昨日述べた目的のためにする勉強は、目的が適わない場合は徒労に終わる。予定の目的地を目指す旅も旅だが、行く宛てのない旅は立派でないとどうしていえるだろう。人の長き人生のどこの部分を切ってもそれぞれの人生である。どこからどこまでが自分の人生とは言えないし、そうであるような生き方をすることが必要ではないか。人生は尻切れトンボのようなもの。
このような考え方が母親(や女性)から非難されるとき、「ああ、自分は父親(男)だな~、男なのだ!」と実感する。さらには女性や母親と考えや価値観が違うとき、男でよかった、男親でよかったと思うこともある。母親に病理があるように父親にも病理がある。精神科医たちが父親や父子関係に言及することは、母親・母子関係の考察や研究に比べていかんせん乏しい。
したがって、精神病理あるいは人格発達に影響を及ぼす父親の問題とは、現実の父親がどのようであったのかという事実的要素に加えて、子どもにとって父親とは何であるか、何をしてくれていたのか、何であったのかを知ることでもある。即ち、父親の問題とは、子どもがどのように父親関係を体験したかという、子ども自身の主観的体験にあるということであろう。
父子関係の客観的観察を実証し得る次元のものではないというほどに、父親病理という研究は父親と患者の個別的な主観的体験のなかにおいてということになる。精神科医や精神分析を専門とする学者による分析もあれば、著名人による自伝に出てくる父親像を知ることもできる。また、作家や文学者が描く作品にでる父像は、学術論文と比べて質的差は歴然としている。
一方は可能な限りの客観性を求められ、他方は読者をいかに共感せしめうるかによって作品の評価は定まろう。作家が作品を描く内的動機は様々であるが、少なくとも共通するのは己を語らずにおれない衝動であろう。それは作家に限らず自分たちにおいても父や母にかかわる一切の事象と己自身の問題とを関連させて表現したい、書き留めておこうと試みる。
「書く(著す)」は、「思う」の具現化であり、書き手自身が自ら、「個」と主体的に取り組まざるを得ない衝動に追いやられていることによろう。身辺に起きている事象と己とは、いったいどのような関わりをもっているのかについて、真剣に問い始めるのである。よくある事象として、肉親や父母の死に遭遇した際の、極限的状況に置かれた際に書かれた文を見ることがある。
「父親とは何?」という設問の答えは様々であろう。さりげなく思うところの父を語る者もいれば、つとめて父親を究明しよう、してみたいという衝動から細かく思考を重ねる者もいる。そこには自身が父に母に希求し続けたものが一体何であったのかを究明することは自身を問い詰め、真の自分を探り起そうという試みである。自分を知ることは他人を知る上でも重要となる。
雑多な社会の中で、自分とは違う価値観を持った他者を理解し、その違いを認め受け入れるには、自分のことを知っておくのは必然となる。自分という人間はどんな時に、どんな考え方をするのか、どんな感情を抱くのかも自分を知ることになるが、過去に遡って父や母に対し、親の行為や言葉に自分はどう反応したのか、それでよかったのか、別の何があったのか…
それも自分を知ることになるというより、そうした積み重ねが実は自分という人間を作り上げたのかも知れない。「温故知新」とはそういう意味にも取れてしまう。今の自分を成り立たせているものは、過去のどこかに起点があったはずであり、それが、「あの日」、「あの時」であったかも知れないというのは、まさに人間のドラマである。二つにまたがる道の一つを進んだ自分。
それが今の自分を作り上げたことを否定できない。過去に遡って、もう一つの道を進むことはもはやできないが、なぜその道を選んだかに父や母が影響することもあったろう。あの人たちは正しかったのか?正しくはなかったとするなら、自分が安易だったのか?あの日、あの時、正しい道は何であったのか?人生は決して一つではなかったはずなのに、選んだことで限定された。
自分にはもう一つの生きる道があった。その道を進むことで別の新たな自分像を考えてみることはできる。今という日は二度とないように、過去のあの日も変えられないが、多くの思考を重ねることで、明日の選択は広がるかも知れない。多くの人たちは、「何でもう少し考えなかったのか」、「軽率だった」などという。だからこそ、明日を考えればいいのではないか。
(子として)父にああすればよかった。父として(子に)こうしてやればよかった。二つの父の狭間で父について考えてみる。それで少しは父が何であるかを理解できるかも知れない。坂口安吾は敬愛する作家である。彼にも自伝を綴った『石の思い』という作品がある。その中で驚くのは安吾少年と母との関係。安吾は少年期の長い期間にわたって母を憎んでいたという。
安吾の母は後妻であった。母と年齢もそれほど違わない3人の娘がいて、上の2人の姉たちに共謀されモルヒネで毒殺されそうになったこともあった(『新潟毎日新聞』に事件の顛末が連載されている)。安吾はこう記している。「私は私の気質の多くが環境よりも先天的なもので、その一部が母の血であることに気付いたが、残る部分が父からのものであるのを感じていた。
私は父を知らなかった。そこで私は『伝記』を読んだ。それは父の中に私を捜すためであった。そして私は多くの不愉快な私の影を見出した。父に就て長所美点と賞揚せられていることが私にとっては短所弱点であり、それは私に遺恨の如く痛烈に理解せられるのであった」。父の伝記というくらいに、安吾の父は県議を15年勤めた後、衆議院議員として中央政界で活躍した。
父仁一朗について安吾は、「父は自分とは無関係な存在だった」という表現をする。しかし、父の伝記を読んだ安吾は、「そこに見たのは私の影だった」と述べている。安吾は1カ月に一度くらい、父の書斎で墨をするのを手伝わされていた。書斎以外で父と接触することもなく、書斎で言葉を交わすこともなく威張りくさった父は自分とは、「無関係な存在」と表現した。
「私は私の心と何の関係もなかった一人の老人について考え、その老人が、隣家の老翁や叔父や学校の先生よりも、もっと私との心のつながりが希薄で、無であったことを考え、それを父とよばなければならないことを考える」。自伝のタイトル『石の思い』の意味とは、父は「石」の様だったと。そしてその父の姿を、面影を偲んで安吾自身が感覚する。自身もまた、「石」のようだと。
県会議員を15年も勤め衆議院議員であった父。代議士の他にも、新潟新聞社社長、ラジオ新潟と株式取引所の理事長などを兼任する父は、安吾にとって畏れ多い父であった。ゆえにか、伝記で知るしかない父であった。果たしてこれが父であろうか?自分がもし同じ境遇であったなら、安吾と同じ、父は自分などと何らかの関係などあるはずもないという感じになろう。
安吾は47歳で父になった。半ば諦めていたからか、『人の子の親になりて』に望外の喜びを綴っている。「私はこの子には何の期待もしていない。どんな風に育てようという考えも浮かばない。ただ真っ当に育ってくれと願うだけで、そして子供の生まれたことを何かに感謝したいような気持が深くなるようである」。『育児』というエッセイにはその子煩悩ぶりが伺える。