石畳の歩道ばかりを歩いていると、雑草繁る側道に出くわせば土の心地よさを体感する。伸びた雑草ものともせず、踏みつけながら歩いていたはいいが、ふと目を下にやると、なんとなんと、ひっつきもっつき(方言?)が膝から下にこびりついて密集状態。何かの種子であろうが、人に運ばせようとの魂胆で、その数や数百はあろう。で、こまめに採るのに1時間程度かかった。
今に言われたことではないが、子どもたちが外で遊ばなくなった。田んぼや野山の広大な自然の中で日が暮れるまで遊んだ少年時代を思えば、今の子どもたちは自然との共生が少ない。都会の子どもに限らず、目の前に田んぼや小川もあり、家の裏山には竹林という自然に恵まれた田舎の子どもたちさえ野山で遊ばない。時代とともに遊びの質が変わってしまった。
こんにちの遊びの主流が携帯やゲームであるのなら、今の子どもたちには遊ぶ技術の伝承というものはなくなっている。「遊びの伝承」とは、近所の原っぱに子どもの集団がいた時代にあって、そこでは大きい子から小さい子へと遊びの技術が伝承されていった。自然の中で遊ぶことで得るものは多かった。自然と自分との一体感を意識することもなく感じとって遊んでいた。
自然相手の中では一瞬一瞬の判断が求められ、失敗すると手厳しい罰が待っているどころか、ちょっと間違えば命の危険もあって、瞬時の知恵が常に求められていた。野山や川辺や海で遊ぶことは知恵の鍛錬につながったともいえる。夏になると子どもたちの水の事故を耳にするとき、昔と今の子どもには自然という場における、空間認識能力に違いがあるのでは?
と思ってしまう。空間認識能力とは、「物体の位置・方向・姿勢・大きさ・形状・間隔など、物体が三次元空間に占めている状態や関係を、すばやく正確に把握、認識する能力のこと」とある。空間認識能力はまた、視覚・聴覚などの協力で成立し、主に右脳によってコントロールされる。空間把握能力ともいい、この能力が高い人はIQも高い傾向にあるという。
つまり、ものごとの全体像をぱっと把握し、本質を見抜くことに長けているからであろう。一般的に男性のほうが空間把握能力が高いといわれ、女性に多い方向音痴は空間把握能力が低いことで起こる。何でもない川や池や海、ハゲ山の斜面といったところの危険度レベルを、瞬時に判断するのも空間認識能力であり、リーダーたるガキ大将には必須の条件だった。
今の子どもたちの遊びの空間が屋内でゲームということなら、彼らに空間認識能力が育たないのはむしろ当然である。リーダーシップを発揮する点において、空間認識能力は必須要件となるが、近年の子どもたちはそれらを身につける手段を失っている。日常の何気ない遊びの中から自然に身につくものだが、今どきの子どもはこれらを遊びの中から身につけられない。
どう転んでも今の子が自然の中で集団遊びをする機会はないだろう。人は子ども時代、青春時代にそれぞれ学ぶことはが、一つだけ、あらゆる人に共通するのは、「自分に対する自信」を学ぶことだろう。今の子どもたちもおそらく何かの形でそれを学んでいるハズだが、そうした自信というのは、ここぞという勝負どころで、自らの力を発揮できることでもある。
そのためには、その人がこれまでに自分のありったけのエネルギーを、ぶつけたことがあったかどうかにかかってくる。たとえその時、それが失敗だったとしても、「自分は思い切りやったのだ」という心の充実感はいつまでも残るだろう。その経験さえあれば、ベストを尽くすことができる。人はいきなり大きなことはできない。まずは小さなことから始めるといい。
高校の古文で習った、「先ず隗より始めよ」のそれである。二つの意味があり、①大事を始めるならその前に小さきことから始める。②事を始めるなら自ら率先してやる。故事にはよいもの、身につまされるものなどが多くあるが、嫌いな故事も少なくない。嫌いな故事の代表は、「苦しい時の神頼み」という奴。気持ちは分かるが、ムシが良すぎないか?という点に於いて嫌い。
そこらの愚者の願いを神が聞くはずもなかろうという現実思考もあるが、「神頼みをしない」というのは、無神論者としての自身の矜持でもある。たまに電車やバスで遠出をするが、目の前に入る光景にうんざりさせられるのは、多くの日本人がスマホ中毒であることだ。好きでそれをやっている人に、何もうんざりすることも無かろうが、理由はともかくうんざりする。
スマホや携帯のない時代もあった。そういう時代に乗客が何をしていたかと言えば、何もしていないか本を読んでいた。それが良くてスマホが悪いというのではなく、自身の偏見であったとしても、スマホのない時代の方が健全であったように思う。人が何をやろうが基本的にはお構いなしの自分であるが、5人のうち3人、4人までもがスマホをいじる光景は異常に思う。
眼下に座していた60代とおぼしき女性は、ゲームに熱中していた。実に楽しそうに真剣であった。多くの人たちが一斉に同じことをする光景はどこか異様だ。自分の嫌悪の矛先はどうやらそこにある。日本人の付和雷同性をこれでもかと実感させられるそのさまが異様である。金次郎は薪を背負い本を読んでいたというが、昨今は歩きスマホでの衝突事故も増えている。
アメリカハワイ州の市議会は、本年7月27日に歩きスマホを根絶する目的の条例を可決した。「Distracted Walking Law(注意散漫歩行条例)」と呼ばれるもので、これには罰金もあり、違反の回数に応じて15〜99ドル(1650円から1万円相当)が科される。電車やバスの乗客やレストランで食事客や糞を垂れる人、入浴中の湯船の中でのスマホはともかく、歩行中は止めるべきだ。
歩きながらの読書もスマホも自然なことなのか?江戸時代に三浦梅園という思想家がいた。彼は、「自然には法則が備わっている」とし、世のすべては、「陰・陽」二つの要素が絡み合って成立していると説いた。彼は、「陰陽二気」の発想から、「自然の仕組みをどう捉えるべきか」という方法論を編み出した。この手の話をする人の多くは、梅園説を述べている。
梅園は中国哲学の、「陰陽」を基軸にした。「明中、思い暗に致す。その暗を以て能く我の在る所の明を知る。暗中、思いを明に致す。その明を以て、能く我の在る所の暗を知る。これを反観という」。明るい所で暗闇について考えるなら、「暗闇は明るい世界の逆」と知る。その理解を元に、「明るい世界は何か」を考えるなら暗闇の逆となり、現状世界の理解に及ぶ。
分かり易くいうなら、「無をもって有を理解する」ということになるが、梅園は、「火と水でさえ、両者は互いが互いを支えあっている」という。なぜに、「火」と、「水」が支え合っているかは普通の解釈では理解に及ばぬが、梅園は以下のような理屈を述べている。「炭を見ればよい。炭は空気が湿っているときの方が、空気が乾いているときより、長く燃え続けられる」のだと。
確かに水に濡れた石炭は良く燃えるというが、だからといって梅園の火と水の融合は極端である。後人は梅園の思想にあきらかにタオイズムを見るが、彼は中国哲学の、「陰陽」と自説は異なると躍起になっていた。要は、「目の前の事実を深く観察することで、その反対の事象を想像せよ」というのが主旨のようだが、どう考えようと、「陰陽」は、「陰陽」である。
「老子」第14章に、「有の以て利をなすは、無の以て用をなせばなり」とある。これは、「有」が、「有」として成り立つのは、その裏に、「無」の働きがあるからで、容器に無の空間があるからこそ、容器としての役割を果たすようにである。容器の何もないのは空っぽと我々は、「有」の価値にのみ心を奪われるが、「無」という価値にも目を向ける必要がある。
昔ある女に、「お前が美人といわれるのは、ブスがいるおかげだぞ!」と言ったら、「美しいモノって、汚いモノがなくても美しいんじゃない?」と問い返された。「確かに…。決めつけかもしれんな」と考えを新たにしたのを覚えている。自分の言ってるのはおもしろおかしい、「比喩」であり、「美」は絶対的なものか、相対的なものかの議論はあろうはずだ。
金閣寺の隣に汚いあばら家がなくても金閣寺は美しい。あばら家は、隣に金閣寺がなくても小汚い。「絶対美」、「相対美」についての意見は乱舞するが、どちらかに決めようとするから対立するのであって、「美」が主観である以上、いずれの場合もある得るという考え方の方が柔軟性がある。正解は一つにあらず、何事も正解を求めんとすれば無理が生じるようだ。
生け簀の中の魚のように、がんじがらめに生きる人もいれば、広々とした世界の中で自由に生きる人もいる。善に縛られて生きる人もいれば、悪の世界でしたたかに生きる人もいる。「善・悪」というが、善も悪も幅がある。「勧善懲悪」に生きるのは窮屈すぎるし、さりとて、「善悪を超越して生きろ」と言われても簡単ではない。ある時、こんな言葉を目にした。
・賢者はものを扱うとき、自分の考えをしっかりと持っているが、鋭くはない。
・彼は純粋であるが、害を及ぼすことはない。
・彼は真っすぐであるが、激することはない。
・彼には光があるが、きらびやかではない。
・彼は純粋であるが、害を及ぼすことはない。
・彼は真っすぐであるが、激することはない。
・彼には光があるが、きらびやかではない。
大人は子どもの全般を受け持たなければならないが、そうはいっても、子どもに自由を供与するのも大人の重要な役目である。子どもが外で遊ばなくなったなら、子どもは家の中にいることが多く、ともあれ専業主婦が子どもに過保護になり易いという弊害が生まれるが、子どもが外に出ない時代は、逆に母親が外に働きに出るということでバランスが取れているかなと。