幸せな結婚がある以上、不幸な結婚もある。不幸な離婚があるなら、幸せな離婚もあるようだ。なにごともひとくくりにして考えるのは浅はかというもの。結婚形態が変貌したこんにち、離婚の形態も変わっている。50年くらい前を思い起こせば、「離婚は最悪、最低の人間のやること」と思っていた自分は、何が何でも離婚は避けるべく忍耐するのが賢い女性と思っていた。
なぜ、そのような考えであったかといえば、女性の社会的地位が低い時代で、女性が離婚すればそれこそ不幸のどん底に落ちる思ったからだ。それもあって、妻は夫の浮気や道楽三昧に泣かされようが、姑にいびられようが、じっと耐えて妻の座を死守するのが聡明な女性と思っていた。それからするとまるで考えが変わってしまった現在の自分で、これも時代の変化だろう。
大人の都合で離婚をするなど子どもはいい迷惑、被害者と思っていた。親の離婚経験のない自分は、子どもがどういう心境になるかが分からない。小学生のころ、昨日まで田中という苗字だった女の子が、急に佐藤と名を変えるケースはあったが、何でそうなのかをとりたて疑問に思わず、変わった名を呼ぶだけだったから、ましてや親が離婚したなど想像すらしなかった。
父は時々、家出をしていたようだ。家業をほっぽり出していなくなり、数日後に帰ってくる。そんな父にあからさまに愚痴をいう母を見て、家出をしたと感じていた。そうでもしなければやってられなかったのだろう。物心がついたころから目立った喧嘩や言い合いなどはなかったと記憶する。明晰な父は親が子どもの前で無様な醜態は見せぬよう計らっていたのだろうか。
母を怒らせて無駄なエネルギーを使うより、「損して得取れ」の心境だったのかも知れぬが、母にムカつく息子にとっては不満であった。男二人が共闘して母親に対峙するのをどれほど望んだことか。若い時分にはたてつく母をやり込めていた父であったが、人生経験を積んで寛容になるのか。経年で短気になるような男も知っているが、キーワードは柔軟性であろう。
年齢に関係なく、「柔軟性」が高くなると気持ちが穏やかになり、逆に失われると短気になりがちになる。柔軟性を高めるためにはどうすればいいかを考える必要がある。体の柔軟性を高めるにはストレッチ、精神の柔軟性を高めるには、「ブレイクパターン」というアンガーマネジメント(Anger management)のテクニックがある。ブレイクパターンとはパターンを壊す。
日常生活の中は、ついついワンパターンになりがちだから、慣れている事を意識的に変えてみる、パターンをブレイクする方法だ。ストレスに強い自分を作る方法」をお伝えしました。アンガーマネジメントなる怒りを鎮める心理療法があるのを最近知った自分は、このような知識などなくても、年齢に合わせていろいろ自分で考えながら自分をマネージメントしているのだろう。
人生を楽しくしていこうとすれば、自然にいろいろなことは浮かんでくると思う。「生き甲斐を見つけよう」、「生き甲斐のない人生はつまらない」などの老人向けスローガンを見かけるが、そもそも生き甲斐とは何ぞや?と、生き甲斐の強制について批判的思考を向けてみた。その結果、生き甲斐の基本とは、無理に生き甲斐を見つけることではないと考える。
「生き甲斐」とは生きるに値するだけの価値である。これはどこか可笑しな言葉で、生きるに値する価値といっても、それって何だ?だから見つけようということなのだろうが、そんなものをわざに見つけようとしなくとも、人生は楽しいものである自分は、「生き甲斐」のない、「生き甲斐論」を提唱したい。むしろ、生き甲斐を探す方が大変であり、至難である。
「生き甲斐が欲しい」など言ってる人が、本当に生き甲斐を求めているのだろうか、どうにも疑問である。無理に探すべきものかも疑問である。だからか、「生き甲斐のない陣せないつまらない」は、自分に言わせれば茶番である。だいたい、「生きるに値するだけの価値」などという生き甲斐論に笑ってしまう。生き甲斐というが、誰もが見つけられるものではなかろう。
ということで、「生き甲斐」なき、「生き甲斐論」について書く。生き甲斐が生きるに値する価値といっても、生き甲斐などなくても生きる価値はある。見つける必要などない。もし、生き甲斐のある生活を送りたいなら、自分のありのままの姿を直視する勇気と、洗いざらい自分をさらけ出してみることと、一切の甘えを自分の中からなくすことではないのではないか?
これが自分のいう生き甲斐なき生き甲斐論の根幹である。つまり、自分を偽り、飾り立てている限り、生き甲斐とは永遠に無関係の生活をするしかない。それが生き甲斐である。そうする生活こそ生き甲斐である。「夫 (妻) との生活がつまらない」、「何の変哲もない空虚な毎日だ」などと言ってみたところで、それに代わる生き甲斐となると不倫でもするってことか?
そう決めつけるわけではないが、一切の虚飾を捨てて生活に取り組んでみるところに、生き甲斐は生まれてくると思わないか?思わないからやらない、思うことはやる、というのも案外食わず嫌いかも知れないからだ。自分の外にばかり生き甲斐を求めるのではなく、内面にこそ生き甲斐はあるといいたいのだが、だから、虚飾の自分を捨てる必要が生じる。
生き甲斐なんてのはアクセサリーではなく、内面の充実と言ってもいいだろう。甘えを捨てるというのも大事である。なぜなら、甘えた人間というのは、周囲の好意をあてにし、自分の行為にさえ周囲が同情してくれるのを当て込んでいるからだ。「教育」という本質は、実は、「甘え」を断ち切ることではないか。そう考えれば、何のための教育かが分かろうというもの。
いつまでも子どもを甘やかせている親は、教育などしていない。親に従うのが良い子といっても盲従は美徳ではない。不作の妻への忍従も何の美徳であろうか。不幸な結婚生活より、離婚で幸福になった人は少なくない。結婚も就職も実験主義と思えば、離婚も離職もさして悩むことでもない。道徳的良識に抑圧されることもない。自たの良心を開放し、自由に生きるべし。
何が正しく何が悪いのかを考える時に、ある種の偏見が災いすることがある。その偏見が正しさに歯止めをかけていることもある。人間がいったん偏見をもつと、たとえそれが偏見と分かっていても偏見から解放されない。その場合にやるべきことは、思い切って自我を解体する。自我解体は至難であるが、その過程は偏見を持った人間が偏見を脱する時の状態である。