったところで、人には虚飾が見えたりする。貧乏人はカネがあるように見せる必要はない。TK御殿が示すように、かつては大資産家だった小室哲也は、寸借詐欺までやった市井の人。どっちが幸せだったか、彼にとって過去は幻想だろう。

絶頂期には100億円を超える預金。車はフェラーリの他に、世界に25台しかない価格2億5千万円ベンツの限定車。にもかかわらず、わずか10年で借金は18億円に膨らみ、終には預金通帳の残高は21万円しかなかったという。借金が膨らんでいても、生活費は月に800万円で、家賃は290万円。事務所運営費も月に1200万円かかっていたとされる。

イメージ 5

資産家という虚栄心が、犯罪に手を染める動機となった。あちこちに家を持ち、別荘を持っても体はひとつ。雨風しのげる一軒家しかなくても人は満足を得れる。狭い共同体や集団の中で見栄を張り、虚勢を張ってみたところで、能力の劣化と共に栄光は目減りする。そんなことより、揺るがぬ小さな幸せを維持し、横臥するのはさほど難しくあるまい。

結局、無理をすれば、無理はどこかで破綻する。小さな幸せ、小さな満足は手に入りやすく、無理をしないから永続性も可能である。不変の幸せとなるかも知れない。栄光もいいが、維持が大変なのよ。空気を吸い、水も飲め、質素な食事を普通に取れるほうが、実際問題体によかったりする。病巣に侵され、苦しむ人に「幸せか?」と問うことはできない。

問う必要もない。好きでなった病気ではなく、「気の毒」としか言いようがない。どんな言葉も癒されないから、心で思っておいてあげるのがいい。昔の人はこのように言った。「五体満足で、おまんまが食べられるだけで幸せだ」と。コレに異を唱えたわけではないが、「五体不満足」の乙武洋匡氏は、それで幸せと披露した。彼の次の言葉は説得力があった。

「障害は不便です。しかし、不幸ではありません」。我々に乙武氏の心うちは到底理解に及ばぬが、生まれながらにして五体不満足は不便には違いないけれども、健常者が思うほどに不便とかもなく、まして、それだけで不幸などというのはない。五体満足でありながら死に急ぐ人がどういう不幸を背負ったのか分らないが、人間の心の幅は広いということ。

イメージ 6人間は人間を観察することで人間を知る。映画『うなぎ』の監督である今村昌平はこのように言っている。「人間とは…何とうさんくさいものか、何と助平なものか、何と優しいものか、何と弱々しいものか、人間とは何と滑稽なものかを真剣に問い、総じて人間とは何と面白いものかを知って欲しい。そしてこれを問う己は一体何なのかと反問して欲しい…。」映画や演劇を観に行くのはゼニがいるが、世間で鑑賞できる人間ドラマは、あり難いことにタダである。人間が引き起こす幾多の事件や愛憎劇を観ながら、今村監督の言葉に頷かされる。観るだけではなく、自分も参加できるのが人生芝居でもある。また今村監督の口癖は、「おい、チャンと人間観察をやってるか?」であったという。なるほど、この言葉は至言であろう。

善い人間も悪い人間も、ずるい人間も嫌味な人間も、「この人はどうしてこういう人なのか?」を眺め、観察すると、また違った風にも見えてきたりする。眼前の事実をそのまま受け取ってみたが、後で間違いだったこともある。映画や芝居は創作である。人間がストーリーと結末まで考えたものだが、人生ドラマには結末がない。区切りはあっても延々と続く。

昨日鳴いたカラスが今日は笑い、今日は幸せの絶頂を味わっても、明日の我が身は分らない。人間の織り成すドラマは結末はなく、あるとすれば人の死だ。生きている限り、芝居は続いている。誰が己の人生芝居の幕引きの日を知る者がいよう。運命で決められている自分の最後の日など知らぬ方がいい。楽しみは指折り数得て待つのがいいが、死期など誰が数得たいものか。

「交通事故や、心臓発作でポックリ死にたい、ガンで死ぬなどまっぴらだ」という声は圧倒的に多かったが近年は違う。おそらくガンの痛みが緩和できるホスピス医療の創設とも関連があるのだろう。「ガンなら死ぬ準備ができる」というのがガン死が見直された理由だが、突然死は楽であるけれどもメリットはそれだけで、痛みが緩和できるならガンがいいとなる。

元広島東洋カープの選手だった木村拓也が、巨人軍コーチ時代の2010年4月2日、「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島」での対広島東洋カープ1回戦の試合前、本塁付近でシートノック中に突如として意識を喪失、そのまま倒れ込んだ。広島大学病院に緊急搬送されたがクモ膜下出血と診断され、容態は改善することのないまま、5日後に入院先の病院で死去。

イメージ 7

人の命の儚さである。人間はいつどういう死に方をするのかを選べない。「もし、お前が死刑宣告を受け、好きな刑を選べるとしたら何がいい?」を友人と言い合った。絞首刑はなく、ほとんどが銃殺であった。火あぶり、釜茹で、水責めなどとんでもない。これは刑罰というより拷問に等しい。「で、お前は何なだ?」と言われ、「オレは老衰がいい」と答えた。

「何だと??」笑いに包まれる。これはドイツの小噺にある話で、それを知っていた自分。お国に忠勤を励んだ王様側近のある男、激情にかられて犯した罪で死刑宣告を受ける。「お前の好きな死に方を選びなさい」王様は温情を見せた。そこで男の選んだのは「老衰」であった。日本でも死刑宣告後に長期拘置から獄死する死刑囚は、これに類するものである。

1948年の起こった帝銀事件の平沢貞通死刑囚も、1955年に死刑が確定したが執行されず、1987年5月10日、八王子医療刑務所で肺炎を患い獄死。95歳であった。平沢は逮捕当時、脳に病変があり、自白の信用性が疑われたことが39年の獄中生活となった。現在、もっとも長い拘置は「マルヨ無線強盗殺人放火事件」の尾田信夫死刑囚(68歳)も39年目である。

本年2月2日、最高裁第一小法廷は、一・二審死刑判決を受けた「秋葉原無差別殺傷事件」の加害者加藤智大被告の上告を棄却した。これにて加藤被告の死刑判決が確定する。「連合赤軍事件」の坂口弘司(68歳)、「オウム真理教」の松本智津夫(59歳)、「和歌山毒物カレー事件」の林真須美(53歳)、「光市母子殺害事件」の大月孝行(33歳)らが執行を待っている。

イメージ 8

死刑制度があるのは日本、米国など58の国と地域。死刑を廃止しているのは、長く執行がない事実上の廃止を含め、欧州各国や韓国など計139の国と地域。内閣府が2015年1月24日に発表した世論調査で、死刑制度を容認する人が80.3%となり、過去最高の85.6%だった2009年の前回調査から5.3ポイント減少した。廃止を求めた人は前回より4ポイント増の9.7%だった。

死刑という刑罰の真の恐怖は、刑の宣告を受けたときではない。刑場で自らの絞首刑場面を想像するが実感は薄い。ある日複数の刑務官の足音が獄舎に近づき、前に止まって「本日、刑を執行する」と告げられる。檻から出されて刑場に引かれる恐怖。これが遠き日に犯した罪の償いか。いかに凶悪犯といえ、死刑は刑罰というより拷問である。これは人道的に酷い。



Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles