「矜持」という言葉は、「きょうじ」と、「きんじ」という二通りの読み方がある。普段の日常会話ではあまり使われることはないが、自信や誇りを持ちながら振舞うという意味を持つ。漢字というのは、一文字ずつに意味が込められているが、「矜持(きょうじ)」の意味を説くと、「矜」は、「誇り」、「持」はそのまま、「持つ」だから、「誇りを持つ」ということになる。
ところが、「きんじ」と読むときの、「矜」は、「憐れむ」との意味を持つ。まるで意味が変わってしまうことから通常は、「きょうじ」と読むことが多い。人は矜持を持つべきだが、人間が社会的動物であり、社会や組織に属していることからすれば矜持を持つことが難しい。人類が文化を創造して以来、個人は必ずや何かの対象に所属してきたが、それを拒んで隠遁する仙人もいた。
仙人とは、仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得て、「羽人・僊人」ともいう。飛翔できるなどの神通力をもつといわれ、道教で、理想とされる神的存在である。普通は仙人を目指すことはないが、家族、部族、民族、国家、宗教団体、企業、地域社会などの共通概念や、共通スローガンなどの対象(多くは組織)に所属すれど、その中にあっても矜持は持ちたい。
人の人生観や価値観は様々であるのを自身の人生においても知ることになるが、上司にべったり、親にべったりの人間もいれば、物事の判断基準を、「個」に委ねる人間もいる。社会や組織の中で、「個」を絶対化するのではなく、「個」が表に出て、「所属」が裏に出るというべきだろう。表裏は一体であり、人生というのは表裏がよじれた形で続いたりとなる。
人間は「個」と、「社会性」という相反する問題を抱えて悩むが、仙人ならともかく、人は、「個」では生きられないがゆえの苦悩であろう。組織とか団体とかの所属意識は、それから離れた時に所属から解放されるが、そこで人間は、「個」の充実した時間を過ごす。これを、「羽を伸ばす」という。人間には元々羽があって自由に翔んだり歩き回るが、組織内では抑えている。
「趣味は仕事」という人間がいる。仕事を離れても仕事しか頭にない人間は、屈強であっても魅力がない。異業種交流といえど、それが可能なのは趣味を通してであろう。若い人に、「君に矜持はあるか?」と聞いたとき、「矜持ってなんですか?」というのは多分に予測できる。何はともあれ、「矜持」の意味を理解するには、信念を持つことが求められる。
が、信念もなく、自分の意思を持てないまま、周囲に流されてしまう傾向が今の若い人に見られる。いい年とっても、芸能人の言うことやマスコミの報道をそのまま信じ込み、受け売りする人も矜持のない人であろう。自身の目や耳だけを駆使するにも限度があるが、だからといってゴミ芸人を妄信するのはバカに感染したようなもの。伝染病にかからぬためにも矜持は必要。
周囲に認められないままに挫折感を味わい、あるいは恐れて生きてきた人は、自分の信念を貫く勇気を持てないでいる。そのため、自分を主張することが苦手となり、我慢したまま相手に言われるままに流されてしまうことも少なくない。大事なことは、認められなくてもいい、嫌われてもいい、自らを信じて行動することは、やがて周囲の心を動かすことにもなり兼ねない。
そういう意志の強さが自信へと繋がっていく。決して、「絵に描いた餅」ではなく、体験的に得たものだ。「意志の強さ」とは、「意識の強さ」である。「意識の強さ」とは上記したような、認められなくてもいい、嫌われてもいいという、「勇気」である。何かを言ったり、行動したりする際に、周囲の動向を伺ったり、気兼ねしたりでは物も言えない、行動もできない。
人に良く思われたい、嫌われたくないという自己保身が妨げになっている。「人に好かれたい」、「嫌われたくない」の前にやるべきは自己の確立であり、何よりも自分を作ることが大事である。何かにつけ人に迎合したり、なびいたりで自己が作れるはずがない。思えば自分は、押さえつける親に反抗することで自分を作っていった。自由とは反逆で得るものだった。
「親に従っていれば楽でいい」という友人の言葉に驚愕したことがある。彼が姑息だったのか、親が支配的でなかったのか、彼が親の支配を支配と感じなかったのか、そこは分からないが、自我の発露とともに親への反抗は世代間闘争でもある。東大3兄弟の母は、「反抗期が芽生えない教育を目指した」といったが、支配する側にすればこんな楽なことはなかろう。
目的意識をハッキリと植え付けられた洗脳は親の勝利である。親の勝利は形骸的には子の勝利であるとして本まで書いているが、身内のお祭り騒ぎは身内の自己満足であって、なんの関心もない。そもそも親が子どもの人生に、「勝利」という語句を当て込むことが分からない。野球のイチローもゴルフの松山もサッカーの本田もテニスの錦織も将棋の藤井のどこが勝利?
もし、どこかの時点で彼らの親が勝利といい、彼らも自らを勝利と認識するなら、その時点で彼らは終わっている。その後の活躍など何の意味もない。事実彼らに勝利はなく、だから続けていられる。「受験の勝利者」、「受験の勝ち組」などという言葉は、長い人生において全くとは言わぬまでも、ほとんど無意味。だから、そんな言葉は言わぬが花である。
「それぞれの段階で勝利はある」との意見もあるが、物事の狭い見方である。人生の80年そこそこが、短いか長いかは何とも言えぬが、東大ブランドを得ることで、人生を安易に有利に生きられるという、親の保守的思想・過保護教育に、「逞しさ」という観点から批判的でいる。長丁場に人生において人間は努力するかしないかであり、しないでも楽しい人生はやれる。
何の努力もしなかった自分だが、何の不満もない人生を送れている。だから言えるのかもしれぬが、不満がないは不満を持たないであり、持たないは無理して持たないではない。不満は、「欲」の反映であるのを知っている。爪先立って遠くを見ず、足るを知れば楽に生きられる。ストレスはなく、運動で肉体に負荷を、趣味で脳に負荷をかければ刺激も得れる。
前置きが長くなったが、日大アメフット部選手の悪質タックル問題に対し、世間の厳しい批判に対して大学や監督の責任論が噴出しないのは、「組織論」重視の許されざる所業である。ヒラメ官僚が間抜け総理を守るのが職務全うであるのは、自己の将来展望という私利私欲が伺える。今回の問題が学生の意思でないなら、大学側の対応を断固許さぬ矜持をみたい。