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Channel: 死ぬまで生きよう!
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子猫はどこへ行った?

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60年代のフォークソング・ブームに作られ、歌われた多くの楽曲はプロテスト・ソングといわれ、反戦、軍拡、国政、貧困、民族差別など、政治的抗議などのメッセージを含む歌の総称をそう呼んだ。その中でも、『花はどこへ行った』(原題 Where have all the flowers gone?)は、プロテストソングのバイブルとされ、多くのシンガーに歌われ、多くの聴衆に愛された。


 花はどこへいったの?
 少女がみんな摘んでしまった
 
 少女はどこへ行ったの?
 みんな若い男たちの下へ行った
  
 若い男たちはどこへ行ったの?
 みんな兵士として行ってしまった
   
 兵士はどこへ行ったの?
 みんな墓場へ行ってしまった
    
 墓場はどこへ行ってしまったの?
 花一杯に咲いて囲まれている
     
 花はどこへいってしまったの?
 少女がみんな摘んでしまった

      
歌詞の構成は、最初に提示された命題が最後に再び戻り、返されながら続いて行く無限のつながりの中で、「一体、我々はいつ学ぶのだろうか?(when will they ever learn)」という問いが投げかけられている。性懲りもなく愚かな戦争を繰り返す人類への嘆きともとれる歌詞であろう。作詞作曲は、アメリカンフォークの父とも形容されるピート・シーガーによる。

子猫がカラスに襲われた現場に行ってみた。子猫はいるのか辺りを探してみた。同じところを何度も堂々巡りをするだけで、子猫たちの姿はなかった。少女たちに連れ去られたのかもしれない。などと思いながら探しているのは、子猫たちの死骸なのか?このまま放置すればおそらく子猫は死ぬだろうとの思いで立ち去った自分だから、せめて死骸でも見つかればの思いがある。

あれから5日も経っており、そこにいるはずはないと思いながら、それでも辺りをくまなく探した。翌日も同じように、同じ場所を探したが何の形跡も見当たらなかった。見当たらないと余計に気になって探すもので、これはない物ねだりの心境か?東北地震の津波で家族3人を亡くした木村紀夫さんは、その後、5年9か月も娘たちを探し続け、やっと見つけたとの記事があった。

見つかったのは木村さんの次女の汐凪ちゃんだが、木村さんによると5年9か月めにしてやっと見つかった遺骨は、あまりに小さく、あまりに少なすぎるということで、死体検案書が作成できず、統計上は、「行方不明者」のままになっているという。「5年9カ月の間、見つけてあげられなかった娘。喜びよりも辛さと憤りが湧いてきます」とは木村さんの心情である。

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死体検案書が作成できないとか、統計上は、「行方不明者」のままであるとか、行政の事務的都合はともかく、小さな欠片であれ、それがまぎれもない我が子なら、何もないより気持ちは晴れる。「喜べない、辛いし、憤りしかない」という心情もわかるが、娘が見つかったことは喜ばしい。それはさておき、子猫はどこに行ったのだろうか?そのことが頭から離れない。

あの日(5月4日)、実は不思議なことがあった。知人の女性がGWに実家に帰省し、4日の夜に自宅の飼い猫の画像を送ってきた。昼間に子猫のことがあったことから因縁のようなものを感じたが、メールに返信はしないでいた。彼女は6日の夕方帰ってきたが、猫好きの彼女を慮って子猫のことを言うべきかどうかを躊躇ったが、悲しむだろうと思いつつもいうことにした。 

話終えると彼女はすぐに、「そこの場所に連れて行って!」と、お願いされて驚いた。予期せぬ言葉に、「もう2日も経ってるし、いないと思う」というしかなかった。彼女が執拗にそこに行きたがっているのは分かったが、「いないと思う」という自分の言葉に促され、自身を諭す様子も伺えたが、話を聞いた直後はいてもたってもいられない様子であった。
 
そこに行く気のない自分だが、彼女のあまりの反応に、「もしいたならどうする?」と尋ねると、実家に持って帰るという。実家の猫も母親が拾ってきた捨て猫を育てたという。確かに以前、そのようなことを聞いたが、あまり興味のないことだからか聞き流していた。彼女はしきりにどんな大きさ?こんなの?とスマホにある実家の子猫時代の画像を見せていう。

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「そうそう、これくらい。同じ感じ」。自分には子猫はどれも同じに見え、確かに似たようなのがあった。心底彼女は諦め切れていないのは伝わるが、なぜ制止したのかの罪悪感はあった。この一件はblogにも、「人の不幸に同調しない」と、『賢人の知恵』の一文を書いてはみたものの、「すぐにそこに連れてって!」と、すぐさま反応した女性の思いに圧倒された。

「人の不幸」、「猫の不幸」に同調しないが賢人とはいえ、咄嗟に子猫を助けたいという気持ちの美しさが愚者であろうはずがない。カラスから守ってやる事だけしか頭になかった自分の行為が最善ではないとは思いつつ、最善が何かについて思考をしなかったのは、はかならずも自身の都合優先である。そして数日後、自分はこの場合の最善が何かを見つけることになる。

もし同じ状況に再び遭遇したなら、迷うことなく段ボール箱を見つけて子猫を家に持ち帰る。そして彼女に託せばいい。それが最善であることを知った。「捨てる神あれば拾う神あり」という慣用句がある。なぜに、「捨てる神」なのか?拾う人にとって、捨てる人の恩恵に預かるとの解釈であろう。渋々ではなく、拾って大切にするのであれば、捨てる者とて神となる。

不思議な言い方だが、人間関係の機微を象徴した言葉である。捨てるのは飼い猫を持つ人間だけではないという。野良猫であっても、育てられないと踏んだ子猫を親は捨てるという。いかにも自然界の厳しさである。いずれにしろ、育ててくれる人の存在を知ったからには託せばいいし、こうした場合の最善である。自己の都合とはいえ、置き去りにするのは心も痛む。

イメージ 3

どれだけ本を読み、どれだけ知識を蓄えようとも、自分の位置や立場、正しい行いや立ち振る舞いを見極めんとすれど、自分にできない事は多い。ならばこそ、こうした場合の、「拾う神」の存在は際立つ。自分にはできないことを望んで行為する人がいるという、普段は見逃しがちな現実を改めて知ることになる。「自分にはできない」は、決して負い目ではないが…。

それができる人はまさに神、「拾う神」であろう。あることがその人にとって災いし、別の人にとっては喜びと、人間は斯くも多様である。災いと感じるのは悪いことではないが、同じことを災いと感じもせず、むしろ喜びとなるなら、そういう人にバトンを渡せばいい。自己の不安をくつろぎに変えることを、「安心感」というが、安心感をくれる人の存在は希少である。

あの場所を通る度にあの日のことを思い出す。最善を尽くせなかったあの日の自分の複雑な気持ちだが、最善を見つけた以上それはない。安心感や安堵感というのは、人間の生きるためのテーマと考える。どうすれば、「安心感」を持って生きられるかということだ。今回のことで分かったのは、人は(誰かに)受け入れられることによって、安心感を得るということだ。

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