新潟女児殺害遺棄事件の容疑者が逮捕された。同じ子どもを持つ周辺の住人にとって安堵であろうが、遺族の悲しみが癒えるものではない。何より憐れなのは将来の夢を閉ざされた大桃珠生ちゃん(7)であろう。犯人と思われる小林遼容疑者(23)は、珠生ちゃんと同じ小学校を卒業、近くの中学校に進み、県立新潟工業の電気科を卒業し、被害者宅の近所に住んでいた。
電気工事関係の仕事に従事する容疑者は、事件当日は欠勤していたということからして、珠生ちゃんを強奪する計画を持っていたと推測される。強奪という言葉が相応しいのか、誘拐というべきかはともかく、殺害後に時間を経過して線路上に遺棄したとみられるのは、出血がほとんど見られなかったことにある。これは血流が途絶えたことで体温が下がったためである。
このような大事件後にしばしば言われることだが、小林容疑者の写真を見る限り凶悪そうな雰囲気は感じられない。悪人面が悪人というのも偏見かもしれぬが、これほどの残酷な事件を引き起こすタイプには見えない善人的な雰囲気が醸されている。高校生時代の作業服姿も、おそらく卒業アルバムであろう笑顔の写真も、どこにでもいそうなごく平凡な高校生という印象だ。
容疑者の心の闇まで写す出すことはできない。小林容疑者はこれまでの事情聴取に対し、「遺体を線路に置いた」という趣旨の話をしていている。現場には防犯カメラが整備されておらず、新潟県警は付近道路に検問を設置。多くの市民にドライブレコーダーの提供を求めながら、地道な捜査で不審者や不審車両を絞り込み、「黒の軽自動車」を割り出したようだ。
容疑者の周辺や近所の評判はよく、家族ぐるみで付き合いがあったという近所の70代女性は、小林容疑者が3、4歳のころ、女性宅でボール遊びをしていた姿を覚えており、「大きくなってからも、よく回覧板を持ってきてくれた。悪い印象は全くなく、小さい子に危害を加えるようにはとても思えない」と話したが、小さい女の子に危害を加える顔というものがあるのか?
犯罪者には犯罪者を思わせる顔はない。がゆえに誰もが驚かされる。別の女性も、「礼儀正しく優しい雰囲気だった」というが、それも事件とは無関係である。人は人を容姿・容貌を含めた先入観で判断するしかないが、自分もこの事件の犯人は、真面目で小心者で女性に縁のない典型的なロリコン男であろうと予測していた。彼らは同年代女性をことのほか苦手とする。
被害となった珠生ちゃんの雰囲気を見た感じでいえば、主体性も感じられず、大人を怖がるひ弱な少女こそが格好のターゲットである。珠生ちゃんは同日朝、「黒っぽい服のおじさんに追いかけられた」と友人に話していた。市教委によると、昨年9月15日午前7時半頃、同校から約450メートル離れたJR小針駅近くで、女子児童が年配の男に腕をつかまれた事件もあった。
また、同25日午後4時頃には同区小新で、女子児童が20~30歳代の男に左腕をつかまれた報告もあり、いずれの女児も1人でいて、男は黒い服で眼鏡をかけていた。事件後の9日夕にも同区松海が丘で、女子中学生が黒い服の50歳前後の男に追いかけられたとの情報を学校に寄せたため、10日、同区の市立小中学校に通う児童生徒の保護者に不審者情報メールが配信された。
学校関係者や知人らによると、珠生ちゃんは普段、同小に通う兄と別の女子児童の3人で登校していた。しかし事件の当日、兄は病院に寄ってから登校。女子児童も都合が合わず、珠生ちゃんはいつもの時間に1人で登校することになったというが、小林容疑者にとっては絶好の機会となったようだ。予防に勝る防御はないが、珠生ちゃんには不運が事件を招いたことになる。
痴漢や性犯罪は常習性があるとされ、小林容疑者は本年4月、別の女子児童に対する青少年保護育成条例違反などで書類送検されていたことも判明した。こうしたことから、珠生ちゃん事件の後に小林容疑者はいち早く、捜査線上に浮上していたことになる。被害者は珠生ちゃんと親族だけではない。近隣犯罪を起こした小林容疑者の家族はとてもじゃないが同地には住めない。
ふと思い出したことがあった。容疑者と同じ23~24の頃の同僚である。彼は母親をかけがえのない女性といい、母の日には必ずプレゼントをするという。男の子で成人後に母へのプレゼントは奇異に思った。彼は母への依存心を自覚をしていなかったが、自分との会話でこんなことを述べたのをハッキリ覚えている。「母親に代わるような何でもしてくれる女性が欲しい。
頼りたいときは何でも頼れるような女性がいるといいが、誰も頼らせてくれない。何でも打ち明けられることもできて、自分を海で泳がせてくれるような母のような女性はいないのだろうか?」。「そんなんじゃ、相手も迷惑だろう」と自分が応えたとき、「愛があれば迷惑ではないんじゃないか?」と、母子の先験的な情愛と、見知らぬ相手との恋愛を混同している感じに思えた。
人間は子どものときは親に頼って生きるが、大人になれば自分を頼って生きるようになる。「なる」を強い言葉でいえば、「そうすべき」である。それでも誰かに頼りたい、親に頼りたい、恋人に頼りたい、結婚して妻に頼りたいとの考え方は自分からすれば異常。頼るべきところはあるが、可能な範囲で自身を頼るべきで、むしろ頼られたい気持ちこそ男に必要だ。
こういう甘ちゃん男の出現はおそらく母親に起因すると考える。いつまでたっても母子の共依存を脱しきれず、自らが自らを頼ろうという心が育まれない。「イデオロギー」というのは、元来思想についての研究を意味する言葉だが、こんにちでは一つの社会体制を指すために転用されることもあり、この用法からすると、日本人社会のイデオロギーは、「甘え」である。
アメリカ人が自ら学費を稼いで大学に行くのを知ったとき、ブランド服や高級車を親から買い与えられる大学生は、いったい何のために大学に行くのか?まさにトレンド志向であるが、皆がそうであるがゆえのイデオロギーである。「自分がある」とか、「自分がない」とかの言葉は日本語に独特の言い方で、英語的にいえば、「彼は自分というものを持っていない」となる。
したがって、自我が意識されれば、「自分がある」などというのは当然であって、「自分がない」などということは論理的に不可能ゆえに、そのような英語表現は意味が伝わらない。欧米では言語的に一人称の使用が強制され、幼少期の早い時期から自我意識が目醒めさせられることで、一人称を使いながら、「僕には自分がない」などの表現は日常的とならなかった。
日本人がのうのうと、恥ずかし気もなく、「自分がない」などというのは甘えである。ひと頃、「自分探しの旅にでよう」などが盛んに言われたが、これとて甘えの心理であろう。どこか外国にでも行ってみたい心理の口実と自分には映った。「自分がない」から、「自分を探す」のだろうが、そんなもんが旅先で見つかるのか?自分探しとは自己変革の苦悩の産物である。
したがって、甘えた気持ちで自己変革は成されない。「自己変革は王国を覆すより難しい」という言葉もあるように、どれだけの苦しみと努力を伴うか。そうした代償を払ってこそ掴み取る自己変革である。「すべての犯罪は人間が孤独でいられないというところから起こる」。今回もこの言葉が過ったが、孤独を愛せぬ人間の末路が犯罪であるなら、人間は哀しい存在か。