『菊と刀』に記された日本人像を集中的に書いているが、「義理」の項目がでたついでにオフチンニコフの、「義理」について述べておく。彼は自著『一枝の桜 日本人とはなにか』で、「義理としての良心と自尊心」と題して記しているが、「日本人の行動を、複雑な機械装置のようにゆっくりと動かしている二つの隠れたゼンマイがある」の書き出しで始まる。
ゼンマイの一つは「義」、二つ目は「義理」とする。「義」とは、恩義・信義・仁義・正義・大義・忠義・道義・義務などが示すように、人のふみ行うべき正しい筋道のこと。どこで調べたのかオフチンニコフは、「1960年度に結婚したカップルのうち、85%は両親が取り決めた結婚」と記している。娘が父の決めた相手との結婚に抗う映画『彼岸花』は1958年度作である。
親の決めた相手との結婚が、当然とばかりという風潮が伝わってくるからして、オフチンニコフのデータはあながち嘘とは言い難い。息子や娘の義務とは、両親の選んだ相手に魅力を感じなくとも祝言をあげるのが、親孝行という時代である。親の願いを叶えること、親の言いつけに従うのが親孝行というなら、これほどバカげた親孝行はないという考えを自分は持っていた。
オフチンニコフもベネディクトも、「義務」という言葉には極度の抵抗感を抱いているが、子どもを作り、産み、育てる親の義務は当然として、外国人は日本人の子どもの親への義務を恩義で叶えることを理解できないのは当然であろう。自身の生涯で最も重要な問題を決めるのに自主性を持たず、持たせず、年長者のみが若者に立派な伴侶を見つけてやれるということか。
親に対する恩義を以下のように揶揄する。「親の意思に従って家系の存続を保障したら、男は何人でも好きなだけ妻以外の女と関係をもってもかまわないし、良心の呵責を感じることはないし、また自分の家庭の基盤を危うくすることもない」。オフチンニコフは極端なことを言っているのではない。親の決めた相手との結婚が大事なら後はどうでもよいのかと…。
日本人の性格が時代的影響を受けてどれほど変わったにせよ、日本人が生まれついた性格は、「恩に対する義務の表現としての両親の意思への従順さということ」と述べている。日本人の親への恩は、オフチンニコフのいうように先天的なものとは思わないが、外国人にはその様に画一的に見えるほどに、日本人は異質な人種として映っていることになる。
親への従順さは後天的なもので、これは育てられ方から派生する。儒家思想の影響もあるにはあるが、日本人の性質は戦後に西欧の個人主義的合理主義の影響もあって、かなり変節している。一例として、人前でキスをしたりなど、いわゆる路チューは何ら珍しいことではなくなった。オフチンニコフが日本に滞在したのは1962年から1968年までの6年間である。
1962年といえばビートルズがデビューした年で、日本公演は1966年だった。ビートルズは世界の若者を変え、日本の若者を変えた。オフチンニコフは1966年に40歳になっており、ビートルズがもたらせた権威や体制に反抗する若者に視点が行っていなかった?過渡期であったし、親に従順な良い子もいた。昨今はどうか?子どもに従順な良い親の時代である。
「木を見て森を見ず」のオフチンニコフは現在92歳で存命だが、変わったのは日本ばかりではない。世界が変わり、ソ連の体制も大きく変わっている。フリードリヒ・ニーチェは19世紀の哲学者であるが、彼は欲望の差異化や価値の多様化に喝采やエールを送る思想家ではなかった。今から130年も前に、「現代を彩るのは、『三つのM』である」と喝破している。
つまりは、ほんのムード(mood=気分)だけの欲望や自己主張を、ほんのモーメント(moment=瞬間)だけ目立てばよいのだとの算段から、大衆的熱狂のムーヴメント(movement=運動)として表出する。それが大衆という生き方であると言った。日本のこんにちの現状でいえば、それにマモニズム(mammonism=拝金主義)を加えて、「四つのM」とすべきかも知れない。
「義」の斯様なものとし、「義理」というのは、特に日本的な概念であり、孔子の教えにも仏陀の教えにも共通するものがない。日本人をして、「義理と人情の世界」というが、人情はわかるが義理をどう説明すればいいのだろう。「義理」を分かり易く考えるのに。「義理チョコ」がある。言葉や行為は分かっても、「義理チョコ」の本当の意味はいったい何ぞや?
Wikipediaにはこのようにある。「義理チョコとは、感謝の気持ちや、コミュニケーションの円滑化を目的として、女性から男性に対して贈答するバレンタインデーのイベントのひとつであり、恋愛感情を伴って意中の人に手渡す、『本命チョコ』とは一線を画す目的を持つ」。それで、「義理?本命?」などの尾ひれがつくのか。くだらないことがなぜに横行するのか?
これには社会学者が、「義理チョコ」の深層を言い当てている。「義理チョコ」であれ、お返しのホワイトデーにただならぬ狙いを定めている女性のしたたかさであるという。こうした贈答加熱の思惑が助長すると、「義理チョコ」を自粛・禁止する企業が続出し始める。こんなところにもマモニズムが反映する時代。「義理」というものは本来こうしたものではない。
「義理」とは人間をして、ある場合においては何か自分の欲望とは別の、あるいはそれに反すること、もしくは自分の利益に反することを行わせる、道徳的必然性のようなもの。そうであるなら、「義理」とは、「良心」に近い情動とみれる。善とか悪とか、抽象的な概念以外のものに基づいた義務意識とするなら、ある種の人間関係という規則に基づいた義務意識と考える。
義理の母、義理の父という呼び名が示すように、実質上のリアルな親ではないが、婚姻関係に基づいたうえでの事実上の母であり父であって、「おかあさん」、「おとうさん」と呼んで何ら差し支えない。ただ、文字で現わす場合は、「お母(義理)さん」などと書式する。違えなくてもいいが、違えたいニュアンスが湧くのも、それもまた人間関係の機微が影響する。
実の父母に抱くような恩義とは別の、それとは違ったものが日本人にとっての「義理」であるからして、うっかり大きくさせないよう、用心する重荷のようなものでもあるのだろう。義理の母といっても(姑)という別の呼び方もあり、嫁いだ嫁からすれば、一筋縄ではいかない微妙な関係となる場合がある。義理で、「おかあさん」であるが、義理でもそうは呼べない嫁もいる。
義理を理解できないはずのオフチンニコフが、義理について鋭い考察をする。「自分自身に対する、『義理』は、侮辱を受けた場合、その報復をするという必要から少しも拘束を受けない。自尊心が強くなると、日本人は自分でも他人でも見下されたりすることになる恐れのある立場に陥ることを避けようとする。つまり、『面目を失う』ことを当事者双方が怖れている」。