『男子、三日会わざれば刮目して見よ』
という慣用句がある。これは日本語に置き換えた言葉で、原文は「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」(出典『三国志』)。意味は、「日々鍛錬する人が居れば、その人は3日も経つと見違える程成長しているもの」。よって前者の意味は、「男の子は三日も会わないでいると驚くほど成長している。親は目をこすって息子をしかと見るように」と、諭している。
子どもの成長を背丈や体重で捉えれば、わざわざ目をこすって見ずとも歴然だが、「刮目して見よ」とは心の中味に言及している。見えないからといって心の成長を親は見落としがちになる、だから、「刮目せよ」となる。いわば子どもの自己点検を子どもに変わって親がする。子ども自身は自己点検をしようとなど思わないし、そうした機会もない。だから親がする。
自立の一歩を踏み出すほどに逞しく成長しているか、否かの自己点検である。親が余程の困窮でない限り、多くの子どもは依存心を寄せて成長する。だから親が必要となるが、人間と動物が大きな違いは、本能で子育てをする動物に反し、人間は感情で子どもを育てる。人間の親が子どもに依存するから子を育てる面があり、子どもは依存心の強い大人に囲まれて育つことになる。
親の依存心が子どもに与える影響は大きく、子どもが成長しても抜けきれない親がいる。動物の親が子どもに依存することはないが、人間は子どもに精神的に依存するのは、かわいい子どもを育てたことで情が育まれた結果である。情で子育てをしない動物と人間の違いが子離れできない人間を作るのは止むをえない。あとは、それを理性によって止めるのが人間の使命となる。
幼児期に周囲の人たちの温かな愛情に触れることは大切である。大人になってからも、温かい愛情を持った人の中に身を投じることも大切である。しかし、大人の世界(社会)は苛酷で厳しい。偽りの人間関係が偽りの世界を生み、自身も偽りの世界に身を投じることにもなる。おだてを褒められたと錯覚したり、正しいことをしても咎められたり批判されたり、それが社会である。
日常の人間関係の中で起こるこうした矛盾や軋轢にどう対処し、解決していくかの基本は、幼少期の育て方にあるということ。しっかりした子どもは、しっかりした親に育てられるからしっかりするのであって、子はまさに親を映す鏡である。ところが、しっかりした子の親は、決してしっかりした子を作ろうとしたわけではない。ごく普通に育てたと振り返る親がほとんど。
その理由は、「しっかりした教育」が何であるかを親がキチンと捉えていたからである。「しっかり」には意識的に行うこともあるが、本来的な性格に加えて、熱意や真剣さから生まれたゆるぎのない、「しっかり」の相乗効果であろう。そういう親は、「何も特別なことはしていない」と感じるのだ。誰も我が子を、「いい加減」な気持ち育てないし、育てたいとも思わない。
それでありながら、「しっかりした子」、「そうでない子」の差は、「しっかり」感の意識の差であろう。意識して育児書を読み、子育てに関する講演会に参加するお母さんは真剣に子育てに取り組む姿勢に受け取れる。が、着飾って講演会に行く母にはどこか不純な要素が見受けられる。昔読んだ子ども作文に感動させられたが、野良着で参観日に来る母を慕う子どもである。
香水ぷんぷんの母とは違う土の臭いのする母。畑仕事の途中に抜けてきた母であるが、そんな母を周囲は茶化す。この子が強いのは茶化されても動じなかったこと。自分の母は仕事を中座して参観日に来てくれたこと。その子にとってはこれ見よがしに着飾る他のお母さんより立派に思えたこと。同じ年代でこの精神年齢の差は凄い。まさに子育ては、「力仕事」であろう。
「力」を英語で、「パワー」というが、日本語でいう筋肉の、「力」とは違い、パワーとは、「仕事率」という意味がある。仕事には様々な要素があり、多くの知識や判断力や洞察力や勇気や決断力も含めて、「力仕事」である。子育ての本でどれだけ知識を得てみても、判断力や勇気や決断力がなければ、それは、「しっかり」に当て嵌まる子育てとはならないだろう。
「しっかり」した人間というのは、判断力や勇気や決断力を持った人間をいい、そういう人間が子どもの心を読み取るための心理学的知識をプラスすればいいことになる。したがって、講演会や教育書から知識をたくさん得た母親は、判断力や勇気や決断力を身についているかの問題がある。それが知識を効果的に実践することになる。勇気や決断力を得るにはどうすればいい?
聞きかじりの知識だけが豊富な若い女性を、「耳年魔」という。彼女たちは、「しっかりした」考えを持つ、「しっかりした」人ではない。確かに熱意はあるのだろうが、「熱意=しっかりした」人ではない。手前みそだが、あからさまな事実をいうなら、自分がしっかりした人間かはさておき、子育てにしっかりした考えを持っていた。その理由は、ヒドイ親を持ったことにある。
子どもがこんなに親から苦しめられていいのだろうか?こんな親でいいハズがない。という体験的問題意識が、正しい親のあり方を模索したのは必然である。こんな親には絶対になりたくない。親は子どもにどうあるべきかを子ども目線で考えるなら、子育てというのは、子どもを精神的に追い込んだり、苦悩させるなどあってはならず、子どもの心を傷つける親は親ではない。
自分は子育て講演会に行ったことも、行きたいと思ったこともない。ルソーの『エミール』と、井深大氏の『ゼロ歳からでは遅すぎる』だけは読んだ。どんなよいことでも読むだけではただの知識、それらを実践することに勇気がいった。が、本当に役立ったのは書物ではなく、実母から体験した言動の数々である。それらは何にも増してすばらしい反面教育の素材となる。
母親から感じさせられたことは、「自分(子ども)のためになることは何ひとつなかった」である。彼女は自己の満足と世間に対する体面だけが大事であった。そういう親にありがちな、周囲や他の子どもや親との競争心が半端なく強かった。そのことがどれだけ子どもを苦しめるかなど、気づくはずがない。自分の欲望を満たすために子どもを利用しているように映った。
「それでも親なのか?」これが自分の母親に対する問題意識である。なぜ母親は、そうまでして子どもを自己の欲望の犠牲にするのだろう?「犠牲」などの考えはこれっぽちもなく、自己イメージの高さに沿わせたいのだろうが、それこそが子どもに自己犠牲を強いることになる。多くの母親は、「子どもの将来のため」、「子どもの幸せのため」との思い込みで自己正当化する。
「自分は愛されていない」、「親が大事なのは自分の欲と世間への体面」などは子どもに伝わるが、何もできない憐れな存在だ。反抗することで自己を主張をするしかない。子どもは自らの将来を自ら決定できるが、親に依存する境遇ゆえに親の意向に逆らえない。子どもの将来を決めるのは親ではないが、自立心や自我が芽生える前から我が子のレールを敷く親は多い。
したがって子どもの依存心の増大は、親の自己中心的要求に屈服した結果である。意識下では親への不信感を抱きながらも表面的には親への不信を抑圧し、親に依存するのが一般的な子どもであるが、小学低学年の段階で自分の将来を見据え、囲碁や将棋の棋士になりたい、サッカー選手になりたい、歌手になりたい、看護師になりたい、そういう目的を持った子は幸せである。