千葉市稲毛区の居酒屋で13日夜に家族4人が親族の男に包丁で切りつけられた事件で、重症だった女児(6)が死亡した。親の悲しみはいかばかりか。殺人未遂容疑で現行犯逮捕された元千葉市議の小田求容疑者(46)は、女児の母親の兄だった。いきなり切りつけられ、子どもに刃物が向けられた両親は、娘2人をかばおうとしたことで複数回切りつけられたが、その甲斐なく女児は亡くなった。
千葉県警によると、小田容疑者は滞在していた沖縄県から地元に戻り、久々に会った家族との会話の途中で突然大声で怒り出し、犯行に及んだというが、なぜ刃物を女児に向けなければならなかったのか?6歳の姪に腹を立てたわけでも憎いわけでもなかろうし、なぜに女児を刺す必要があった?妹の夫や妹に怒りが向いたのなら、なぜターゲットを絞らない。
やたらめったら刃物を振り回すなど、どう見ても正常人間の所業とは思えない。子どもを斬りつけるなど誰が理解できるだろうか。刃物で肉親を刺すというほどの怒りですら理解に及ばないが、人を刺せばどうなるかという理性や判断力もないということか?それとも、そういう判断や理性を超える何があったのか?いずれにせよ、人を刺し殺すなどは人生において自滅行為である。
小田容疑者は、あらかじめかばんに包丁を隠し持っていたとみられることから、咄嗟というより明らかに計画的である。その日、その場においての発作的な暴挙とは言い難く、さらに解せないのは、誕生祝いを兼ねて向かった居酒屋の個室テーブル席に案内され、わずか15分程度で犯行に及んでいる。会話らしい会話もなされない状況での犯行は積年の恨みの蓄積か?
ささやかな復讐劇に思えてならない。人への恨みとか、憎しみとか、復讐心とかいったものは、必ずしもストレートなかたちで現れるものではないが、今回の事件は場所もわきまえぬほどの感情の発露である。一体何があったのか?詳細は不明だが、人が人に対して抱く憎悪というのは、他者から自らの尊厳を卑しめられた場合に起こる。そのことを人は決して忘れない。
忘れてしまう憎悪もあれば、忘れ得ぬ憎悪もある。忘れ得ぬ憎悪の中には、「忘れてなるものか」とした憎悪もある。これは中国の故事にある、『臥薪嘗胆』の憎悪である。「臥」は臥して寝る意。「薪」はたきぎ。「嘗」はなめること。「胆」は苦い豚の肝。寝心地の悪い薪の上に寝、苦い肝を舐めることで、復讐の憎悪を一日たりとも絶やさぬという執念の継続である。
日が経つにつれて憎悪は薄れていくものだが、憎悪を絶やさず抱き続けるのは難しく、まさに努力というよりない。意識上では忘れても無意識に残る心の傷を心理学用語でトラウマという。こんにちでは一般的な用語になったが、 psychological traumaの和訳は心的外傷のこと。PTSD ( Post Traumatic Stress Disorder )は、心的外傷後ストレス障害と訳される。
小田容疑者にそういうものがあったとしても、家族が居酒屋に出向き、着席15分後に家族4人を殺傷するという行為、そうした事件は過去に聞いたことがない。計画的ならなぜにその場でなければならなかったのか?もしくは居酒屋での犯行を決めていたのか?事情はともかくこの事件は異常である。いかなる理由があれ、6歳と1歳の乳幼児を斬りつけることが異常である。
6歳の彩友美ちゃんは背中を刺され、傷の深さは肺にまで達していた。これが狂気でなくて何であろうか。県警は小田容疑者の刑事責任能力の有無を調べると思われるが、あってもなくても死んだ彩友美ちゃんは帰らない。親は子どもを守れなかったことを含めた自己責任を感じるだろうが、予期のできない犯行であり、掘り炬燵テーブルでの咄嗟の行為に防御は難しい。
この国も居酒屋の個室で刺殺事件が起きるようなったかという驚き、憂いを感じる。親族同士が会食に出向いたレストランでの犯行といえば、まるで映画に観るマフィアの所業だが、大人しい日本人なら精神に異常をきたしてるとしか思えない。実の兄に娘を刺殺された妹のショックは計り知れなく、もはや絶縁は決定的である。世に親子・兄弟の絶縁は珍しくない。
憎悪の蓄積による復讐なのか、復讐は憎悪が引き金になって芽生えるもの。一般的に攻撃的な人は欲求不満である。欲求不満のはけ口を求めて、何かを攻撃の対象として見つけ、それを攻撃して気持ちを鎮める。会社で上司に叱られた夫が家に帰って妻に当たり散らす。妻と喧嘩した夫が、会社で部下を怒鳴り散らす。親の愛情を得れない子が学校でいじめ相手を探す。
さらに欲求不満な人はすぐに喧嘩を始める。ちょっとした気にいらぬことで店員に文句をいうこともあり、世の中を自身と敵対して捉える。今回、姪に刃を向けた小田容疑者は、妹夫婦が余程憎かったゆえなのか、二人が最も大事にする娘を傷つけないではいられなかったのだろうか。罪のない幼児に殺意を持って斬りつけるのは、妹夫婦に対する比類なき憎悪であろう。
「あり得ない」という言葉の信憑性が、根底から疑われるほどの事件や事故が多発する。殺めた少女をレールの上に置いて、事故に見せかけるなどの発想がどこから生まれるのか?安易といえば安易でしかないが、人間そのものが安易になりつつあるのではないかという気さえする。安易とは言葉を替えれば、「バカ」である。人間は日々緊張感をもって生きてはいられない。
それは昔も今も変わらず、だから娯楽は必要だ。「たかが人間」というが、「されど人間」を信奉する。このような事件を見るに人間はどこに向かうのか?「あり得ない」の言葉が相応しい近年の犯罪だが、それを目の当たりにしても、「人間は決して何もない」のではなく、「人間には人間としての何らかの価値がある」と信じて生きてきたし、その価値とは何かを探し求めて生きてきた。
人間を価値づけるものが何であるか、いまだに正確には分からない。自分を何物かと見立て、その何物かの意味や価値を求めて生きてはみるが、残念なことに人間は何でもないという答えばかりが導かれる。「人間は何でもない」という、そのことだけは知り得たのかも知れない。おそらく犬は、自分が何でもないとは知らないだろう。たとえ知ったとしてもそれに苦しまない。
猫もそう見える。彼らの目的は唯一生きることにあり、その意味で苦悩も後悔もないほどに純粋である。人間が不純なのは今に知ったことではない。ならば自らが何でもないのを知り、不純で貪欲であることを知って苦悩することが人間の存在証明かも知れない。そうであるなら、我々の生きることの意味は、苦しむことかもしれない。それなら多くのことが理解に及ぶ。
「幸福などというものは世の中にありはしない。それぞれの人間がそれぞれに一つずつ不幸を持ち、その不幸を癒すためにこそ生きている」。そう言われてみれば納得できる。食べることの楽しさが、空腹の苦しさが克服される道中の喜びであるように、我々は空腹のときも満腹のときも苦しい。それではいつが楽しいのか?食べているときである。なるほど、人生も同じことか…
自分の基本的な理念は、結果でなく過程においていた。いつごろそういう考えになったのかのハッキリした記憶はない。確かに人間は結果を求める。あくなき結果を追求して生きていくようだ。が、将棋であれ、数多のスポーツであれ、勝とうと思ってやるがそれでも負ける。勝ち組・負け組という言葉(結果)を自分は嫌悪した。人生の醍醐味は、その過程を楽しむことにある。