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Channel: 死ぬまで生きよう!

愛についての与作♪

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同じ表題で飽きたので定食から別メニユーに変える。男女について書けば、すべてが愛や結婚などに繋がるところがアラベスク。アラベスク (arabesque) とは連続模様の一種で、左右上下に折り重なり連続することが必須条件である。楽曲にもあるが、シューマンの、「アラベスク」、そしてドビュッシーの、「アラベスク」、どちらも音程が一方向ではなく複雑に絡み合う。

ということで、久々にドビュッシーを聴いてみたが、『ピアノの森』の、「アラベスク」は別の楽曲ではと思えるくらいに異様に感じた。こんなテンポの遅い、「アラベスク」は初体験。悪いとは思わなかったが、アラベスクのアラベスクたるあの疾走感がなく、こうした表現の幅はアリでも好みとはならなかった。芸術とは善悪よりも嗜好であり、個々の好みが気分に合致する。


さて、愛についてどれだけの言葉を耳にし目にしたことか。幾多の愛があり、それぞれに質も量もあって、正確に把握もできない理解もし得ないとするのが正しいのでは?次の言葉はそのことを示す。「何をいちばん愛しているかは、失ったときにわかる」。それでは遅いのかも知れぬが、自分にも経験があるからよくわかる。自分を本当に愛してくれた女は失って分かった。

比較という意味においてである。その女の持つ愛情の表し方は個々の性格的なものだろうが、そうはいっても感じる側の感受性で判断するものでもある。正直いって実体的な愛が何かわからない。これが愛?あれが愛?程度には分かるが、確信的な愛の理解に自信はない。「愛してるといって」と女性が要求する際、分からぬままに「愛してる」と男はいうのだろう。

女性はそれを愛だと思うのか?言葉を信じるのは不思議でもある。そんなおねだりの記憶はないし、いわない男なのは自分で分かる「言葉に興味はない。行動で示せ」というのはよく口に出したし自分も実行する。言葉は実行ではないし、「不言実行」というのもあろう。目標などを口に出さず、ああだこうだと能書きを述べず、ひたすら実行するのは美しい。

口に出したことを確実に実行するのも美しく、どちらかの比はないがカッコイイのはどちらだろうか?前者は自分のためにだからあえて口にする必要はない。となると「有言実行」は、他人を意識した行為である。「有言実行」という言葉のほうが耳なじみがあろうが、言葉としては「不言実行」が先だった。これは寡黙で実直を旨とする武士の範とするもの。

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「口に出した以上はやる」と、これは責任感ともいえるが、「口に出さずとも黙してやる」は責任感より上位の使命感だろう。責任でやるというより、使命とするの方が自分の好みで、責任感という美名に溺れることもない。「結婚の責任感」と「結婚の使命感」と、人にはどのように響くのだろう。責任感ばかり後手に回って叫ばれている時世に思えてならない。

使命感を喪失した者が責任感を全うするのに躍起になっている昨今だ。ただし、人を愛するのは「責任感」でも「使命感」でもないように思う。愛についての一家言をいえば、「女は愛され、男は愛す」がいいのではないかと。これは受動と能動を区分けしている。女性が能動であるのは性器の形状が示し、反面男は能動である。女性が能動的なのは男がそうでないからか?

事態をそんな風に想像する。なぜ男を超えて女が能動的であるのか自分にはよくわからないし、自分の前に能動的な女性がいたなら、一体自分はどうすべきかを考えねばならない。それもあって、わざわざ能動志向の女性を選んでぶつかり合うのを避け、受動的な女性で自分の特質を生かす。被さってくる女性を払いのける面倒を省くためにも自分の前に置かない。

「私を愛してるといって」などという女は、外国映画の観過ぎだろう。あちらの男は答えて、「愛してる」というが、日本人がいえばマヌケに見える。「LOVE」という日本語はないし、他人はどうだか知らぬが、一番深い愛の形というのは、心の中で想いつめることだと思っている。「心にあることを言葉に出せばいいじゃないか」というが、それが「愛してる」という言葉か?

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愛を言葉にするとどこか嘘っぽい反面、心の中に感じる愛とは、「愛してる」とは違う何かである。だから言葉にせず、心の中にある愛の形がもっとも真摯で深い。そういう考えでいるから、「愛してるっていって」といわれたら、「屁でも喰らえ」といいそうだ。オママゴトじゃない、ムービースターでもない。愛の表現は目にもっとも現れるから、「目を見て感じろ!」という。

「はじめに言があったと」聖書にいうが、日本人的な知性とは、「黙」であり、「阿吽の呼吸」である。言葉は所詮は代用の具、「人は人を愛することによって言葉を失う」と独断的にいってみる。いいあらわされた言葉なんて、心に思うことの何十分の一。恋愛の楽しみは言葉の交換や肉体の交じりを強調しがちだが、プラトニック・ラブの美しさ、儚さ、切なさは忘れようもない。

独身を貫く覚悟 ⑨

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前記したように「生涯未婚率」とは50歳時点での独身者をいい、一昨年末に一般男性と入籍した浅野ゆう子は、57歳で結婚を決意したことで話題になった。美女はいくつになっても引き合いがあるということか。それに反して女性たちから結婚相手として見てもらえないような、「一生独身かなと思われる男性」の特徴について、女性たちの意見を集めたサイトがあった。

以下のようなタイプがとりあげられている。①マイペースすぎる。②自分で何でもできてしまう。③理想が高すぎる。④いろいろな面でこだわりが強い。これを自分に当てはめると、③以外は自分に思い当たるが、これらは一つの要素であり、他の長所で相殺できる。人間はトータルだから意見を気に病むこともない。思うに生涯独身者とは、異性嫌いというしかない。

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何事も決めつけは簡単だから無視すればよい。星占いしかり、血液型しかり、県民性しかり…。自分で相手を捉えて判断する自信がないからなのか、他人のいう「あの人はいい人」が充てにならないもので、自分なりの「いい人」を探せばいいこと。②の自分で何でもできる人が敬遠されるとあるが、結婚すれば、「それくらい自分でやってよ」と妻にせかされる。

結婚に良し悪しがあるように独身者にもある。「精神的な支えがない」というのも独身のマイナス点だが、心の強い人はクリアできようし、一人身で冴えないのはどちらかといえば男ではないか。いろいろ周囲をみて思うことだが、独身男は家でも外でも飲んでばかりが多くてまるで酒が恋人のようで、やはり独身女性の方がさわやかに生きている。独身者の利点も述べられていた。

①自由な時間を過ごしているとき。②お金を自由に使っているとき。③既婚者のトラブルを聞いたとき。④気を遣ったり、相手に合わせたりしているとき。⑤いい彼に巡り会えないとき。などがあるが、⑤の何が独身の利点なのか?つまらん男ばかりが目に付くとき、「ああ、ひとりでよかった」と思うのだろうか。決して理想が高いのではないが、確かに雑魚な男はいる。

結婚の後悔と独身の後悔はどちらが多いか分からぬが、耳にするのは結婚の後悔ばかりだ。独身者の後悔を耳にしないのは、「いわないようにしてる」こともあろうが、「はや独身に慣れてしまった」からでは?妻や夫への不満も結婚後30年、40年もすれば慣れるといい、慣れは大事かも知れない。最も苦悩するのは、結婚に踏み出すか否かの最中かも知れない。

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「喉元過ぎれば熱さも忘れる」という言葉が過ったが、脳細胞が減少することなく人間が記憶のすべてを溜めておいたら生きてはいけないだろう。ほどほどに記憶し、忘れることも大事に思う。平凡な日常を生きるコツとはほどよく忘れていくこと。受験の失敗も、失恋の痛みも、学童期にいじめられた思い出も、大きな失敗も、心に留めておいてよくないことは忘れる。

「幸福は無心のうちに宿る」と、この言葉を信じていれば、気づいたときには幸せ感に浸っているかも知れない。隣人への愛は誇示するものではないが、奉仕をを受ける側、提供される側が極度に恐縮しないよう心掛けるのも思いやりであろう。あくまでも、こちらがそれをしたいからするのだから、「してあげた」の気持ちがない以上、そのように受け止められぬ配慮をすべき。

「善意の押し売り」、「愛の押し売り」ほど価値なきものはない。昔は押し売りといったが、昨今はセールスマン、営業マンという言葉に変わるが、似た部分も似ていない部分もあるが、押し売りを好む人などいない。だから善意の押し付けはすべきでないが、そうした人間関係の本筋を見極めるのもある程度の年齢になってからで、若さゆえにか善意の押し売りは結構やったものだ。

人間関係といえば、長年友人関係にあった奴とぷっつり疎遠になったことがある。これという理由もなかったから、恋愛関係でいう自然消滅というやつ。彼は70歳になるがずっと未婚を通している。酒もやらない、タバコも博打もやらぬ模範的人間だから、妻の妹と紹介したことがあった。喫茶店で二人だけで落ち合わせたが、翌日義妹はこんな風な感想をいってきた。

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「会って挨拶をして飲み物をオーダーしたら、すぐに新聞を持ってきてずっと読んでいるんです。わたしはどうしればいいか分からなかった」。話を聞いて唖然とするしかなかった。彼とは男同士でいろいろ会話をするが、妹の話からすれば女性が苦手とでもいうのか、得意でないのだろう。過去にも浮いた話はなく、女性嫌いということでもないが、そこまでとは思わなかった。

彼は独身でいることに相応しい男かも知れない。結婚願望は普通以上に強かったが、縁があるようにと心配する親・兄弟への配慮だろうから、本当に女性を射止めて結婚生活を送りたい願望なら、女性に気に入られる努力もし、射止める努力もするだろう。それもないままに、誰かに女性を紹介されれば結婚は降ってわいてくるとの思いでは結婚にはありつけないだろう。

不平と不満と不倫のこと

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人と交流すれば様々な不平を知る。自分に不平は特にないが、他人の不平や底なしかと思える不満を聴いて驚いたりもする。「不平・不満もここまでくると地獄だな」と思うが、本人には正当な不平のようだ。どうやら人間というのは死ぬまで不平をいいつづけるものなのだろうか。他人の不平の凄さは面白がるしかないが、不平の種とはどうやら二種類に分けられるようだ。

自分を省みて仕事や行いや性質や容姿などへの不平と、自分のことは棚にあげて、夫(妻)や友人や他人、環境や社会に対する不平だ。どうにも始末が悪いのは後者の方で、こういう習慣がつくと、ありとあらゆるものに対して、ああでもない、こうでもないと不平や不満をもらすことになる。正当な不平(批判)ならともかく、他者への羨望と思える不平というのは不幸に見えてしまう。

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そうしたものを戒めるためには自分のことを棚にあげない意識(思考)を働かせるしかないが、なかなかそうはならないようで、そういう人は年がら年中、「隣の芝生は青い」的な不満が宿る。芝は冬には枯れるが、年中枯れない芝なら救いようがない。ブログを憂さ晴らしとして利用する人に結婚生活や仕事についての不平が多い。憂さ晴らしはストレスを溜めぬ意味でも必要であるが…

そうはいっても毎日の度を越えた憂さ晴らしはどうであろう。それでも共感を抱く人もいるが、「みっともないからおやめなさい」などの無用な忠告を書き込む人もいる。無用である理由は、見知らぬ他人だからである。見ず知らずの他人に忠告する自分は何なのか?を考えていない。批判や非難するより、同情や共感から人間関係は生まれるが、同情を基盤にした関係は他愛ないものだ。

ネット内の人間関係は他愛なきものでいいが、真の「共感力」をネットで構築しようとするのは難しい。他人にちょっかい出しやすい性向の人間は、行為の前に少し考えてみるだけで、いかに自分が無用で余計なことをしているかを知ることになる。そう考えて他人への書き込みを無用と感じたが、嫌味を書いて相手をイラつかせるような底の浅い人間もいる。

それはもうつまらん人間まっしぐらである。結局いじめの論理と同じこと。「そんなくだらんことするな!」と誰から咎められないからやるし自制もない。心ある人間から指摘されれば、「うるさい。お前には関係ないだろ?黙ってろ!」と反抗する。あおり運転行為者も行為中は悪い事など思ってないし楽しくて仕方がない。警察に逮捕され無様な醜態をさらせば多少は判るのだろう。

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「自制心」がいかに大事か。それが社会に生きる者の義務であろう。しかし、自制心ほど難儀なものはない。政治家や官僚が賄賂にまみれるのは決して自制心がないのではなく、彼らはお金が好きで大好きなのだから、道徳がどうの倫理がどうのと指摘するのではなく、「お金を嫌いになりなさい」というべきで、そういう政治家には、「あんたはお金が好きなんですね~」と笑ってやれ。

昨今は不倫が「文化」といえるほど大流行りだが、これも自制心は難しい。他人の前では壊せられない自制心は陰で行うもの。賄賂というのは公務の廉潔を保つために抑止すべき刑事罰を科すが、不倫に違法性はない。こちらも「SEXを嫌いになりなさい」がもっとも抑止に適切な言葉だが、倫理にあらずということで不倫という。政治家の収賄も同じ意味で不倫だがそうはいわない。

列記とした犯罪だから「不倫」などと悠長なことをいってる場合じゃないのだ。したがって、違法でも犯罪でもない男女間の浮気は、「不倫」といって嘲笑すればいいが、本当に嘲笑できるかは疑問だ。誰もSEXが嫌いなものはいない。だから、せいぜい自分のことは棚にあげて他人の不倫をあげつらう。これほど欺瞞に満ちた羞恥はなかろう。賢い人間は他人の不倫を黙すことになる。

誰にも下半身がありながら、他人の下半身をあげつらうのは羞恥の極みといっておく。そういう暇があるなら政治家や官僚の収賄に目を向けるべきだが、下半身を問題にする人はいかにも下半身が大好きと自ら公言している。そういう人たちは自身の空腹を満たすために、他人を餌にしているに過ぎない。我々はじっとしていても腹がへるのに、動かねば食えない。だから働くのだ。

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「沈黙は金」とし、無駄口など叩かずとも誠実に生きていけるのに、他人を嘲て生きる糧を掴もうとするのはなんと浅ましいことか。つまらぬ生き方の代表であるが、ネット時代に入って多くの人間がそれに参加を始めている。不倫と一緒で顔を袋ですっぽり隠せるからであろうが、著名人が顔出しでそれをやるのは著名人という驕りと商売としての売名行為で、どちらも浅はかである。

名まえが消えること、とり上げられないことが著名人には苦痛の極み、だからせっせと他人の悪口をいい合っている。すべてはネット社会が生み出した負の遺産。こうした混沌とした社会、殺伐とした人間関係のなかで、どう自分を貫くのか?が問われている。「人は誰も他人を犠牲にしてまで自分の楽しみや利益を追求する。共に生活をする相手にさえ、常に自分を優先する。

それが不平や不満の大きな原因となりやすい。人間が考えておくべきは、相手は論理(理性)の動物ではなく、感情の動物であること。さらにその動物は無知で偏見に満ち、誇りと虚栄心を腹に隠しもっていること。自身も含めた人間の観察とはそういうものであるということ。若い日の不安と疑問は、未熟な青春のたゆまぬ意志であり、ゆえに苦悩と思索は真実を求めて止まぬものであった。

経年で多くのことに理解を得、無知が叡智となれば相応の生き方も生まれてこよう。未だ努力の過程であるから、実行はおぼつかぬとはいえ、多くの問題意識を持つか持たぬかだけでも人間は違いが出る。「違いの分かる男。男は黙ってサッポロビール」ではないが、キリンであれアサヒであれ、違いの分かる男を生きればよかろう。ちなみに自分は下戸だから清涼飲料水にする。


独身を貫く覚悟 ⑩

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眺めて感じることは独身者には二通りある。結婚を望まぬ人。結婚したくてもできぬ人。前者は意志や覚悟、後者は性格的なものが起因する。「今のままでよい」と思っている現状維持派は前者に入るが、いつ頃じゃらいからそうなったかということもあり、結婚を望むもできなかった時期があったのでは?しかし、そのまま歳を重ねれば、「もうこのままでいい」と諦めムードのケース。

人間は孤独を避けるものだろうから、孤独が犯罪をもたらすといったのは、E・H・フロムで、彼は独自の観点からナチズムの社会心理を分析してみせた。孤独という言葉を意識したのはいつごろだろうか。一人でいることを苦にした事はなかったが、他人といたり集団でいたりすると、おちゃらけたり、違う自分を発露させていた。そうした違和感がさらに孤独を要求した。

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孤独に苛む者の多くは、ただ手をこまねいて誰かがやってきて自分を労わってくれるのを待っているようでもある。にも拘わらず、誰も来ないことで自分は孤独なのかと思ってしまうが、これはいかがなものだろう。自分を慰めてくれる人、追従する人のなかに身を置くことによって、孤独から逃れようなどはいかにも虫が良く、真に孤独を望まぬなら自ら討ってでるしかなかろう。

徒党を組み求めるのも同様の種族で、徒党というのはその一面からいっても、孤独に絶えざる精神の休息場。徒党を組んだり自由に身動きできない集団行動が好きでない自分は、孤独はむしろ安心の場、休息の場所である。他人といるときは外向的な部分で接するが、本来は内向型である。お見合い体験をしてみたいと思っていたが、「冷やかし半分でするものではい」と制止したのは父だった。

確かに冷やかしの部分はあったし、父はそこを見抜いていたのだろう。自らが口説いた女性より、見知らぬ相手によそよそしい刺激を感じた。一緒に映画に行く、散歩にでかける、ドライブする、訪問し合うなどのぎこちのなさに加えて興味深いのはナニをするとき。ナニとは何?ナニで分かろう、だからナニだがそれを致して別れたら、「やり逃げ」と責められることになるのか?

友人から「どう思う?」と聞かれたことでもある。こんな風に答えたと記憶する。「拒否する女を無理やり押さえつける行為をしておきながら別れるなら別だが、相手も了承したならやり逃げとは違うだろう」。男が「やる」、女が「やられる」の語源は双方の性器の形状からも伺えるし、確かに男は力もあるが、女の又の力と書いて「努力」という。抵抗は可能であろうし法の味方もある。

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結婚式の男女を見ればまさに幸せの絶頂、これ以上はないかも知れない人生最大の演出が執り行われる。そのままで行けばいいが行かないことが問題だ。「東大卒と中卒同士の結婚はありえるか?」てなことを提示する奴がいた。面白いので話に乗るが、自分の意見は他の誰とも違うとよくいわれた。自分はこういった。「ブスとイケメン、美女と野獣と同じ。双方がいいなら問題なかろう」。

結婚生活を左右するのは感情である。二人の感情がうまく溶け合うかどうかが成否を決める協同生活といって間違いはなかろう。東大出の夫だからと、一から十まですべて正しいと納得する女性などいないし、ノーベル賞受賞の夫でさえ、風呂掃除やゴミ出しをさせられていることもあり得る。夫婦とはそういうもので、二人の知能や知識がどういう水準にあるかということではなかろう。

そんなことより二人の感情の質はどうなのか、どんな感情の動かし方がされるのかが重要である。一般的な夫婦喧嘩の100中99までが感情的なもの。夫婦間に問題はつきものでもその都度解決するしかない。独身覚悟で生きれば夫婦のいざこざは無縁であるが、それとなく引け目を感じるのは事実のようで、無言の社会制裁を感じることはあろう。特に男が50歳で一人者では社会の目は冷ややかとなる。

妻帯者に比べて身軽な独身者で生活苦はなくとも、離婚して生活苦にいたる母子家庭は大変だろう。社会整備は整っているが困窮をものともせずに精一杯に生きるシングルマザーを知るが、すべては自分が起こしたことと責任転嫁をせず、身を引き締めているところがクレバーで、「どんな苦労も子どもを育てる喜びに比べれば…」の典型である。プラス思考は窮地にあってこそ生かされる。

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独身女性なら味わえない労苦であり、幸福感でもある。40歳前の独身女性に青春の悔いを聞いて身につまされたことがある。話の内容を一言でいえば、「初恋に破れて」ということ。花から花へと飛び交う蝶とちがって、思いつめた相手と別れた後に一切を引きずる女性もいるようだ。誰もが感じ、誰もがいうのは、「男なんて腐るほどいるじゃないか」だが、この言葉が耳に入らない。

別れた男が原因で独身を貫くなどは何とも勿体ないが、勿体ないは他人の見方ともいうが、異性に対する愛情なんて一度燃え上がってそれが消えてもすべてが喪失するものではない。幸か不幸か我々は何度も恋ができるようになっている。にもかかわらず朝に夕にくよくよ過ぎ去った恋人を思いつめて得はなかろう。というようなことを山ほどいったが届かなかった。

独身を貫く覚悟 ⑪

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佐藤愛子の、「何かやるなら覚悟を持て!」ではないが、恋愛も結婚生活も独り者生活と同じように人は孤独である。二人生活といっても基本は孤独で、だからこそ一人前の人間だろう。孤独の中で得る「出会い」の喜び、「仕事」で体験する苦しみを誰かと分かつことはあれ最終的には自身が処理する。会社上司の不満を妻にいえども、上司に使われていない妻は聞き役でしかない。

夫や妻の不満を誰かに話そうが、ブログに晒そうが、所詮は一時の気晴らしであり、何の根本解決とはならない。心ある友人に苦悩の限りを話そうとも、相手が自分に何かができるわけではない。逆の立場でいうなら、いかなる苦しみを所有する相手に対し、自分が何ができ得るのかと同じこと。人が人に関わる限界というものがある。まして、それ以上を求めても施してもダメだ。

自分はかつて独身者の中に立ち入って、結婚を奨励したことがあった。何度かあったのは、最初の相手に縁結びをしとめることに寄与したからでもある。二度目はこんな風だった。彼をデパートに連れて行き、気に入った店員がいたら俺が声をかけてやるからと。そして、彼は気に入った店員を見つけ、自分は事情を話して閉店後に連れ出す約束をし、待ち合わせ場所に彼女は来た。

後は二人を茶店に押し込み、自分はその場を去った。残念ながら彼女はすぐに店を出たという。自分の頭になかったことは、彼は見知らぬ女性と抜け目なく会話ができる男ではなかったという前提が抜け落ちていた。会わせれば何とかなろうと軽く考えていたのは甘かった。「気に入られなかった」とはその後の彼の弁。感想を聞きたく自分は翌日彼女の売り場に行った。

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「どうだった?気に入る相手じゃなかったのか?」。真摯で何の下心もないすべては友人を思う行動だったが、彼女は抜け抜けとこういった。「あなたの方がいいんだけど…」。想定外のことが起こるのも現実かで、然して驚くこともない。人間社会に、合う合わないがあるだけのこと。真の目的ではないにしろ行きがかり上でのこと。女を誘うのは紳士の礼であろう。

自慢話というより、これは一連の笑い話としてこの話は自身のストックに置いている。「しかし、よくそんなことができるよな?」とある奴はいう。「そんなこと」とは、友人のために女に声をかけることで、その後のことはフロックだから、咎められることではなかろう。仕事場で声をかけられて迷惑と思うかどうかはその女性によるもので、こちらにとっては契機である。

「厚かましい」と批判する者がいようが、厚かましいと思うか迷惑かは外野がいうことでもなし。彼女自身が判断すること。そういう気持ちがなければ行動は委縮する。つまり、迷惑ならその時点で止めればいいわけだ。行動は行動である。三島由紀夫の行動は、「肉体の思考」として誰も知るものではなく、迷惑といえば迷惑で、非常識、反常識というべき考え方であった。

「行動の美はあくまでも孤独に関係する」、「男の美は悲劇性にしかないのは確実…」こんな三島の言葉を時々復唱する。佐藤愛子は、「ああ面白かった」といって死にたいというが、屈託のないユニークな考えである。自分は悲劇的な事を為して死にたいとはおもわないので、佐藤のような境地に近づけたらと考える。「屈託のなさ」、「屈託なく過ごす」というのは理想である。

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独身であれ結婚であれ、面白き人生こそが最上の人生であろう。yahooブログが12月15日で終焉といいながら、8月31日をもって投稿できないと知らせがあった。こちらの予定はこちらのもので、yahooがそうなら従うしかない。あくまで利用させてもらう身であり、文句をいうのは筋違い。12月までウロウロする予定だったが、そうだというなら「道連れ」してやろうのつもりでいる。

最後っ屁ではないが、投稿が増えたのも悔いのないようにである。男が議論好きなのは、「考えること」が好きだからで、感性重視の女にそれはない。哲学者という妙な職業に女性はいない。「何で男の人って理屈っぽいの?」と女性にいわれることは結構あったが、「理屈」というのは、「実践」の裏付けであらねばならない。さもなければ単なる屁理屈となろう。

「何でそんなにお喋りなんだ?」と女性に聞くようなことはしない。それぞれが自分で考えればいい事で、それすらしないで男に聞く女は、それを見てもお喋りである。自分は男だから、男の特徴としてはせっかちの部分もある。女性にもせっかちがいるらしく、佐藤愛子はせっかちであるのを自認している。まあ、自分がせっかちであるかないかくらいわかるだろう。

せっかちという衝動はどうして身につくのだろう。加えて自分は武骨である。気がのらないときは喋らない。文字は沢山書くが、2~3日喋らないでいると、声が上手く出せないことがある。声帯も使わぬと支障がでるのだろう。「下半身は使わないでいると使い物にならん」と知人がいうので、「まだ使いたいのか?」といっておくが、人のものだからこれとて余計なことか。

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「幸福について」究極論 ①

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この年になっても分からないことだらけで、人間は無知と格闘する試練も人生だろう。分かろうとすることが試練というより、ある疑問や命題に対して多くの人間が異なる考えや意見を述べるなかから人間の奥深さを吟味する試練もある。それだけ異なる考え方があること自体が人間の試練ではないかと。例えば愛、例えば幸福、例えば生の目的、例えば自死の理由など。

何事も考えれば考えるほど答えは逃げていくばかり。分かったようなつもりでいるのはできるが、わかったような顔をして生きた若い頃が懐かしい。例えば幸福である。何が幸福かを様々に例えることはできるが、いろんな形の幸福があって、いろんな幸福を人は提示するなか、自分の幸福を定義するためにも実感するためにも、どういう人を幸福とするかを自らに問うこともあった。

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身体も丈夫で自由でお金もあって地位も名誉もあってと…こんなのは幸福というより欲という見方をするが、そうはいっても欲が満たされるのが幸福ではないのか?と問い直す。食べ物であれ、衣服であれ、異性であれ、自分が欲しいと思うものが現実に我がものになったとき、人は喜びを感じるだろう。そうした嬉しさに満たされたときの状態を「幸福」と感じるはずだ。

綺麗ごとなどいっても始まらないし、欲望の充実とは無関係に幸福が成り立つはずがないが、欲しいものを手に入れられ、欲が満たされるのが幸福と定義するのは間違っていると自分は考えている。その根拠も含めて、自分が「幸福だな」と感じる時の状態を、もっとハッキリと正確に考えようとすると、ちょっと面白いこと、さらには重要なことが思考の結果として現れる。

例えばお金が欲しくて欲しくてたまらない時期に、例えば宝くじとかに当選して運よく大金が手に入ったりすれば、それは幸福だろうが少し現実的でない。ならばこれはどうか?世界に名高い神戸牛や松坂牛の鉄板ステーキを食べたく、神戸牛専門店に行って数万円の神戸牛を食べるのは幸福だろうか?これも幸福だろう。と、いいたいがお金は自分で払うことになる。

それでも幸福だろう。が、神戸牛を食べたいという欲望の満足感は、「ああ、美味しかった」と食した後に現れるものだ。しかし、神戸牛を食べたいという欲望を満足させるべく幸福感というのは、食べつつあるその最中に感じるものではないか?食べた後に欲望は満たされるが、レシートをもちレジで30000円を支払う時、ガッカリはないにしろ、自分は勿体ないと思う。

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欲望は満たされたが完璧なる幸福ではない。つまり、食べてる時の幸福感は食べ終われば消えてしまう。だから、頻繁に食べには行かない。分かりやすい事例ろして記したが、いいたいことは、食べてる時と食べ終わった後の幸福感の違いである。それらから、「欲望の充実」が必ずしも幸福感とはいえない。欲望の代償としてお札が飛ぶのを自分は幸福とは感じない。

満たされない欲というのは必ずある。欲を満たすことが幸福とするなら、満たされないときは不幸ということか。欲望が満たすことが幸福の場合はあったとしても、幸福の定義付けはできない。これらから欲望の充足が幸福でないとし、真の幸福が何かを探すこととなった。一見、幸福に思えることも深く考えれば、矛盾や誤った幸福感に気付かされることになる。

それでも欲望の充実が幸福と思うのは自由、ならば欲望が満たされないときも幸福でいなければならない。まあ、人のことだから関知はしない。自分の幸福を模索すればいいことだ。若き日には「幸福な他人」がうじゃうじゃうたが、すべては羨望の的であり、若気の至りの過ちであった。「誰が幸福なのか?」を思考し、そこで出た答えは「幸福な人」は何と自分だった。

なぜそうなったか。「真に幸福な人とは何か?」の問いに、「幸福を自覚しない人こそ幸福である」という五賢人の一人の定義を発見したこと。他人が幸福を実感しているかいないか分からない。いる人は分かりやすいが、そうでない人は他人ゆえに分らない。ところが自分に当て嵌めると、自分が幸福を実感していないのはすぐに分かる。だから、自分は幸福なのだと。

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「幸福を自覚しない人こそ幸福である」というのが正しいかどうかわからないが、種々に考えた結果、選択としてそれを正しいとした。だから実感しない自分は幸福なのだと。愛が何か、幸福が何か、人生が何かがわからなくても怯むことはない。将来・未来が分からないからこそ生きてゆけるし、生の根拠とはこの謎であろう。夢を抱き、夢を砕かれさらにまた夢を抱き彷徨う。

これが人生と思えばそうそう挫けることもない。物事は考え方であり、自分で考えるから宗教なんかいらないし、ずっとそうして生きてきた。信仰は良い結果をもたらすとさんざんいわれもしたが、自分は自分を信じ、自分の責任で生きて行こうとする人間に宗教などは無用だった。人間の健康な精神というのは抵抗であり、宗教に対する抵抗感からより良い自分を求めた。

「幸福について」究極論 ②

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人間は誰もが夢を抱き夢を見る。大切なことだが、夢のとおりにならないもののもっとも顕著なのが結婚であろう。「どうにも思いのままにならない」と捨て鉢にいう人間の多くは諦め加減である。が、思うようにならぬのが人生で、そのときどうするか?ささやかな幸福を見つけるよう努めることだ。うまく事が運ばないときこそ、人間は幸福を見つけやすいといっておく。

反対に何もかもが上手く運んでいるときの人間は幸せの絶頂にいるように見えるが、いつ襲ってくるか分からぬ反動への準備ができていない。人は一気に奈落の底に落ちる原因は対応力の誤りではないか。苦労を重ねてきた人間の強さはこういう時にあらわれる。親の事業を三代目が潰すという事例は結構ある。先代の苦労を多少なり知るのはせいぜい二代目がいいとこ。

すべてのお膳立てが揃い、後は箸を持てばいいようになっている三代目に危機が及ぶのはいかにも分かりやすい。「苦労を知らないから」といわれる。言い換えれば、「苦労を知らないで幸福にはなれない」と聞こえる。ならば、「幸福は苦労がもたらす」という風にも聞こえる。正しいとは言わぬまでも間違いではなかろう。苦労をすること?幸福を求めること。

鎖で繋がれてない自由な状態も幸福の要素である。最近、将棋をする機会が一時期にまして増えたのは、したいことを減らしていった結果で残ったもの。ふと目にした超巨大豪華客船の旅に興味が行く。そこで頭に浮かんだのが、公民館でやるよりも気分が変わっていいのではないかと将棋仲間に声をかけた。「豪華客船で将棋三昧の旅をしませんか?」これも生涯の思い出の一つ。

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「50万あれば十分」といってみたが、「無理無理、そんな金を嫁がくれるはずない」。都合3人に声掛けしたがいずれも、「嫁が」、「妻が」、「家内が」であった。みんな自由がないと感じた。それほど大金か?「行って楽しんでらっしゃい」という妻がなぜいない。誰もが女房の尻に敷かれ、自由もなくてどこが幸せか?高度経済成長を支えた男たちの末路がこれか?

そんなことを感じた。自分が同じ立場ならとてもじゃないが幸福感に浸れないが、彼らが幸福感を求めて脱却・奮起しないのは、現状即ち幸福感と察するしかない。諦めも含めて現状を変革する行動をおこさぬのは、満たされぬ現状を満足する幸福感だろうと感じた。人間は、これがいいとは思っていなくても、これまで生きた生き方を容易く変えられないものだ。

自分が自分を作ったのではなく、女房に作られてきた。そうして気づいた時には自分の内に社会が存在していることに自身が気づく。もはや自分の内なる社会を壊すことができなくなっている。こんな社会は認められないと思わぬ限り、社会と対峙はできない。身につけてしまったものの恐ろしさを感じさせられたし、そんな妻を伴侶として生きる男はカスに思えてしまった。

数日たっておもむろに、「Nさん、人生幸せでしたか?」と聞いてみた。「幸せだった。いい時代を過ごさせてもらった」と彼はいう。つまり、「あなたは幸せですか?」と問われて、「私は幸せです」と答える。おそらくこれは、教え込まれた幸福感を述べていると思われた。自分が問われたならどう答えるだろうか。「幸福がなにかよくわかりませんね」というのだろうか。

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平凡に生きることを幸せというならそれとて幸せだろうが、少なくとも「幸せです」と答えるならばそこには決然たるものがあるべきだろう。もしくは、幸せになってやろう、自由を獲得しようという闘志があっていい。自分のお金は妻のものではなくて妻のお金は妻のもの。こんなことは考えられない。なぜ、自分で自由にできるお金をこの人たちはもたないのだろう。

豪華客船の客室で将棋を指さなくとも、無料の公民館でやれるし、「妻はそれなら許してくれる」というのは世界がまるで違っている。我が家は独立採算制である。かれこれ30年くらいになろう。互いがいくら所有しているかを知らない。知りたいとも思わないので詮索もしない。互いがお金を自由に采配し、それで何の問題もないが、どちらかが一方的に握るのは不自由では?

そう思うのが自然でないのか?拘束され、束縛された人生が幸せとうっても、客観的にどちらがいいかを吟味・検討すれば、自由采配がいいに決まっている。それぞれが築きあげた夫婦のことは他人には分からない。分からないならクビを突っ込まない方がよい。他人夫婦に善悪の価値観を抱くのもよくない。今回、自分に当て嵌めて考えてみたが、そんなことの必要もなかった。

自分が作った夫婦関係は、自分にマッチしたものを作ったということになる。亀井勝一郎は幸福な家庭を作る4つの条件を述べている。①職業への情熱。②両親がともに奉仕の対象を持つ。③ささやかな幸福を最大限に喜ぶ。④親子の間が友人のようである。などだが、自分の家庭はお互いが生き易いようにどちらかの主導のもとに作ればよく、普遍的なものは論理でしかない。

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ただし、妻主導で作った家庭に納得できないものが多い。夫や子どもがんじがらめに不自由にして満足を得る妻を男は許すべきではなかろう。逆に夫が無茶苦茶な家庭を作るのもよくない。明晰なリーダーとは、互いが無理なく遜色なく生きて行けるように配慮すべき。「喧嘩の原因はお金のことばかり」という妻がいた。「理解できない」といったら不思議そうなな顔をした。

彼女はそれくらいに不思議だったのだろうが、喧嘩の原因がお金というのはこちらも不思議であった。統制とは「好き勝手」であってはならぬが、無理な締め付けもあってはならない。統制を道徳とすればなし得たように思うが、それは無能者の道徳依存に過ぎない。道徳に偏らず、締め付けもない現状を造るのが有能者の証なら、ひょっとすると自分はそうだったかも。

「幸福について」究極論 ③

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欲望と幸福はただならぬ関係にあるが、欲望の充実が幸福ではないと定義した。後は劣等感をどう克服するかという問題だ。器量が悪い、チビだ、デブだ、才能がない、学歴がないなど多くの劣等感の種が幸福の障害になる。自分は自分の嫌な面を除いていくのを楽しみとしたが、劣等感を除いて行くのは楽しみとできるだろう。顔を整形するだけで気持ちが変わるという。

昔は整形といえば大変なことだったが、最近は技術も進み不安もなくなったことで、頻繁に活用されているというが、基本的なことは、「劣等感はなぜ起こるのか」である。さまざまな劣等感にはそれ相応の解消の仕方があると思われるが、人間の真価について思考するのも大事なこと。真価とは値打ちともいうが、「人間の値打ちとは何であるか?」を考えてみる。

才能、容姿、学歴、貧富などについて徹底的に考えることで、それらが人間の値打ちとは何の関係もないことが分かってくる。先ずは容姿・容貌だが、これは親から譲り受けた先天的なもので抗うことはできない。才能はある程度自分の努力で磨けるが、生まれながらの鈍才を秀才にはできない。学歴も家庭の事情もあれば、教育制度の欠陥などから批判は可能である。

本人のせいとならない制度の欠陥や問題点を恥とする理由はないが、もっと大事なことはありのままの自分を愛すること。そのためには親がありのままの自分を愛してくれたかの問題も大きい。つまり、劣等感というのはもっとも身近で信頼できる親が作っている部分も大きい。さらに人間として考えるべきは、「人間の値打ちは何で決まるのか!」という独自の視点をもつことだ。

恋愛ついて性について語るのは、人間について語ること。どちらも男女がするものだからそれらは否定はできぬものの、あまりに直接性も持った楽しみは真の楽しみではない。むしろそれ以前の、その周囲、周辺をめぐっての様々な楽しみに浸るところに真の快楽がある。若さというのは率直さでもあり、年代にもよる感じ方の相違もあろうから、若い人には爺の戯言に聞こえよう。

ユニークな思考で読む者を楽しませてくれるモンテーニュ。彼の随想にはこんな記述がある。「われらは丁度いろいろな御門や通路を経て、長き趣きのある廊下を通って、幾度も幾度も折り曲がって、やがて壮麗な宮殿の中に導き入れられるように、恋愛に連れていかれるのを喜ぶべきである」。拙速を戒めているのだろうが、こんな文章が書ければ書く楽しみも増すだろう。

彼は時間をかけ、趣向をこらし、回り道をして恋の殿堂に導かれるを善しといっている。いかに愚劣で不潔な恋愛をしようと自分の恋だけは素晴らしいと思っている。愚劣で不潔な恋の定義も難しく、そんな恋愛があるのかないのかわからぬままにだが、純潔教育を受けた世代だから、女性は結婚まで処女は守るとか、若い娘が遅くまで外でウロウロすべきでない時代であった。

結婚すると人は、「おめでとう」というが、離婚した人に、「おめでとう」はなかろう。そうはいっても、「おめでとう」をいって欲しい人はいるんだろうし実際にいた。自分は躊躇わず、「おめでとう」といってみたら笑顔が返ってきた。良い触れ合いだなと実感した。自分の幸せを求めるという意味では結婚も離婚も同じはずなのだし、そもそも結婚というのは制度でしかない。

同棲が色メガネで見られなくなったころ、同棲に踏み切った女友達がいた。彼女は流通関係の仕事で土日は休みではなく、彼は土日やすみだからなかなか会えない。それで同棲を始めた。相談がきたとき、自分は結婚よりとりあえず同棲を奨めた。理由は、結婚は制度に過ぎず紙きれ一枚と印鑑があればいつでもできる。が、彼女の周辺は大反対したらしい。

「なんで?」と聞くと、「一緒に住むだけだったらそのうち飽きられてポイされるよ」てなことらしい。彼女は33歳だったし、田舎の親のことも頭を過り、結婚に突入すべきか迷っていたが、「あわてることはない。いつでもできる」との自分の言葉に理解を示した。彼女の友人・知人も世間であり、もちろん自分も世間の一人だが、彼女の友人と自分は違う世間である。

何がいいたいかといえば、結婚なら誰もが公に祝福できようが、同棲を祝福することはない。だから…?彼女がそんなようなことをいった時、世間の祝福なんかどうだっていいんじゃないか?「飽きられる」だの「捨てられる」だのと、心配のように聞こえはするが世間とはそういうもの。彼女の友人は、いかにも恋愛で損をするのは女性と決めつけていた。

同棲して男からポイされた女性は被害者なのだろうか?であるならどういう被害を被ったんだ?自分は男目線でいってるのではなく、「世間の目」とやらはいつまでたっても女性を受け身にさせてしまっていることへの腹立ちだった。恋愛は対等に行うものだから、「捨てる」という言葉は馴染まない。「女に捨てられた」とうなだれ、悲愴感丸出し男にいったことがある。

「アホかお前は…。何で女に捨てられたと思ってるんだ?段ボールに入れて広場に捨てる子猫じゃあるまいし、お前はそんなんじゃないだろう。女はやられ逃げしたと思え、そんでさっさと別の女を見つけろ!」。全然キツイ言葉とは思わないし、「女に捨てられた」は男として情けない。一番いいのは、「飽きた」と思うこと。「飽きた」で別れて正解。もし結婚してたら離婚だろう。

「飽きても、終わっても」だから同棲が正解である。「婚姻届けを出したいと思えば出せばいい。それを出す前に互いが別々に住むことになるかもしれない。だから流動的でいいんじゃないか?」自分は率直な言葉を沢山投げかけた。男女関係なんか不確実の極みである。愛情は生ものだから腐ることもあろうし、日々変化していくのは当然であって怖れることはない。

「幸福について」究極論 🈡

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多くの人は、結婚が男女関係の最上の形であると思いたがるが、ピュアな観点から見れば決してそうではないということ。つまり、自分の意見は打算を排除したもの、さらには男女関係における自由な選択肢を提示するものだと念を押す。決まりを守って規則正しく物事を行うのが悪いとは思わぬが、規則というのは破ったら罰を下される。それが結婚に対する離婚。

大事なことは、「この人が必要だ」と思いながら暮らせること。ならばどういう形でも同じことだ。そうした純粋性からすると、結婚は打算の極みである。彼女の友人は他人事でもあり、友人としての無難な打算をいったまで。だから、周囲の意見に踊らされないようにするのが大変で、そのことは自分の意見も同様だ。ただし、自分はピュアな生き方を提示する。

一時期に比べて同棲というのは市民権を得ている昨今だ。踏み出すことに何を怖れることがあろう。事実婚という形態も自然な男女関係の在り方ではないか。比べて結婚というのは、形式であるがゆえに不自然な部分はあるが、法的な整備も含めて枠に嵌めなければ収まらない。勿論のこと結婚のメリットも多い。今後はさらに男女関係の選択肢は自由となろう。

保守的な人もそうした自由な流れに飲まれていくことになる。問題点はといえば、「自由」の対義語が「責任」となることで、その所在が曖昧になることだ。「同棲のメリット・デメリット」、「事実婚のメリット・デメリット」で検索すると書かれている。近年はネットが何でも教えてくれるが、そういうものを閲覧することで踏み出しにくくなる。

当然にして「結婚のメリット・デメリット」も、「おひとりのメリット・デメリット」もある。「独身を貫く覚悟」という表題で長々書いたのは、そういうことだ。書いても書いてもキリのないほどに問題あるのが、人の生き方の選択である。「離縁状」というのは夫が妻に行使できるもので、妻が夫に「離縁状」など出せなかった。それから見ても良い時代である。

唯一女性側が離縁を願う場合、駆け込み寺に駆け込む。女性がこの寺に駆け込んだ後、夫側と話し合い内済(示談)によき離縁する「内済離縁」と、夫側が承諾しない場合は、寺法により、女が足かけ三年、在寺禁足することで、強制的に離縁状を差し出させる「寺法離縁」による場合があった。「内済離縁」の場合は、結納金、嫁入り道具、子どもの処置など話し合う。

駆け込み寺は縁切寺ともいわれ、江戸時代には公認の縁切寺としては、相州鎌倉の東慶寺、上州勢田郡新田庄の満徳寺の二つのみだった。比べて昨今の熟年離婚とやらは、家族を家庭を守り通してようやく安住地に辿り着いた高度経済成長の企業戦士らの愛する女房たちが、いつの間にやら荷物を纏めて、「はい、さようなら」などの話は、笑い話ではなかろうに。

女は旅行好きなのが多く、男はゴロ寝好きが多い。男のことはよく分る。たとえば男は新しいもの好きだから、自分をワクワクさせるような目新しくも、一風変わったものがない限り、「つまらないな~」などと連呼しながらゴロゴロする。女のおしゃべり好きを心理学者はこう分析する。「女は生活上の不平や不満をしゃべりあうことで排出する自己保存のようなもの」。

女性は同調圧力が高いことも知られている。批判し合って角を立てては生きて行けないので相手に合わせようとし、それでいつの間にか、「NO!」をいいそびれて身動きできなくなってしまう。ところが独身女性には我が道を行くタイプが多く、その分心の強さが感じられる。ひとりものだからと他人から後ろ指さされたくない女性は、結婚、結婚、結婚に飛び込んでいく。

自分と他人をあまり比べないから、「隣の芝生は青い」というようには考えないのだろう。人間を不幸せにする大きな理由のひとつに、友人と自分をしじゅう比較することで、そうすればいやでも嫉妬心に苛まれる。妬む心は人をどんどん曇らせるが、他人と自分を比べない女性は、意外とこざっぱりしている。これまであった中で極めつけの独身女性はこんな感じ。

彼女は40代の後半だったが、これまで自分が結婚のチャンスを掴み得なかったのは自分の責任ではないとし、自分に男を惹きつける魅力がないのではないようなことをいう。機会がないチャンスがないというより、運命のようなものと考えていた。運命は逃げの口実でなく、美しい女性だから結婚するわけでも、ブサイクだから独身というわけでもないのは確かである。

「私は独身です」と屈託なく言う人は正直である。自分の現状をありのままに公言し、是認することを、「正直である」とするなら、自分自身に正直であることこそが不幸にならない確実な方法ではないだろうか。これは自分の考えだが、結婚の有無に限らず、自分自身に正直でいられる人は、心を安らかにする人である。正直とは無理をしない見栄を張らないこと。

だから、「40歳過ぎて結婚しなくても私は幸せであり、幸せに暮らしている」と、自分自身に言い聞かせる場合、これは本当に正直でなければならない。本当に正直でなければ幸せとはならないからだ。「隣の芝生は青い」などと思わず、人は人、自分は自分と心から正直に思える人は強い。だから自分の幸せをみつけられる。自分なんか典型的にそういうタイプである。

幸せかどうかは別にして何の不満もないし、好きな事をやって好きに生きている以上、不満の持ちようがない。「隣の芝生は青い」と考える人は、基本的に欲の心情が深いのではないか。自分に欲がないとはいわないが、欲を葬ることが良いと考えて実行しているのであって、生まれつき欲のない性格というわけではない。無用なものを排除するのが向上である。

道ずれ

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最終稿の表題は「道ずれ」。12月15日まで張りつくもりだったが、31日をもって投稿できないとなった。始まりがあれば終りもあるのが自然の摂理。12月までサイトを置いても投稿できないブログなど有形無実。もはや投降するしかない。何事もプラスに考える自分だからひとまず休息するのもよかろう。ブログを書かなければ明日が来ないわけでもない。お盆も正月もくる。

ブログの効用は視野を広げるといったが、もっと重要なことに気づいていた。それは普段の自分自身から脱するのが人間には大切であるということ。サークル活動や趣味の領域のなかで生きるのも生き甲斐かも知れぬが、本当の生き甲斐とは普段の小さな「自分自身から脱出」して、何かに自分を託してしまうときに生まれ出るもの。自分にとってそれがブログだっだ。

自分の殻を打ち破るほどのものではないが、普段の日常とは違う自分の世界を自らが醸す。これも一つの生き甲斐であろう。いつもと同じ自分と朝に夕に、にらめっこしたところで生き甲斐は見いだせない。何かを表題に置いて徹底的に考え抜く。頭では分かっていても心では納得していないこと。それらをとことん考え詰めてみる。愛とは、幸福とは、そんな他愛もないことを。

「人生はうたかた」という。あまり使わなくなった言葉だが、「泡沫(うたかた)」と書けば意味も分かろう。水面に浮かぶ泡のようなものでも、自分にとってなにが本当に望ましいのかをひたむきに考える。それを楽しんだ。「ああ面白かった」といって死にたいと佐藤愛子。正直な言葉だろう真似てみる。「ああ面白かった」。最後は短く、ではこれにておいとまを…

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