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人を軽蔑する人間が軽蔑されねばならぬ理由

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         「軽蔑は軽蔑を生み、暴力は暴力を招く。力ある人がその力を他人をいじめるために使うと、我々は 全員敗北する」

自分が軽蔑する人間は、人を軽蔑する人間である。どちらも軽蔑に違いないが、人が人を軽蔑するのは、その人自身の軽蔑であるが、自分が軽蔑するのは軽蔑という行為に対してである。口を開けば人を軽蔑する人間がいる。軽蔑という行為は悪口よりもたちが悪く、軽蔑言葉を聞きながら、「お前は一体何様!」と言いたくなる。言うこともあるが、言わないこともある。

言う、言わないの区別は、友人なら言い、そうでない相手には言わない。というより、ことさらに人を軽蔑するような友人を作らない。友人となる前段階で言う場合のやり取りはこんな感じ。「何で人を味噌糞にいうんだ?」、「そういう奴だからだよ」、「だったらお前がそう思っていればいいことじゃないのか?人にも同調を求めたいのか?」などと言うと大概気を悪くする。

そんなことで気を悪くするような人間とは付き合いたくはない。人が人を軽蔑の対象とするのは自由だが、他人に同調を求めるのは男としてつまらん。軽蔑する相手の理由を聞いてもらいたいのだろうが、そういう男は自分の性に合わない。他人を血祭りが如く軽蔑するのが好きな人間というのは、付き合っているうちに本性も分かってくる。いい奴でいたたしめしがない。

自分にも軽蔑にする人間はいるが、鬼の首でもとったかのように、相手を愚弄し、ヒドイ言葉で罵る人間には腹が立つこともある。「そこまでいうのか?いう必要があるのか?お前はどんだけの人間だ?」と…。他人を痛烈に軽蔑する人間は、おそらく自身が人から軽蔑の言葉を投げかけられたからではと、最近kyon2を、「気持ち悪い」と軽蔑したフィフィにそれを感じた。

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人を、「気持ち悪い」というのは、残酷な言葉である。いじめられる子の多くはその言葉を投げかけられるという。どうしてそんなことを言われなければならないのか?それがひどい言葉だからである。人を蔑視する言葉は色々あるが、「汚い」、「気持ち悪い」はひどい部類に入る。そんな風にいじめられてる子と話すことができたら、おそらくこんなことを言うかも知れない。

「これ以上ないくらいのひどい言葉を投げつけて人を傷つけ、苦しませ、まるで言葉で殺したように面白がる相手であっても、その相手は勝利したことにならない。なぜって、あなたが負けなければ勝ってはいない。人と人の勝ち負けって、相手が勝手に判定するんじゃない、あなたが判定すること。だから絶対に負けたと思ったらダメ。勝たなくてもいいから負けないこと」。

こんな風にいうかもしれない。自分が負けたと思ったら負け、負けてないと思えば負けではない。人対人はそういうものだと思う。だから負けちゃダメ。ZARDの『負けないで』という曲のなかに、♪ 何が起きたってヘッチャラな顔して、どうにかなるサとおどけてみせるの…、という歌詞がある。中島みゆきにもそうした勇気づけられる歌詞はたくさんたくさん、たくさんある。

辛くて不幸のただなかにいる人は、何でもいい、何かから勇気や力を貰えばいいのだ。見てみるといい。中島みゆきには人生を考えさせる歌詞がたくさんある。♪ 泣きながら生まれる子供のように、もいちど生きるため泣いて来たのね(『 誕生 』)。♪ あたし中卒やから仕事をもらわれへんのや、と書いた女の子の手紙の文字は、とがりながら震えている。(『ファイト』)

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「とがっても震える」という細やかな心情を、みゆきは理解する。何を言ったところで、どう突っ張ってみたところで、現実の社会に圧されている子どもたち。多分に現実は非情かも知れないが、「中卒やから仕事がもらえない」現実を噛み殺すより、言葉に出すのがいい。なぜって、それが勘違いの劣等感の場合もあるからだ。学生の時の成績は価値を決める物差しとなる。

が、社会に出れば関係ない。社会というのは人間をトータルで判断されることが多い。中卒だからと卑屈でいるより、仮に心で泣いても明るく、屈託なく振る舞う人間なら、社会は歓迎してくれるはずだ。そのことを自らの体験で掴み取ること。「あなたを救ってあげます」というような、押し付けがましくも、まやかしの宗教によって救われることなどないのだから…

結局、自分を救うのは自分しかいない。だから、卑屈になんかなってはダメだ。みゆきは、「とがりながら震えている」と少女の気持ちを洞察するが、おそらく少女が中卒間際であるからだろう。もっと年月を経て、さまざま人に触れて、少女も逞しくなれば、それが自然に培われた強さである。15歳の少女が20歳になって、どのように変わっているか、社会はそのことを問う。

すべての人が劣等感を持っている。そう考えることは間違いのないこと。言い換えるなら、すべての人がどこかに自分の生き場所があり、生きる道があるということになる。能力がない、学歴がないなどと嘆かず、そんな劣等感を克服できるような、一切の見てくれなどを投げ捨てて、自分の人生を見つけて歩き出せばよい。高卒にも大卒者にも苦悩する者はいるんだと。

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学歴社会の現実を感じる人はいるのだろう。学歴という恩恵を得てる人もいるんだろう。しかし、学歴に過敏に反応し、低学歴者を見下げる人の多くは、学歴の恩恵を受けていない人たちであり、彼らの不満や憤慨が言葉に現れている。少なくとも学歴の恩恵を受けている人は、「足るを知る」人に分類されているから、彼らが足らない人を見下げ、蔑む必要がない。

学歴云々で他人を軽蔑する人間は、持ちながらもその学歴に対する劣等感がある。「足るを知るは富む。足るを知らぬは貧しい」というが、これを穿き違えて、「足るは富む。足らないは貧しい」ではないということ。実態における認識の方が大事である。蠅叩きのように、がむしゃらに人を叩く人も同様、本人に自己充溢感がない。実際問題、人を叩いて何になる?

小人のつまらぬ自我を満たすだけ…。それでも止められないのは、その人が小人の域を出られないからである。小さな世界で小さな人間の、小さな言動のあれこれにいちいち腹を立てる。卑怯な行動だとその場面において正義感を露出して相手を叩く。そんな人間が必要か?世の中でどう役に立っている?小さな世界で小さな人間を倒すのを生き甲斐にする人たち。

その小さな世界の支配者のつもりでいたい。そんな風な人を軽蔑する人間(の行為)を自分は軽蔑する。行為を軽蔑するのは、自分がそういう行為をしないためにであって、人を軽蔑したところで、自分はその人になりたい、なりたくないどころか、なれるはずもない。現代人はまるで競走馬の如きである。耐えず他人と自分を比較し、自分が勝利するよう動いている。

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比較して傷つくようなことは公言せずに押し黙り、比較して優位に立つことばかり言いもする。そういうところだけをまた人は聞き、いいこと言ってる、正論だなどと誉めそやす。考えてもみよ、人が自分の都合のいい論理でまくしたてるのは当たり前だろうに。それを差し置いて、人を軽蔑する人間などはろくな人間でないと見るのが当たらずとも遠からずだろう。

消えたVANショップ

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VANのホームページにあるショップリストから、「VAN shop岡山」と、「VAN多治見」の二店舗が消えていた。前者は2014年1月末日をもって閉鎖した、「VANHOUSE 岡山」を受け継ぐ形で、同年4月頃にオープンしたはずである。というのも顧客リストを引き継いだにも関わらず、開店の案内状・挨拶状もナシという、商売のやる気がまるで感じられなかった。

「VAN HOUSE 岡山」のオーナー中務氏からは閉店に際し、丁寧な挨拶状を頂いた。これまでの謝意と新店舗をよろしくという内容が主で、ホームページのメールアドレスは引き継ぐということだったが、新オーナーはホームページを立ち上げるでもなく、新店舗開設の挨拶がないというのは、まさに商売のイロハの、「イ」が抜け落ちて、やる気が感じられなかった。


ということで、「VAN shop岡山」とは疎遠になった。店舗開設の挨拶があり、ホームページを立ち上げていたら利用もしたろうが、なしのつぶては顧客に反映する。以降は、VANの本社から直接購入することになった。広島市内にもVANショップはあり、商品を直に見たり、試着したりは可能だが、2015年2月28日の記事に書いたように、あり得ない体験をした。

「VAN HAUSE 岡山」の閉店は残念だったが、疎遠の、「VAN shop岡山」が店を閉じているのを知ったときは何の感情も湧かなかった。もともとやる気の無いお店であるからして、「自然淘汰の原則」というのが頭を過る。商品を販売するお店は無人の自販機と違って人間が切り盛りする以上、人と人との触れ合いが如何に大事であるかは言葉を待たない。

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それを思えば、「VAN HAUSE 岡山」と、「VAN shop岡山」のあまりの違いであるが、20年の歴史に幕を閉じた、「VAN HAUSE 岡山」の事情を推察するに、トラディショナル・オンリーだけでは時代のニーズに答えられなかったのではないか。昨今のVAN愛好者は団塊の世代が中心且つ主流であり、こんにちの若者にとって、VANはレトロとなっている。

アイビールック、アイビーカットなどの言葉はほとんど聞かれなくなった。トラディショナルを略してトラッドというその意味は、伝統に忠実であるさま。昔からの習慣を守るさま。伝統的。 (『三省堂 大辞林』)というように、古いとか新しいといった流行には無縁で、左右されないものである。しかるにトラディショナルスタイル(トラッド・ファッション)というのは和製英語である。

アメリカン・トラディショナルスタイルというが、源流をたどると英国にあり、その伝統的・保守的な要素を守りながらも時代とともに変化していったもので、1950年代から60年代にかけては日本も戦後の混乱も収まり、人々の暮らしに余裕も出始め、日本に駐留するGHQや、海外の映画やホームドラマなどを通して、欧米へのあこがれが高まっていた時期でもあった。

そうした中、1950年前後からアメリカ東部にある有名私立大学8校が構成する団体、「IVY LEAGUE(アイビーリーグ)」に所属する大学の学生たちのスタイル、「アイビーリーグルック」が注目され、VAN創業者の石津謙介らによって日本でも紹介される。そのスタイルは有名雑誌などメディアに取り上げられたことで、欧米に憧れを抱いていた日本の若者に浸透し流行した。

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1964年ころには、アイビーリーグ・ルックの要素を取り入れたスタイルの学生たちが銀座のみゆき通りに集まるようになり、「みゆき族」と呼ばれる社会現象となった。ファンションも時代の変遷とともに、トラディショナルスタイルも厳格な固定化から流動的になっていき、アイビースタイルも根っからのアイビー信奉者からすれば、「それってアイビー?」といわれる商品も増えた。

「VAN多治見」の橘浩介氏といえば、VAN愛好家にとって教祖的存在として知られる名物オーナーである。その「VAN多治見」が、VANのホームページから消滅していたのは驚きだった。「VAN多治見」のホームページには、「全国の皆様へ。お詫びとご報告です。」という内容の書き込みがあった。「VAN HAUSE 岡山」と同じ20年の歴史を誇った老舗である。

たかだか20年を歴史というのか?異論はあろうが、石津謙介氏がヴァンヂャケットを興したのが1954年、その後ヴァンヂャケットは1978年、服飾業界最大の500億円の負債を抱えて経営破綻した。直後に社員OB等で構成されたPX組合が破産管財人の許可の下で在庫品販売を継続する。1980年にはヴァンヂャケット新社を設立したが、84年に再び東京地裁より破産終結決定を受ける。

2000年、新コンセプトで再復活する。伊藤忠商事などがライセンス販売のための新会社、株式会社ベルソンジャパンを設立するが、2006年5月23日、ベルソンジャパンが福岡地方裁判所に自己破産を申請して倒産。翌年、あらたに営業再開され、現在に至っているが、詳しい出資者や営業形態は不明である。ベルソンのVANは縫製が粗悪との風評が広まり倒産した。

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「VAN多治見」のホームページには、オーナー橘氏による以下のコメントがある。「此度、VAN本社との方向性、僕の望む価値観の違い…、決別であるため僕の一方的な決定です。新店舗・移転先でのVAN特約店オフィシャル契約解除となりました」。VAN特約店のオーナー橘氏は、遊び心満載からして石津謙介の申し子であり、その辺りを以下のように記している。

「僕が学んだVAN石津スピリッツ!精神は面白いことはなんでもやる!常に躍動と遊び精神ユーモアがなくてはならない。このスタイルは今後も変わらない所存です。VANヂャケットとは決別となりましたが、今後は「Varsity橘浩介」と、お客様との関係は今まで通りで御座います」とある。石津氏を敬愛する彼がVANと決別したのは返す返すも残念である。

どのような経緯があったかは分からないが、こよなくVANを愛し、長年のVANの功労者ともいえる橘氏を切ったのは、VAN本社として理性的な選択だったとは思えない。何がしかの感情的なしこりがあったと推察する。彼は今回の件についてVANの不満は記してないが、VAN本社との方向性と自身の価値観の違いという言葉から、ある程度の察しは想像し得る。

恨み節ともとれる記述は、「建物老朽化の為閉鎖した事はご報告していました。9月から新店舗移転について新たな、『VANショップ皐ヶ丘店』の準備を進めてましたが、9月以降~契約がないからという理由で9月、10月、11月と、今季2017秋冬、「VAN多治見」のオーダー分商品なにひとつ納入されませんでした」とあり、橘氏はVANを継続したかったのが分かる。

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しかし、「僕自身長年大切にしてきたVANへの思いや遊び心。お客様への満足度なる価値観の提案するも…」とあるように、いろいろ意見を述べが心象を害したのかも知れない。心からVANを愛し、VANと共に生きてきた特約店を切るというほどに心象を害したということだが、橘氏の何がVAN本社の機嫌を損ねたのか?双方の自負と自負がぶつかり合った結果と推察する。

「僕自身、今後のVANの方向性に魅力がないということです。決してVANを誹謗中傷するではなく、VAN独自のやり方があるでしょう」という記述が今回の問題の核心を見た。最後に橘氏は、「正直とても残念でなりません。今後はお客様と同じく、個人的、いちVANファンとして、石津イズム、VAN精神を貫き通したい」とくくっている。これにめげず頑張って欲しい。

離れることが幸福な場合 ③

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離婚は自立という解放への旅立ちである。30年前の自分ならこんなことは絶対に書かなかったろうし、離婚に偏見を持っていたのは間違いない。「善とはなにか、後味のよいことだ。悪とはなにか、後味のわるいことだ」と誰だったかいっていた。つまり、善も悪も行為して分かる事なのかも知れない。やった後で何かが分かってももはや遅いということはあるだろう。

などと言いつつ、だったら結婚はどうなのか?してもみないで善悪が分かるハズもない。と、このように人間は綺麗ごとが好きなようだ。因習や、慣習や、道徳や、そういった社会的拘束に無意識に影響を受けている。本当は離婚したくて仕方がないのに、踏ん切りがつかないのは、後味の悪さを考えてしまう。結婚よりも何倍も大変なのが離婚であり、エネルギーも必要という。

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のっけに述べたように、離婚が自立への解放というなら、解放とはどういう状態であろう。おそらくそれは自己をより深く探求していく過程でもたらされるものではないだろうか。人は誰も自分を規定する何かがあるはずで、規定の中味は社会的・文化的な条件であったりする。そうしたものを突き抜けて自己の深部に突き当たるまで探求することで解放されることになる。

経験的にいうなら、自分が怯えるものは何か?今のままで満足なのか?本当にこれでいいのか?別の何かに足を踏み入れたらどうなるのか?などを探求しつづける過程において解放はもたらされる。「自分の殻をつき破る」などと俗な言い方をするが、身構えたり抵抗感を強めたりするので、それほど難しく考えず、偏見や拘束を断ち切って、純粋に自己を深く見つめてみる。

自分はしばしばそれをやった。なぜあの人に強い言葉がいえないのか。なぜ言うのを恐れるのか。などと自問して要因を探ると、必要以上に相手の視線を恐れていたりする。だったらそれを捨てればいいし、それなら何でも言えてしまう。つまり、これを言うと相手が自分をどう思うかという怖さ、それこそが恐れるものであるのがわかる。それを、「憶病風」などという。

臆病風に吹かれる原因は、傷つくこと、失敗する事、何かを失う事を恐れるからである。人から良く思われたいということもある。それらから守りに入り、見て見ぬふりしてしまった結果、前より状況が悪くなったりする。ある女性の手紙を紹介する。「私は自由になりたいのです。どんなにそれが忘恩の行為であり、非難さるべきことでも、すべてを無視して自由になりたいのです。

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お兄さんからも、父からも、そして自分からも、この自分を自由にしたいのです」。人間のこういう決意というのは美しい。「どんなにそれが忘恩の行為であれ…」というところが光っている。「親への恩をないがしろにするのか!」という呪縛はおそらく誰にもあるだろう。が、自由を得るというのは、捨てなければならないものもある。それができる人が強い人。

誰から一切の非難を受け入れるという強さである。上の言葉を痛いほどに理解できる人も強い人である。反対に批判する人は自由を求めていない人であろう。決まった器の中に自分を組み込んで、その中で生きて行こうとする人である。それが悪いとは言わない。自分がいいたいのは、自由を求めるなら、自分が自分を支配しなければならないということだ。

手紙の主はおそらくこれまで兄や父に支配されていたのだろう。それに対する決別の言葉である。自分が自分を支配できる人間というのは、意志の強い人間である。なぜなら、自分で自分を支配するというのは実は苦しいことだからで、だからこそ、自分からも解放されたいと思うのだ。自らが自らを支配するという苦しみを味わった人間であるがゆえに自らの解放を望むのだ。

サルトルはノーベル賞を辞退したことで知られるが、その理由の一つに、「名誉の奴隷になりたくない」というのがあった。彼の名著、『嘔吐』のなかに、「自由である、それはいささか死に似ている」の言葉がある。父の権威が絶対という時代はあった。新民法の時代になっても父は威厳に満ちていた。小津安二郎の『彼岸花』には父親の権威を揺るがせる描写がある。


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小津一人が時代の変革者たり得ないが、彼もまた時代の変革を担った一人ということになる。昨今の離婚の多さは、見合い結婚が衰退して恋愛全盛の時代となったからか。あるデータによると見合い結婚の離婚率10%、恋愛結婚は40%となっている。そもそも見合い結婚の理由は恋愛が苦手と考える。そうはいっても、離婚が多い恋愛結婚は避けたいという若者はいない。

近年、離婚以上に問題なのは非婚・未婚である。若い人が結婚をせず、高齢者の平均寿命が延びれば医療費が増大し、年金がパンクするのは自明の理。そんなことは知ったことではないとばかりに若者の非婚率は上昇し続ける。かつて日本は皆が結婚する皆婚社会であった。国勢調査が始まった大正9年からのデータをみても一貫して生涯未婚率は1990年まで5%以下である。

こうした驚異的な婚姻率が明治8年には3340万人だった人口を、昭和42年頃には1億人を突破する原動力となる。100年前の日本では全員が結婚できた時代だったが、見合い結婚から恋愛結婚へと移行し、離婚の増加した。それでか近年は見合い賛美の兆しがみえるが個人的には反対だ。離婚が少ないからとの理由で、見合い結婚がいいといえるのだろうか?思わない。

なぜなら、恋する女は美しい。見合いする女は汚いとは言わぬが、一般的に女の幸せは結婚することである。それが女の幸せといわれた理由はなぜか。「男の幸せは結婚すること」などと言わない。「結婚は人生の墓場」と思うからか、元SMAPも一人を除いて独身だ。結婚して不幸になった人はいるが、だったら独身に戻ればいい。反対に独身で不幸と思えば結婚すればよい。

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早くから人生を諦めることはない。他人によって不幸な人生を強いられるなら、その相手と離れることだ。忍従が美徳でないように、相手のために生きるという道徳は戦前の古い考えだ。相手に尽くすことが喜びというならまだしも、不幸でありながらも相手にために身を引けないというのは、諦めでしかない。人生を諦めるより、新しい人生を模索すべきである。

結婚も大事だが、これだけ離婚が常態化した昨今にあっては、結婚と同等もしくはそれ以上に離婚について語られるべきであろう。つまり、どこら辺りが離婚の境目であるか。どこまで我慢をし、どの辺りから離婚に踏み出すべきかを定義するのは難しい。結婚同様、相手のどこに妥協すべしかの定義づけは難しい。どちらも個々の判断によるしかない。

離れることが幸福な場合 ④

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などと思いを書いてみたものの、決して離婚を奨励するものではなく、離婚を真に望む人は、離婚をためらう理由やその他もろもろについて、しっかりと背筋を伸ばして考えることを奨めている。そうすることで問題は解決するのではないかと…。自殺を考えたことはあるが、幸か不幸か自殺の経験はない。いや、幸であろう。おそらく自殺した多くの人は後悔していると思われる。

「なぜ自分はあのとき死んだのだろうか」という後悔と想像する。というのも、死は後悔してもどうにもならない行為であるからだ。人間は時々に迷うものであるからして、自殺という行為も一時的な思いつめたものではないかと。自殺を図って運よく命をとりとめた人は少なくないが、彼らのその後の動態をみるに、本当に死ぬ気だったのか?と訝しさを感じることがある。


そもそも、「幸運にも命をとりとめた」との言い方が変だ。死ぬ気で自殺行為を行い、それが果たせなかったから幸運という言い方をする人は、自殺を行為したことを過ちだったと述べてることになろう。したがって、命をとりとめなかった人は、「幸運」を味わうこともなく、不幸にも死んでいったことになる。もっとも、本気で死にたいなら、死んで不幸もなかろうが…。

離婚は自殺と違うが一時的な発作のように、「ああ、もう離婚だ。離婚、離婚、クソったれめが!」というような短絡さではなく、それこそ自殺と同様、行為に後悔はないだろうに至るまで考え詰めてみるべきかと。将棋の格言に、「下手な考え休むに似たり」というのがある。考える以上は、真摯に、真剣に、身の振り方を考えるべきで、同じことの堂々巡りでは休むに似たりかと。

思うに離婚の渦中にいる女性も男も、その多くは落ち込み苦しんでいると思われる。夫の暴力や借金、妻の家事・育児放棄、あるいは双方の浮気などは配偶者を苦しめる。なぜ、私は人生を共に歩まんとする相手に苦しまされなければならないのか?なぜ、嫁いだ先の夫の母に辛い思いをさせられるのか?これらはどう考えても理不尽であり、忍従するより解決すべきである。

悩みの本質は、解決できないからであろう。解決できないから悩むのであって、そこに我慢という解決法を充てることもできるが、より積極的に解決する方法を人は考えるべきである。例えば姑に小言をいわれる場合で言えば、言われた側としては、「そんな言い方をしなくてもいいのでは?」と思うのではないか?だったら、正直に、「そんな言い方を…」と言ったらどうか?

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最初からビビるとか、合わないとか、相手の立場が上とか、そんな風に思わず、自分の母親と同じように対等な気持ちで、納得いかないことには疑問を呈すべきではないか?それを、「言い返す」という風に取らず、あくまで、「疑問」という形で処理する。女性はすぐに感情的になる性向であるが、それを訓練で止めて、冷静に理知的に、「疑問」という形で相手に向ける。

感情的な気持ちで言おうとするから、言う側にも、「しこり」を考えてしまうが、冷静に、素朴に、疑問として対応する。例えば3月3日の記事にある姑の言葉、「何でそんなまずいものを食べるの」について、その場の物の言いや雰囲気は分からないが、姑にとって素朴な疑問だったかも知れない。我が家の子たちも回転寿司でチョコケーキを食べることがあった。

それもデザートではなく、いきなり最初の一品の場合もある。そんな時に親からすれば、「何でいきなりチョコレートケーキを?」と思うだろう。せっかく回転寿司に連れて来て美味しい(?)お寿司を食べさせたい親心を裏切られた気にもなろう。だからか多くの親は、「だめだめ、チョコケーキはお寿司を食べた後にしなさい」といいたくなるのも無理もない。

これが大人(親)の傲慢であって、子どもが何より食べたいものがチョコケーキであるなら、子の心親知らずの強制となる。多くを子ども目線で考えれば、自由にさせておけるはずだが、どうしても大人の論理で子どもを見てしまうのだ。子どもはどこに行こうが、そこに食べたいものがあればそれを食べたいのだから、寿司を食べたい子なら、しょっぱなから寿司を食べるだろう。

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我が家には4人の子どもがいたから、それぞれに問うと何を食べるかはまちまちとなる。そういう場合は、二者択一にするが、例えばケンタッキーとマグドナルド、さあ、どっちがいい?それでもマックが3、ケンタが1に割れる場合がある。そこで自分は問う。「一人でもケンタに行って食べたいか?」、「うん」といえば見上げた奴である。お金を渡して一人ケンタに降ろす。

みんなと食べたいという環境より、自分の食べたいものを食べたい、一人でもいい。これは自立精神であり、だから自分は評価をする。皆で和気あいあいの家族ごっこをしたいのは親であって、そんなのは家庭でやれること。その時、長女は姉風を吹かせて言った。「何でみんなと同じにしないのよ」。いかにも長女らしい、親の意を汲んだ言い方である。

兄弟は長兄や長姉を中心に自治が生まれる。、それを「長幼の序」といって憚らないが、個人主義というより、儒家思想的統率である。個の主体性を重視する自分は、一人ケンタに行くといった長男を擁護した。普通の親なら、面倒臭いと思うかもだが、面倒臭い以上に大事なことがそこで起きている。子ども時代を思いだすと、親の権威や傲慢への不満は子どもにあったはずだ。

その点を批判して子ども目線に立てば、その子が親になっても個の尊重を大事にするかも知れない。ただし、頭のいい子との前置き付きだ。頭のいい子、感受性の研ぎ澄まされた子は、必ずそのことを覚えており、それが自分に何をもたらせたかすらも忘れない。親はズルく、傲慢で、横着で、合理的な大人の論理を捨て、子どもを大切に捉えた方がいい。

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躾や子育てにまつわる教育は、確かに面倒といえばそうであろう。であるからこそ親は、少なくとも、「面倒くさい」という身勝手さを排除し、本当に子どもにいいことは何であるかを、その時、その場で考える親は役目を果たしている。己の都合のいい論理や欲目で子どもを利用し、接する親には、親のかけらも感じない自分である。非難はしないが批判を糧にする。

子が親から離れるのを淋しいという親はいるが、これが共依存の基であろう。自分の大切なものを離す、あるいは離れていくことをむしろ善しとして、喜ばなければならない親の宿命である。子どもが離れないなら、突き放すのも親の役目である。総理も市長も親も教師も役目といったが、そうであるなら役目をしかと認識し、仕事として実行しなければならないのでは?

子どもが親から離れるようにするのが親の仕事であり、役目である。淋しいなどと情緒的なことを言っても仕方ない。子育てという任務を終えたら、終えたなりに、あらたな自己啓発なり、楽しみなりを自ら見つけるころこそ我が人生。共依存関係親子の屁理屈に説得力がない。「いいとは思わないが、よそに比べてウチはまだいい方…」などと言って自己肯定する。

くっつかぬことが幸福な場合

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同年代の人たちは年を取らないように見えるのは、一緒に年を取っていくからであろうか?中島みゆきはもう66歳になる。「もう」ってのは、自分のことは棚にあげてだがそんな風に感じない。子どものころに60歳といえば、そりゃ~もう、よぼよぼばあさん。よぼよぼは余計にしても、60歳はとてつもない年寄りだったが、いざ自分がなってみるとそんな気がない。

乳児・幼児の記憶はまるでないが、小学生時代は子どもを生きていた。青春といわれる年代になり、「自分は今青春只中にいる」と自覚したことはあったが、思わずとも青春時代であった。はて、いつまでが青春といわれるのか?そんなものは自覚の問題ではないのでよくわからない。やがて妻を娶れば夫となり、子どもを授かったときに父親という肩書がついた。

壮年期を経て初老といわれる年齢になっていく。死なずに生きていればだが…。いつまでが壮年期、いつから初老かも分明しない。こんなのはアバウトでよかろう。気づけば年金受給者となり、国のお世話になっている。お世話というのも変か?自分が積み立てたものだから、貯蓄のようなものだ。掛けただけで一度ももらうことなく世を去った気の毒な人もいる。

100歳超えで、掛けた額より多くもらう人は得をし、一銭も受給できずにこの世とおさらばした人の差は歴然だが、差別というより相互扶助システムである。中島みゆきとユーミンの違いはみゆきが2歳先輩で、2人とも年金受給者である。荒井由実は松任谷となり、みゆきは中島のまま。荒井由実は松任谷正隆と職場恋愛を経て1976年11月29日に横浜山手教会で挙式をした。

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何かと比べられたみゆきとユーミンの最大の違いは既婚と独身。ユーミンはモロッコに取材に行ったとき、「トイレに困ったでしょ?」と聞かれ、「広い砂漠なので誰も見ていないから野糞しちゃいました。広い中でポツン(ポトンか?)と、それはもうすごく感動しました」とユーミンが言えば中島は、「そんなことを言えるのは、アイツは旦那がいるからだよ。

私が言おうものなら、それこそ一生独身だから…」と自虐ネタを披露。結婚する気もないから独身をネタにできるみゆきである。初めて中島みゆきのトークを聞いた時、シンガーとのあまりのギャップにどっちらけて腰が抜けそうになったのが思いだされる。彼女が天理教信者であったことを知るコアなファンもいるようだが、自分は今日の今までそれをしらなかった。

彼女の名曲である『糸』は、天理教の真柱(代表者)である中山善司が結婚する際に作られたバラードであるという。現在は脱会しているらしいが、自分も母が信者であったことから幼少期にはいつも連れていかれ、それが宗教を遠ざける要因になったかも知れない。それはさておき、中島みゆきが結婚しなかった理由らしきものを、彼女が語っているくだりがある。

北海道・帯広柏葉高校時代の彼氏が内ゲバ(仲間同士間での暴力的抗争)で亡くなったというのだ。それがトラウマとなっているとか、などと言いながら某プロデューサーと不倫関係にあって同棲しているとかの話題もあるが定かではない。文春も追っているはずだろうが、スキャンダルといえば、むか~し某ギタリストの彼氏とホテルから朝帰りの写真を撮られたその一度だけ。


みゆきは恋愛をしなかったのだろうか?寡聞にして浮いた話を自分は知らない。同郷の松山千春と交際?という話はあったようだが、千春はともかくみゆきは独身でいる方が良かったような気がする。誰がいったのか、「女の幸せは結婚」であると。ある意味そうであろうが、それも人にもよるだろう。中島みゆきは結婚に憧れがあったのだろうか?分からない。

2016年のデータだが、東京都内在住の30代前半女性の未婚率は「42.7%」である。この年代の女性の半数近くが結婚していない計算になるが、結婚したくないのか、できないのかも、それぞれであろうし、ひとくくりには言えない。キャリア女性の中には婚期を逸し、「今となっては後悔している」という人もいる。その時点では仕事を失いたくなかったのは間違いない。

結婚して家庭に入ると、積み上げてきたキャリアがなくなるかもしれない。という不安は当然ながらあったろう。私事だが、公民館の受付女性に、「昔から料理が大好きで、これほど自由で面白いことはない」と言ったとき、「だったらモテたでしょう?」と返された。予期せぬ返答だったが、料理で喜ばれたことはあったし、それをモテたという認識はなかった。

それで、「モテたでしょう?」の理由を聞いてみたく、問うてみた。「そりゃ~女性からすればありがたいもの…」といわれ、「そういうもんですか」と納得した。料理レシピ本もある俳優の速水もこみちは小学生時代に、「料理する男はモテる」と聞き、「モテたくて料理を始めた」といっていた。ガキの自分からそんな風に考えるのも、いかにも情報化社会である。

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我々の時代に、「〇〇すれば女にモテる」などという情報があるとすれば、男の胸毛くらいしか聞いたことがなかったわ。独身女性に関する興味深いデータがある。国立社会保障・人口問題研究所の「第14回出生動向基本調査」(2010年)に基づく分析だ。それによると、女性が結婚相手の男性に求める条件は、「家事の能力」が、「経済力」や、「職業」を上回ったのだ。

家事の能力を、「重視する」、「考慮する」の合計は96.4%。それに対して、「経済力」はやや少ない93.9%。「職業」(85.8%)や、「学歴」(53.5%)はさらに低い数字を示した。その一方で、「仕事への理解」を結婚相手に期待する女性は9割超えている。女性の社会進出を象徴する時代か、「私の仕事のキャリアをつぶさないで」という女性たちの叫びが聞こえるようだ。

「家事の能力」が、96.4%驚くべき数字。「お掃除ロボ」が売れる理由もわかるし、それが人気を得て、「拭き掃除ロボ」まで発明され、それがまた売れる時代に驚愕する自分である。普通に床掃除や拭き掃除を嫌がるような人間が、レンジ周りの特に汚れやすい五徳や換気扇、カビ安い浴室などこまめに掃除をするとは思えない。そういう人は便利屋を呼ぶのだろう。

オーブンレンジの庫内が汚なさもやるせないし腹が立つ。掃除の基本は汚れが落ち難くなるまで放っておかぬことで、それを知っていれば汚れぬようにすればいいが、知っていてもやらない横着者と綺麗好きの差はそこにある。善は急げ、何事も思ったらすぐにという行動は、日常生活における様々なところに現れる。大袈裟ではないが、これも人生哲学というしかない。

「家事ができないので結婚はしません」という女性がいた。いろいろ話してみると、彼女にとって家事の一切は切実な問題である。親は勉強していれば機嫌がよく、家事などに何の興味もなかったのが自分に反映したという。恋人ができたときもあまりの生活感の無さに、「それでも女?」とダメ出しされて傷ついた。それで、自分には結婚は向かないと悟ったという。

これを悲哀といっていいのだろう。自分はその様に感じた。普通にやれることをしない、させられないでいれば、何事も普通でなくなる。普通なことができずとも、特別な能力を持つ方が幸せと信奉する親は、子どもにそれを望む。それぞれの価値基準だから善悪は言えないが、一つだけいえるのは、「簡単なことはいつでもできる」という甘さだろう。習慣は人を固定させる。

くっつかぬことが幸福な場合 ②

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自由な心を得るにはどうすればいいか?「捨てきる心」を所有することにある。一切の名誉も権力も財産も、何もかも捨て去ることができたらその人は自由となろう。乞食は生活に不自由しても精神的に自由である。が、小学高学年で母親を捨てる決心をしたとき、自由になったとは思わなかった。母親の返報感情がしつこく自分に向けられ、苦しい日々を耐えていた。

母親は精神的自由を拘束するのを止めず、真に自由になるには同居する母から離れる以外にないと感じていた。後年、「自由の哲学の父」と称されるジャン=ポール・サルトルを知り、「自由とは捨てきる心」であるのを認識した。サルトルが、ノーベル文学賞を拒否したのは1964年10月22日だった。そのことでフランスの知識階級の間で議論が巻き起こった。

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    もらえばもらったで叩き、辞退すればしたであれこれ叩く。人の世とはそうしたものだ

賛成派反対派がさまざまな意見を出しあい、反対派の中には、「やつは燕尾服の着方を知らないから拒否したんだ」と揶揄した人もいた。いかなる賞を貰おうと、名誉に押し上げられようと、自分の人生としてやるべきことをやることはできたかもしれないが、サルトルは辞退した理由の一つを、「全てを変えてしまうだけの自由と力を自らに保存するため」と述べている。

が、そういった力に自身の自由が左右されるという、「自由の哲学」は、どこか矛盾がある。サルトルは、「いかなる人も、生きている間に神聖化されるだけの価値のある人はいない」とも述べている。イチローがかつて国民栄誉賞を辞退した理由を、「まだ現役なので現役を引退した後に国民栄誉賞の受賞にふさわしい人物か判断してほしい」旨の言葉を残している。

イチローはサルトルを知っていたのか?自分は自分の生き方を模索してきた。必ず自分に合った生き方があると信じ、それに向かって邁進した。したがって、その障害となる人間を求めなかったし、そうだと感じた人間とは離別したり、決別した。自分の信念や理念に合わない恋人には何の価値も見いだせなかったし、相手に合わせて自分を変えることもしなかった。

啓発されるものがあれば変えることは吝かでないが、気の合わない相手に媚び諂うなどあり得ない。「捨てることで自由の心を得る」のは、サルトルに出会う前から講じていた。言葉というのは実に無責任なものだと思っている。主義・主張(言葉)も同様で、自分なりの考えを持たぬ人の主義や主張は、こうした無責任な言葉に操られているという自覚がないのだろう。

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                空き缶ポイ捨てを、「自由な生き方」などというのはチト違う

主義や主張と責任感は一体のものでなければならないが、言うだけの人はなぜか多い。他人の人生にまで口を挟む人間も少なくない。人が他人の人生にどう責任を持てるというのか?なのに他人を批判する。そういう輩は自らの人生に責任を持たないのだろう。自分が意図しない考えの相手を非難し、罵倒し、軽蔑する。「あなたってケチよね」と言った女がいた。

どこにもいるタカリ体質の女性である。自分の金を使わぬを最善とし、男に身勝手な論理を振り回す女性は少なくないが、あからさまに相手をケチと詰る羞恥心のなさであろう。ケチな人間は他人をケチといい、欲な人間は他人を欲だというように、嘘つきは他人を嘘つきという。これが人間社会の悪しき図式である。そうすることで自身の本質を隠し、逃れようとする。

他人を軽蔑するのは、自の本質を軽蔑するのと同じこと。不倫を非難する者に隠された不倫願望があるように、ケチが人をケチと非難するのは、自分を責めるよりは他人を責める方が楽だからである。自分の中にある嫌な部分を他者に投影し、それを非難しているにすぎない。それで一時的に自我を回復できたとしても、落ち着きのある自分を持つことはできない。

言葉だけが無責任に発せられると、こういうことになる好例である。考えの合わない女を捨てようとしたら、こんな風な言いがかりに満ちた言葉を吐かれた。「あなたはいつも一人ぽっちな人。誰とも上手くやっていけない」。別れ際にいう女の捨て台詞はいろいろ聞かされたが、価値観が合わぬ相手との別れは必然である。誰でもいいから相手を求めるわけには行かない。

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      失恋は必ずしも悪いことではない。別れも同様…。今の幸せがそのことを教えてくれている


誰かと一緒で自由に振る舞うのは気も使う。完全自由でいたいなら一人に限るが、人といるのは嫌じゃない。社会性を身につけた人間は適宜に振る舞える。見抜けないのが不幸のはじまりというが、人を簡単には見抜けない。ある駐日アメリカ大使が、「日本人は自己欺瞞の天才」といった。自己に都合よく現実を解釈し、そう思い込むのはナルシストと同じことだ。

日本人の心に八百万の神はいるが一神教信仰はない。その場その場で自分の都合のよい神をもってこれるが、一神教はこんな都合のいいことを許さないし、唯一神ヤハウェ(エホバ)神に誓いをたてる。くっつく愛もあれば、くっつかない愛もある。醜い別れもあれば、別れが成長させる愛もある。理想の相手とは何か?男もいうが、こういう言葉はむしろ女性に多い。

ちまちまこういう言い方を聞くが、理想の女性なり、理想の男性なりは、本当にいるのだろうか?これについて自分は答えを持っている。いわゆる理想の相手というのは、自分にとって都合のいい相手ということだ。それが幻想だったり思い込みだったりすると別離となる。そうなった時点でどういうのか?「理想の相手ではなかった」といえば済む話である。

「見誤った」でも同じこと。「一緒にならないで良かった」を、一緒になって気づくことも、一緒になる前に気づくこともある。少し前にこの場に書き綴った45年前の恋人のこと。45年前のその彼女は控え目で地味で素朴で、その意味で自分の理想であった。もし、一緒になっていたら、45年後の彼女と同じようになったのだろうか?それとも違う成長を遂げたのか?

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             美とはエネルギーである。受け止める容量なくして、美とは感じない


分からない。すべては、「たら」に帰結する。分かっているのは現実である。それ以外の全ては空想である。まあ、理想に目がくらんで失敗した奴はいた。青春期のあり余るエネルギーと無知が交差して選んだ相手がどうであっても、自分の選んだ相手である。たまたま上手くいくのか、たまたま離別となるのか、どちらが本筋であろうか。眼鏡に適った相手を得るのは幸運である。

服飾デザイナーのコシノジュンコは、「私は容姿がよくないゆえに美への執着心が強かった」といった。桂由美も同じようなことをいっていたが、ハンデを長所に変えた人たちである。自らの劣等感の裏返しが、相手への賛美となることはある。学力に劣等感があるものは学力を過大に評価し、容姿に劣等感を抱くものはそれを過大評価する。「ブスのイケメン好み」は、心理学的に正しい。

が、あまりに執着する、いいことにならない。例えば、学歴に異常な執着心を持つものは、他人が如何に自分の容貌や人格を褒めても、学歴への劣等感が和らぐことはない。自分が褒めて欲しいのは人格や容貌ではなく学歴であるように、卑屈なまでの執着心はいいことにならない。太った女性には、「健康的ですね」が常套句とされるが、それで相手は満たされるのか?

くっつかぬことが幸福な場合 ③

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思春期にもなると男も女も自分の容貌を気にしはじめる。これも第二次性徴の一環だが、先日あるところで小学6年生の女の子に、「かわいいね。男子にモテるだろ?」とお世辞気味に言ったところ、「そんなことないです。わたしはこの顔で人生おわってますから…」と、あなどれない小学生に驚いたが、咄嗟の応答に怯む自分ではないし、すかさずこう返した。

「自分で自分を決めたらダメ。自分のことは人が決めるから」。というと、「えっと、自分のことは自分で決めないんですか?」と可愛く返してきた。「ちがうよ。人が決める。自分のことをいやだと思っていても、人が好きよっていってくれるだろ?そんな風に自分のことは人が決めるから…」。「へ~~~」と、顔が不思議がっているので、追い打ちをかけておいた。

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「君の知ってる子で、自分で自分を可愛いと思ってる子いない?そういう子っていやじゃない?きらわれてるだろ?いくら自分が自分を可愛いと思ってても、人はその子をきらうしね。」。その子は、初めて耳にする言葉をその場で全理解はできないにしろ、家に帰ってゆっくり考えればそれでいい。最後に、「だからおじさんはあなたを可愛いって思った」とくくった。

最初はとがった少女に笑みがこぼれたが、「ありがとう」とまでは言えなかった。この年代は自己否定と自己肯定が入り混じった二律背反期でもある。その子の性格の度合いにもよるが、気の強い子は人から、「かわいい」などと言われても絶対に否定する。いわゆる反抗期でもある。「ぜったい、かわいくないから」と頑張る子も珍しくない。まあ、てれもあるから…

自己愛が芽生える過程においては自己批判が伴う。本当はかわいいと思いたい、そう言われたい反面、それを認めたくない自分もいる。こういう心理は子どもに限らず大人にもある。大人の場合は、「そんなお世辞は言わなくてもいいです」と返す女性もいたりするが、「せっかく褒めたのに、可愛くないね~」などと腹で思う男は、人にお世辞をいう資格はないな。

「ありがとうございます」だけしか期待していない。「お世辞ってわかった?」などと返す男もいるが、これもデリカシーのない男だろう。かと思えば、「お世辞じゃないよ。ほんとにそう思ってるんだから」とムキになる男もかわいい。女性は褒めれば喜ぶものという幼児的発想である。男もいろいろなら、女もいろいろで、世辞の類に返す言葉はバラエティに富んでいる。

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「(お世辞いったって)何もでないよ」は結構多い。「ありがとう」にも二種類ある。①社交辞令、②素直に喜ぶ、「ありがとう」。①は礼などいいたくないが、その様にいうのがいいなどと本から得た素養。②屈託なく心から喜ぶ女性は、少女のようで可愛い。それとは別に、「ありがとうございます。お世辞でも嬉しい」と返す女性がいた。瞬時にどう返答するのがいいか迷った。

迷っている場合でもないので、瞬時に最善の返答を選択しなければ信憑性は薄くなる。相手がとりあえず自分の言葉を率直に受け入れた場合は、むしろ恐縮気味の方がよい。さもしてやったりの雰囲気はアホ丸出しである。「まあ、自分が腹で思っていればいいことだけど、口が滑るというか、つい出てしまうこともあります。その点許されよ」などと、さりげない言葉で返したりする。

自分の場合、これを恋愛のテクニックというより、人格的なものだと思っている。本心から出る言葉に思うが、無意識の人たらしの部分かも知れない。無意識ならなおさら分からない。が、無意識であるなら、「そうじゃない。あくまで人格的なもの」という断定もできない。人は無意識すら使い分けるものかも知れない。そう考えると人間は摩訶不思議な動物である。

思春期~青年期に容貌も含めた自身のことに関心をもちはじめるのは、急速な自我意識の敏感さもあるが、それとは別の身体的な発育や性ホルモンによる変化に伴う影響もあろう。人は目につくものを気にするのは自然なことだし、急速な自我意識はまた、他人と自分の比較から、自己認識を強めていく。比較はよくないとはいいつつ、比較をしなければ定まらぬこともある。

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心理学者や教育評論家らが口を酸っぱく、「他人と自分を比べないよう」などと言ってはみても、慰めでしかない。他人と自分との比較というのは、さまざまに存在する。容姿・容貌に始まり、学力、家庭環境、親の職業などを基準にし、細部に入り組んだ多くのそれこそ識別可能なこと以外の些細なことでさえ気にする子もいるからだ。青年期の特徴である競争心といえる。

さらに青年期は、道徳や人格的価値にも目覚め、高い尺度を自らに当てはめるように、美的価値にも著しく敏感になる。これについても高い尺度を当て嵌める。クラスの男子などには目もくれず、ジャニーズ系男子に憧れるのは、集団風邪のようなもので、誰でも一度はかかるものだ。他人と比較しての高望みではなく、自分自身の高い欲望と比較した劣等感の裏返しであろう。

高邁な理想や欲望はこの時期の特徴でもある。先の少女の、「自分は可愛くないし、この顔で人生おわっている」などの思いも半分は本心である。自身の容貌への劣等感も高すぎる欲望からのものだ。ありのままの自分を認識できないのもありがちな時期で、高望みの自分を真の自分と考えるあまり、自分の顔はもっと良くなるのが当然と考えるあまり、無理をしてしまう。

この時期の女子がどれほど自分に高望み的な要望を持っているか、女子経験はなくとも想像は可能だ。その点男は楽かも知れない。容姿が悪かろうが、学力が低かろうが、あっけらかんとし、遊びに夢中になる。男にとっては遊びこそが生きる価値である場合が大きい。女子は自己の内面にこだわるあまり外見を気にするが、男の子は自分は自分、他人は他人と考える。

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「自分はあくまでも自分なのだ」という裏には、「他人はあくまでも他人である」ということになる。自分と他人を同一視するから、さまざまな悩みが生じてくる。「自分には自分の人生がある」ということに早く気づけば、「他人には他人の人生がある」ということになる。先に述べた、秀才には秀才の、美人には美人の、ブサイクにはブサイクの人生がある。

それぞれに自分の人生があって、何もが同じである必要はどこにもない。これこそが、「自分はあくまでも自分」という考え方の根本に気づくことがすべての基本となる。「ありのままに」という言葉が流行ったが、人は「あるがまま」の自分に気づくのは、流行り廃り以上に大事なことだ。「くっつかぬことの幸福」という表題は対象を、「人」に限定していない。

つまらぬ考え方に寄り添わない(くっつかない)ことである。そのためには、つまらぬことをつまらぬと見極めることだが、多感な思春期に道しるべとして導いてくれるのは、よき親であったり、よき師に巡り合う、よき友を持つなどがあろう。それらの他によき書物に出会う場合もあるが、確率でいうなら、「良き本」がいいのではないか。よき親、よき師、よき友より主体性がある。

くっつかぬことが幸福な場合 ④

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「くっつかぬことが幸福な場合」についてあれこれ書いているが、書きながら少なからず疑問は生じている。つまり、「行動しなかったことで、よかった」、「彼(彼女)と一緒にならなくて本当によかった」ということは、行動しないで分かるものなのか?という疑問。例えば、自分が乗ろうと思っていた飛行機便に乗らず、墜落したというならそれは幸福(幸運)と感じる。

他にも、何らかの結果が分かったあとで、「あの時、ああしなくてよかった」ということはないとはいえぬが、それが人であっても同じことになるのか?Aという女性は、Bという男性、Cという男性のいずれと一緒になっても、同じ振る舞いの女性ということか?そうであるとも、そうでないともいえないと思うが、実際はどうかといっても、やらずして確かめることはできない。

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ある女性が他人と結婚したことで、「(あの女と)一緒にならないで良かった」という友人がいた。「なんで?」と問うと、「浮気しまくり女」というので、「それって、お前と結婚していてもそうだったってことか?」と、素朴な疑問だった。誰と一緒になってもその女はそうなのか?結婚していないからそう断定するのだろうが、相手が違えば違うのではないか?

つまり、自分が実際に一緒になっていない相手を、「一緒にならないでよかった」と、本当に言えるのかどうかは不確実なものと考える。同じような思いの男女がいるのかを知りたく、ネットを検索してみたところ、「別れて正解!『結婚しなくて良かった』と思う昔の恋人の特徴8つ!」というサイトがあり、何やらあれこれ書かれていたが、真に受けることはできない。

実際にしていないことを、しないでよかったと肯定はできないが、AはAで誰といてもAに変わりないという見方も間違いとは思わない。似たような例を言えば、「あの女と付き合わない方がいい」という忠告を受けることがある。実際に話してみたり、付き合ってみると、忠告の懸念に当て嵌まらぬことがある。他人の視点や思いは自分とは違うということだ。

反対もある。A公民館のBさんは好々爺と思いながら将棋を指していた。ある日、B公民館のCさんが、A公民館のBはクセ者だから、気をつけた方がいいと忠告をくれたが、自分は全然そんな風には思っていなかった。ところがある日、Bさんがいちゃもんをつけてきたので、根拠のないいちゃもんに反論した。するとBさんは、「お前みたいな奴は将棋を止め~!」といい出す。

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あまりの高飛車な物言いのBさんに黙る自分ではない。「誰に命令してるんだ?大勢いる中で声を張り上げるなら外に出たらどうだ?」とけしかけた。自分にそこまで言わせる一癖も二癖もあるBさんの態度に、なるほどCさんの忠告が理解できた。80歳を超えた一見紳士風のBさんがそれほどに豹変するのに驚きもしたが、つくづく人は分からないものである。

次に会った時に、「無理にとはいいませんが、一局指しますか?」と声をかけたら、一言も発さずにすっとぼけた態度がすねた子どものようで傑作だった。「この爺さん、つまらないままに年を重ねたのだな」そう思うしかなかった。いい具合に年を重ねた爺さんもいるが、つまらんままに年を重ねた爺さんもいる。言うまでもないが、前者のようでありたいものだ。

人の数ほど人生がある。自分の人生とは言え、それはまた取り巻く環境の中で、他人に影響を及ぼす自身の人生である。その意味で自分の人生は社会にあっては、自分だけの人生とは言えない。自分には自分の人生があるのはそうであっても、他人に悪影響や害を及ぼす人生であってはならない。どうしてBさんはあのようなのかは、結果だけしか分かり得ない。

つまり、何がBさんをあのようにしたのかを知ることはできないが、Bさんのような人間を批判することで、あのようにならないようになれる。その意味で、多くの人への批判は大事である。自分の内なる苦しみから逃れるがために、他人を非難したりは一時的な自我回復にはなるが、それだけのものでしかない。批判は自分を向上させるためになされるべきである。

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ゆえに、批判は悪口であってはならない。自身の中にある嫌悪する部分を他人に投射する悪口は無様である。他人へのそうした軽蔑は、自身を軽蔑してることになろう。他人から軽蔑されないようビクビクする人もいるが、そういう人が周囲から軽蔑されないために先手を打って相手を軽蔑したりすることもある。人の視線を怖れる前に、自信をつける生き方を見つけることだ。

自信があれば自慢も無用となる。着実なる自分の人生を、自分のために生きることもできる。そうであるなら他人の賞賛に依存することもない。ロシュフーコーは面白いことを言っている。「賛辞を受けて謙遜するのは、二度賞賛されたい願望なのである」と。これは的を得ており、思わず笑ってしまった。ある種の能力があれば、それを人にひけらかしたいだろう。

他人に認知されたいというのは自然な願望であろう。が、「自分の能力を隠すことができるのは素晴らしい能力」というのを知っている人と知らぬ人は人格の差となって現れよう。必要以上に謙遜する人も不自然だし、他者の賞賛はさらりと聞き流せばよい。ただし、「それはどうも…」くらい言った方が、「せっかく褒めたのに…」と、相手の気持ちに沿うことになる。

身の丈以上のものを自分にくっつけると、メッキが剥がれぬように苦労することになる。欲を出していろいろなものをくっつけたいなどは止めて、身軽でも自信が持てるならそれに越したことはない。「何かを持ってそれを自慢したいなら、むしろ持たぬ方がよい」と老子がいうように、これが無為自然の境地である。凡人である以上、人から認めたいと思うだろう。

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凡人たる自分もそういう気持ちはないではないが、人が人を認めたところで、せいぜい数分の間である。人は一日中、目の前の相手を認めているわけではない。だから、せいぜい数分くらいは自己を認めてもいいが、長い時間固執しないことだ。「何かを持つことで自慢」ではなく、「何かを持つことで自信」となるなら、何かを持つべく努力は惜しまぬことだ。

人から認められることより、先ずは自分が自分を認める何かの方に自分は興味がある。思い起こせば、確かに青年期はそういう気持ちに蹂躙されていた。それは青年期が不安と不満に満ちたからであろう。誰においても。青年期の理想主義は、不安や不満の裏返しではないかと。石川達三の『青春の蹉跌』ではないが、青春期というのは、悩み、苦しみ、つまずきのときである。

大きな理想を持っていなければ自己崩壊もあり得る。他人のことに腹を立てるのはいかにも正義感であるかのように思い込む人もいるが、正義感だけが原因とは思わない。なぜなら、正義感だけならイラついた暴言なんかしないだろう。不倫を社会道徳に反すると激しい怒りを向ける人が、プライベートでは自分勝手で他人に迷惑をかけるなどもよくある。すべてとは言わないが…

どっちみち立派な人は他人の非難などはしないもの。他人をイライラ批判する輩は、自身の内面の不安や抑圧された欲求の現れである。すべきことはいろいろあるだろう。やるべきことをやらず他人の非難ばかりの人間は決まっている。他人は他人を生きるように、自分は自分を生きればいいこと。生きるということは、たった今から自らに行動を起こすことだ。

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ミイラになった貴乃花親方

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「一寸先は闇」という言葉がある。同じような意味で、「人間万事塞翁が馬」や「禍福はあざなえる縄のごとし」というのもある。これらすべては現在の貴乃花親方に向けられよう。第65代横綱貴乃花光司は優勝回数22回の歴代6位の記録を持ち、「平成の大横綱」と称された。兄の若乃花虎上(改名前は勝)氏とともに兄弟横綱として人気を博し相撲界に貢献した。

若乃花は本名の花田に戻し、相撲界から離れて実業家、タレント、スポーツキャスターとして活躍するが、貴乃花の引退相撲と断髪式は2003年(平成15年)5月場所後に行はれ、引退後は一代年寄として貴乃花部屋を創設、協会の理事を務めながら弟子の育成にあたっている。実力横綱であった貴乃花は、さっそく2010年1月場所後に行われる理事選に立候補を表明した。

相撲協会の理事選挙は、波風立たぬよう一門の中で上手く折り合いをつけ、話し合いで行われていたが、貴乃花親方はそうした狭い社会にありがちな、旧態依然体制に風穴を開ける行動を起こす。それが2010年の理事選である。10人の改選だが、5つある一門に応じて理事候補を調整し、無投票で決定することが慣例となっており、当時貴乃花親方は二所ノ関一門に属していた。

イメージ 4二所ノ関一門は、既に現職理事の放駒と二所ノ関のほか、新人の鳴戸が立候補を予定し、これに貴乃花親方を加えた一門4人の投票になるため、2009年12月には一門で候補者選定会議が行われた結果、4人の中で最年少であった貴乃花親方に対して立候補を断念させる方針に傾いたが、貴乃花親方は2010年1月8日に一門を離脱し、単独で理事選に出馬することを正式に表明した。

一部マスコミはこうした行動を、「貴の乱」と称した。初場所後の理事選を睨んだ1月19日、二所ノ関一門は緊急会合を開き、貴乃花を支持する間垣、阿武松、大嶽、二子山、音羽山、常盤山の親方6人および間垣部屋、阿武松部屋、大嶽部屋の3部屋は事実上破門とし、既に一門からの離脱を明らかにしていた貴乃花親方と貴乃花部屋にも、同様の措置が執られた。

二所ノ関一門からは現職の放駒と二所ノ関のみが立候補することになり、新人の鳴戸は事実上立候補を断念せざるを得なくなった。4期(8年)ぶりに評議員の投票で11人が10人の理事を争う形になったが、こうした騒動を武蔵川理事長が厳しく批判して話題となる。貴乃花親方が固める票は上記7親方の票だけでは当選ライン10票に届かず、他の一門から票の上乗せの必要があった。

2月1日の理事選の投開票の結果、落選予想の貴乃花親方は上記7親方以外の3票の上積みがあり、10票を得て当選し、落選は大島親方となった。理事長は武蔵川親方の続投となるが、貴乃花親方の行動をマスメディアは、「相撲協会の革命児」と報道した。同年7月4日に行われた臨時理事会は、野球賭博に関与した大関・琴光喜についての議案で、琴光喜は解雇処分となる。

これを不服とした貴乃花親方は処分軽減ならびに現役続行を強く訴えたが却下された。その後、理事選で貴乃花親方を支持した阿武松の弟子と床山、大嶽が野球賭博に関与したとして処分対象となり、貴乃花親方は退職願を提出するも受理はされなかった。武蔵川前理事長の突然の辞任に伴う理事長選挙で貴乃花親方は北の湖を推薦、「貴の乱再び」と言われたが結果は落選。

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2012年1月場所後の1月30日に行われた理事選で再選され、大阪場所担当部長に就任した。2014年4月以降も引き続き理事を務めることになり、協会常勤の執行部・総合企画部長など部長職5つを任される厚遇に与った。2016年1月29日の理事選挙では4選となり、3月28日に行われた理事長改選では現職の八角と共に次期理事長候補となるが、多数決の結果6対2で八角に敗れた。

2017年11月場所中に日馬富士の貴ノ岩に対する暴行が発覚、貴乃花親方の協会への報告義務違反などによる理事解任決議が全会一致で可決され、2018年1月4日、臨時評議員会の席上、貴乃花親方の理事解任決議が承認された。池坊保子評議員会議長は、貴乃花が理事に再選された場合に承認拒否に含みを持たせる発言をしたが、2月2日の理事選挙では2票の獲得にとどまり落選。

この一件を早大教授上村達男氏は以下批判した。「元検事で高野利雄危機管理委員長の、『忠実義務に著しく反する』とする意見に依存したと見られているが、忠実義務違反というのは、貴乃花の行動が協会に財産的被害を及ぼす場合に想定されるもので、今回はそうではなく、単なる不注意の問題で理事解任に当たらない。刑事畑の検事は民事に不得意なのが通例だ」。

年明け早々理事を解任された貴乃花親方は、協会の役員待遇委員・指導普及部副部長となるも、テレビ朝日の特番に出演して協会批判を行うなど、対立姿勢を強めてきた。3月26日の理事会では八角理事長の続投が満場一致で決定し、昨日は日本相撲協会役員以外の親方で構成する年寄会による臨時総会が大阪市内で開かれ、貴乃花親方は協会と対立する姿勢を謝罪した。

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さらには内閣府の公益認定等委員会に提出した告発状を取り下げる手続きを始めたことも明らかにした。こうした貴乃花親方の変節は、弟子の十両・貴公俊の付け人殴打問題で立場が一転したことになる。元横綱・日馬富士による幕内・貴ノ岩暴行を契機に、協会に対する強い態度で主導権を取り続けていた矢先、弟子の起こした暴力事件は貴乃花親方を窮地に追い詰めた。

臨時年寄会終了後、記者会見に臨んだ貴乃花親方は、「今後は相撲協会の一兵卒として皆さんと力を合わせ、微力ながらも協会のために尽力する」と、平身低頭語った。「大男総身に知恵が回り兼ね」とは力士にいわれる言葉だが、なぜにこんな時に貴公俊は暴力事件を起こしたのかは、上記の言葉にいう、"おつむの悪さ"という以外にないが、正に親の心子知らずである。

年寄会では厳罰を望む声もあり、本日開催予定の理事会においては、貴公俊も含めた厳しい処分が予想される。貴乃花一門は理事会に対し、事実上解雇となる契約解除だけは避けてほしいという要望書を出しているというが、高飛車で独断的な行動や態度やから造反分子とみられていた貴乃花親方は、解雇は避けられたとしても協会内で飼い殺し状態になるのは明らか。

ふと中国の英雄項羽が頭を過る。23歳で挙兵、30歳で死ぬまでの8年間に70戦以上を勝率9割9分の最強の天才武将項羽は、史上最大にして孤独な戦術家の異名をとるが、最後は、「四面楚歌」で生涯を終えた。22歳で綱を張った大横綱貴乃花も経歴とは裏腹に理事投票がわずか2票(1票は自分)と四面楚歌。乱を企てた異分子として、今後は針のむしろを歩くことになる。

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貴公俊の一件がなければ「一敗地に塗れる」ことはなかったろうが、子の監督責任は親にあり、弟子を責めることはできない。貴乃花親方にとっては、「晴天の霹靂」だが、ミイラ取りがミイラになった今、理事会の恩情で貴乃花部屋の看板だけは守ることが叶ったなら、理事の面々には足を向けて寝ることはできない。貴乃花親方の今後に、「我が世の春」の到来はない。

人間であることの原点 ①

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『二十歳の原点』の著者は高野悦子となっている。1949年1月2日に生を受けた彼女は、1969年6月24日に世を去った。『二十歳の原点』の著者といっても、1969年1月2日(大学2年)から同年6月22日(大学3年)までの、立命館大学における学生生活を中心に書かれた日記を父の意向で出版となったが、母は反対をしたという。おそらくタイトルは編集者(出版社)がつけたものだろう。

『二十歳の原点』にはどういう意味があるのだろうか?「原点」とは、物事のはじまりや基(もと)、基準、根拠となるところ。などの意味があるが、人の人生や企業などの歴史を振り返る際に出発点という意味で、比喩としても用いられる。最初の日記は上記した1969年1月2日で、彼女の20歳の誕生日から始まっているからして、『二十歳の原点』というタイトルに相応しい。

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今回の記事のタイトルを『人間であることの原点』にしたのは、「出発点」という比喩的な意味より。基準や根拠となるものを洗いざらい書き留めておこうと考えた。人間という大きなテーマを扱うことにさほど躊躇いはない。気負うこともなく自分なりの思いや考えを記せばいいだけだが、人間が何であるかも実は難しい。種としての人間というより、本質としての人間だ。

「本質としての人間が何であるか」とはいえ、本質は目には見えないもの。人間という個体は実存するが、人間の本質をあえていうなら、人間がもつ本性であり、人間の本性とは、すなわち、「人間本来の自然なかたち」という意味であろう。そうした人間の自然な本質が、個々の人間の実存に先立っているとしたのが、「本質主義」。それに対抗して生まれたのが「実存主義」。

戦後間もない混乱期の1945年の10月、ジャン=ポール・サルトルはパリにおける、「実存主義とはヒューマニズムである」と題した講演で、「実存」という概念を世に広く知らしめている。講演のなかでサルトルは、「実存主義はヒューマニズムである」としたが、講演にはいくつかのポイントがあり、実存主義を分かり易く説明する二つの定式が提示されている。

 ・第一の定式が、「実存は本質に先立つ」。

 ・第二の定式は、「人間は自由の刑に処せられている」。

第一の定式である、「実存は本質に先立つ」とはどういうことなのか──。「実存」というのは、現にこの世界に現実に存在するということ。他方、「本質」とは、目には見えないものであり、それが物の場合なら、その物の性質の総体をいう。つまり、どんな素材であるのか、それはどのように作られるのか、何のために使われるのか、といったことの総体のこと。

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サルトルは、ペーパーナイフを例に挙げて説明した。その製造法や用途を知らずに、ペーパーナイフという物を作ることはできない。ペーパーナイフとはどういうものかを、あらかじめ職人は知っている。だから職人はその本質を心得ながらペーパーナイフという実際の存在(実存)を作ることとなる。つまりこの場合においては、「本質が実存に先立つ」ことになる。

ペーパーナイフに限らず書物や洋服や机や家や橋でも同じこと。では、人間の場合はどうか。神が存在し、神が人間を創ったと考えれば、ペーパーナイフとまったく同じで、神の頭の中にまず、人間とはどういうものかという本質があり、それから人間の実存が創られる。この、「本質が実存に先立つ」という考え方は、実は18世紀になってからの無神論でも同じことである。

18世紀はルソーらによる、「自然」が尊ばれた時代。哲学者たちは、「人間は人間としての本性をもっている」ので、「それぞれの人間は、人間という普遍的概念の特殊な一例である」と考えた。「本性」も、「自然」も、フランス語では同じ、「ナチュール」で、「ナチュール・ユメーヌ」というと、「人間本性」すなわち、「人間本来の自然なかたち」という意味となる。

この場合においても、人間の自然な本質が、個々の人間の実存に先立つものとした。ところがサルトルは、「人間の場合はそうはならない」と主張。まったく逆の、「実存が本質に先立つところの存在」こそ人間であると宣言した。彼は1945年のパリでの講演の翌年、『実存主義とは何か』を著書を出版した。下はその中の一部を描き出したものである。

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1945年といえば、第二次大戦が終結した年。日本の終戦は同年8月だが、フランスの終戦は日本より少し早い5月であり、サルトルのパリでの講演は終戦から数か月後におこなわれたことになる。敗戦国の日本とは違ってフランスは戦勝国であり、ナチス・ドイツの占領から解放されたことで、フランス国民の自由を謳歌する気分は、当然にしてあったことになる。
 
その一方で、現実はそれほど明るいものではなかった。戦争による破壊の爪跡も大きく、生活面や物資が滞り、食糧難が続いていたし、国民においては失業者や困窮者で溢れていた。なかでもとりわけ大きかったのは、時代に対する人々の不安であった。そうしたなかでサルトルは、自ら主体的に生きるという、「主体性」の概念を実存主義に盛り込んでいる。

人間はまず先に実存し、したがって、「自分の本質というのはそのあとで自分自身で作るものだ」というのがサルトルの考え方であり、「人間は自らつくるところのもの以外の何ものでもない」とした。これが、「実存主義の第一原理」である。自らを作るということは、未来に向かって自らを投げ出すこと、即ち、自ら斯くあろうと、「投企」することだと考えた。

「主体性」や、「投企」という概念において、そこから何かを、「選択」する、「自由」という概念、あるいは自分で選ぶということに伴う、「責任」。そのことへの、「不安」、また自分ひとりで決めることの、「孤独」、そうした一連の概念がずっとつながって来て、「実存は本質に先立つ」という、「実存主義」という考え方の核となる基本的図式が浮かび上がってくる。

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「人間であることの原点」については、実存主義を踏まえながら、自由精神と主体性に満ちた、ニーチェの『人間的、あまりに人間的』、あるいは禅思想に通じる「精神の自由」などを無神論の立場で眺めてみたい。「何故、人は神様という装置を生み出したのか」、「人間は宗教なしで生きてはいけないのか」、「人間が信じて生きていくべくものは何なのか」。

ユダヤ・キリスト教圏に生きるある種の人々にとって、唯一絶対の神とは信じられないほど脅迫的な重圧のようであるが、神の拘束を求める人たちの心は、神を信じない者にとっては理解に苦しむ。宗教的拘束と精神の自由はどのような関係にあるのかについても耳を傾けてみたが、「精神の自由と信仰の自由は同じもの」といわれ、ますます理解を得なくなったことがある。

人間であることの原点 ②

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そもそも人間は自然のままに生きることはできるのだろうか?適応障害という疾患があるが、自らの欲求が、自分の外的・内的状況にうまく適応できないなら、自然のままでいるということは、適応パーソナリティの条件に思える。ただし、自然でいるということがいかに難しいことであろうか。人間は、いつ、どこに行っても、自然のままでいられるということは大変である。

いかなる場においても、いかなる相手を前にしても、緊張も委縮も興奮も上気もなく、常に冷静で自然にしていられる人はいるかも知れない。ただし、冷静が自然であるか否かは分からない。もっとも、人間には誰にも外面と内面があり、それがあること自体、人間は自然ではないということになる。人為という言葉が示すが如く、人間にとって作為は切り離せない。

自然の対義語が人工(人為)であることからしても、やはり人間が自然に生きることは至難である。人間が自ら作られたイメージによって行動するのはごく自然なことであろう。それを自然という言い方をする以上、人間の自然さとは人為ということになる。ならばなぜ、「人為を排して自然に生きよう」などと言うのか?そんなことできるわけはないのではないか?

吉田拓郎のあまりにも有名な『イメージの詩』の一節に、「誰かがいってたぜ 俺は人間として自然にいきているんだと 自然に生きてるって分かるなんて何て不自然なんだろう」。〇〇キャラというのは芸能人の虚像をマスコミが大衆に植え付けたものだが、それが当たり前に言われるくらい、ネコもカシコも、「〇〇キャラ」ブームである。有名人という人たちは一瞬である。

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生きの長い人もいるが、概ね同時代的である。過去の有名人など、新しい世代はまったく知らないものだ。結局マスコミは、自分たちのメシのタネとして有名人を作るが、しばらくすると自分たちのメシのタネのためにその有名人を殺してしまう。如何にマスコミという世界が軽薄であるかを示しているが、新陳代謝の激しいそういう世界こそがマスコミである。

ベッキーや乙武に大騒ぎしたと思えば斉藤由貴や山尾志桜里に騒ぐ。つい先日の小泉今日子の文字は見ることもないし、政治家今井絵理子はどう活躍してるんだろうか?今井の、「イ」の字もみられない。軽薄なマスコミにつられてか、人々も軽薄になっていく昨今だが、不倫が騒がれるのは、興味の矛先が下半身の問題であるからで、人間は下世話好きである。

自然であることと自由であることは違うが、自分を作ることは人間の自然の営みとしても、自由であるとはいえない。人間は誰にも自由への欲求はあるが、人間はどこまで自由なのかという問題はある。なぜなら人間は解放と抑圧の間を生きている。苦しみを望む人間はいないが、人は苦しみを失うと、「生きてる」実感を失うようで、人間にとって天国とは同時に地獄でもある。

好きなものばかりに囲まれた人生が楽しそうに見える。だから人は趣味をみつけて熱中するが、好き嫌いがあるからこそ生きる面白さがあると思っている。なぜなら、「好きだ」、「好きである」の裏には、「好きではない」、「嫌いだ」ということが存在する。「ある」ということは、「ない」があって、はじめて、「ある」ことになる。その意味で表裏は一体でもある。

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時々思い浮かべるのが、サルトルの『嘔吐』の一節、「自由である。それはいささか死に似ている」というくだりである。何事も裏なくして表がないように、人間にも表があり裏がある。人間を正面から見るのが表で、くるりと背中が裏とはいわない。人間の表裏とは心の中をいい、表の顔、裏の顔などというように、精神のことである。人はみな表と裏を使い分けて生きている。

そうした裏の顔、裏の心を偽善という。偽善とは偽の善と書くが、善で無いことを善と騙すこと。上辺だけ良いことだと見せかけること。善人だと思われようとすることなどをいう。人間が悪の心を持つ以上、偽善を必要とする。偽善をまったく必要としない真の善人はいるのだろうか?いるかも知れないが、いない確率が高い。なぜなら人間には様々な欲求があるからだ。

他人を偽善という偽善。何が偽善、どこまでを偽善?一例をあげると、愛情を失ったと知りつつ生活を続ける夫婦は偽善者か?そうした夫婦生活は価値のないものなのか?だとすれば、不倫は実に生き生きとしているではないか?なぜに他人がいちいち口出しをせねばならぬのか?他人の不倫にゴチャゴチャ言う人間の、いかにも正義感ぶったしょぼい自己満足である。

たまたま自分たちの夫婦関係が壊れることなく続いているなら、それは結構なことだが、だからといって、そこからはみ出した他人の生活の実態を知りもせず、不倫を非難すれば良識になった自分になれる。他人の不道徳を指摘するだけで、誰もが良識となる滑稽さ。自分たちは価値のある夫婦というが、毎日の生活の中で平凡という偽善を行っていることに気づかない。

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アメリカの心理学者で、人間の同調行動の研究を確立したG・オルポートはこのように述べている。「人間は自分たちの同類の仲間になっていて、その中で食べたり遊んだり居住したりする。自分の同類を尋ね、一緒に礼拝もし、その中で生活を営む。こうしたことは何故かといえば、ただ単にその方が便利だからである。わざわざ友好関係を外の集団にまで向ける必要はない。

何故なら自分のそばにそうした人々がいるのに、どうしてわざわざ新しい言葉とか、慣れない食べ物とか知らない習慣の人々に、どう適応する労を取る必要があるのだろうか」。だから人は同じ習慣を身につけている人とつるみ、一緒に生活したり結婚したり遊んだりする。所詮、我々は文句をいいながらも、結局は慣れた安易なことだけをやる人間に過ぎない。

これを平凡なる偽善というのは間違いではなかろう。そうしたことから、真に良識ありたい人間は、自分のやっていることを道徳的だとか、正しい生き方であるとか、何だカンだいうのは止めにしたらどうだろう。他人の生き方や生活に口を挟むことが、どれだけ愚かであるかを、わざわざ示す必要はない。一億総評論家時代にあって、余計な口出しをする人の多きこと。

すべては自己の問題と考えることは可能である。自己のいいことを賛美し、悪いことは他人事を例にあげて酷評する。人間というのはいかにも合理的にできている。ゆえに、"考える姿勢"が問われる時代である。芸人タレントの言葉に振り回されぬことだ。彼らは目立ってなんぼの世界に生き、目立つことで需要が増すのを知りつつ、他人を餌食にコキ降ろすハイエナである。

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かつて日本人文化を、「たこつぼ文化」と称した学者がいた。ネット時代になってその傾向は強まったのではないか。情報を共用し合うことで、あちこちにタコが出現し、同じようなツボを探し、そこに入って、「いい湯だな」と…。現代人はもう少し、主体性を育んでいく必要がある。同じ情報を共有しても、人間は個々に違う考えを宿すべきではないだろうか。

社会で起こることや事件について、誰もが同じことを書くのがつまらない。同調行動をとる自分を嫌悪する。誰も書かないことを、誰も気づかぬ視点で、あるいは気づいても書くのを躊躇われるような怖気づくこともなく、怖れず書くように心がけている。自分のブログへのあり方は、そういう挑戦でもある。自らが自らに挑戦しないでいて、何が楽しい人生であろうか?

人間であることの原点 ③

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イヌやネコのように、ただ生きる事だけが目的の動物は純粋である。そういう彼らにおいても生存のための小さな知恵はあろう。ネコはイヌと違って素っ気なくて警戒心が強く、譲り受けた飼い猫であっても慣れるまでに時間を要す。が、すべてのネコがそうともいえず、最初からべたべたと甘えん坊タイプもいるが、やはりイヌの屈託のなさに比べるとネコは用心深い。

人間にも様々な資質や性格はある。思うに人間というのは、生きるために多くの手段や選択があり、それらを実行するためにあらゆる方法を取る。したがって、"すべてのことは人間次第"といえる。自己啓発のためには、「他人と自分を比較すべきでない」とはいうものの、「人を見習ってはいけない」ということではない。授かった方がいいものは大いに授かるべきである。

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         ヒドイ試合をした選手に激高する外国人。ヒドイ試合をした選手を思いやる日本人。


ネガティブに自分と他人と比較をしたり、ない物ねだりをして卑屈になるのがよくないのであって、他人を見習うのは大切なことである。そうすることで自分の生き方の大切な何かに気づくこともある。これらも含めて、"すべては人間次第"である。人間関係は多岐に及び、友人や恋人や同僚、親子や師弟も人間関係である。職場における上司と部下も人間関係である。

人間関係には、対等も上下関係もある。高校のころだったか、「友情」が何かを模索し、それで武者小路実篤の『友情』を借りて読んだ。表題から爽やかな青春小説を想像していたが、描かれているのは夏目漱石の『こころ』と同じような、ドロドロした三角関係だった。太宰の『走れメロス』の方が、友情が何かを分かり易く捉えていた。友情を言葉で説明するのは難しい。

好意を抱く友人がいたとする。果たして自分はその友人の心を分かっているのか?見通せているのか?そういうことも分からぬままに、さも友人のことを分かった素振りをしたところで、それが友情だろうか?また、友人のことを理解していたつもりでも、不信に陥ったり、裏切られたりの経験をする事はある。裏切った相手を、「友人ではなかった」というのは容易い。

裏切る前までは友人で、裏切った後は友人でないというなら、友人とは結果の産物ということになる。そうではなくて、「友人に裏切られた」といえばよい。この世の一切は不確実なものである。青春期に、「男の友情」、「女の友情」について話し合ったときにある女性が、「男の人はいいよね。もし生まれ変わるなら、わたしは男に生れたい」と、男世界を羨んだ。

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   自分の都合で他人を利用する、活用するのは友人といえない。友人を自負するならすべきではない。


女性は上辺だけの付き合いが多く、相手に心無い同情をしたり、いつまでも憎みあったり、じめじめした世界という。男の世界は、「カラっとしてていいね」などを耳にする。男をやったことのない女性の、そうした口ぶりの根拠はなんであろう。女性の目ざとさか?自分は女性同士の人間関係についてあれこれ説明を聞かない限り、その陰湿さを知らないでいた。

いろいろ見聞きをしても、「そういうものなのか?」という程度で実感はわかなかった。「女性に真の友人はいない」という比喩的な言い方がある。年月を重ねて、友人という確信を得るに至った女性もいるが、小中学生時代に、「永遠の友」と契りあったものの、席替えで疎遠になったと聞いて笑ったことがある。青少年期と壮年期で、「友人」の意味は違うだろう。

青年期は何かと理想に燃えている。過多と思われる程に相手にも自分にも潔癖を求め、客観条件が満たし得ない高い理想を掲げ、「理想社会ではない!」とか、「人間は腐っている!」とか、「綺麗な人間はいない!」などと非難する。こうした綺麗すぎる青年の一面を別の言い方でいえば、「寛大」でないということだ。壮年期に許せても青年期に許せないことは多い。

事例の一つに親の離婚がある。「何で大人は自分勝手なんだろう」としか子どもは考えない。子どもに大人の都合が理解できないのは、子どもであるがゆえにである。大人の都合を理解するためには、子どもが大人になる必要がある。青少年の理想主義の多くは、「不安な心」、「不満な気持ち」の現れであり、青年期の理想とは、現実を踏まえた理想でない場合が多い。

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       「大人ってどうして勝手なんだろ!」。子ども時代に思ったことは、絶対に忘れないことだ。


「現実を無視した理想」という言い方もできる。「現実」と、「理想」が対義語である以上、二つは相反するもの。夢にも大小があるように、現実を踏まえた理想もあれば、空想に近い理想もある。それらから、青年期というのは、完全なる友情を求めすぎるきらいはあるだろう。女の子はしばしな親友に対して、「親友だから何でも打ち明けて!」などの言い方をする。

それが行われなかった場合、「なんで親友なのに打ち明けてくれなかったの!」などと怒りだすこともあるというが、こんなのは男に分からない情動である。仮に、「親友だから何でも打ち明けてくれ」といったとしても(あまりこういう言い方はしないが)、打ち明ける、打ち明けないは相手の判断によるもので、打ち明けられなかったといってヒスを起こすなどはあり得ない。

自分の都合で相手を拘束するようなことを男は求めないし望まない。ところが、女性の親友の定義は、「何でも話してくれる自分は相手にとっても特別の存在」というしょぼい優越感があるのだろう。自分は友人という意識のない相手から、「これから話すことはお前だけにで、誰にも言わないでくれ」などの、勿体付けた言い方が好きでなく、拒否することにしていた。

「ちょっと待った。誰にもいうなといわれても、ポロっといったりするかもしれないので、そういう前置きは責任持てない。」と伝える。言葉の真意は、あまり友人向きと思わぬ相手から、勝手に秘密を聞かされることで友人面などして欲しくないというのを、やんわり突きつけている。友人を選ぶ都合はこちらにもあるわけだから、自分に合う相手を見極めねばならない。

     友人からの借金をどうしても断れない人。こういうことがいえるならあなたもマンザラではない。


勝手な押し付けに自己責任など持てようはずがないのに、そういう人間はいる。絵に描いた完璧な友情などないと思っている。友情とは、自らの主体性で自然に発揮されるもので、押し付けであってはならない。友情を押し付けられるのは迷惑である。巷に存在する多くの、「友人」や、「友情」に自分は懐疑的だから、「友人」も、「友情」も枠に嵌めて定義することはない。

青春期には相手にすべてを要求したりするが、これとて押し付けである。なぜなら、自分も相手に要求をしかねないからだ。無知で心の不安定な青春期において、相手に寛大になるなどはあり得ない。したがって、青年期の特徴は相手に対する、「非寛容」さであろう。相手に完璧さを要求するから、少しの嘘も少しの不誠実さも許さない。それが一般的な青年期である。

完璧さを求めぬなら相手に非寛容であるべきで、これが青年期の純粋さである。寛容できもしないのに、器の大きいところを見せても無理をしても行き詰まる。寛容になれる年代というのはずっと先のこと。正しい知識をつけておこうとする過渡期にあっては、他人が話す言葉にはこだわらないで、ふんわり、やんわり聞き流すくらいがちょうどいいんじゃないかと…。

人間であることの原点 ④

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自己顕示欲が強いと、自分自身を大きく見せるために無理をしたり噓もつかねばならなくなる。「身の丈の自分を知れ!」というが、虚栄心を少なくしていこうとする生き方を求めないと、人は虚栄のドツボにハマってしまう。他人の評価を謙遜したり否定したりの必要もなく、自己向上を目指すならふんわり聞き流せるはずだ。大切なのは自ら向上することである。

地元の中小企業の子会社の社長になった知人だが、子会社に飛ばされたことを知らなかった。故意に隠していたではなく、親会社の取締を外されたのは彼にとって不名誉だったとしても、子会社に転属など必要もなかったこと。彼はいつも、「忙しい、忙しい」を口にする奴だった。関係のない部外者の我々に対しても、「忙しい、忙しい」を口癖のようにいう。

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何がどう忙しいのかを知る由もないし、寒い冬に、「寒い、寒い」と口に出る程度の忙しさだろう。「忙しい」とはどういう状態なのか、自分は知らない、分かってもない。「猫の手も借りたいほどに…」という忙しさは一度も体験がなく、仕事は普通にこなせた。かと思えば別の友人は、顔を合わせば、「暇だ、暇だ」という。確かに彼はまったくの暇であった。

暇な人間は、「暇、暇」というから、暇であるのは分かるが、忙しい人間が、「忙しい、忙しい」と部外者の我々にいったところでそうは見えない。なのに、「忙しい」を連発する彼は、"忙しい=重要なポジションと、人から思われたいように感じた。他人に見栄を張る小物的性格は、言葉以外からも伝わる。「暇、暇」の友人は見栄と無縁の屈託のない性格である。

実態はともかく、「忙しい」と「暇」という言葉の両極分化も、人間の面白さを現わしている。「過敏」と「無関心」という二極分化は、もとは同じところに原因がある。「協調心」と、「闘争心」が両立するようにである。協調と闘争が一緒というのは疑問に思うだろうが、「人間は強調しなければならない」ということ自体、人間に闘争心があることになる。

どんなスポーツにおいてもだが、将棋を例に考えてみる。相手と将棋を指すということは、闘争心を満たすことになるが、二人は棋譜を作るという協調を行っており、そこには友情すら芽生えている。心無い一部の人間は負けると相手に腹を立てて憎むのは危険である。自らに腹を立てるならまだしも、相手の健闘を称える度量がない人間は、自分のことに躍起になる。

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セリーナ・ウィリアムズが2018年3月21日のマイアミ・オープンで、大坂なおみと対戦したが、コート上での動きやラリーで精彩を欠き、21年ぶりの初戦敗退を喫した。試合後の会見を拒否したセリーナには、約100万円の罰金が科されるという。対戦相手を憎むというより、元女王として敗戦ショックの大きさを物語っており、会見拒否は自らに正直な行動だったろう。

人間は感情の生き物であるがゆえに理性を必要とする。将棋のタイトル戦七番勝負で、3連勝後の4連敗は一度もなかったが、初めて実現したのは、2008年の『竜王戦』である。この不名誉な体験を喫したのが、誰あろう棋界第一人者の羽生善治であった。これが何を物語っているのだろう?一つ言えるのは、この屈辱を糧に羽生は自らを高めることになったと推察する。

多くの将棋ファンはそのように感じているに違いない。3連勝後の4連敗という羞恥は筆舌に尽くし難いが、思いは番勝負が進行中の渡辺竜王にもあった。彼はその時の気持ちをこう述べている。「3連敗して、恥ずかしく申し訳ない気持ちになり、逃げるように帰った。次で最後になるかもしれないという思いで、4局目からは悔いが残らぬように思いきりやろうと思った」。

土壇場に追い詰められての開き直りの心が好結果に結ばれたのだろう。他方、羽生は口にこそ出さぬが、のっけから3連勝という慢心が、意識・無意識を問わずあったと想像できる。土壇場の人間の底力というのは、中国の史記『淮陰侯伝』にもある。韓信があえて川を背に陣を敷き、兵士達が退けば溺れるほかない捨て身の態勢で勝利したことが思い起こされる。

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勝負師が勝った相手を憎んでいては大成などあり得ない。他人への軽蔑は自身への軽蔑である。傷つきやすい心の持ち主に顕著なのは、他人から嘲笑されて傷つく前に、他人を嘲笑することで自我を保つ。対話や論戦の最中に人格攻撃を始めるのは女性に多い。その時点でもはや議論は終わっている。不毛な罵り合いなどせず、店仕舞して去るのが賢明であろう。

相手が人格攻撃を始めたらそう決めている。以前にも書いたように、ケチな人間ほど他人をケチというが、ケチでない人間が言われて腹を立てる理由はなく、「あなたってケチね」といわれたら言葉を返さず腹で笑っている。ケチで心卑しい人間が、それにあやかれないことでケチと相手を罵り、改めさせようというキツネの悪知恵であろう。無用の女と映るだけだ。

「他人が自分を判断してくれる」、「他人の見方を尊重する」という姿勢を尊重するなら、自分をケチだという女にとって、自分はケチと映っている。彼女は自身の卑しさなど感じていないので、相手の何を指摘しようと憤慨するだけだし、言った言葉を根に持たれると面倒臭い。「ケチというお前がケチだよ」は子どもの喧嘩。こんな言葉を言うは性悪女と判断すべし。

問題なのは、口には出さず腹で思う女。これも、付き合いの中で洞察力をもって覗き見ることは可能である。人の心を読むのは、慣れると難しいことではない。ある種の傾向があり、必ずやそれに合致するからで、それを上手く隠す奴と、そうでない奴がいるだけである。自分を誤魔化すのは人間の常であるが、同じ誤魔化しといっても、誤魔化す理由は一つではない。

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なるたけ多いのは自己妄想により誤魔化し。誇大な妄想癖女性に顕著である。不器用な誤魔化しもある。生きることの真実の喜びと苦しみを受けるのをなぜか怖れて誤魔化している。例えば以下の事例。女があるタレントに恋をした。それが妄想であるのは、話すことも会うこともままならないテレビの相手である。その恋は妄想であっても、まさしく恋にちがいない。

しかし、真実の恋が持つような喜びもなければ悲しみもない。すべては作られた一人芝居の恋であるが、芝居をやってるうちに本当にそうだと思い込む。多くの女性が、はしかのようにかかるジャニーズ男子への憧れがこれである。彼女たちはその恋によって、何ひとつ真実の恋の喜びに胸を奮わせることも、悲しみに涙したこともない。一切が虚構のなかで彩られている。

普通は中学生辺りで目が覚めるものだが、抜けきれない倒錯に悩み後悔する苦しみは、素直でいようとする苦しみより大きい。素直でいたいと思うなら、自身のひねくれた心と闘うことが先決となる。そうした心と格闘し、もがき苦しんでこそ、素直な心に至ることができる。何事も、「産みの苦しみ」であろう。これは自分経験したことだからよく分かっている。

「素直になりたい」、「ひねくれた心を葬りたい」などというが、念仏のように唱えたところでどうにかなるものでもない。自己変革は大変な作業である。人から批判され、非難されてやっと気づき、そこから険しい自己変革が始まる。「批判するのやめて」、「非難しないで」と制止は止めて、他人の視点に心当たりを感じるなら、「良薬」と信じて飲んでみることだ。

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人間であることの原点 ⑤

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「周囲を気にしない」。「他人に自分を支配させない」。「自己肯定感を持つ」などの言葉は、自己啓発本の常套句。それらは決して間違いではないが、そのような前の段階があることを忘れてはならない。どうしようもない人間のままで自己肯定に生きてどうなる?周囲を気にせず、自分勝手に生きたらどうなる?足りないままの自分を自己支配で生きてどうなる?

抜け落ちた自分の何かに気づかず、改めることもなく生きてどうなる?人は自分なりの(節度ある)考え方や生き方ができるまでには、自分なりに生きていくことはできない。必ず行き詰り、失敗するのは目にみえている。失敗とは他人から敬愛されて社会を生きていくことはできないということ。どんなにいい大学を出ようが、いいところに就職しようがである。

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いい相手と巡り合って結婚してもである。自分が潰されるか、もしくは相手を潰すか、どちらも不幸なことになる。自分なりに生きていける何かを身につけるまでの人生は不安なものであろうし、だからこそ、不安をなくすためにはどうすればいいかを考えなければならない。他人を軽蔑する人間は自分を軽蔑するのと同じといったが、その意味を理解することも大事かと。

「他人を見る目は、自分を見る目」という簡単な図式に気づかない。「人のふり見て我がふり直せ」というのは逆にした同じ意味。他人の悪口ばかりの人間に、「自分を見てるのか?」と誰が諭そうとも無意味なのは、自分のことは自分で見なければ見えてこないからだ。自分が不完全であることを自覚し、不完全なものをよりよくしていこうという気持ちが大事となる。

他人の悪口ばかりいってる暇などないのに、その手の人間は自己向上などとは無縁であろうし、実際に悪口好きに善い人間などいたためしがない。悪口好きだから自己が向上しないのか、自己向上させたいという啓発心がないから悪口好きになるのかわからないが、「類は友を呼ぶ」がごとく、悪口好きには同じ類の人間が集まってくる。これが女のコミュニケーションという。

「人の悪口は私のモチベーション」と平気でいう女がいた。彼女を担ぐ女が周囲にたむろしていた。悪口を好まぬ女性は、そういう中には居づらく、少しづつ距離を置こうとするも、「他人の不幸は蜜の味」という誘惑に、知らず知らず染まっていく。孤立するのでメンバーから脱せないという女性もいたが、男はそれができる。基本的に男は孤独で、無理に他人と合わせようとしない。

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孤独を善とする男は他人を所有物とみなさない。恋人も妻も我が子も、互いに一個の人格者としての自由をもち、独立して愛する対象で所有物ではない。孤独を善とする者は、他人は他人という考えとなり、他人を尊重できる。恋人が自分を裏切ったとする。自分という相手がいるのに他人を愛し、好きになった恋人を裏切り者と喚くが、どこが裏切りなのか?

相手を一個の自由人と認めれば、その選択は相手の自由である。孤独の視点からみれば相手も孤独者であるが、恋人を同士愛と錯覚するから、相手を「同士」という枠に嵌めて束縛する。自分は不倫や離婚を批判しないのは他人の事情である事と、人はみな独立者とみなすからだが、不倫批判の人は、「結婚しているのに…」という。結婚生活は愛情で続けているのか?

愛情がなくても不倫はしないという誇り。それが不倫批判となる。愛情で婚姻継続の夫婦は、他人の不倫に何の興味もない。人には人の理由や事情があると考える。確かに結婚は愛情より契約の側面が強い。アメリカ人は愛情なき結婚生活を無意味と考えるから、夫が浮気をすればたんまり慰謝料をふんだくる。愛情がなくても夫の浮気を精神的苦痛という日本人。

愛情の欠片もない妻が夫の浮気で精神的苦痛ってあり得る?自尊心からの怒りであろう。「精神的苦痛」という情緒の方が被害者ぶれる。女性は被害者ぶるのが好きだ。アメリカ人のように、銭にもならない情緒よりも、離婚もビジネスと考える発想がない。誠意なんてのは所詮は、「銭」と割り切ればいいのよ。夫が誰と寝ようが、「お好きにどうぞ」という妻もいる。

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もっとも、「つまみ食い程度」の不倫や浮気もある。離婚覚悟の上といえないものも少なくないが、つまみ食いであれ、自尊心を傷つけられれば腹も立とう。それへの対処法もいろいろであって、どちらにしても外野がとやかく言うことではなかろう。なのに、我こそはとちゃちをいれたくなるその心理は何であるか?出てきた答えは、「他人事は酒の肴にすれば面白い」。

「人間なら、人間らしく生きよ!」という人に、「人間らしくとはどういうことか?」と問うたことがあった。どう答えたかは覚えていない。それほどに胸を打つ言葉でなかったのだろう。人間といってもいろいろだから、少なくとも自分の背丈に見合った生き方をするのが分かり易いし、正解だろう。自分なんかよりはるかに偉大な人のような生き方はできない。

かと思えば、自分と同程度に人間であっても、他人の生き方の真似をすることもない。不具である人にはそれなりの、病気である人にもそれに見合った生き方があるから、「人間らしく生きよ!」は、つまるところ、「自分らしく生きろ!」と解釈すればいい。そのためには、自分の持っているもの、足りないものに気づくことだろう。気づく人は自分なりの生き方が可能である。

他人を羨ましく思えば嫉妬し、他人を蔑むと傲慢になる。どういうものを排除する生き方は、自然で楽な生き方に思う。確かに嫉妬に苦しむ人は不幸である。人を見下げ、蔑む人も、人から嫌われる点において不幸である。敵意も持たず、欲求不満から自分に無理をすれば、それで何かが実現できようとできまいと結局は不幸なように思う。向上心を持って努力するのはいい。

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努力といっても、物質的努力もあれば精神的努力もある。人にはそれぞれの目標があって努力をするのだろうが、自分の経験からして精神的努力目標があると、自己変革途上の苦しさはあっても、少しづつ充実感を得られるものだが、そうした精神的な努力目標を持たぬひとは、糸の切れた凧のように、どこかに飛んでいくか、宛てもなくさ迷うなど、充実していなかった。

人はその人が生きたようにはなるもの。強い気持ちで生きる人、弱いなりに生き抜いた人、互いが生きていればいろんな人に遭遇する。どれもその人の生き方である。ただ生きる事だけが動物といった。ならば人間にはそうでない生き方があるのだろう。見つける人もいれば、見つからない人もいる。「見つけた人は幸福」などの言葉を見るが、見つけなくても幸福な人はいる。

自分は、「~ねばならぬ」というのを好まなかった。そういう価値観もあるが、「ねばならぬ」という強制は、他人の決めたものである。仮にそれが正しいものであっても、「ねばならぬ」以外のものが正しくないと分からないではないか。だから自分は宗教を排除する。「幸せになるためには、〇〇ねばならない」という押し付けの宗教はもっとも忌避したいもの。

神の教えを守って幸せになるといっても、自ら求め、見つけたい。禅思想に、『行雲流水』という言葉がある。大空に浮かぶ雲や、流れゆく水はこだわりなく進んでいくように、自由に生きて生きよという意味である。ジョブズは禅思想を愛し、僧侶の作務衣のようにいつも黒いタートルに身を包んでいた。禅思想に強制はなくシンプルな生き方を教えている。

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人間であることの原点 ⑥

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人間について、人間社会について、人間関係について書こうと思えばいくらでも書くことはある。なぜなら、半世紀以上も人間と接し、人間界に籍を置いているのだから、書くことに尽きないのは当然かと。昨日まで、そして今日、明日からも死なない限り人間界で生きていく。あの世があるのかないのか、あってもあの世にネットはないだろうし、パソコンも売ってないな。

当然だろうし、服とて売ってない。あの世でいつまで生きるのかわからぬが、年がら年中同じ服を着たきりスズメなのだろう。着替えのパンツもないし、一体どこに住むのだろうか。定住なのか、放浪なのか?など考えると不思議過ぎて、あの世なんか「あるわけなかろう」となる。素朴な疑問はつきないが、あの世に文明はあるのか?文明は時代と共に進化するのか?

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500年前のあの世に電話もテレビも飛行機もないとして、現在のあの世はそれらがあるのか?携帯があるとして、使い放題ということはないし、おそらく有料であろう。飛行機があるなら空港もあり滑走路もある。で、飛行機に乗ってどこに行く?携帯で誰と話す?甚だ原初的な疑問として、あの世の人たちは何を食べ、どこで排泄する?霞を食って野糞たれるのか?

自分の奇抜な発想力からして、あの世のことなど考えられない。考えられないから存在も認められない。あの世の人たちがどこに住み、誰と話し、誰と酒を酌み交わすなどを考えるとマンガチックになってしまう。それよりなにより、死んだ人間はあの世で死なない限り、あの世人口は増えるばかりで考えられない混雑ぶりが想像できる。あの世肯定者はどう考えるのだろう。

「ない」とする方が合理的だが、「ある」とする人には都合のよい論理があるのだろう。人はみな死ぬけれども、人は誰も死を恐れる。やはり現世に生を受ければ、現世に執着するだろう。宗教は死を楽にするためにある。人の現世への執着心をなくすように説いていく。つまり、楽に死ねるように導くが、死に対して過度に気を使ってみても仕方がないと思っている。

自分の体が確実に衰弱して正常な機能を果たさなくなり、生命維持は難しいとなれば、それが死期であろう。いつかその時は訪れるのだから、死ぬまで生きようというのは自然な発想だ。死ぬまで生きるという個人的を超えて、死ぬまで生きようと、勝手に声を誰ともなくかけている。死ぬまでは生きられるのだから、死期を早めることもないと思うが、他人には事情もある。

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死にたい人には理由があるのだろう。が、そういう自分も、ある日突然死ぬかも知れない。ある日突然、二人黙るの…という歌詞がある。それならまだしも、ある日突然死ぬのは困るが、死んだ以上は困るということもない。死ぬということは意識もなく、動くこともなく、心臓は止まって、この状態こそが死だということも認識もないままに死んでしまった自分である。

死んだ自分を憐れむことも悲しむこともない。ある日突然死ぬなど情けないが、その後悔すらもないまま、突如一生を終えてしまうこともある。こればかりはどうにもならない、避けられない。ならばせめて、そうなってもいいように準備はしておけるのか?と考えながらも、準備とはどういうものかが分からない。なるほど、これも気を使うことの一環なのかと…

身体の健康に気を使うのもそういうことか。倒れたら倒れたで、その時に考えればよいと思っても、倒れてどうすることはできない。そこでウォーキングなどをしてみたところで、いつどこで倒れないとも限らない。倒れない保証はなにもない。健康のために〇〇する、〇〇飲み、〇〇食べるのが、よりよい死の準備といいつつ、本当に予防か準備かの確信はない。

何をしていようが究極的に人間は、死ぬ時がきたら死ぬのだから、「死ぬ時がきたら死ねばよい」との意識でよかろう。牢獄に繋がれた死刑囚は刑務官の足音に敏感という。かつて死刑執行は前々日に知らされていたが、今は受刑者自殺防止とかパニックを防ぐとかの理由で、当日の午前中に知らされる。それでも恐怖のあまり自力で刑場まで歩けない者もいる。

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凝縮した日々を送る死刑受刑者にとって、「死ぬ時がきたら死ねばよい」という心境にはなれないだろう。それに比べて無駄な日々を過ごす我々は、「死ぬ時がきたら死ねばよい」の境地になれる。そのために、「どう生きるか」を探すことも可能だ。宗教に頼る人も、自力で悟りを探す人もいる。生きることが楽しい自分には、「〇〇はつまらない」ということがあまりない。

もともと、あまりそういうことを思わなかったし、どんなものにも価値は見出すことはできる。「学校はつまらない」、「人生はつまらない」あげくは、「生きてることがつまらない」という人がいる。つまらないならつまらなくないようにすればいいのに、そういう発想がないのだろう。「毎日がつまらないので、何か生き甲斐をみつけたい」などと愚痴をこぼす人は結構いた。

そういう人が何を探し、何をし、何をしなかったか?知る人もいれば、知らない人もいる。知る人の多くは何もしていなかった。何もしないから愚痴をこぼすのだろう。奮起して生き甲斐と見出した何かをやろうとするも挫折し、「ぜんぜん楽しくなかった」と愚痴をこぼす。なるほど生き甲斐とは、楽しくなければならないようだ。何事も最初から楽しいことってあるのだろうか?

ないと断言はできないが、最初だから楽しいとうまやかしの楽しさはある。これらは人間関係や恋人や結婚生活などにもあてはまる。確かに始めたてなら楽しいことは多いだろう。生き甲斐という何かを自覚したことも求めたこともない自分だが、生き甲斐はどうあるべきかを考えてみた時、あるプロボクサーの言葉を思い出す。「ぼくは苦しむためにボクシングをやっている」。

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そのあとに、「この苦しさがなければ、ぼくはボクシングを続けられなかったろう」。彼にとっての生き甲斐とは苦しむことだったようだ。そのことからしても、生き甲斐とは楽しいことでも、楽をすることではなく、厳しさを生き甲斐とする人もいる。それがボクサーの道かも知れない。ボクサーに限らず、多くのアスリートたちにとっても生き甲斐とは、厳しさなのだろう。

平々凡々と生きる我々は、厳しさなど求めず、楽しさを生き甲斐にしようとする。だから少しの嫌なこと、面白くないこと、楽しくないことがあると、嫌になって投げ出し、別の楽しいことを求める。それが悪いとは思わない。いろいろなことがあるなら、いろいろやればよかろう。他人はともかく、自分が生き甲斐を求めない理由は、生きること自体が生き甲斐と感じるからだ。

生き甲斐とは、「生きる甲斐」。「甲斐」とは、1.行動の結果として現れるしるし。2.期待できるだけの値うち、との意味がある。あまり値打を求めすぎると生き甲斐の選択にすら挫折する。生きること自体が楽しいのは、世の中が雑多で面白いからであって、「何か面白いことない?」などは、口にしたこともない。世の中は頻繁に何かが起こっているが、そこに目がいかないのか?

相撲の土俵は女人禁制なり

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4日、京都府舞鶴市で行われた大相撲春巡業の舞鶴場所で、土俵上で倒れた多々見良三・同市長(67)の救助をした女性に、行司が土俵から降りるようアナウンスをした問題に波紋が広がっている。日本相撲協会は5日、女性に直接謝罪したい意向を示した。土俵で挨拶中の多々見市長が倒れたのを間近で見た70代男性は、市長の挨拶がいつもより力んでいると聞こえたという。

「張り切っているんだな」と感じたが、間もなく市長は後ろへすーっとまっすぐに倒れた。土俵の近くで見ていた60代女性によると、すぐに女性2人が土俵に上がり、「胸を開けてください」と叫ぶと心臓マッサージを始めた。その後、「女性の方は土俵から降りてください」とのアナウンスが繰り返し流れたが、女性は救急隊員らが交代するまで救助活動を続けた。

なぜ降りろなのか?土俵は女人禁制のしきたりがある。主催した実行委員会の河田友宏委員長は、「しきたりはしきたりだが、人の命がかかっているときに言うことではない。救命措置がなかったらどうなっていたかと思うし、とても感謝している」。女性たちには看護師も含まれていた。場内アナウンスをしたのは、進行役の若手行事で、「(女人禁制が)頭に膨らんだ」という。

若手行事の失態ということになっているが、こうした咄嗟の判断はむしろ若手行事にはできないと考えるのが妥当である。こうしたアクシデントに遭遇して、大相撲の女人禁制というしきたりを遵守すべきという判断がおぼつくのか?あまりの手際の良さからして、相撲道に精通した年寄幹部の指示があったと判断すべきだが、協会は指示を出したなどいうはずがない。

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若気の至りとして罪をかぶせ、長老は逃げたのだろう。「大男総身に知恵は回り兼ね」は、明らかに華奢な若手行事のことではない。現に土俵付近の協会員が、女性は土俵から降りるよう口頭で注意しているのが目撃されている。こういう突発的なアクシデントにおいて、「人命優先か女人禁制の掟優先か?」というような判断をできる人間とそうでない人間がいる。

前者を危機管理に長けた有能者といい、後者を融通の利かない木偶の坊(でくのぼう)というが、ひたすら相撲道に邁進、しきたりを堅持する親方・年寄衆は、言っては何だが、人道主義に基づいた明晰な判断ができるとは思わない。だから、若手行事に斯くの指示を与え、それで非難が起こると逃げ回る。と、自分は断定するのも、協会には頑なな女人禁制の歴史がある。

目の前で何が起こっているかについての緊急性や柔軟思考もなく、ただ文化を死守する協会の石頭どもに人道も人命もないのは想像に値するが、我先にと土俵に駆け上がった看護師の女性を評価する向きもあるだろうが、彼女たちこそ、目の前で起こっている現実にひたむきで純粋であったといえよう。協会は後に不適切な対応と認めて謝罪し、女性に感謝状を贈ることを決めた。

協会から感謝状を贈るとの連絡を受けた看護師の女性は、「当たり前のことをしただけ。そっとしておいてほしい」と固辞したというが、言葉の裏には、「あなたたちはどんだけ木偶の坊なの?」という声が自分には聞こえてくる。看護師の資格があるといっても、咄嗟に、我を忘れて、土俵に駆け上がろうという人道意識の強い女性にすれば、「何が感謝状ですか!」であろう。

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人命がかかった状況での、「降りて」というアナウンスに対して女性は、「強い怒りと悲しみと不安と…、様々な気持ちが入り乱れておりました。なんの説明のないまま(ちゃんと救急搬送されたことも、現場にいらっしゃった警察官の方にお尋ねして初めて知りました)でしたので、暫くは気が気じゃなく、全く集中出来ませんでした」と当時の率直な心境を明かしている。

感謝状拒否は、「木偶の坊の感謝など無用」と言いたげである。あげく協会は女性らが救命活動した後の土俵に清めの塩をまいた。そのことについて、日本相撲協会の尾車事業部長は5日、「女性軽視のようなことは全くない。(怪我の)連鎖を防ぐためにまいた」と説明した。この言葉はあまりの股座膏薬と判断した。こうした誤解を受けることはすべきでなかった。

どのような言い訳をすれども、場合が場合であり、世間は協会のいうような判断をすることはない。が、文化を死守する側としては、女性が土俵に上がったという不浄に清めの塩を蒔かねば収まらないようだ。こういうことをやれば、延命救助をした女性の気持ちを逆なでするのは当然かと。感謝状を贈ってお茶を濁そうとする木偶の坊たちの非常識さである。

口実や理屈は後からいう以上、どんな風にもいえてしまう。もし協会の本音を引き出すための、下手な言い訳が言えない強烈な突っ込みをするなら、このように言ってみるのがいい。「土俵に塩をまいたのは、女性が土俵に上がったのを清めるためでは?」、「そんなことはありません」。「清めなければいけないのでは?それとも清める必要はないとでも?」、「… …」。

イメージ 4日本のジャーナリズムは甘ったるい。シャーなリズムとは権力の監視のためにあるものだが、欧米のジャーナリストの権力者に対する忌憚のない発言からすれば、日本人ジャーナリストは、「こういうことを聞くと相手は困るだろうな」との姿勢が感じられる。「優しい日本人」は、遠慮なしに辛辣なことをポンポン聞くような外国のジャーナリストが育つ土壌はない。

いかに、「合理」の体系においても前提は必要であり、その前提というのは合理からは出てこない。前提の多くは感情がもたらすものだが、どんな感情であっても、すべてがよいということではない。土俵の女人禁制問題について、相撲協会は断固拒否の頑な姿勢を貫く。舞鶴場所では舞鶴市長が土俵で挨拶したが、宝塚場所では宝塚市長が挨拶する旨を協会に求めたところ、拒否されたという。

中川智子宝塚市長は女性である。土俵の女人禁制を巡っては、2000年の春場所で、大阪府の太田房江知事(当時)が土俵の上で優勝力士を表彰することを希望し、協会に断られた例がある。ま、宝塚歌劇団の舞台も男子禁制となっているが、断乎拒否ということもなければ、塩をまくこともない。1977年やしきたかじんは、宝塚歌劇団の舞台で鳳蘭と歌を披露した。

日本人であることの原点 ①

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長年日本の国技は相撲と思っていた。が、日本相撲協会の広報部は「相撲は国技ではありません」と言っている。ならば本場所が行われる両国国技館という名称は?ここは相撲だけが行われるところではない。ボクシングやプロレスなどの格闘技の会場となり、2020年の東京オリンピックにおいてはボクシングの競技会場となる。ならば日本の国技は柔道?剣道?それとも羽根つき?

残念ながら日本に法令で国技と定義されたものはない。国技とは、一般には、その国の特有の技芸、ある国の代表的な競技のことである。たとえば一般的には、スポーツ競技や武術等々である(Wikipedia)。なんだ、そういうことか。相撲は国技ではないが、自称国技といったとして、自称である以上お咎めはない。国民の間では相撲を国技と思っている人は多いのではないか?

なぜ相撲が、「日本の国技」と呼ばれるようになった?明治42年に東京・墨田区東両国に相撲興行場が完成した際の開館式の式辞文中に、「日本の国技」という言葉が出てからだという。この興行場の名は『両国国技館』と呼ばれた。そうした理由で、誰が決めたわけでもないのに相撲を国技と呼ぶようになった。広辞苑の、「相撲」の項では、"国技と称される"とある。

もっとも日本で最初に国技という言葉が使われたのは江戸時代の化政年間(1804年-1830年)で、このとき国技と称されたのは相撲ではなく、「囲碁」であった。その理由は、当時隆盛をみた囲碁を武士階級が国技と称したことによる。近年はプロ野球協約においても、「野球を不朽の国技」と書かれている。いずれにしても、日本に国技といわれるものはない。

国技はさておき、「吾輩は日本国に生れた日本人である」。とはいうものの、日本人でありながら日本人が何であるかを知らない。せめて、死ぬまでには日本人のことを知っておきたいものだ。他にも知りたい、知っておきたいことは山ほどあるが、優先順位からして「日本人は何であるか」である。人間も奥が深いが、日本人といっても多様で、知るのは大変である。

自分を様々な視点で見ることがある。ある時は人間として、男として、夫として、父親として、(孫にとっての)祖父として、友人として、変人として、悪人として、バカとして、ブロガーとして、日本人として、広島県人として、(将棋相手の)好敵手として、(趣味の)ウォーカーとして…。さらに細かく分類できるが、上記は時々に思うこと。何と肩書の多い自分である。

自分をさまざまに認識するというのは、その時点において自分を客観的に見ることでもある。客観的に眺めることで、普段はとして生をうけたのか、あの両親を親にもったのか?これは宿命的なもので理由は分か見えない(考えない)自分を発見したり、見つめ直したりする。なぜ人間に生れたのか、日本人らない。自分が上記したさまざま何であるかを知るのは自己満足?

そうではなく、大事なことだと思っている。他人にとっては大事でなくとも、自分に大事ならそれでいいのだろうが、自分がどんな男で、どんな親で、どんな友人であるかを知るのは対象が存在する。に比べて日本人であるところの自分を、日本人として解明したところで、然したる対象はない。対象はないけれども、日本人としての自分を考えることに興味は尽きなかった。

日本人である自分を知りたいと強く感じたのは、20代後半に仕事でアメリカに行ったときに強くなったのは、異人さんと日常で触れることがきっかけだった。そこで、日本人である自分をどう知るかとなるが、そのためには学者や識者、専門家と称する人たちによる日本人についての研究や思索という業績に触れるのが、凡人にとって最善であるのを分かっていた。

世俗に生きる者として、世俗のことは体験的な思索は可能だし、「日本人とは何か!」という漠然とした命題においても経験は役に立つが、学術的研究にあっては学者の領分である。日本人である自分を理解できなければ、外国人を理解することはできないと考えた。外国人を理解するためには外国人を知るだけではだめで、日本人である自らを知る必要があった。

これも、「孫氏の兵法」にいう、"敵を知り己を知る"であろうか?敵と味方の実情を熟知していれば、百回戦っても負けることはないと孫氏は書いている。好んで生まれた日本人ではないが、日本人が日本人を知らないのは、あまりに身近であるからで、人間は誰も自分のことを知らないということにも通じ、自分を誰に教わるか?相手に教わるものだと思っている。

頭の良い学者たちの日本人研究に加えて、自らによる日本人との交遊体験から、摩訶不思議なる日本人について考えることはあったが、記述するのは初体験である。外国人による日本人論といえば、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの『菊と刀』や、ロシア人ジャーナリスト、フセワロード・オフチンニコフの『一枝の桜―日本人とはなにか』などがある。

彼ら以外にも日本人の思想を、"他者の立場"から分析し、日本人自身が容易に気づかない特性や資質を指摘する外国人による優れた研究は多いが、なかでも1946年に発表された『菊と刀』ほど多くの物議を醸した著作はあるまい。ベネディクトは、一度たりと日本を訪れたことはなかったが、日本に関する文献の熟読と日系移民との交流を通じて、日本文化の解明を試みた。

日本文化を捉えるうえでベネディクトは、日本人の生活様式などの細かい要素を子細に研究するのではなく、日本文化全体に一貫した特徴を見出そうとしている。そうしたところから日本の文化を、「恥の文化」と定義づけた。「恥の文化」の対比として西洋の、「罪の文化」を置いた。両者のちがいは、その社会に「集団と個人の関係」がポイントとなっている。

日本文化の価値体系の独自性を強調する『菊と刀』も、さまざまに研究された結果、懐疑的傾向も指摘されている。すなわち、日本文化が西洋文化とは対極の位置に置かれているところにおいても批判の目が向けられている。上記した、「恥の文化」、「罪の文化」の定義についても批判は少なくない。ベネディクトは、「日本には善悪の絶対的基準はない」とした。

それを記した文中の語句は以下。「日本人は失敗が恥辱を招くような機会を避ける。彼らは人から侮辱を受けた汚名をすすぐ義務を非常に強調するのであるが、実際にはこの事柄が彼らをして、できるだけ侮辱を感じる機会が少なくなるように事柄を処理しせしめるのである」(『菊と刀』長谷川松治・訳)。文中語句をさらに分かり易く説明すると以下のようになる。

人が、「こうあらねばならない」あるいは、「こんなことをしてはいけない」という善悪の判断をするとき、その基準はどこにあるのか。この基準の違いが、両者の文化の違いである。即ち、「集団に悪く思われることが悪い」という集団優先である。この場合の集団は、"他人の目"と置き換えられる。これをベネディクトは、「恥の文化」と称したようだ。

一方、「良心に反することが悪い」とし、自身の内面的道徳心で善悪を決めるのを、「罪の文化」とした。したがって、「恥の文化」は、個人よりも集団を優先し、個人は率先して集団に合わせようとする。他方、「罪の文化」はその逆で、個人の意思が尊重される。「恥を知る」、「名誉を重んじる」など、他人に無様な姿を見せまいとする意識が日本人に強いとした。

日本人であることの原点 ②

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自分は日本人である。ならば自分の心理(ものの感じ方)や、論理(ものの考え方)は日本人的であるはずだ。して、それらはどういうものかを客観的に説明することが難しい。が、しないことには、「日本人は何であるか」を述べたことにならない。ここに鳴かないホトトギスがいたとする。鳴くまで待つのか?鳴かせようとするのか?こんなホトトギスは無用と葬るか。

同じ日本人に違いはないが、この有名な三者の意識構造は随分違うようだ。ひとくちに日本人といってもたったの三人だけでこれほど違いがあるわけだ。それを踏まえてわれわれ日本人とはいったい何なのか、何をもって日本人とするのかである。こうした、「日本人論」という名に値する業績は、江戸時代はもとより、先ずはそれ以前まで遡ってその思想を温ねてみる。

そもそも思想とは、「何を善とし、何を悪とするか」の判断である。悪を単純に分類すれば、「罪=人間の犯罪」と、「不幸=自然災害や病気などの悪い運命」に分けられよう。が、古代日本においてはこの二つを区別しない。生活を脅かす忌むべきものは、犯罪であれ自然災害であれ病気であれ、ひとくくりに考えた。つまり古代日本人にとって、「罪」とは埃のようなもの。

したがって、取り除くことは簡単だった。この、「罪を取り除く作業」を、「禊(みそぎ)」や、「祓(はらえ)」と呼んだ。何とも簡単に罪を消す方法だが、この二点が古代日本人の罪の捉え方の特徴である。禊やお祓いは、こんにちでも用いられているが、これらは決して罰や裁きではなく、単に、「穢(けがれ)」を消す行為に過ぎず、禊なんてのは人を煙に巻く行為と映る。

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「禊を受けた」、「禊は済んだ」などとほざいて国民を煙にまく政治家がいるが、彼らにとって罪とは自身の責任というより、ひいた風邪が治ったかのような言い草である。古事記には、「罪は容易く洗い流すことができる」と記されている。やがて外国から仏教思想が入ることとなり、罪を犯した者が罰を受けるという古代日本にはなかった地獄の発想を知ることとなる。

時は南北朝時代。公卿の北畠親房が、幼帝後村上天皇のために吉野朝廷(南朝)の正統性を述べた歴史書『神皇正統記』を著した。その中に、「大日本は神国也。天祖はじめて基を開き、日神長く統を伝給う」とある。日本の神国思想は、日本という国土そのものを、「神の国」と説明するところが特殊であったが、神国日本を強力に日本人に信じ込ませた事件があった。

鎌倉幕府末期の、「蒙古襲来」である。モンゴル帝国が日本へ覇権を広げるべく軍団戦船を二度にわたって送り込んできた。軍事力では圧倒的に不利だった日本だったが、二度とも台風によってモンゴル軍は打撃を負い敗走した。日本人はこの台風を、「神が日本を守るために吹かせた風」と解釈し、「神風」と称した。この事件を機に、「神国思想」は一層流布することとなる。

「神国思想」では国土を、「神州」、国民を、「神裔(神の子孫)」、国権を、「神授(神から委託された権利)」などと説明する。数百年後の明治政府時代になっても、神国思想の政治理論を最大に利用して国家形成を行っていく。明治四年にはそれまでの藩を県とし、「廃藩置県」を行った。ちなみに、「県」は、「あがた」と読み、古代の皇室(=神)の料地を意味する。

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江戸中期の国学者賀茂真淵は、国学の基礎を確立した人物である。彼は『万葉集』の研究家であった。真淵は日本と中国を比較し、中国は様々な王朝が権力抗争を繰り返してきたが、日本は古代から大きなトラブルもなく、大らかで自然な皇位継承が行われてきたとして高く評価した。その理由を、日本人が道徳的に優れていたからと考えた真淵は、中華思想を批判した。

「中華思想」とは、「中国こそが世界の中心で周囲の国も人間も野蛮人」という思想である。自己主張が激しく他人に思いやりがない中国は、理屈っぽく規則のうるさい国となった。それに引き換え日本人は、謙遜を旨とし習慣化したことで、細かい規則がなくても立派に人倫の道を行った。真淵は、「儒教や仏教などの外国思想の輸入は、日本人の美しい心を乱す」とした。

仏教や儒教を安易に受け入れた過去を反省し、国意(日本人の美しい心)を取り戻すことを求めた真淵は、具体的な方法として『万葉集』を学ぶことを奨励した。『万葉集』こそが国意を後世の日本人に伝えるテキストであるとした。教育者としても長じた真淵には多くの弟子がいたが、中でも本居宣長は有名である。平田篤胤も真淵や宣長と並び称される国学者である。

国学とは、「日本だけが特別な神の国」という一種の選民思想である。それを徹底的に突き詰め、宗教にまで引き上げた平田篤胤である。中国には、「天帝」、インドには、「梵天王」、西洋には、「ゴッド」なるこの世を作った神の信仰がある。篤胤はこれら一切は日本の皇産霊神のことと説く。地域の特徴に合わされて微妙に形を変えるが、すべての元は日本の神とした。

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篤胤は、死後に霊魂が行く世界を、「幽冥界」とし、それは地上界と密接につながり、大国主命が主宰する国とした。大国主命は、人が生きてる間の善悪の行動を把握し、死後はそれに合わせて賞罰を与える。これは、「死後のために善を重ねよ」という宗教的な教えである。篤胤は、「幽冥界」の説明から、「貧しさは悲しむことではない」という結論を導いている。

「貧しい者はそれゆえ罪を犯すこともなく、死後の世界で賞せられる」と説いた。死後に安心を与える篤胤の思想は、江戸時代末期当時の多くの庶民に受け入れられたが、1841年(天保12年)1月1日、江戸幕府の暦制を批判した『天朝無窮暦』を出版したことにより、幕府に故郷の秋田に帰るように命じられ、以後の著述を禁止された。秋田に帰った篤胤は2年後68歳で病没する。

どんな思想や論においても、それらが生まれてくる背景には、その時々の社会や時代の要求が介在するのは間違いない。日本の変革期に当たって、「日本人論」が試みられる所以だが、いわゆる、「日本人論」が明確な形ででてくるのは、江戸時代中期以後となる。日本人省察はさらに時代を遡れるが、西洋人を意識したうえでの日本人論は江戸中期から幕末であろう。

江戸時代の長き鎖国政策といえ、西洋の情報は少しづつ日本に入っていたことで、西洋の学問を知った日本人が西洋について書くようになる。1883年、新井白石による『西洋紀聞』はもっとも早い時期のもの。こうして、西洋vs日本、東洋vs日本という対照において、日本人が自らを意識し始めると、これまでにはなかった新しい日本人論が生まれることになる。

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日本人が何であるかは、比較・対照あってこそ真の省察を得ると考える。男が何であるかを女との対比で論じるように、人間が何であるかを動物との比較で論じるように。そうした、西洋対日本の対比を明確に意識したうえで、日本人を論じた一人に司馬江漢がいる。彼は浮世絵師の弟子であったが、日本人で初めて洋風の絵を描くなど進歩的な考えを持っていた。

江漢は自著、『春波楼筆記』のなかで、「吾日本開闢甚だ近し。故に人智も浅し。思慮尤も深からず。人工欧羅巴に及ばず」。人工(技術)面ではるかに遅れていると嘆いているが、当時はこういう考えを持つ日本人は少なかった。江漢におくれて洋学研究に勤しんだ渡辺崋山や高野長英たちも同様の見方をしていた。彼らは日本人論を展開してはないが、洋学の必要性を説いた。

日本人であることの原点 ③

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渡辺崋山は三河国田原藩(現在の愛知県渥美半島)という小藩の武士であるが、海岸を管理する仕事に就いたのを契機に、海防問題に目覚め、蘭学を始めた人である。崋山は蘭学研究の中で、「欧州では政治体制などの社会システムを時勢に合わせて工夫し改良努力をすることで大発展を遂げている」と分析した。これは、硬直した徳川幕藩体制に対する明らかな批判である。

「欧州では雷が鳴っても耳を塞がない。なぜ雷が鳴ったか、原因を突き止めようとする」。崋山は、欧州強大化の要因は、自然科学や科学技術の進歩と分析し、自著『再稿西洋事情書』において、「強大国になるためには自然科学的探求の精神が不可欠」と説いた。徳川幕府の官学である朱子学用語の、「窮理」という言葉を、"自然科学探求の精神"を表わすために使った。

これらが講じて、天保10年(1839年)5月高野長英らとモリソン号事件や江戸幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど言論弾圧を受けた(蛮社の獄)。その後、極貧生活を余儀なくされた崋山は、幼少のころから生計を支えるために画業を志していたが、絵を売って生計を立てているとの風聞に耐え切れず、謹慎生活を送る田原の池ノ原屋敷で切腹した。

崋山は人類の思想基盤を、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教の五つと説明するなど、開かれた頭脳の持ち主だった。この考えは当時の日本では画期的で、当時の日本常識では中国哲学である儒教のみが唯一の思想基盤であり、儒教以外の宗教思想を儒教と同列に考えるなどあり得ない。崋山は五の世界宗教を並べて相対化することで、儒教絶対批判を行った。

幕末から明治時代初期になると国防事情から神国思想が廃り始めた。福沢諭吉は『学問のすゝめ』で、日本人に学問する自由と平等を説いたが、その一方、国際政治哲学的には極端な論を展開する。彼は、日本が千年以上にわたり、思想的・文化的交流を続けてきた中国・朝鮮を、「悪友」と呼び、絶縁して欧州諸国と同盟を結び、その立場から両国に接するべきと訴えた。

福沢の論拠は現実的であった。事実、欧州諸国の方がアジア諸国よりはるかに国力が強く勝っていた。さらには欧州の帝国主義諸国は、露骨なアジア侵略を目論んでいたことを看破し、「日本が中国・朝鮮と同類と思われたら、日本も侵略を受けてしまう」という切羽詰まった恐怖感に襲われていた。人類の文明発展過程を、「野蛮⇒半開⇒文明」の三段階と福沢は捉えていた。

そしてこの発展は端的に、「国力の増強」であり、「文明」は、「野蛮」より強いとした福沢は、欧州列強国の文明の高さを熟知し、日本国を守るためにも中国・朝鮮と手を切ることを説いた。福沢の現実論には、「暴力による侵略は許されない」との平和主義的な思考はまるでなく、「強いものが弱いものを食い物にする(侵略する)のは仕方がないという割り切りがあった。

福沢のこうした考えは、1894年(明治27年)の日清戦争を、「文明と野蛮の戦い」と意味づけ、日本側からこれを肯定した。こうした福沢の思想を非難するのは簡単であるが、当時の欧州帝国主義の傍若無人の振る舞いの前に、「暴力反対」の掛け声が何の役に立ったであろうか。「アヘン戦争」は、イギリスが麻薬のアヘンを中国に押し付け、難クセをつけて中国を潰してしまった。

列記としたそういう事実を周知の上で福沢の中国・朝鮮蔑視は、日本国防というリアリズムから発していた極めて便宜的な姿勢であり、国学などの観念的な神国思想とは、明らかに一線を画すものだった。福沢は「惑溺」した精神を粉砕するために、「実学」を通じてより「強靭な主体的精神」を形成し、近代社会の「関係性のジャングル」を生き抜くことの必要性を説いた。

「強靭な主体的精神」を形成するとは、目前の課題を乗り越えるための価値判断を不断に流動する心構えを持つことである。言い換えるなら、「自ら自己の視点を流動化する」力を持つこと。彼はこの、「強靭な主体的精神」を、「独立自尊」もしくは、「独立の気象」と呼んだ。改めて福沢の偉大さ、明晰さに感服させられる。『脱亞論』の中で福沢はこう論じている。

「我國は隣國の開明を待て共に亞細亞を興すの猶豫ある可らず。寧ろ其伍を脱して西洋の文明國と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も、隣國なるが故にとって特別の會釋に及ばず、正に西洋人が之に接する風に從て處分す可きのみ。(略)亞細亞東方の悪友を謝絶する」。以来、脱亜意識が国民意識を次第にとらえ、日本人の対アジア認識をリードしていくことになる。

福沢諭吉は日本の最高額紙幣である1万円札の人で、かつては聖徳太子であった。太子といえば、「和をもって尊しとする」であるが、それが福沢諭吉になったことで、こんにち日本国民に求められているのは、独立自尊の精神ということであろう。諭吉に、「天は人の上に人を造らず。人の下に人を造らず」の有名な言葉があるが、これは生まれながらの平等を説いている。

が、諭吉は決して、「人は一生を通じて平等」とは言っていない。「ただ学問を勤めて物事をよく知る者は、貴人となり、無学なる者は貧人となるなり」というように、「人はどれだけ勉強したかで差がつく」と明確に断じる。学問は学校の勉強だけにあらず。さまざまなものを吸収することで、それがさまざまに役に立つ。受験学力は受かれば無用というのは何と侘しき哉。

「独立自尊」を簡単に言うと、「何かに依存するな。自分の力で生きろ。」という意味。我々は空気と水の恩恵に預かってはいるが、他のことはなるべく自分の力で生きた方がよい。「這えば立て、立てば歩めの親心」といったが、近年は何かと、「這えば手を貸し、立てば歩めに手を貸す親心」になっているようだ。これは親の方から子どもに依存を持ち掛けている。

諭吉が明治8年(1875年)に書いた『文明論之概略』は、日本人論として今日でも高く評価されている。福沢は明治維新以前にアメリカにもヨーロッパにも出かけ、日本人としては当時最も西洋を知っていた。その彼は維新前に大ベストセラー、『西洋事情』(初篇慶応二年、1866年)を記している。彼は箕作阮甫と共に蕃書調所にいたこともあるが、自分のことを「翻訳の職人」といっている。

蕃書調所とは江戸幕府直轄の洋学研究教育機関。そうして学問も商売と同じであり、学者も一種の職人に過ぎないという意識を持つ人であった。そうした福沢が明治の新政府にも仕えず、爵位や勲章ももらわずに、終始、民間の一学者、一私人としての態度を一貫して通した。福沢諭吉の先駆性というのは、そうした自由な立場・境遇からもたらされたものだろう。

日本人であることの原点 ④

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日本人論」を語る上で、福沢諭吉を外すことはできない。福沢が明治維新を迎えたときは33歳であった。彼は、明治34年(1901年)に66歳で世を去っているから、人生の丁度前半分が徳川時代、後半分が明治時代ということになる。維新という大きな変革期を生きた彼にとってみれば、何の転換期もなく平穏な生涯を送った人とは何か違った考え方を持っていたのは想像できる。

諭吉は維新当時に残る日本人の封建意識をなくす必要性を最優先事項と考え、そのための方法論を種々思いめぐらせていた。当時の封建意識とは、藩閥(派閥)意識のこと。明治新政府には、倒幕の主勢力となった薩摩、長州、土佐の旧大藩を中心にした強力な藩閥があった。藩閥とは福沢の言葉を借りれば親の仇である。彼は藩閥を、「親の仇」と思って対抗すると述べている。

諭吉は、『学問のすゝめ』の中で封建制を批判した、「楠公権助論」を書いている。これは、「主君のために自分の命を投げ出す忠君義士の討死と、主人の使いに出て預かった一両の金を落とし、申しわけなさに並木に褌をかけて首をくくった権助の死を同一視し、私的な満足のための死であり、世の文明の役には立たないと論じている。この一文が大いに批判の対象となった。

諭吉自身は楠公(楠木正成)にはまったく言及していないにも関わらず、正成公の討死が無益な死と論じたものと解釈された。同じく赤穂義士の討ち入りについても、私的制裁で正しくないと論じたことも批判対象となった。「藩閥親の仇」や、「楠公権助論」、「赤穂浪士不義士論」などの痛烈な封建制批判で、諭吉はこんにちでいう非国民的な断罪を受けてしまう。

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明治維新という大変革はなされたが、これほど大きな社会変革にも関わらず、日本人はどうしても封建制から脱しきれない。これが変わらない限り、近代国家日本の文明は開かれないという諭吉の、「日本人不変説」。明治政府の方針は、文明開化の推進を基本としたことで、西洋人が優秀で日本人は劣等とする、「日本人劣等説」が横行することになる。

西洋人と日本人の比較について諭吉は明治20年4月、時事新報に、「日本人と西洋人と内外表裏の別」と題する文章を載せたが、これは物の取り扱いの面から観察した評論である。人間的な面について諭吉は、日本人と西洋人の旅に対する考え方や行動を例に論じているが、内を重んじて外を見ない日本人について、「家内の人ではなく戸外の人」になるべきという。

日本人の行動が一朝一夕に変化することはないが、諭吉は自身の考えを実践する手段として教育を取り上げた。その彼が慶応義塾を創設したのは知られるところである。諭吉は、「天下後世のために記すのみ」の信念のもと、政治の世界に身を投じようとはせず、宗教にも重きをおいてないことから、日本人が変わる唯一の手段として教育を選んだのは必然であろう。

福沢諭吉の記述が長くなったが、彼の文明論や日本人論には、思いつきの域を脱した閃きが見られるのは、苦労して西洋に出かけて西洋文明を自身の目で見たこともあるが、自然科学を勉強したことで、合理的・論理的に物事を思考するという、当時の日本人にしては稀な資質を備えていた。それらからしても彼の、『文明論之概略』は単なる思いつきに終わっていない。

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改めてベネディクトの『菊と刀』に戻ろう。同著は、西洋人の論じた日本人論として評価が高い。批判もないわけではないが、日本人を論じるうえで同著を避けては通れない。同じ外国人による、「日本人論」は、フセワロード・オフチンニコフの、『一枝の桜―日本人とはなにか』もある。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの、『日本史』は、戦国時代研究の貴重な資料となっている。

1823年に来日したドイツ人医師シーボルトは、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎・出島のオランダ商館医で、オランダ領東インド植民地総督府にあてた報告や関連資料は、『シーボルトの日本報告』として残っている。明治以降、西洋人の見た日本人ということだけなら、明治天皇の侍医だったドイツのベルツ博士の日記や、モースの『日本その日その日』などがある。

エドワード・S・モースはアメリカの動物学者で、1877年(明治10年)6月、腕足動物の種類が多く生息する日本に渡り、翌月には東京大学の教授に就任した。彼は日本に、「進化論」を紹介したことでも知られている。一度日本を離れたが1878年家族を連れて二度目の来日をし、1879年9月に東京大学を満期退職後に離日した。1882年には単身で三度目の来日、翌年日本を離れた。

大森貝塚の発見で知られるモースは、東京大学教授として滞在する間、膨大なスケッチと日記を残しており、その記録には、科学者の鋭敏な視線と、異文化を楽しむ喜びが満ちている。明治初期の文化風俗を語る際に欠かせない示唆に富んだ重要資料となっている。これらはいずれも日本人の実態をある側面から綴ったもので、日本人を研究の対象にするものではなかった。

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日本人を様々な角度から論じてはいるが、学問といえるべく一貫性のある方法論は駆使されていない。日本人に対する鋭い観察やユニークな視点はみられても、あくまで、"論"としての面白さであり、日本人研究の、"学"となってはいない。戦後、駐日大使を務めたライシャワーは、日本人妻を娶ったことで日本国民に人気もあり、『ライシャワーの見た日本』を残している。

ライシャワーの同著は、歴史学的な方法論を用いた記述ではなかった。それらからしてもベネディクトの『菊と刀』こそが、西洋人によって書かれた日本人研究における古典的名著といわれる。個々に性格や性質の異なる人間を民族として束ねて論じるためには、方法論としてのパターン設定の有無が問題となる。一つの社会における構成員足る人間の行動は様々である。

しかし、一定の型とか枠のようなものは社会には存在し、人々がいろいろな行動をとっているようでも、そこには自ずから統合や統一が見られる。そうしたものが、いわゆる生活様式(ライフスタイル)であり、文化(カルチャー)というものである。ベネディクトはカルチャーについて、「一個の個人と似ており、考えや行動は多少なり一貫したパターンを示す」と述べている。

したがって、ベネディクトのいうカルチャーとは個人のパーソナリティの拡大したようなものであり、そのパーソナリティをパターン化していくことで、そこから民族の社会や文化が浮かび上がってくるという。例えば日本の社会の中では日本人が様々な行動をする。これを現象として観察すれば極めて多様に見え、個々の行動の間には何の脈絡もないようである。

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ベネディクトは文化人類学者であるからして、動物学者がサルの行動からサルの生態やサル文化を見出すように、人類学者は人間の共通性概念を炙り出す。上記したように一つの社会には全体を統合・統一するようなパターンが存在し、人々はそれに沿って行動している。日本人のいろいろな行動の中から、共通するパターンを割り出すというのがベネディクトの手法だった。
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