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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。
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  • 01/08/19--17:27: 自信過剰って…
  • 人は時に面白いことをいう。面白いことに遭遇し、人間の発想の多種多様に驚き、感心することもある。「あなたって自信過剰なのね」と、いわれたことがある。こんな言い方をしばしばする者がいる。言葉の意味は分かるが、自信と自信過剰の度合いや量差にピンとこない。が、相手の発言をユニークと思うからこそ会話に花が咲くが、おそらくこんなやり取りであったろう。

    「自信過剰って、どうしてそう思ったのかを聞きたい」
    「そんな風にいわれても…、ただ何となくだけど自信持ってるかなって」
    「そりゃ自信はあるさね。自信なかったら生きててつまらない」
    「でしょう。そんな感じはする」
    「でも、過剰ってのがワカラン」
    「俺は失敗はしないんだ、って感じかな?」
    「それはないな。失敗はしたくはないけど、自信持ってても失敗はするよ」
    「そうなの?俺は失敗なんかしない!じゃなくて?」
    「仮にそう思っても失敗はするよ。口で何をいおうが起こることは起こる。ただし、自信のある人間は、失敗しても落ち込まない」
    「そうなんだ、それはすごいね」
    「失敗して自信なくしたとかいう奴は、過信してたんだろ」
    「自信過剰と過信と違うの?」
    「似たような意味だけど、過信は本当の自信じゃない…」

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    言葉はいろいろあってもニュアンスは微妙に違う。自信がある者は失敗はしても落胆はしないだろう。自信過剰と過信の違いは分からないが、「自信あります」といって、「やらない」奴はタダの嘘つきで自信過剰でも過信でもない。自信のなさを誤魔化す嘘だ。失敗を怖れるあまりやらないでおこうというのは虚勢を張ってるだけで、過信というでもない。

    「自分は失敗なんかしない」と思うのは過信で、自信のある人間は、失敗しないではなく失敗を怖れない。自信があるから、「できる」ということに賭けるし拘る。だから何度も挑戦する。人間だから失敗はするが、失敗という事実に目を向けるだけで、自信を無くすことはない。失敗という事実に向き合い、失敗の蓄積から得たものをプラスにトライすればいいこと。

    こういう基本的な道理を知らずに、「自信がある・ない」を口にする者は多い。過剰な自信や自惚れは、自信の欠如と知る自分が自信過剰である筈がない。人の物の見方は知識や思慮を欠いているなら腹で笑っておけばいい。気にするとか、気にしないとかより思考の問題である。人はいろんな風に人を捉えるが、的を得たものであるかないかを判断すべし。

    占いを信ずる人がいる。そんなものを妄信する人の気が知れない。人名や生年月日、手相、人相、該当する星座など、占いの種は多いが、信じる人はおそらく何かをそこに期待するのだろう。本気でそんなことを信ずるものは、言い過ぎかも知れぬが心に地図を失った人か?一時的には面白いがその種のものは余興である。賢人の著作とゴシップ週刊誌ほどの差がある。

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    人の未来も含めて世の中の多くは予測できないのが道理だが、占いはそれを当てるという。予測というなら可愛いが、「確実」という言葉を使う。その方が信憑性があるし、10年先をある占い師に予測された者が、10年後になって、「あの占い師はいい加減なことを言いやがって!」と責めることにはならない。それを考えると占い師とは無責任な気楽な稼業である。

    10分で3万円、3分で5000円の占い師もいる。前者は時給18万、後者は10万のぼったくりである。社会が、「不確実の時代」であるのはいつの世もであって、がゆえに、「自明性の時代」であるべき。自明とは、証明や説明や解説をしなくても、それ自体ではっきりしていると判断されることである。ただし、必ず正しいことが保証されるものではないが、予測を超えたもの。

    いつ頃だったかある時期に、「自分のあるべく力を尽くして自らの可能性に挑む」と、強い筆圧でノートに書き込んだ。難しい問題や困難に直面しても、人に相談することをしなかったのは、他人がよいアドバイスをくれることより、自らを信じることを選んだ。自らを信頼することは他人を基準に行動しないということであって、それをしないから他人のことが気になる。

    ともすれば自己満足的に陥りやすいが、それを排しながら自分が自分を信頼し、自らのやることに自らが充足していく。それで得たものが、「自信」である。人に助けられるより、自らの力で命を救えば自信になるように…。「自信=自分を信頼」という言葉と思っている。自分こそが最後の拠点である。そのための蓄えとして賢人たちの著書があった。所詮は何もない自分である。

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    自信のある者は、憂鬱からも、不機嫌からも、不要な懐疑からも、不安やあせりからも自由であり活動的である。「なぜ山に登る?」と聞かれて、「そこに山があるからだ」は有名な言葉であるが、チェコのザトペックというランナーは、「なぜ走るのか?」と聞かれて、「ウサギになぜ走るのか聞いてごらん」と答えている。黙々と走る人間に無意味な質問である。

    長距離陸上選手21名との単独インタビュー取材を収録した、Michael Sandrock著『Running with the Legends』は20年以上前に出版されたが、ビル・ロジャーズ、フランク・ショーター、瀬古利彦など、マラソン史に金字塔を打ち立てたレジェンドのランニング哲学や、トレーニング方法などが記されている。もちろん上記したエミール・ザトペックの言葉もある。


    もともと靴工場の作業員だったザトペックは、職場の運動会をきっかけに走り始め、当時画期的だった、「インターバル走」を練習に取り入れて世界の頂点に上り詰める。その練習メニューは、400m×100本のインターバル走を 2週間続けるという過酷なものだった。想像を絶する、400mインターバル走を100本をやってのけたザトペックの精神力たるや、「神レベル」である。

    後年、ザトペックについた異名は、「人間機関車」だった。彼らにとって、走ること、登ること、さらには投げること、跳ぶことを極めんとする者たちにとってそれらは、「なぜ?」と問う必要のないくらい、「自明」なことである。何もする気が起きない人もいれば、他方でバカみたいに何かに熱中するのは見事、「自明」に生きる人。依存の心理がいかに人間をダメにするかが見える。

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    自分で何かを明らかにしようとする生き方を欲する人たちである。プロ野球やサッカーやアイドルたちのファンがそうであるように。行きつけの歯科医院の衛生士との会話で、「東京に長い事いたよ」、「私も東京によく行くんです」という流れから、彼女がジャニーズファンであるのを知った。ジャニーズは中3少女なら誰でもかかる麻疹のようなものと思っていた。

    彼女はどうみても25歳を超えているように見えるが、今なおジャニーズの追っかけが生き甲斐であるという。実際に話してみると批判はわかず、その熱意には正直、「すごいね」と偽りない言葉になった。自分はネットでみた一枚の写真について話す。「女性がわからないのは、コンサート会場の柱に貼られたポスターにハグするファンで、あれは男に理解できない」。

    彼女は、「知ってます。私も光景はみます」という。「あれが女の子の感性?」と聞くと、「あれは自分がそうしてるのを人に見せたいんですよ。私なら恥ずかしくてできません」といわれ、女性の自己顕示欲の深層に驚く。自分がそうしたい以上に、周囲に見せたいという心情など男は考えない。新たに得たものは、「何事も聞いてみなければ分からない」という確信だった。

    ポスターに抱きつかねばならぬほどの高望みをせずとも、世に温かい生身の肌の男はいくらでもいようが、彼女たちの感性は理想を求めてやまない。ドイツ語のフェアシュティーゲン(verstiegen)という言葉は、「極端な」、「途方もない」という意味だが、「高く登りすぎて失敗した」が原義である。目的を持つのはいいが、途方もない目的は失敗になりやすい。

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  • 01/09/19--15:24: 世俗という悲喜劇

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    人の言動にいちいち噛みつく心理は自信のなさの現れという。「金持ち喧嘩せず」とは、頭にきてもバカとは戦うなである。自分と違う意見に遭遇するのが怖い貧乏症は、自分の考えにない他人の意見にエールを贈ることをしない。それができる人間は心も広く向上心も備わっている。が、「自分と違う意見には自分自身が否定された気持ちになる」という、怖ろしく心の狭さである。

    一見自信家に見えても、実は自信のなさの反動からの虚勢だったりする。他人の会話への横やりはマナーに反するを知ってか知らずか、腕まくりで発言を抑える必要がどこにある?体験的にいうなら、「批判も擁護もいらんから黙っとれ!」といいたくなる。「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」といい、「横やりを入れるな」という戒めもあるが、夫婦の喧嘩は馴れ合いと教えている。

    目立ってナンボの芸能人たちは、忘れ去られる惨めさを知るから、何とか存在感を維持しておきたいし、看板を下ろした精彩なき芸人は、看板をあげる機会を狙って騒動に参入する者もいれば、事務所が話題づくりにゴシップ、スキャンダルネタを仕掛ける場合もあるという。タレントという肩書だけの芸無し芸人が時事や社会問題にクビを突っ込む時世である。

    「芸能人は政治発言をすべきでない」という声を聞く。賛否はあろうが、基本は善悪の問題ではなかろう。何を善とし悪とするかは、それぞれの立場によって変わってくる。大方のタレントはマネージメント事務所に所属するが、個人事務所に所属するタレントは自己管理はその点自由であるが、それでもCM契約する場合は、使う側の意図が加味される。


    契約書には様々な条項が加味され、違反すれば即刻契約解除されたり、違約金まで発生する条項もある。CMで使われる以上、タレントとしての商品的価値が下落するのは使う側にとっては困るわけで、その辺りの自制心は必要である。個人事務所で自らが仕事をとり、CMに出演しないタレントが、「不倫は個人の自由」といっても、ファンから見れば商品である。

    その辺りをどうするかという問題もある。ファンに去られても人気が落ちても、自分の尊厳は自分が決めるというのは、ジュリーこと沢田研二が身をもって示した。彼のように、個人事務所でCM出演もない、デブになってもコアなファンがいるというなら、好き勝手に振舞えばいいこと。事務所に所属するタレントがあれこれいうのは、立場的に説得力がない。

    タレントを商品とする以上、何を善悪とするかは上記した立場の問題である。ファンの善悪、事務所の善悪、メディア(TV局)の善悪、レコード会社の善悪、CM契約企業の善悪、それらの上に本人の善悪が被さる。それらに最終的な順位をつけるのは自分自身と思うが、タレントが所属事務所の奴隷なら事務所がすべての決定権を持つことになるのは組織のルール。

    タレントと事務所に派生する様々な問題は、タレントに限らず一般人にもあろうし、「公」と、「私」の問題だろう。会社に勤務する以上会社の奴隷となるか、それとも会社の仕事をやってやっているのだとの強い気持ちで働くのか、大方は前者であろうが、後者の考えの人間もいる。決定的な違いは、「働くものと働かないもの」とでは生活基盤がまるで違っている。

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    また、同じ労働者といっても正社員とバイトやパートのような片手間 (といわれる) 業態によっても違う。一人の人間をめぐる様々なものが、善悪という形でのしかかってくる、それが社会である。したがって、タレントが所属事務所で管理される以上、事務所の方針で行動するしかない。マネージメントというのはそういうもので、好き勝手に立ち廻られては収拾がつかない。

    人間は二人以上で社会が形成される。この考え方でいえば、恋愛でさえ立場の違う同士で繋がり合っている。もちろん夫婦もである。子どもにも人権はあるが、親権が優先される年齢と成人とは異なる。かつて階級社会の時代にあって、誰でも異性を求める欲情に変わりはなく、貴族と平民という許されざる立場を超えて男女を結びつけるのは愛であった。

    愛という言葉の響きはいいが、率直に言い換えると欲情にすぎない。こういう川柳もある。「愛という美しい名でオスとメス」。階級制度がやっかいなのは、欲情だけでは結ばれることはできない。それを周囲からみて本当の愛情関係に推し進めてみたところで、たちまち階級という矛盾にぶち当たる。部落差別や人種差別や宗教差別から多くの男女の悲劇があった。

    「人間が口を開けば即矛盾」となるが、人間は生きてること自体が矛盾かも知れない。そうした矛盾の網をかいくぐって生きねばならないことを思うと、人間は生きていくことだけで十分目的を果たしているだろう。恋愛の行き着く先が結婚であったとしても、恋愛そのものがどれだけ深いものでも他人との関係である以上、結婚が何かというのも導かれる。

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    結婚を、「愛の究極」や、「愛の合体」などとする言葉はいくらでもある。結婚がおりあっていようがちぐはぐであろうが、あくまでも、「共同の人生」という一体の関係であるのは間違いない。秋篠宮眞子と彼氏の行く末がどうなるかは誰にも分からないが、一昔前なら心中のケースかも知れない。心中で愛を貫くのが善いか悪いか分からないが、短くも儚い愛も愛かと…

    どうして心中決断に至るかは、至らぬ者にとって分かるようで分からない。美しいともいえるし、勿体ないともいえる。眞子内親王も27歳のお年頃でもあり、今後どこかで新しい彼氏と出会うという可能性もないわけではないが狭まれる。そんな状況で現在の彼氏と破談になった場合、次の恋愛に尾ひれはつこう。そこを考えると、二人を一緒にさせてやるべきと考える。

    お見合いという手もあるにはあるが、恋愛をし、意中の相手を見つけたのだから、結ばれるのがよかろう。現皇太子妹でかつての清子内親王が降嫁された東京都庁職員の黒田氏は、秋篠宮殿下の初等科時代からの学友であった。純粋な恋愛というより、お見合いの延長上のようなもので嫁いで13年になる。子宝には恵まれなかったが、それはまあ授かりものだ。

    世俗の喜劇としたが、世の中には悲劇もある。喜劇でもない悲劇でないのを何というのだろう。失恋が悲劇であるのはいうまでもないが、なぜ悲劇というのか?恋愛を恋愛とのみで見ず、そこに人生と幸福を夢見るからであろう。人が全人格的なものとして恋愛に対するからであろう。失恋によって人はしばしば自殺をする。勿体ないと思うが否定はできない。

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    なぜなら、その人は自殺によって自分を限定したのである。限定とは生の未来、生の可能性を捨てたこと。捨てたのは否定をしたからだろう。人間は絶望によって鍛えられはするが、自らを鍛えなくていいというのも選択である。自身の生の未来まで否定をするほど自らを限定する必要はないと考えるが、失恋をして絶望する人間を誰が癒すことができるだろうか。

    多くの失恋者に対峙したが、慰め言葉は一言も発さなかった。なぜなら、どんな慰め言葉ですら、相手が満足するとは思えなかったからだ。そんな魔法の言葉は見つからない。自分が見た失恋体現者はまるで生ける屍のようであったし、生きた自己にとりついたもう一人の自己の死骸がそこにあった。その死者にとりついて嘆く人に、どんな慰め言葉があろうか。

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  • 01/10/19--19:19: 高学歴の低脳者
  • 今の日本社会にあっては学歴で個人を評価することに、「時代遅れ」という分析がなされている。その理由としてあげられるのは、今の日本の問題は、戦後の高度成長期から80年代のバブルに向けて作られた様々なシステムが時代遅れであるにも関わらず根強く残っていること。80年代バブル期に大学を卒業した当時の学生は、終身雇用制で年功序列社会にあった。

    その時代の大学は入学時に優秀な学生を選り分けるフィルターで、企業は一流大学の学生あれば大学での成績など全く関係なく採用した。業務に必要な職業訓練は採用後にやればよい、そんな余裕の時代だった。その後、コンピュータ、インターネット、モバイルデバイスなどを中心に、あらゆる産業をソフトウェアが飲み込む大変革で世界を大きく変化させた。

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    多くのベンチャー企業が生まれ、Microsoft、Apple、Amazon、Google、Facebook などの企業が、旧来型の企業を追い抜いて成長を遂げたが、なぜか日本は、この大きな変化について行くことが出来ず、未だに高度成長期を支えてきた大企業が社会全体に大きな影響力を持ち、就職先としても人気がある。政府ですら大企業本位の時代遅れの政策しか取れていない。

    なぜ日本が変化に対応できず、旧態依然を守り続けているのかについて、大きな原因になっているのが日本の官僚システムという分析もされている。日本の官僚が優秀といわれるのは、政策面や折衝面で政治家を牛耳っているからだろう。米国では政治家が法案を作る。政権交代時には官僚トップが全て入れ替わるので、政治家は思い切った政策転換が可能となる。

    日本では法案を作るのは政治家ではなく官僚で、政権が変わっても官僚は入れ替わらないために政策の継続性が高くなる。さらなる問題点は、官僚組織をピラミット型に保つためには天下り先が不可欠となり、そうした天下り先が変化への抵抗勢力となってしまう。こうした古いシステムを変えない限り、日本は新しい時代に対応する舵取りはできないだろう。

    多くの東大出身官僚が政治家に立候補して当選する。東大出なら賢いし、間違いなかろうと国民は考える。政治家に頭の良さが必要なのか?おバカタレントが政治家になるのだからそうではなかろう。過去と現在と東大出のバカ政治家の名を挙げれば10人、20人そこらは容易い。彼(彼女)たちは本当に頭がいいのか?学生時代や官僚時代はそうだったかも知れん。

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    政治の話はあくびが出るから没として、「高学歴の低能者」という表題は、東大医学部医師の痴漢で思い立った。東京大学医学部付属病院で整形外科を担当する医師・相馬一仁容疑者(38歳)は9日午前8時すぎ、JR山手線の車内で都内の高校に通う女子生徒の胸や手を触るなどした疑いで現行犯逮捕された。この医師を頼っていた患者はさぞや驚いたことだろう。

    相馬容疑者は斜め前に立っていた女子生徒を抱き寄せて胸や手を触ったという。女子生徒が相馬容疑者に、「電車を降りましょう」と声を掛けると、「すみません」と手を離して逃げるそぶりを見せたため、女子生徒が腕を掴んで大塚駅ホームの駅員に引き渡した。女子高校生は最初から捕まえる気でじっとしていたのだろう。取り調べに対して容疑を認めている。

    そうとは知らずに調子こいたバカ男。東大病院は、「事実関係を確認中」と、常道の対応をするが、すぐに警視庁に問い合わせれば確認はとれる。情けないが教師や医師の痴漢は多い。教師も医師も同じ人間といえ、教師逮捕なら生徒が、医師が逮捕されれば患者が気の毒だ。彼らは仕事をしていない時でも「師」は取れないのだから、常に念頭においておかねば…

    どちらも先生だが、痴漢先生の授業、痴漢先生の診察、それは生徒も患者も嫌であろう。家庭持ちなら家族とて近所や周囲に合わす顔がない。それでも支える妻もいれば、醜聞を跳ね飛ばす子どももいよう。釈放後は信用失墜から病院はクビになる。どこか地方に転居して、医師免許があるからと頭を下げて雇ってもらえばいい。捨てる神あらば拾う神もある。

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    何とも話が現実的で切実…、書きながらそう感じている。それが世の中なんだろう。「一寸先は闇」とはいったもので、何が起こるか分からないが、突発の疾病に比べて、自制心の所持は可能だ。彼はなぜ医師になったのかという疑問は沸かない。おそらく頭がよかったのだろう。が、頭の良さと下半身は別というが、師業は特に自制心を必要とする仕事である。

    取り調べ段階でおそらく彼は、「魔が差した」と取り調べ官にいうだろう。便利だが抽象的な誤魔化し言葉。取り調べ官も聞き飽きた言葉だから、「魔が差したじゃ済まないだろ?あんたらも我々も、魔が差してはいけない仕事なんだよ」などといったところで、「すいません」といわれればそれでオシマイ。そもそも、「なぜ痴漢なんかやるのか?」という問いに対する答えはない。

    男なら分かるが、痴漢行為は性欲の発露だけではない。現にその際、勃起している痴漢は少数とみていい。痴漢を突き動かすのは性欲とは別の、女性に対する愚弄であったり、弱き者への支配力であったり、そうした男の傲慢さの表れと見ていい。現に痴漢行為をする男は、「女はそれを求めている」、「強引な行為に反抗できない」という思いあがりが根底にある。

    さらには、「じわじわいじめることで優越感を味わいたい」という声は遊戯性であろうか。痴漢を釣りに例えて、「今日はいい獲物が釣れた」などというのは、ギャンブル性やレジャー感覚を楽しむ人間であろう。自分は「ドッキリカメラ」が大好きで、道を歩く前の女性のスカートをまくり上げると、どういう反応するだろうか?などと想像を膨らませて楽しむことがある。


    人がビックリする自然感はたまらない。男はそうした男の子的なイタズラを好むが、実際にはできない、だからテレビの、「ドッキリカメラ」が面白い。想像を想像だけで終わらせることなく、行為することで想像が現実のものとなるのをテレビは見せてくれる。痴漢の心理も場の状況からすればドキドキ感もあろうし、「痴漢されてドキドキしちゃった」という女性もいるにはいる。

    こうした情報も男を痴漢行為に誘う要因か。「この女ならされるままになるだろう」という相手選びも痴漢の心得だが、今回のように思惑が外れると人生が一変する。と、これは頭の良さというより常識で、教科書で学ばない、学歴もカンケーない。であるなら東大卒の医師が社会で低脳ぶりを発揮するのはおかしいことでも何でもない。リスク管理のできないただのバカだ。

    往年の大女優がこんなことを言っていた。「夏の暑い部屋のなかでも、いつもキチンと和服を召しています」。エアコンのない時代、本当はシュミーズ一枚に団扇片手にが楽だろうが、それをしない彼女は、いつでもどこにいても他人の目に晒されていなくとも大女優を生きている。「美しくも可憐な銀幕女優がウンチをするのか?」そんなことを不思議に思ったこともあった。

    人間は自分で自分を正しく評価することは不可能。だからあてにもならぬ、「評判」を基準に空想するのだろうが、往年の大女優は、ウンチをしないと思わせるほどのカリスマ性は、どこから発されるのか?そうしたものを、「オーラ」と呼ぶ。「あの人にはオーラがある」などというが、後天的に造りだすもの。痴漢で逮捕されるような東大医師ごときはオラオラオラか!

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    という言葉を知っても、「他人の幸福は飯が不味い」というのを知らぬ人はいよう。どちらも似たような意味だが、なぜ人間は他人の幸福な話をあまり喜ばず、不幸な話になると身を乗り出すのか。「すべて幸福な家庭は互いに似通っているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸の趣きを異にしている」。これはトルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭の言葉である。

    人間は不幸とか悲劇のうちに個性をあらわすといっている。確かに特殊な問題がそこにでてくるからだろうし、トルストイのいう通りかも知れない。誰もが幸福を望むが襲ってくるのは不幸ばかりと感じるなら、生きることの不安に人間はいつも怯えているということか。そのための信仰であり、そのための宗教なのかも知れない。と、これが自分の宗教観である。

    ある特定の宗教を信じなくとも、何となく神仏を求めたくなる気持ちが人の心にあるかどうか。もしあるとするなら、それはどういう場合か。それとも、神や仏を求める気持ちなど一切ないか、まずは自身の問題として考えてみる必要がある。この問題には二つの側面があろう。その一つは、「人間は苦しいときは何にでもすがりたくなる」弱さを持っている。

    病気やその他で死に直面したとき、何事か心配でたまらないとき、何かに祈りたくなろうし、すがりたくなるだろう。心の中で無事を祈るのは自然なことかも知れない。苦しいときばかりではない、結婚や何かの慶事においても前途の幸福を祈りたくもなる。それらは直接的な宗教に関係なくとも、「祈ったり」、「すがったり」と同じ心理が信仰であろうか。

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    信仰心のない自分は祈りをしない。理由の一つに、"祈りを捧げる理由がわからない"からでだが、祈りの言葉だけならいくつか知っている。「アーメン」、「アッラーフアクバル」、「なんまいだ~(南無阿弥陀仏)」、「なんみょうほうれんげきょう(南無妙法蓮華経)」、「天にまします我らの父よ」、「リーテ・ラトバリタ・ウルス アリアロス・バル・ネトリール」など…。

    最後のは一般的ではないがラピュタ語で、「我を助けよ、光よよみがえれ」であるらしい。父の墓を見に寺に行ったことはあるが、墓の前で手を合わしたことがない。手を合わして何をいえばいいのか分からないからだ。「南無阿弥陀仏」といえばいいらしいが、そんなことより心の中で頻繁に会話風に話しかけている。なのに改まって「南無阿弥陀仏」はなかろう。

    だから、「できない」ではなく、「したくない」。これまで父の法事にも一度も出たことがない。「でれない」ではなく、「でたくない」からだ。世俗に反することという自覚はあるし、葛藤もないわけではないが、無神論者を自負するからにはこうした世俗と自分との戦いが必要である。それよりなにより自分が本当に大事にしたいのは、父との永遠の心のつながりである。

    これには、"自分なりの"という但し書きが前提にある。神仏の前でむやみやたらに手を合わすようなことはしたくないという意志を貫いている。貫いてどうなる?という疑問は、「手を合わしてどうなる?」というそっくりそのままの疑問だ。理由や理屈を抜きに、「慣習」や、「慣例」に従っている方が良いとは思うが、あえてそれに反発してどうなるかという実験でもある。

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    そうした背後にあるのは、「信仰は人間を幸福にするのか」という疑問への挑戦である。それを確かめるのは「信仰」と「不信仰」の二つの道がある。信仰で幸福になるというなら、信仰なしで幸福になれないのか?そこに疑問を持ち、だから実践する。「幸福」という言葉には、「安心」や、「安寧」という意味を持ちやすい。確かにそういうものを「幸福」は含んでいる。

    人間がそれを欲するのは当然だが、だからと、「信仰」が手っ取り早いというのはあまりに安易である。と、自分は考える。そうではなくて、信仰に頼らずとも不安を生き抜き勇気を「幸福」の中に見出したい。人間は水と空気には絶対的な依存は必要だが、依存を好まぬ自分に信仰の二文字は無用である。「不安を生き抜く勇気も幸福」などと、誰に語っても理解を得ない。

    実践する自分が分かっていればいいことだ。「幸福を求めれば幸福は遠のくばかり」という言葉を見たとき、「なぜか?」ちう疑問よりも、幸福というのは無心のうちに宿るものだと理解した。他人に対する親切や善意が無心でなされるようにである。それらと同じものだと理解した。したがって、「幸福」が何か分からないが、それも含めて、「無心」と理解する。

    宗教や信仰の本質的な意味を賢人の言葉から理解すれば、多くの人間たちの宗教的動機は、人間の病であるとか、苦悩であるとか、罪であるとか、あるいは欲であったりと、そういうものと結びついている。キリストの愛とはそういうものに答えるのだろうか?キリスト教のことは理解を得ぬが、仏陀の教えはそういうものではないが、仏教も様々にアレンジされている。

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    釈迦の仏教、道元の仏教、日蓮の仏教、親鸞の仏教、それが正しいとかではなく、それぞれを真に解釈するのは面倒臭い。自分は、「めんどう」を禁句にするが、無用と定めたものには多用する。有用で大切なことを、「めんどう」と避けないことを命じている。多大な価値観が充満する世の中において、真と贋は必然で、正しい答えを見つければ試験も100点。

    正しい手を指せば小学生でも将棋の名人になれる。それが分からないから人間は努力し研鑽する。同じように、ある宗教がインチキである可能性はある。インチキとは、宗教の名を借りて、人間の弱い心を弄ぶこと。怪しげな祈祷を試み、金品を絞りとるような宗教は邪教である。それでも苦しいときに即効薬を求める人間だから、邪教も邪教なりに流行する。

    即効薬がなければ困るからだ。「慌てる乞食はなんとか…」でいいことにはならない。信仰に安寧がある以上危険もある。宗教も長く携われば「惰性」の部分も出てこよう。さらには、「軽信」というのも危険の要素である。深く思考せず、疑うべきはとことん疑うべきなのに、軽々しく同意して入信する。そうした軽信以上にもっとも危険とされるのは、「狂信」である。

    自分の信じる宗教こそ唯一絶対のもので、それ以外はすべて邪教と非難し攻撃する。さらには自分の信仰を他人に押し付ける態度ほど迷惑はない。自分はその手の宗教者を速攻に拒否をするので迷惑と感じる間もない。熱心なのはいい事だが、狂信が最悪なのは、独善的、傲慢、他人に対する非礼、これは宗教者のみならず、狂信者に通じる非人間態度である。

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    傲慢で非礼な人間は会話をせずとも文章に現れる。ブログをやればときにそうした人間の来場もあるが、その手の類をあしらうのも大事で、非礼には非礼で返して丁度よい。「誰とも仲良くしよう」は幼稚園の標語であって、嫌な人間とは付き合わぬ方がよい。斯くの人間は嫌われ者との自覚もあっって、自分に遜るめぼしき相手を拠り所に生きているのが多い。

    独善、傲慢、非礼は人間関係の三悪であるから関係を結ばぬ方が明晰だ。人間である限り互いに争うことがある。個性が鮮やかであればあるほど顕著となるが、それでもいい。納得できぬものはたとえ世から尊敬を得た権威者であっても追究するのがいい。追従ばかりではなく人間が真の協和を望むなら、「和して同ぜず」というおもねぬ心を育むべきかと。

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    「女の子を選挙で競わせ、順位をつけて面白がったりで起こり得ること」。

    たったの30字で言い表せる。加害者・被害者・メンバーの教唆・管理者の責任などはすべて枝葉末節であって、「いつまでこんなことをやり続けるのか」である。誰が悪いかれが悪いなどをいってみたところで事件の本質ではないし、こうしたことが起こり得る土壌を野放しにする前に、女の中に潜む「老醜」を甘くみるなである。「老醜」とは言わずもがな読んで字の如くである。

    高齢になると、「老醜現象」という厄介な症候群が出てくる。 つまり、高齢者になると若いころには見られなかった、さまざまな傾向が目立つようになるのは自然なことだから、高齢者を見下すことになるとか、老人差別のニュアンスがあるため、あまり取り上げられない。例えば特異な臭いを放つ、「加齢臭」や、「歯周病」などをはじめとする厄介な老齢現象である。

    イメージ 1加齢によるこうした「現象」を、「老醜現象」といわず、「老化現象」といえばトーンダウンにはなるが、「老醜」であることは紛れもない事実。どんな人間でも年はとり、最後は死ぬのは明白だが、とかく若い時や元気のいいころには、この当たり前の事実を忘れがちになる。前途は長いし、「明日」に期待はするが、明日というのは実は今日と同じ空虚なものである。

    「老醜現象」は厳密にいえば差別用語かも知れない。が、あえて、「女のなかの老醜」としたのは、NGT暴行事件の根底にあるものを様々思考するに、女の老醜という問題を避けることはできない。「女は男にとって千古の謎」と書いたが、すねたり、ふくれたりなどの女性特有の感情は、「かわいく」映るものでもあるが、度を超すことは問題となる。

    適度の酒量は健康にも良いというが、なにごとも度を超すのはよくないのは分かり切ったこと。競馬やボートやパチンコのような容認された公営ギャンブルですら、世知辛い世を人がストレスを発散するための必要悪として認められている。ソープだって売春と何ら変わりないが、法で禁止された、「管理売春」にあらず、個室内における客と女の自由恋愛とされている。

    そこでは恋愛など発生していないのは衆目の一致だが、法の網とはそういうものだ。「女は男の謎」といったが、女自身が女について語ったものを目にすれば謎はとけるのか?瀬戸内寂聴や佐藤愛子が、「女は嫉妬深いよ、怖いですよ」といったところで、理解はすれども謎が解けることはない。謎とは現象の説明ではなく、「なぜそうなのか?」の解明が必要だ。

    昔から、「男の名誉心」、「女の虚栄心」などという。どっちもどっち、五十歩百歩であろう。これらに正しい注釈をすれば、「名誉に値する者、つまり正しい意味で自負に足る自己を持った者のみが名誉心を持つことができる」。一方で、「虚栄心」とは、「誇るべき自己のないものに誇るもの」を現すが、浅はかなる人間は、"ないものねだり"を要求してやまない。

    どちらも度を越さない限りは悪いものとは思わない。男の名誉心が果敢な挑戦を生むし、女に虚栄心があるから綺麗でいる努力を怠らない。虚栄心を捨てた女、恥も外聞も捨て去った女は、醜いもののかたまりといえるだろう。天地真理という歌手がいた。彼女は白雪姫と称され、国民的アイドルであった。そんな彼女の近影は全く別人で多くのファンを嘆かせてしまった。


    貞淑でもない女が貞淑であると誉められたいばかりに貞淑の振舞をする。これを虚栄という。女の実体を知る女は、「いい子ぶる」女を腹に据えかねターゲットとする。確かに女は強い虚栄心をもつが、それは女が、自分自身のことを終始気にせずにはいられないことを意味する。男に虚栄心が薄いのは、鏡を見ない日が幾日あっても平気でいられることからも分かろう。

    女の嫉妬は男以上に女性から多く発せられる。男から見て別段、嫉妬と思えないニュアンスでさえ、女が見れば嫉妬なのだと。女に嫉妬心が強いのは虚栄心の強さに比例するからで、「嫉妬は愛情の裏返し」というのは、正しくもあり正しくもない。確実に言えることは、「嫉妬」は愛情のバロメータでないということ。「嫉妬」はむしろ憎しみに属する心情である。

    ヒステリーとは一つの刺激に対する過剰反応であるが、嫉妬という刺激はどのように発生するか。一例をあげると、夫の洋服のポケットから、飲み屋のママの伝聞が書かれた紙きれが見つかったとする。「今度のゴルフがんばってね」などと他愛ない言葉であれ、この刺激に妻はメラメラと嫉妬の反応を示す。夫に比はない。ママが勝手にポケットに入れたもの。

    事情を知らない妻の妄想が立ち上がり黙っていられなくなる。「なによこの手紙!」と、いきなりの口撃にしどろもどろの夫が想像に浮かぶ。「好きよ」、「愛してる」という文言ではないが、愛の予感を妻が感じるのは仕方あるまい。夫が手紙に気づけばゴミ箱いきだったが、気づかないとこういうことになる。が、見つけても事を荒立てず、知らんふりをする妻もいる。

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    が、刺激に過敏反応するヒステリー気質の妻の嫉妬は最大限に作用する。それにヒポコンデリーが加わると、哀れな夫が想像できる。「ヒポコンデリー」とは憂鬱症、心気症と解されるが、ちょっとしたことをあれこれと妄想拡大するノイローゼの一種で、クヨクヨと自身の内面ばかりを考える人など、内気で内向的な性格所有者がかかりやすい症例である。

    ヒポコンデリーは一つの観念に明け暮れし、つきまとうので、この観念の中身が嫉妬であった場合、こういう妻を持った夫は悲劇である。嫉妬は無限地獄であることが美しい。憎い相手や恋敵を人に頼んで抹殺する、痛めつけるなどの事例は古風な手段で最近はほとんど見ないが、今回、NGT暴行事件にその可能性があるとするなら、改善すべき多くの問題がある。

    そもそも、同じグループ内の女の子の人気度を選挙で競わせるという手法は、外野にとっては高みの見物で面白いだろうが、女の子個々の心情を察すればおだやかでいれるはずがない。気に食わない同僚を人を雇って痛めつけたい心情は、会社内でもあるように、人気商売ならなおさら強まる。これがエスカレートした場合、傷害事件に発展する可能性も捨てきれない。

    選挙という形で露骨に人気度を競い合わせ、煽ったあげくに、「グループ内では仲良くするように」というのは、女性にとって無理があろうし、商業主義による商品の利用法に耐えるしかない。彼女たちが好きでやっているとはいうものの、実際問題は嫉妬のうごめく世界であり、箍が外れてしまえば悲惨なこともあり得よう。責任をとらない責任者の存在が現代の風潮である。

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    確かに、「老醜」という言葉は老人や高齢者の存在を卑しめるものかも知れないが、人間が年をとることで卑屈になったり、変に欲張りになったりは心の醜さである。そういう老人は家族からも嫌がられ、「うちの婆さん、早く死んでくれんか」などと陰口を聞かれる場合もある。しかし、老醜というのは老人だけとは限らない。若くて醜い心を持つものは当たり前にいる。

    「若醜」という言葉はないが、人間としての醜さというのは老若男女を問わず存在する。長谷川町子の『いじわるばあさん』は意地悪といっても他愛ないもので、ユニークで心地よさすら感じられる。比べて丹羽文雄の『厭がらせの年齢』の主人公うめは86歳の老婆であるが、女性の中に潜んでいる、「厭がらせ」の性質を丹羽は生母をモデルに見事に描いている。

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    すぐれた小説には私小説的なものが多いと感じるのは自分だけだろうか。丹羽がこの小説で語ろうとしているのは必ずしも高齢者のことではなく、女性の性格の中で積もり積もったなんともいえない、「いやなもの」をぎりぎりの形で表現しようとしている。作品に見る老婆の最大の特徴は、「あてつけ」で、これはさんざん自分の母から体験させられたことでもある。

    嫁の作った料理にいちゃもんをつける姑は少なくはないが、嫁に対する高圧的な口の利き方こそが問題だ。「昨日から体調が悪いのを知ってて、何で揚げ物なわけ?こんなの胸が焼けて食べられますか!」など相手を慮らぬ口の利き方は、男なら絶対にないヒドイ物言いである。「なぜに姑は嫁にこうした物言いができるのか?」男には理解出来ぬ女性の謎である。

    当てつけでないのに、「なんでそんなあてつけをいうの?」と決めつける女がいる。そんなつもりはないから腹が立つが、女同士の世界観を男に向けるのは間違っている。姑には遠慮せずに、「文句があるなら、自分が食べたいものを自分で作ったらどうです!」といえないまでも、「食べたいものを言ってくだされば材料を買っておきます」くらいは言うべき。

    「あてつけ」や、「いやみ」を嫌う自分だから、ひとに言ったりすることもないが、「それっていやみ?」、「あてつけでしょう?」と返す女は結構いる。「何をいってるんだこいつは!」と腹が立つ前に、「よくもまあそんな発想ができるものか」と感心することもある。男同士の付き合いで、「いやみ」や、「あてつけ」らしき陰険な言い方は、皆無とはいわぬがあまりない。

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    さらに滑稽なのは女が、「いやみ・あてつけ」気分で言ったときに、男がそのように受け取らない場合、「男って鈍感よね~」など言ったりするのがいる。これは、「いやみ・あてつけ」でいってるんだから気づきなさいということで、実際、そんな風にいわれたことがある。「鈍感」といわれようと自分が所有しない引き出しに気づくわけがない。さすがにこの時は性悪女と引いた。

    男がそうであるように女は女同士で分かり得る。だから、「いやみ・あてつけ」にも敏感なのだ。そういう回りくどさを好まぬ男はバッサリいう。「お前、オレのこと嫌いじゃないか?」なども躊躇わずにいう。言葉は正しく正直に用いれば、これほど便利に伝わるものはない。丹羽は母へのやりきれない思いを、残酷なほどの筆で冷静に描くが、これも男の率直さであろう。

    陰口たたくなら直接いうのが分かりやすい態度で、こうした人間関係を基軸にする外国人は、言葉を上手く生かせている。聖書の冒頭、「初めに言葉があった」は、まさにこの事を差しているようだ。それにしても日本人の、「ひがみ根性」はなぜに生まれるのだろう。僻む奴について、彼がなぜ僻むかを考えたことがあるが、そういう心理はネットで検索可能な時代。

    「僻む」とは何であろうか?僻むとは、物事を悪い方に歪めて考える。そのことで認知の歪みを自ら起こすのだ。「僻む人の心理6つ|僻む人には理由がある」として以下の6点が指摘されていた。①他人との境界線があいまい、②うらやましく思う、③他人の不幸が蜜の味になる、④他人の幸せが苦い味になる、⑤他人を認めたくない、⑥自分に自信がない。

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    自分の考えと同意もあるがそぐわぬ点もある。手っ取り早くいえば、僻む奴は他人が褒められることが面白くない。だからか他人を誉めることもしない。なぜか?それは⑤や⑥に当てはまる。これらに加えて、「人は人、自分は自分」というのが自分の考えである。自分が僻んだりしないのは、人を誉めることは嫌じゃないどころか、相手を喜ばすのは好きだからだろう。

    「うちの息子は優秀なんだよ。東京の〇〇会社に勤めている」などという親には、「そりゃすごいね。優秀だね」と返すが、だからといって誉めているわけじゃない。「息子は優秀」といいう親に同意してるだけで、優良企業に勤めることが優秀という判断を自分は持たないが、「何が人を優秀とするか」と論議をする場ではないし、それが不断の人間関係というものだ。

    何かを僻む人間というのは何事にも卑屈になりやすい。他人が自慢をするなら手を叩いてあげればいいのだが、顔では繕っても素直に誉められないから僻むことになる。やはり、「他人の不幸は蜜の味」なのだろう。とりあえず僻む自分を直したいと思うなら、僻む自分をその都度攻撃することだ。自分の嫌な部分を徹底攻撃するのが、自分をよくする方法である。

    男にもいるが、僻み根性を持った女性が多いのは、他人と自分の比較に敏感だからだろうか。とにかく、他人の服装や容姿やなどが気になるのは女性特有の性向だろう。「僻み根性」が進むと他人のことに「ケチをつける」のが常習になる。それがハッキリ言えない時に、「あてつけ」や、「いやみ」となるのだろう。早い時期に気づかぬと、物事はどんどん悪い方に進んでいく。

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    だから自分に向き合い、自分の嫌な点を直そう、修正せんと努める。「人間としての自分を高めたい」がが難しいのなら、せめて嫌な自分にだけはならない。そのためには自分の嫌な点を正直に認めて排除にかかる。それには嫌な自分をどれだけ嫌いになれるかにかかっている。自分が他人なら自分のような人間とは付き合いたくない、そんな自分であった。

    「自分に好かれる自分になろう」を目指すしかない。それはいくつになっても続くものだが、決して立派な人間など目指してなんかいない。自分に愛される自分であればそれでいい。このように考え、実行力さえあれば、道は遠くとも嫌な自分に決別できるようになる。嫌な他人を嫌ってみても、他人は直してはくれないが、自分の嫌なところは必ず直すことは可能である。

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    NGT暴行事件問題に言及する気はないが、この問題を契機に、「若さのなかに巣食う老醜」について考えさせられた。若者の中にある老醜についてはいくつか思い浮かぶが、「小姑」というのはその典型か?姑は夫の母をいい、小姑とは夫や妻の姉妹のこと。誰が言い出したのか小姑なる言葉。「何を小姑みたいなことをいってるんだ」とは普通にいうだろう。

    姑はいつもやり玉にあげられるが、「小姑根性」というのは、それよりさらにたちが悪い。兄のところに嫁いできた嫁に対し、ケチをつけたり、当てつけをいったり、いびったりは女の性分か?家庭に限らず、職場内の先輩後輩の中にもみられる現象である。これらは年齢に関係なく、「老醜」であろうし、とどのつまりは丹羽の小説のうめのようになる。

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    「誰もかれもうめ女の類似を、わが肉体の上に予約されているのだ。いつか肉親に迷惑がられる宿命を持っている。そして、老人ホームという理想的な社会的施設が実現されない以上、日本の家族制度は十年一日の如く、浅はかな見栄坊と、感傷と、矛盾と、無理の多い、誤算の凡俗な暮らしを続けていくのであろう」。丹羽は作品の中でこのように記している。

    昭和22年の著作だが発表当時は大変な話題になり、「厭がらせの年齢」は流行語にもなったという。『親の面倒は子の家族がみるもの』という日本的なしきたりに問題意識と苦言を呈す丹羽の達観は、こんにちの社会の到来を予感させるもの。どの家庭においても、年寄は程度の差こそあれ、うめに似た運命におかれることになる。それを解消する老人ホームである。

    「肉親でさえ分裂をきたすこともある」と、丹羽の真意はたとえ姉妹であっても、それぞれが結婚して年をとるとまるで他人であるかのように、利己的になるものであるのをそれとなく描いている。肉親であろうが何であろうが、まずは自分の都合本位というのは無神経なのだろうか?遠慮したり、思いやりを持っては生きにくく、図々しさはそうした中から生まれ出る。

    「女は弱い」というのは嘘であろう。年齢や性格や社会体験の未熟さを、「弱さ」というなら、子どもはすべて弱者である。さて、世の中で強いものは何か?真っ先に浮かぶのは無神経。これほど強いものはなかろう。歩道の真ん中やスーパーの通路で立ち話のおばさんたち。歩行者の邪魔になることにすら気づかぬ無神経さにはほとほと呆れてしまう。

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    どういう神経回路をもっているのか、同じ類の人間とはとても思えない。太宰の短編に『男女同権』というのがある。妻の無神経さ、図々しにさんざん痛めつけられ弄ばれた夫が、戦後「男女同権」ということになって、初めて男としての自己の権利を得た男が女の悪口をさんざん言いまくるという小説である。太宰のナイーブさ、気の弱さが書かせたものであろう。

    「それでまあ、日本でもいよいよこの民主主義という事になりますそうで、おめでたい事と存じていますが、この民主主義のおかげで、男女同権!これ、これが、私の最も関心を有し、かつ久しく待ち望んでいたところのものでございまして、もうこれからは私も誰はばかるところなく、男性の権利を女性に対して主張する事が出来るのかと思えば、まことに夜の明けたる如き心地が致しまして、おのずから微笑のわき出るのを禁じ得ないのでございます。実に、私は今まで女性というもののために、ひどいめにばかり逢って来たのでございます。」

    男が強かった時代にあっても、男の性分によっては強い女がいなかったわけではないが、ざっと見渡して昨今の女が強いといわれる時代においても、巌とした強い亭主もいる。「レディ・ファースト」の考えがなぜに起こったかを聞いたことがある。女性はこういう風に奉っておかないと、「ねたむ」、「ひがむ」、「いやみ」をいって始末におけないからだという。

    人間の「心の中」ほど分からぬものはない。それは妄想の巣だ。何でもない表情を繕っていても心の中には般若がいる。全日本女子バレーの代表選手が明かした内情に思わず笑ってしまった。「選手同士、仲がいいなんてないです。スパイクを打つ時に嫌な子のブロックには、指の骨が折れることを願って打ちますから…」。いやはや怖ろしい女の世界である。

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    嫉妬というのは、相手の消滅を願う殺意に似た心理である。人間は心の中で相手を犯したり、殺したり、罵倒したりは日常である。にもかかかわらず、何食わぬ顔をし、紳士らしく、淑女らしく振舞っている。以前、キリスト信者と激論したことを思い出す。聖書の中の有名な一句、「色情を抱いて女をみるものは、心のうち、すでに姦淫せるなり…」についてだ。

    姦淫は罪である。が、キリスト曰く、実際に犯したときだけが罪ではなく、心の中で色情を抱いて女をみたら、それは罪だという。キリスト信者も同じことをいう。「バカをいうな!そんなのが罪というなら、キリスト信者はどんだけ偽善者だ?」といえば、「偽善者ではない」と否定する。彼らは偽善者であるを否定する以前に、偽善者であることに気づいていない。

    心の中でお金が欲しいと思うだけで罪か?実際に盗みをするから罪だろ?「心で思えば罪」は観念操作である。宗教とは観念の支配であって、これは怖ろしいことだ。なぜなら、観念までも支配してしまおうとする宗教に追い立てられた人間は、宗教的戒律に対する抵抗感から自己矛盾をきたすことになるだろう。誰が上記の聖書の言葉を実行できるだろう。

    一時的な戒律を厳しく守った僧や修行者はいるにはいるが、同時に破戒に陥った僧や修行者がどれほどいただろう。平生においてあまりに真面目な仕事に携わっている人ほど、とんでもない事件を起こしたりする。そうした人たちに「魔がさす」というのは恰好の言葉であろう。低階層の人が痴漢などを起こした場合に比べて、エグゼクティブほど「魔がさした」が似合う。

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    人間の行動に、「魔がさす」なんてあり得るのか?誰が行おうとも、「万引きは万引き」、「痴漢は痴漢」である。そんな言葉で誤魔化すなといいたい。自身の行為に責任を持つなら、「魔がさす」などは所詮は戯言、こんな言葉を自分は認めない。宗教に批判的な理由として、宗教の戒律は人間を偽善者に誘う。人の前でだけ道徳ぶって陰で何をやっているのやら…

    と、これまで述べたことだけをとっても、人間がいかに矛盾したものであるかがわかろう。宗教的道徳的戒律を一方で求めながら、他方では性の美しさと快楽の誘惑に抗えない。心の中で美女を姦淫しながら、想像だけにとどめておくのが人間的成就である。心でする姦淫すら罪であるとの戒律を守らせんとの神の思し召しと人間観には間違いなく乖離が起こる。

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  • 01/16/19--07:05: 広島・呉・阿賀

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    役所浩司主演の映画『孤狼の血』が公開されたのが2018年5月12日。もう8か月も前だが、そろそろWOWOWでやるんじゃないかと待ちわびている。DVDレンタルはされているが、レンタル店は2年くらいご無沙汰である。以前は月イチは欠かさなかったのに。やはりテレビ離れのせいだろう。最近テレビがついているだけで騒々しく感じられるようになった。

    以前は(といっても5年、10年くらい前か)は、観なくてもテレビがつけているのが普通の日常だったことを思えば、静かに暮らしたいということだろう。それと目が悪くなった(にもかかわらずメガネ嫌い)から、観ようとするだけで疲れることもある。50インチとはいうものの、慣れればデカさは感じない。もうテレビは必要ないんじゃないかと思うこの頃だ。

    ニュースは圧倒的にネットが迅速で、将棋の中継や番組もネットの頻度が高い。となるとテレビで何を観るか、どんな番組を観たいか、となると浮かばない。『スター・ウォーズ』も『エイリアン』も『ターミネータ』もビデオに撮って何度も観た。『仁義なき戦い』も『ゴッド・ファーザー』もDVDを買って何度も観たし、この映画は自分にとってのナンバーワン作品と思っている。

    第一作は1972年というから、47年も前なのかと改めて驚く。あれから47歳も年を取ったのかという驚きである。2年後にpartⅡが公開されたが、これまた第一作を凌ぐ感動があった。若きデ・ニーロのヴィトー・コルレオーネ役がニヒルで素晴らしかったが、当時無名だったデ・ニーロは、第一作でソニー・コルレオーネ役のオーディションを受けていたという。

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    最終的に起用されることはなかったが、コッポラはデ・ニーロの演技力を心に留めていた。その後スコセッシ監督作品の『ミーン・ストリート』のデ・ニーロを見たコッポラは、彼こそヴィトーの青年期を演じるのに相応しい人物と確信したという。その判断は間違ってはなく、デ・ニーロはヴィトの演技を絶賛され、アカデミー助演男優賞を受賞している。

    PARTⅢは第二作公開後16年を経ての公開だ。「ゴッドファーザーがこんなゴミ映画で終わるのか!」。批評は芳しくなかった第三作だが、コッポラの娘ソフィアの演技が不評だったこともあげられる。過去に交際していたアル・パチーノとダイアン・キートンの共演は話題にすらなったが、不評・不評のなかにあって、自分的はそれほど悪い作品と感じなかった。

    1919年1月8日に設立された米国映画撮影監督協会はその100周年を記念し、20世紀の映画撮影の業績を讃え、メンバーの投票により100本の映画のリストを発表した。1位に輝いたのはデヴィッド・リーン監督『アラビアのロレンス』(1962)で、『ゴッドファーザー』は第5位にランクされた。コッポラは第三位『地獄の黙示録』に続いてのベストテン入りだ。

    さて、日本のヤクザ映画はマフィアに比べて陳腐感が否めない。『ゴッドファーザー』を観た後、相当の日数を経ないと『仁義なき戦い』は茶番で観れない。というのも、ここの映画は真面目なヤクザ映画というより、喜劇のニュアンスが盛り込まれているからだ。が、広島人としては方言が堪能できるし、その意味で親近感が湧くが主演の菅原文太の広島弁だけは…

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    「こらえてつかーさい」である。広島弁の秀逸な役者の順位を独断でつけると以下のようになる。②内田朝雄、金子信雄、③松方弘樹、④北大路欣也、千葉真一、⑤田中邦衛、梅宮辰夫、小林旭、宍戸錠、⑥菅原文太、⑦小池朝雄、⑧山城新伍と、有名俳優のみの順位であるが、第一位は文句なく金子信雄の女房役の木村俊恵。彼女は広島出身者かと思った。

    東京の大田区生まれである。他のどの役者よりもシッカリと方言を勉強したと見受けられる。「金子信雄演じる山守親分の女房役は、今も語り継がれている」(Wikipedia)と記されているくらいだから、誰もがちゃんと見てるということだろう。当時のプロデューサーで東映社長だった岡田茂が広島県賀茂郡西条町出身で、広島弁にはうるさかったようだ。


    第四部「頂上作戦」(1974年1月公開)のワンシーンだが、こういうしっかり女房にかかればヤクザの親分もたじたじである。木村は同映画公開の4か月後の5月、舞台に出演中過敏性腸カタルで倒れ、以前から同棲中の中谷一郎と結婚式を挙げる予定日だった、7月26日に急性心不全で死去。39歳という若さであったし、晴れて花嫁衣裳を着ることも叶わなかった。

    『孤狼の血』も『仁義なき戦い』と同じ広島と呉、呉の西にある阿賀という小さな漁師町が昔からヤクザ抗争の中心地で、阿賀町冠崎出身の友人がいろいろヤクザの話を聞かせてくれた。阿賀の土岡組は『仁義なき戦い』第一部の土井組のことで、土岡組は阿賀町の事業家・海生逸一から、海生逸一の経営する映画館や劇場の不良を押さえる用心棒を依頼されていた。

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    その土岡組には"悪魔のキューピー"と恐れられた大西政寛がいた。『仁義なき戦い』は呉・山村組と阿賀・土岡組、広~阿賀が勢力圏の小原一家の抗争から始まるが、映画は小原一家の親分が土岡組の大西に片腕を落とされるシーンから始まる。土岡組と小原一家は同じ阿賀町内で小競り合いの中、剛毅一徹の阿賀者といわれたがゆえに土岡組長は山村組の凶弾に斃る。

    それを機に場は呉・阿賀から広島の岡組、村上組へと広がっていく。『孤狼の血』の時代設定は昭和63年、暴対法成立直前の広島の架空都市・呉原を舞台にしたヤクザと警察の戦いである。広島、呉、阿賀のロケマップがネットに紹介されている。呉に郷原という町があるが、呉原よりは呉でよかったのでは?自分は呉・阿賀・広に友人がいるので何度か行った。

    実家が海岸通りの酒店(現在はコンビニ)だった田中ルミ子嬢は、呉・三津田高校卒業後にビクターから歌手デビュー、自作曲アルバムを一枚出した後にミュージックスクールで、作曲技法の選任講師となる。阿賀の友人は、高卒後に呉市中通りの中山楽器店に就職。広の友人は大学卒業後広島・堀川町カワイショップの店長を長く勤めた後に浜松本社勤務となる。

    ピアノに縁があったこともあって、なぜか音楽関係の友人多し。当ブログ内にも広島人はいるだろうか?おそらくいるだろう。ならば阿賀の大谷川、呉の中通り、広島のカワイショップというローカルチックな名前に、"キュン"となるかも知れん。ふるさとから遠く離れた地に住む人もいようし、そうした人は、ちょっぴり里ごころがつく記事かもしれない。

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    「日本映画がつまらないのは大根役者とダメ脚本」といわれている。「ダメ脚本」はともかくとして大根役者もいい得ている。「大根役者」の出所は多説ある。①大根が白いことから素人とかける説。②大根は滅多なことで食あたりしないことで、「当たらない役者」を意味する。役者をその配役から外すことを、「おろす」といい、「おろす」といえば大根おろしなどあるが真説は謎。

    世界的名作の誉れ高き『ゴッドファーザー』と、『仁義なき戦い』を比べるのもどうかと思うが、比べてみれば確かに月とスッポンほどの違いがある。もっとも、二十世紀の全作品から監督たちが選ぶ映画の第五位にランクされる『ゴッドファーザー』であるならやむを得ない。世界的に見れば駄作であっても、日本人にとって『仁義なき戦い』は面白い映画として人気がある。

    ちなみに、キネマ旬報が2009年(平成21年)に実施した≪日本映画史上ベストテン≫「オールタイム・ベスト映画遺産200 (日本映画編)」で、『仁義なき戦い』を歴代第5位に選出した。制作した東映のスタッフ、プロデューサーの日下部五朗は語る。「飯干(晃一)さんからこの手記(美能幸三の獄中手記) をもとに雑誌連載するけど、映画にできないかといわれた。

    上層部に聞いてみたところ、岡田茂社長は、『絶対にやれ』といわれ、すぐに美能氏に会いに呉に行きましたが、『映画なんてとんでもない』と会ってくれないし、とにかく何をいってもダメでした」。日下部に変わって呉に出向いたのが脚本家の笠原和夫氏だ。美能と笠原はともに軍隊経験があり、その話で意気投合し、ついに美能から映画化の了解をとる。

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    映画は大ヒットし、笠原が脚本を担当した第四作までの数字をいえば、観客動員数二百万人、興行収入二十五億円と、当時としてはものすごい数字であった。プロデューサーの日下部はいう。「笠原なくしてこの映画はない」。笠原の妻は、「書き始める前に軍艦マーチをかけるんですよ」。笠原と美能は奇遇なことに同じ広島の大竹海兵団に所属していた。

    確かに凄まじいほどのセリフを笠原は生み出した。第一部でもっとも印象的な、「神輿が勝手に歩けるいうんなら、歩いてみいや、おう!」と、これは松方弘樹の爆裂啖呵である。目上の者や親分さんを奉じる際に、「神輿を担ぐ」という言い方をするが、「神輿が勝手に歩けるなら歩いてみろ!」というのはなかなか浮かばない。軍艦マーチの効果だろうか?

    1973年(昭和48年)1月13日、正月映画第2弾として公開された『仁義なき戦い』は、ヤクザ映画でありながらこれまでの虚構性の強い、義理人情に厚い任侠道を歩むヒーローを描くといった仁侠映画とはまるで違っていた。様式美をまったく無視し、殺伐とした暴力描写を展開させた点、ヤクザを現実的に暴力団という視点で捉えた新しいヤクザ映画であった。

    そのような新しさが生まれた背景には、実際に暴力団員だった美能幸三の獄中手記⇒実話小説⇒脚本⇒映画という道筋が、実在ヤクザの抗争を実録路線として、リアリティを表現させることになった本作は実録物の先駆けとなった。登場するヤクザたちは金にがめつく、弱者に強い社会悪としての姿がヤクザを美化することなく、それらが庶民に親近感を抱かせた。

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           それにしても当事者である美能幸三は、この映画をどんな気持ちで見たんじゃろか…?


    新しいものが生まれる背景には必ずといっていいほど新しい手法が存在するようだ。『仁義なき戦い』は、ヤクザを主人公にするが、優れた群集活劇でもあり、暗黒社会の一戦後史でもあり、青春映画であり、自己啓発としての側面もあるが、基本は娯楽映画であるため、登場人物に感情移入させるためにもヤクザを魅力的な存在であるかのように描いている。

    その点は、「犯罪者を美化するのか!」という批判もつきまとうことになる。しかし、そうした批判をあらかじめ予測しているかのような、笠原によるヤクザを茶化したような喜劇的薬味が本作品の魅力を増大させている。金子信雄演ずる山守親分などは、「本当にこんなヤクザの親分がいるのか?」と思わせるくらいの、まさにそこらにいる普通のおっちゃんである。

    それどころか、人間のクズにさえ感じられた。金子信雄の演技は実在の山村辰雄親分を大幅にデフォルメさせて歪めている。その証拠に試写を観た脚本家の笠原は、「あんな親分などいるはずがない」と一刀両断している。笠原の綿密な取材と探求心が積み上げたれた彼なりの肌で感じたヤクザ社会からすれば、金子の露骨でオーバーな演技は許しがたかったという。

    ところがそれが観客に受けたのだから、映画というものは分からない。作り手の意志をまったく離れたものが受けるというそのことに、笠原の思いはいかばかりであろうか。そのことは音楽シーンにも頻繁に起こること。例えばレコード盤のA面は音楽的にも秀逸でヒットも間違いないと踏んだものを充てるが、それよりも作品的質の落ちるB面がヒットをする。

            山守のクチャイ芝居はともかく、木村俊恵の広島弁の見事さには自分でもカナワンわ


    決して珍しいことではない。確かに山村親分には冴えた権謀術数や、老獪極まる立居振舞な要素は多分にあるが、金子演じる山守親分のオーバーアクションが現実の山村親分にスライドし、虚構の姿がそのまま定着した感がある。しかし、当時の組員や多くの証言からは、「多少の誇張はあるにせよ、山村という人はああいう人だった」というのはあちこちに書かれている。

    山村の性格上の特性として挙げられる人心収攬(しゅうらん)の上手さ巧みさは、人を操るためには心にもない言葉を用いておだて、なだめすかし、金の力で懐柔し、果てはウソ泣きまでして落とす。そうした表情を目立たせるためか、山村は眉ズミを使用しているが、ウソ泣きしたあとスミが流れて顔が黒くなるため、コンパクトを携帯し、化粧直しに余念がなかった。

    まさに役者である。こうした真実を知るに金子のオーバーな演技はあながち嘘ということでもない。証言者の一人として四代目共政会最高顧問で小原一家総長の門広はこのようにいう。山村親分が業を煮やしていた山村組若頭の佐々木哲彦を襲撃・殺害したのは門一派の三宅、平本だった。「三宅も平本もしっかりしちょった。警察でもワシのことは一言も喋っとらん」。

    と門はいう。佐々木がこの世から消えたことをことのほか喜んだ山村は、殺害を指示した門を広島に呼び寄せ、手を握っていった。「ようやってくれた、しんぱいかけたのう、すまんのう」。そして、「『ワシは一生門らの面倒を見るけん』というてくれたがその後がいかんわ。『ところで門よお、警察に出頭してくれんじゃろうか。大した罪にはならんけん。

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    犯人隠匿じゃから、半年、いや三か月で出してやるけん頼むわ』といったが、なんのことはない、自分の身が汚れるのを怖れちょったんじゃろう。広島に競艇場を買う予定じゃった山村さんは、『ほいじゃけん、その売上の何割かをお前のために貯金しとくけん』というてた。山村親分はええ人じゃなあ思うて感謝もしたが、すべて人を動かすための空手形よ。

    そういえば、佐々木を殺る少し前、刑務所からでてきた美能さんはワシにいういうた。『山村に騙されるな』。ワシは美能さんもおかしなことをいいよるなと半信半疑じゃった。じゃけど、美能さんのいう通りじゃった。山村さんはワシらの裁判費用こそ出してくれたが、三か月どころか二十年の懲役よ。ワシに積み立ててくれた貯金?そんなものはありゃあせん。」

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  • 01/18/19--16:05: 真面目の考察

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    NGT事件の余波のなか、【NGT襲撃事件で考える 女性芸能人の『真面目』さとつらさ】と題する以下の記事が目についた。以下引用する。「真面目だね、というのは褒め言葉だろうか。社会に出れば言外の意味を感じることもある。個人的な話で恐縮だが、マスコミや広告業界で働いていると、それは『つまらない奴』、『考えすぎ』、『堅苦しいね』の婉曲表現としてぶつけられることも多い。

    そんな時、恥ずかしさと哀しみが両方こみ上げるような、言いようのない気持ちになるものだ。さて、なんで真面目にやってる子が守られないの、というつぶやきを残していたNGT48の山口真帆。これを書いている段階では、例の襲撃事件の真相はまだ明らかになっていない。支配人が更迭となり、第三者委員会が立ち上げられるという決定が発表されたのみだ。

    しかし、様々な疑惑や運営側への批判は論じ尽くされている。ここでは彼女の「真面目さ」と芸能界の関係について考えてみたい。襲撃を受けながらも健気に活動を続け、警察にも自身が有名アイドルだと告げなかった山口。ことを荒立てて他のメンバーやグループに迷惑をかけたくないという思いと、運営側の「きちんと対応する」という口約束を信じてのことだったと言う。

    だが彼女の思ったようにことは運ばず、意を決して動画配信とツイッターで事件について公表したところようやく問題視され、運営側の対応のまずさが浮き彫りとなったのだった。頑張っていれば報われる。聞き分け良く、仕事に穴を空けないようにこなし、自分さえ我慢していれば事態は好転する。そんな真面目さを保とうとした山口。

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    しかしながら、結果として真面目でいい子であったことは、何の得にもならなかったのではないか。売れたもん勝ち。哀しいが芸能界とはそういうところであろう。私は今回の事件で初めて彼女を知ったが、乃木坂46にいそうな美人だと思った。でも、これだけ容姿端麗で、多少はメディアに出ていたのに、騒動があるまで名前さえ知らなかったのだ。

    おそらく世間の多くの人も同じではないだろうか。それは、地道に真面目に活動していた彼女からしてみれば、とても皮肉なことだと思う。AKB48グループで有名になったメンバーは、スキャンダルや炎上で名をあげた者も多い。そうしたやり口を敬遠していた山口は、やはり芯から真面目でいい子なのだろうし、芸能界で生きるには純粋すぎるのかもしれない。

    しかしながら、山口の訴えに手をこまねいていた運営の初動の遅さは確かに問題だ。その危機感の薄さを見れば、今回の騒動は起こるべくして起こったのかもしれない、と感じるのだ」 以下略。 過去においては美空ひばりは顔に塩酸をかけられ、吉永小百合は銃を持った男に自宅に踏み込まれた。岡田奈々の室内に男が侵入した事件もあった。いずれもファンの犯行である。

    彼女たちは正真正銘のアイドルとして、プロダクション側の警戒や厳重なガードがあった。AKBやNGTは秋元の片手間な発想で誕生した半分素人のまがい物アイドルである。自身の危機管理意識によるという点においても運営側のガード意識の甘さは露呈する。狂信的なファンに狙われたら命を奪われかねないといったことを、山口は指摘している。

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    それに対する運営側は何かあれば対処という構えに見受けられた。危機管理というのは、「何かが起こってからでは遅い」。そのためのものであるが、何もないことをいい事に他人事の無責任さは批判されるべし。そこは先の原発事故と似たようなもの。とにもかくにも、真面目に対処した女性が憂き目に合う一連の騒動であるが、真面目が生きづらいのは芸能界に限らない。

    学校においても職場においても、とかく人間の集団の中で真面目が揶揄されるのは当たり前に存在すること。「真面目と不真面目」という記事をここに書いた記憶が残っている。何を書いたか覚えてないが検索してみた。読んでみると、「へ~、これが自分の書いたものか?」といつもながらに思うこと。その日、その時の感性が文を書かせるのは言うまでもない。

    が、その日、その時の感性と同じ状態は二度とこない。だから、同じ表題で書いたとしても、内意は同じであっても、同じ文章は二度と書けないだろう。それもあって、別の日に別の気分で自分の文を読むと、「これ自分で書いた?」となる。人間の多面的性を象徴する事例である。書きも書いたり34段落。自らをして、「こんな長文読む気がしない」とならば、やはり長文は害悪である。

    今時、ゲーテの『ファウスト』や、志賀直哉の『暗夜行路』のような長編をじっくり読む若者がいるのだろうか?書きも書いたり前者は完成までに60年、後者は17年だがそれでも長い。自分のブログも現在の16段落基本型を、せめて10くらいまでに減らしたいと考えている。16は超えても16以内は過去にはない。なぜだろうか?几帳面に真面目に無言の意志を貫いているからだ。

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    というのはあくまで推定である。自分のことゆえに自分が分からないことは腐るほどある。人間が多面的な思いを持って生きているからだろう。カントの定時刻の散歩ではないが、自分自身の厳格さを破る自己否定感があると想像する。ブログを書き始めたころは、決めた行数も文字数も何もなかった。が、これだけはと自らに禁じたのは、文字の色付けや太さを変えること。

    どちらもセンテンス強調のためにであるが、強調箇所を太字だけはやってみた。賑やかな文字は自分的には美的感がなく、むしろ汚いと映ったし、太字強調も、"いかにも的"な感じがした。よって、それを止めた際には過去にさかのぼって、太字一切すべてを消した。書いてる内容でさえこれ見よがしな独善であるのに、強調はそれに拍車をかけると自らを戒めた。

    他人のブログは賑やかなのが多いが、内容のある文とカラフル・強調しまくりは一致しない。むしろ、何もないオーソドックスな文章であればこそ、良いものを書こうという意志が湧き上がる。他人の批判はしないが、賑やかなのは自分的には読みづらい感が増すということだ。だからか、過去に書いた、「真面目と不真面目」の記事を前にしても、再度読もうという気がしなかった。

    長いというだけで駄文に感じた。こうして自己批判を重ねながら、適宜な段落を現在の16から10くらいに落ちつけたいと、それが今年度の指針と考えている。書いてるときは自然に行数が増えていくが、後で誤字脱字の修正もしないで放置し、気の向いた時にそれをするというのもちゃらんぽらんというより、会話をするが如く一気に書き進めるというのが好きなのだろう。

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    したがって、さまざまに気を配り、注意を払いながら文を書くではなく、語りながらの気分で書いている。早いがミスも多い。キーボードは指が覚えているが、他人がキーボードを見ると一様に驚く。それはキーの白い記号や文字がほとんど消えてしまっているからで、そこは自分専用なので自分が分かればいいこと。誰にも迷惑はかけていないし、新しいのを買う必要性も感じない。