「軽蔑は軽蔑を生み、暴力は暴力を招く。力ある人がその力を他人をいじめるために使うと、我々は 全員敗北する」
自分が軽蔑する人間は、人を軽蔑する人間である。どちらも軽蔑に違いないが、人が人を軽蔑するのは、その人自身の軽蔑であるが、自分が軽蔑するのは軽蔑という行為に対してである。口を開けば人を軽蔑する人間がいる。軽蔑という行為は悪口よりもたちが悪く、軽蔑言葉を聞きながら、「お前は一体何様!」と言いたくなる。言うこともあるが、言わないこともある。
言う、言わないの区別は、友人なら言い、そうでない相手には言わない。というより、ことさらに人を軽蔑するような友人を作らない。友人となる前段階で言う場合のやり取りはこんな感じ。「何で人を味噌糞にいうんだ?」、「そういう奴だからだよ」、「だったらお前がそう思っていればいいことじゃないのか?人にも同調を求めたいのか?」などと言うと大概気を悪くする。
そんなことで気を悪くするような人間とは付き合いたくはない。人が人を軽蔑の対象とするのは自由だが、他人に同調を求めるのは男としてつまらん。軽蔑する相手の理由を聞いてもらいたいのだろうが、そういう男は自分の性に合わない。他人を血祭りが如く軽蔑するのが好きな人間というのは、付き合っているうちに本性も分かってくる。いい奴でいたたしめしがない。
自分にも軽蔑にする人間はいるが、鬼の首でもとったかのように、相手を愚弄し、ヒドイ言葉で罵る人間には腹が立つこともある。「そこまでいうのか?いう必要があるのか?お前はどんだけの人間だ?」と…。他人を痛烈に軽蔑する人間は、おそらく自身が人から軽蔑の言葉を投げかけられたからではと、最近kyon2を、「気持ち悪い」と軽蔑したフィフィにそれを感じた。
人を、「気持ち悪い」というのは、残酷な言葉である。いじめられる子の多くはその言葉を投げかけられるという。どうしてそんなことを言われなければならないのか?それがひどい言葉だからである。人を蔑視する言葉は色々あるが、「汚い」、「気持ち悪い」はひどい部類に入る。そんな風にいじめられてる子と話すことができたら、おそらくこんなことを言うかも知れない。
「これ以上ないくらいのひどい言葉を投げつけて人を傷つけ、苦しませ、まるで言葉で殺したように面白がる相手であっても、その相手は勝利したことにならない。なぜって、あなたが負けなければ勝ってはいない。人と人の勝ち負けって、相手が勝手に判定するんじゃない、あなたが判定すること。だから絶対に負けたと思ったらダメ。勝たなくてもいいから負けないこと」。
こんな風にいうかもしれない。自分が負けたと思ったら負け、負けてないと思えば負けではない。人対人はそういうものだと思う。だから負けちゃダメ。ZARDの『負けないで』という曲のなかに、♪ 何が起きたってヘッチャラな顔して、どうにかなるサとおどけてみせるの…、という歌詞がある。中島みゆきにもそうした勇気づけられる歌詞はたくさんたくさん、たくさんある。
辛くて不幸のただなかにいる人は、何でもいい、何かから勇気や力を貰えばいいのだ。見てみるといい。中島みゆきには人生を考えさせる歌詞がたくさんある。♪ 泣きながら生まれる子供のように、もいちど生きるため泣いて来たのね(『 誕生 』)。♪ あたし中卒やから仕事をもらわれへんのや、と書いた女の子の手紙の文字は、とがりながら震えている。(『ファイト』)
「とがっても震える」という細やかな心情を、みゆきは理解する。何を言ったところで、どう突っ張ってみたところで、現実の社会に圧されている子どもたち。多分に現実は非情かも知れないが、「中卒やから仕事がもらえない」現実を噛み殺すより、言葉に出すのがいい。なぜって、それが勘違いの劣等感の場合もあるからだ。学生の時の成績は価値を決める物差しとなる。
が、社会に出れば関係ない。社会というのは人間をトータルで判断されることが多い。中卒だからと卑屈でいるより、仮に心で泣いても明るく、屈託なく振る舞う人間なら、社会は歓迎してくれるはずだ。そのことを自らの体験で掴み取ること。「あなたを救ってあげます」というような、押し付けがましくも、まやかしの宗教によって救われることなどないのだから…
結局、自分を救うのは自分しかいない。だから、卑屈になんかなってはダメだ。みゆきは、「とがりながら震えている」と少女の気持ちを洞察するが、おそらく少女が中卒間際であるからだろう。もっと年月を経て、さまざま人に触れて、少女も逞しくなれば、それが自然に培われた強さである。15歳の少女が20歳になって、どのように変わっているか、社会はそのことを問う。
すべての人が劣等感を持っている。そう考えることは間違いのないこと。言い換えるなら、すべての人がどこかに自分の生き場所があり、生きる道があるということになる。能力がない、学歴がないなどと嘆かず、そんな劣等感を克服できるような、一切の見てくれなどを投げ捨てて、自分の人生を見つけて歩き出せばよい。高卒にも大卒者にも苦悩する者はいるんだと。
学歴社会の現実を感じる人はいるのだろう。学歴という恩恵を得てる人もいるんだろう。しかし、学歴に過敏に反応し、低学歴者を見下げる人の多くは、学歴の恩恵を受けていない人たちであり、彼らの不満や憤慨が言葉に現れている。少なくとも学歴の恩恵を受けている人は、「足るを知る」人に分類されているから、彼らが足らない人を見下げ、蔑む必要がない。
学歴云々で他人を軽蔑する人間は、持ちながらもその学歴に対する劣等感がある。「足るを知るは富む。足るを知らぬは貧しい」というが、これを穿き違えて、「足るは富む。足らないは貧しい」ではないということ。実態における認識の方が大事である。蠅叩きのように、がむしゃらに人を叩く人も同様、本人に自己充溢感がない。実際問題、人を叩いて何になる?
小人のつまらぬ自我を満たすだけ…。それでも止められないのは、その人が小人の域を出られないからである。小さな世界で小さな人間の、小さな言動のあれこれにいちいち腹を立てる。卑怯な行動だとその場面において正義感を露出して相手を叩く。そんな人間が必要か?世の中でどう役に立っている?小さな世界で小さな人間を倒すのを生き甲斐にする人たち。
その小さな世界の支配者のつもりでいたい。そんな風な人を軽蔑する人間(の行為)を自分は軽蔑する。行為を軽蔑するのは、自分がそういう行為をしないためにであって、人を軽蔑したところで、自分はその人になりたい、なりたくないどころか、なれるはずもない。現代人はまるで競走馬の如きである。耐えず他人と自分を比較し、自分が勝利するよう動いている。
比較して傷つくようなことは公言せずに押し黙り、比較して優位に立つことばかり言いもする。そういうところだけをまた人は聞き、いいこと言ってる、正論だなどと誉めそやす。考えてもみよ、人が自分の都合のいい論理でまくしたてるのは当たり前だろうに。それを差し置いて、人を軽蔑する人間などはろくな人間でないと見るのが当たらずとも遠からずだろう。