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つくづく思うは親の難しさ ⑨

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『男子、三日会わざれば刮目して見よ』が息子に対する言葉なら、『女子、三日会わざれば瞑目して見よ』と、これは自分の造語であり、娘を三人持ったことでの体験から思いついたもの。女の子は恐ろしく変わる。自身は変わるというより、綺麗を目指しているのだろうが、他人の目にはまるで別人のような変わりようである。あまりの変わりように目を覆いたくなる。

「ありのままの自分を出す」、「ありのままの姿を見せよう」、「あるがままに生きるのがいい」などというが、これは化粧をせずにすっぴんで居ようということではない。女性の化粧は身だしなみというが、そこは女性になってみなければ分からない。薄化粧もあれば派手なに塗りたくった化粧もあるが、それは好みの範疇で、化粧の楽しみは男にはわからない。

とはいいつつ、マツコやミッツマンは列記とした男。以前にくらべてオカマも女装子も市民権を得たというが、こうしたイロモノは芸能人だからやっていられるのである。ともすれば女装愛好家というのはブサイクな男が多いのはなぜだろう。やはり美しさへの憧れなのだろうか?おネエでもなければ、ニューハーフでもない、美しすぎる男たちの将来は、前途は、謎である。

「ありのままの自分を出す」のがなぜに推奨されるかを言葉にして言える人は少ないのではないか?「自分を偽らないから…」というのが答えだが、「なぜ、偽らないのがいいのか?」の理由を知っている必要がある。ありのままの姿を他人に見せたくない、晒したくない人は、自分に自信がなく、劣等感のかたまりである。では、なぜ自信が必要なのか、劣等感に固執すべきでないのか?


これは端的にいえば、自分を他人によく見せたい、思わせたいということになる。その様に振る舞う人は、本当の自分を好きでないのだろう。だから、他人もこんな自分を好きになってはくれないという心理が働くのだ。そういうものが劣等感となり、相手が自分の本当の姿を知ったら失望し、自分から逃げて行ってしまうという不安に襲われるのではないかと…。

本当の自分など受け入れてもらえない。だから偽りの姿を他人に見せる。だからいつも緊張し、気が休まることはない。綱渡りをするような気分なのだろうか?想像するだけでしんどそうだ。何かを隠そうとして緊張する人は疲れるだろう。他人に本当の自分を隠す人は愛情要求が強い。つまり、ふつうの人より不安であるがゆえに、ふつうの人以上に安心感を求める人だ。

依存心の強い人は愛情欲求が激しいのと同じ心理であろう。自分は、「依存」というのが大嫌いだ。水と空気に依存はするが、なるたけ人に頼らず宛てにせず、できる範囲を自分で行う。だから、人を宛にする何が自分を満たすのかがよく分からない。何事も自ら考え、自ら行動するのがいちばん楽しいことに思える。だから、無理をして人を宛にしないのではない。

我慢をして人を頼らないのでもない。自分のことを自分でしないで何が楽しいのかさっぱり分からないといった状況である。上手くいかないときは自分に文句を言えばいいのだし、それで何も問題ないどころか、頼んでもやってくれなかったと不満を漏らすことも、ストレスを感じることもないから、精神衛生上にもいい。人に頼んで満足いかないことを思う前に自分でやる。

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こうした考えの根源は自分に対する自信である。自信を持つことを、「自信家」といって嫌う人がいるが、何も自信を持つのが自慢ということではないのに、嫌う理由もよく分からない。そういう人は自信がない人を評価したいのだろうか?まあ、自信を口に出せば自慢だろうから、別に公言する必要はないが、自信=自分を信じることは、何より大事なことではないか。

「自信家のくせに失敗して…」と他人を嘲笑する人は、歪んだ性格である。これを裏返すと、「人からとやかく言われたくないから自信をもたないようにする」という風に聞こえる。憶病な人間は常に他人の目を意識し、それを自分の行動規範とする。可笑しなことよ。自己の行動規範が他人の目などと、あまりにバカげている。それくらい憶病人間は失敗を恐れる。

失敗して人からとやかく言われないために自信なさそうな素振りをする。何という憐れな性向であろうか。そういう人間の行きつく先は、「何もしないこと」に落ち着く。何かをして失敗するなら、しないでいる方が人からとやかく言われない。当たり前だが、何もしなければ失敗はない。どうしてこんな風に自己に過保護になるのか?傷つくことを極度に恐れているからである。

すべては自意識過剰がもたらせている。道を歩く人の誰もが自分を見ているように思うのだろう。他人の態度に敏感であるのは、相手に対する思いやりや心遣いという点では大事であるが、そうではなくて、他人の態度を鏡として、そこに映る自分の顔に敏感なのである。こういう人間が、他人を思いやる、いたわるなどの余裕があるはずもない。常に自分のことに精一杯。

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ゆとりのある人間とない人間の差は、人間関係に於いてもこうも違ってくる。「ゆとりのある人間」になるべきだが、そうなれなかった原因はおそらく親にあるのだろう。何においても細々と、それこそ重箱の隅をつついたような親に育てられると、そういう性向になる。デ~んと落ち着き払った父親が家にいるだけで、そういう父を見ているだけで、子どもにはプラスになる。

せせこましい人間は何においてもせせこましい。子どもの性格のほとんどは親の影響からと考えている。人間の自己形成の過程で、良い影響を与える親が傍にいるか、もしくは反面教師として相応しいダメな親であるかである。自分の体験を軸にいうなら、良い親からでなくとも子どもにはプラスになるが、この場合の子どもは是を是、非を非と見定める子どもに限る。

赤ん坊だって意志を持つが、赤ん坊は細かい表現はできない。だから泣き叫ぶ声と若干の身ぶりが手段である。しかし、鋭敏な親はその本能的直観力で、赤ん坊のあらゆる要求を聞き分ける。生半可な知識は、むしろ本能的直観の妨げになろう。赤ん坊が幼児期~学童期に成長すれば、それこそ様々な表現手段で自らの意志を伝えることが可能とあり、むしろ伝えていかねばならない。

親は子どもから発信された彼らの意志を汲み取り、それを咀嚼していかねばならないが、親の欲や願望があまりに強い場合、子どもの意志は踏み倒されることとなる。自分が考える幸せな子どもの定義は、本人の意志で何かになることが、この世に生を受けた幸せである。子どもがなりたい何かを無視し、親の意志で無理に医者や弁護士にする必要がどこにあろう?

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