日大選手による悪質プレーは映像が残っており、これを見れば選手が違反プレーを行っているのは一目である。アメリカン・フットボールの知識がない人でも、ボールを持たない者へのタックル禁止というルールを知れば、なぜあのようなプレーをしたのか不思議に思うだろう。問題なのは選手個人の独断なのか、指導者である監督の指示によるものだったのかである。
負傷した関西大学の選手は、14日に西宮市内でMRI検査を受け、「第2・第3腰椎棘間(きょくかん)じん帯損傷」と診断されたことを大学側は発表した。後遺症が残る可能性は極めて低いとの所見が出されたものの、鳥内秀晃監督は、「交通事故と同じで、もう少し様子を見てみないと分からない」と慎重な姿勢を示しており、こうした悪質プレーに大学側の怒りは収まらない。
スポーツライター青島健太は、「30年アメリカン・フットボールを含めたスポーツに全般にかかわっているが、このような愚行・蛮行を見たのは初めて」と憤慨し、本来なら一回目の悪質プレーを起こした際に選手個人に注意を促すべきだが、それもないままに同選手は2度目、3度目と反則を犯して退場させられたのを見ても、チームが選手の悪質プレーを容認した可能性は捨てきれない。
関学アメフット部関係者は昨日午後1:30より会見を行ったが、それに先立って被害を受けた選手の父親は、「日大が指導方針を改めない限り、学校側に対して告訴も辞さない」 という強い態度を述べた。今回の悪質プレーは幸いにして選手寿命に影響するものではなかったとはいえ、一歩間違えば重大な事故にもつながる懸念もあったことから親の憤りは当然である。
様々なスポーツには様々な発祥起源があるが、レスリングやボクシング、柔道や相撲などの格闘技は、人間古来の闘争本能である力くらべや取っ組み合いから発生したもので、ラグビーやバスケットやフットボールなども格闘技的要素を含んでいるだけに、ラフプレーの禁止などを含めた厳しいルールが課されている。これを野放しにすればスポーツどころではない。
野球といえども硬式ボールは十分に人を傷つける凶器になりうるし、故意に打者にぶつけるビーンボールというのは実在する。元投手でありロッテオリオンズの監督を務めた400勝投手の金田正一氏は気性の激しいことで知られていたが、気性の穏やかなことで知られる元読売ジャイアンツの桑田真澄投手と週刊誌で、「故意の死球は存在するのか?」について語り合っている。
──やはり「報復」のような故意死球は存在するのですか?
金田:監督の時には「ブツけろ」とサインを出したよ。
──えっ、爆弾発言!
金田:ワシはベンチから、「ブツけろ! 殺してしまえ!」と叫んでいるのが日課みたいなものだったからな。それぐらいの気迫で投げろということだ。ワシは現役時代、死球はほとんどなかったよ。20年間で72個。まァ、ワシは東尾(修)みたいに、インサイドの厳しいところを投げられなかったというのもあるがね。打ち取れる相手にブツけるなんてもったいない。
桑田:本当そうですよね、もったいない。
金田:まァ、腹が立ったヤツにはブツけたこともあったかもしれんが(笑)。桑田もあるだろう。
桑田:ありませんよっ! 晩年コーチから、「お前は綺麗な球を投げすぎるから、1試合で2~3人にブツけろ」といわれたことはありましたけど。僕は、「そういう野球はしたくないので」と断わりました。
闘争本能を掻き立てるスポーツであるがゆえに、熱い監督、熱くなる選手もいれば、桑田のような冷静な選手もいる。囲碁や将棋のような闘争本能を心に秘しながら対面し、一見静かに戦う競技もあるが、昔のような駒音を激しく打ち付けるような闘志むき出しの棋士は少なくなった。闘争本能を露骨に現したところで、相手がビビるわけでもなく、勝ちにつながることはない。
囲碁・将棋は闘争といえども論理の世界、思考の世界であり、相手を威圧して勝てるほど甘くないということが認識されたからだろう。スポーツは体育系上下関係社会といわれ、監督は指導者でありながらチームを支配する立場にある。支配者である監督は、私情も含めた選手起用に多大な影響力を持つ絶対君主的存在であるがゆえに、選手は小間使いも同然だ。
中日の星野監督の鉄拳制裁は有名で、殴られた選手には、中村(武)、落合(英)、水野、矢野、 川上(憲)、山本(昌)、岩瀬、大豊らの名があがるが、時代も変わったのか、楽天監督時代にはなかったようだ。自分は星野のような、選手を威圧する指導者は無能でサイテーと思っており、メジャーリーグでそんなことをやろうものなら、返り討ちの袋叩きにされるだろう。
日本という国の封建主義思想は、殿様には黒いものを白といわれても逆らってはいけないという考えが残っている。「黒は黒だろ、バカ言ってんじゃないよ」といえば首切りはともかく、先ずは干されるだろう。強い権威と権力をバックに何をはき違えているのだろうか。アメリカン・フットボールというゲームは、監督の支配力が強いほど強いチームといわれている。
支配者である監督が権力をパワハラとして行使し、私情を交えた采配を行えば、選手の出場も左右される。中学から始めたバスケで、特待生として私立強豪校にスカウトされた孫は、コーチと反りが合わず、あらぬ嫌疑をかけられたことを憤慨したが、勘違いであったにも関わらず謝罪もなく退部を決めた。「それでいい。バカコーチに媚びることはない」と孫を褒めた。
いかなる権力者であろうと、「言ってもいないことを言った」、「してもいないことをした」と、これほど腹の立つことはない。そういう我慢をすると精神が自己分裂をきたす。間違っていないと確信があれば、相手が誰であれ主張すべきと思っている。そこには損得・利害を超えた、自身を偽らない純粋な正義心が養われる。利害で動く人間の何という浅ましさである。
日大の監督は雲隠れしたまま姿を現さない。これが何を意味するかは誰でもわかる。こうした不誠実な対応は問題を大きくするし、大学の理事も兼ねているなら信頼失墜は免れない。学校側の調査結果も、選手は監督の指示を履き違えてあのようなことをしたといわんばかりである。どういう言い訳をしようと、悪質なプレーをするように育てた監督の責任ではないか。
選手は個人の利益ではなく、監督やチームに良かれと思ってのラフプレーであり、そうした逸脱したプレーを厳しく戒めるのも監督である。問題発覚後に雲隠れするような無責任な監督に責任を押し付けられた選手は何という無残であろう。他の選手もこういう監督にチームを託すのか?濡れ衣を着せられた同僚を他の選手は見殺しにせず、全員が結託して彼を擁護すべきである。
おそらく監督は、「熱いプレーをしろといったが、あそこまでやれとは言ってない」などというのだろう。「司令塔を壊せといったが、あれはやりすぎだ」などと、自己を庇うために後付けの屁理屈なら何とでもいえる。上には「へーこら」、下には「おいコラ!」の典型的人物である。上下関係は対等でなく、対等で反論すれば居場所がなくなるという日本社会の陰湿性。
信念は上下関係を物ともせずか、アメリカ映画には大人しく辞表など書かず、その場、口頭で上司に、「お前みたいなクソ男と一緒に仕事はできない」と罵る場面が多い。日大の選手も退部覚悟で事実を明らかにしたらよい。「イタチの最後っ屁で逃げ回るようなクソ監督とはやってられん」と向かっていえばいい。保身しかない大学と監督に決別する清々しい男の矜持を見たい。