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つくづく思うは親の難しさ 【結論】

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今の時代、自分の意見がすべて、自分の考えが正しいということはない。だからここには自分の考えを書いているが、正しいことを書いている気はさらさらない。とかく教育において、何が正しい、何が正しくないを見極める結果は数十年の先のこと。物事に誤謬はつきもので、これが正しいとされたことが数十年後に間違っていたと、否定されることも少なくない。

日本人が中流意識を持ち、誰もが高校を大学を目指すようになれば、そこには自ずと序列ができる。ならば、上位にいたいというのが人間の心理であり、そのために投資がいるというなら親は子どもにせっせと金をつぎ込む。そうして受験産業が隆盛し、受験テクニックを教えられた子どもたちが、有名大へと入学していく。彼らは教育をお金で買った子たちである。

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そういう人間を世間の人は頭が良いと持て囃すが、日本の最高学府である東大生が、日本型詰め込み教育式が生んだの世界におけるスーパーエリートという比喩はあながち間違ってはいない。世界的な視点で見れば、実学でない教養こそが、スペシャリストならぬジェネラリストであり、そういう人間が未来永劫に必要とされる人材であることに異論はない。

詰め込むだけ詰め込んで、後は吐き出すだけという反芻学習が、日本の受験システムにマッチしていたとするなら諸悪の根源は国家にある。「これまでの教育は教えすぎた。これからの教育は教えない教育である」。こんな分かり切ったことを、問題が噴出するまで分からなかった、手を打たなかったのは、国家が学歴信仰と受験産業と癒着し、支えてきたからであろう。

なぜこの国では、「先生が答えを準備し、それを暗記することが勉強」とされるようになったのか。さまざまな理由が考えられるが、高度経済成長と人口増加が原因とされている。高度経済成長期に入り労働人口が不足した結果、労働者量産の必要が生まれた。また、高度経済成長期における人口の増加は、従来方法では増えた子どもたちを、「さばききれない」状態に陥る。

そうしたことから、「答えのある問題を単に暗記する訓練」によって、画一的で自己意識の希薄な人間を量産する方が、企業にとってもメリットになる。「黙って言うことを聞く労働者」に必要な能力は、管理者から指示されたとおりに動くことだけで、自らの頭で思考する能力など必要とされなかった。これが後になって、「指示待ち人間」と批判されることになる。

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日本型企業経営の代表である、「トヨタ生産方式」は、工場等の製造現場やそれに付随するスタッフ部門だけでなく、間接部門においても取り入れている企業も少なくないが、その原点となったのは、戦時中において熟練工を徴兵されたことによる生産力の低下を補う方法として開発された経緯もある。何事も新しいアイデアや方法というのは、立ち向かう姿勢から生まれる。

同じように親子関係も、夫婦関係も、立ち向かう姿勢から解決がもたらせる。無風状態がいいなどは決してなく、親子という隔絶された世代間に争いがないのは、どちらかが死んでいることになる。昔の人は、「喧嘩するほど仲の良い夫婦」といったが、親子喧嘩も大いになされるべきである。なぜなら、子の親への受け身的依存心の継続は、自己不在感を増幅させるからだ。

どうせやるなら夫婦も親子も痴話喧嘩ではなく、ちゃんとした実りのあるバトルをやればよいが、論争に慣れない、論争を好まない日本人は、すぐに感情的になって両者の隔絶間が広がっていく。従属を善しとし、論争を悪とする日本人の最大の問題点がここにある。感情を廃止、冷静に、論理的に、自分の意見を言い合うことができないのは、初等教育に問題があろう。

その辺りから、他人の意見を批判したり、ちゃちを入れることを教師が望まないからで、望まない理由は、「批判」を悪と考えるからだ。これはもう、批判と非難を混同するバカ教師であり、批判が自己を作るという深遠な観点がない。同調ばかりに重きを置き、異質を排除する教が、学校という全体主義の場に向いてはいても、個性を持った子は、その個性を自ら育む以外にない。

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これはまさに自分のことである。どれだけ多くの大人に潰されそうになったことか。その時々に自分は大人たちを憎んだ。自分は無実であると信じ続けたことが、大人に迎合する姑息な人間にならなかった要因である。いわゆる、「大人から見たいい子」という概念を徹底的に嫌っていた。おそらくそれは、母親とのバトルに屈しなかったことで芽生えたものであろう。

「立ち向かう姿勢が解決を生む」。これを言い換えれば、「逃げていては何も解決しない」というのを体験的信奉する自分である。「逃げる」理由はなんであるか分からない。そこで、「逃げるが勝ち」という友人らに理由を聞いた。「面倒くさい」、「自信がない」、「関わりたくない」、「暇じゃない」などは言い訳がましく聞こえたが、「逃げて何が面白い?」は、素朴な疑問だった。

逃げるよりも、問題にしたいのは依存心の強い人間である。依存心の強い人間がなぜに問題なのかは、相手の土俵に乗って戦うという結果になるからだろう。これはビジネスを含めたあらゆる分野において、情けない状況である。つまり、親が依存心の強い子に育てると、その子は金魚のうんちにはなれても、主導的に物事をけん引していくことのできない人間となる。

他人に依存しない生き方、つまり、能動的に生きるために必要なのは、相手の土俵から出る…、即ち自分の土俵に立つことだ。ひいては、自らの言葉で話すということでもある。自分の考え、自分の言葉を編み出すために、依存心はなにより障害となる。親が子どもに依存したいことが、逆に依存心の強い子どもを育てることとなるという現実を親は知るべし。

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かわいい子だからと、だから依存されたいという親の個人的な、小事的な欲望が、強い心を持った人間を育てないなら、親は意を決して依存から決別する子育てをすべきである。私心を捨てて逞しい子どもに育てようとする親、またその様に育てられた子どもは、社会で大いにはばたくはずだ。大枚はたいて学歴を買うことより、ずっと、ずっと、ずっと優れた人間的資質である。

「名より実」というのは昔からある言葉。しかし、現実は「名」を取れば子育ての勝利者と錯覚する親が多いが、とんでもない。実学に長けていない学歴優秀者は、どんな有名企業に入っても無能をさらけ出し、上司からも信頼を得られず挫折する。あげく、「有名大かなんか知らんが、どんだけ親に甘やかされたんだ」となる。これも子育ての失敗であろう。

「うちの息子(娘)は素晴らしいいい子」というのは身内の見方である。欲目ともいうが、「かわいい子には旅をさせよ」というように、所詮人間は他人に認められてこそ価値をもつ。肉親・縁者が寄って集って身内を褒めそやしたところで屁の突っ張りにもならない。他人に認められる子どもをどう作っていくかの力点において、親の労苦や在り方を長々記した。

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