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チェスの国と将棋の国 ②

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西友、スカイラーク、シャープ、レナウン、最近ではアデランス、これ以外にも外資系連結子会社の日本企業は多い。不適切会計処理問題により、歴代社長3人が退任、刑事告発問題に発展するなど、東芝ブランドはボロボロだったが、16年6月30日付で、白物家電事業を担当する東芝ライフスタイルの株式の80.1%を、約537億円で中国マイディアグループに売却した。

東芝ブランドを維持しながら白物家電事業を継続しているが、17年1月に、米原子力事業に関して7千億円規模の減損損失を計上する可能性があることを公表し、株式市場からの信頼を大きく失った。東芝は急遽、財務基盤を強化するため、稼ぎ頭の半導体事業を今年3月に分社化することを取締役会を開いて決定し、他社から出資を受け入れることを発表した。

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3月14日の記者会見で綱川社長が明らかにした、「今後の東芝の姿」は、2019年度のグループ売り上げが4兆2000億円と、ピークからおよそ半分に縮小した姿であった。外資系傘下で成功例が少ないなか、日本企業で唯一の成功例は日産自動車であろう。ゴーンの力量によるところが大きかったが、彼は2月に社長退任した。シャープ、東芝、アデランスは幸せになれるのか。

今や外資に食われ、メイドインジャパンは外面だけである。シャープの台湾身売りより、「糸へん」産業の代表レナウンの中国身売りはショックだった。「ガチャマン景気」が思い出される。ガチャマンとは、「(織機を)ガチャンと織れば万の金が儲かる」といった含意から、「ガチャ万」と表記される。繊維、紡績などの字から、「糸へん景気」ともいわれる。

1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争に伴い、国連軍の要請で食糧や車両修理、各種鋼材などの調達を求められた(朝鮮特需)。特需の大部分が、土嚢用麻袋、軍服、軍用毛布、テントなどの繊維製品であった。この時期、東北や九州地方から金の卵と呼ばれた集団就職で、戦前からの一大繊維産地である美濃、尾張、三河、遠州の繊維工場にも多数の少年少女が就職した。

中でも工員は女子の人手が必要とされたため、繊維工場のある地方は若い女子に溢れた。「女工の街」とも言われた愛知県一宮市では、現在でも女性の人口比率が高く、当時の名残を表している。それにしても昔の女性はよく働いたもの。「女工哀史」という言葉に鑑みていえば、哀しいくらいに働いた。働くことがなぜに哀しいかといえば、何の目的もなく働くからだ。

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       繰糸…繭を煮てセリシンを軟化溶解させ,繭糸を取出しやすい状態にしてから糸口を求め,数粒の
       繭の糸を合せて集緒器を通し,抱合して1本の糸にする。


彼女らはほんのわずかの休憩のために働く。寝る時間の楽しみのために働く。粗末な食事を美味しく戴くために働く。それが労働の目的か?それが目的である。そのことが哀しい。「女工哀史」は、昭和期の朝鮮特需のようなものではなく、もっと前の明治、大正時代である。富岡製糸場が稼働したのは明治五年(1872年)。開場当時から旧士族の子女のみを選び、繰糸工女を養成した。

繰糸とは、蚕の繭から生糸を作ることで、繊細な製糸技法ゆえに指先の熟練に依存の割合が紡績業に比べて大きい。手仕事であることで、技術の水準が労働力の質を決めると同時に、労働力の質が技術の水準を決めるという相関関係にあった。「製糸技術において、工女は機械の一部たる観あり」の言葉が言われた。こうした製糸技術の特殊性が、「女工哀史」を生む。

製糸工場の女工といえば悲惨なイメージが伴うが、なぜ士族の娘を限定したのか?これにはちゃんとした理由がある。政府の指示による模範工場として設立された富岡製糸場は、当時としては最先端工場であり、富国強兵策を掲げ、推進する意味において、軍隊と同等の価値をもつ重要施設で、その性格上もあってか、集められた女工たちは単なる労働力ではなかった。

ここで学んだ技術を出身地に持ち帰り、その地の製糸業の指導者となることが期待されていた。そのため女工とはいえ幹部候補生であり、相応の教養と指導力が必要とされた。当時、このような資質を備えた女性は旧士族の娘であった。したがって、在野の製糸場と比べて富岡は、最先端の設備と労働環境を誇った、「女工哀史」とは別の、エリート養成場であった。

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繊細な手仕事ゆえに能率給を採用し、頑張った工女は報われた。信州松代の士族の娘・和田(旧姓横田)英が書き残した回想録の、『富岡日記』からは、彼女たちの快適な生活を想像することができる。工女のランクは8段階に分かれ、最高ランクの一等工女は高収入であるばかりか、服装も特別待遇された。キャリアアップを目差す工女の競争心に拍車をかけた。

「女工哀史」については後日あらためて記事にしたい。レナウンが中国に乗っ取られたことは残念・無念だが、それだけでなく、レナウンがなぜ存在する?佐々木八十八がなぜ佐々木営業部を作った?そうした八十八立志伝も含め、さらには日本の繊維産業の隆盛と衰退が、我々の人生と同時進行していた。それらを知ることは、別の観点から自分を探ることでもある。

自分を知るのは、時代の時々を知ることでもある。中でも、衣・食・住は生きる上での日常である。どんなファッションが流行り、自分がどんなものを好んだか?どんな食品が生まれ、消えていったのか?部屋にはどんなアイテムが存在したか?家具や調度品、電気機器や電化製品も懐かしい。レナウンの身売り、東京ブラウスやVANの倒産の経緯も気になるところ。

アパレル最大手レナウンが、「ワンサカ娘」で名を挙げたように、確かにCMはセンスがあったが、アパレル従事者に言わせると、「東京ブラウスの企画力に比べ、レナウンの作るブラウスはカスだった」らしい。その東京ブラウスも、1991年12月期には年商300億円を売り上げていたが、百貨店の凋落や長引く不況に圧迫されていく。レナウンも百貨店依存度が高かった。

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今やファッション業界は斜陽産業といわれている。全国のファッション専門学校は毎年13000人程度の卒業生を出すが、そのまま業界で働けるのか?〇〇服飾専門学校、〇〇文化服装学院などのファッション専門学校は、アパレル店員を養成するではなく、デザイナー養成所である。そうはいっても…である。音大のピアノ科も、ピアニストを養成するところである。

音大にピアノ教師養成講座はない。そうはいっても…である。どれだけの心がけをもって入学するか?努力するか?の問題もあろう。最初から、「そんなのなれるハズがない」と思っている子がほとんどだ。中国やアジア、ヨーロッパ諸国からの留学生はめちゃくちゃ勉強する。彼らにとって大学での勉強は当たり前だが、勉強しない奴らが自分を基準に驚いている。

留学生は人生を掛け、そのためにお金を掛ける。足を掛ける程度のノンポリ学生とはまるで違う。足掛け気分で高い授業料払い、誰が得をし、誰が損をする?誰も損も得もない。彼らも彼らの親も、それで自己満足である。可笑しなことだが、これが大学全入時代の現実である。団塊の世代が引退し、変わって団塊ジュニアがこの国をしょって立つ。頑張ってもらいたい。

世界の中の日本にあって、日本の特質に照準をあてて書いた昨日だが、西洋人の見た、日本人の知らない日本人であったりする。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という80年代に起こった大きな波に代表される、「日本ブーム」が、こんにちは形を変えて世界的広がりを見せているものもある。それらを、「日本風」とし、そうした日本風支持層は着実な拡大にある。

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今から百余年前、「日本風」に熱烈なる恋をした一人の西洋人がいた。その人は、アメリカの紀行作家、エルザ・R・シドモアである。彼女はワシントンに桜を植樹した人として知られており、「シドモア桜」と名付けられている。明治45年(1912年)のことだった。シドモアがいうように、19世紀末から20世紀初頭にかけて、日本文化は欧米文化に影響を与えた。

装飾で有名なアールヌーボーや、ゴッホやモネ、ルノアールらフランスを中心とする後期印象派絵画もそうであり、イギリスのガーデニング文化などもあげられる。いずれも浮世絵、山水画、田園風景や造園などといった日本文化の影響から生み出されている。「日本風」が形づくる伝統と、モダンの調和の、「伝統」は、花鳥風月、草木虫魚の自然観にとどくものといえよう。


そこには日本人特有の、「細部に対する繊細な目配り」があるのはいうまでもない。細かな自然の隅々にまで神が宿るという繊細な精神性、小さな存在をいつくしむ気配り、これが、「ものあはれ、わび、さび、いき」という独自の美意識を醸し出している。日本人であることを誇れるときがある反面、日本人はグローバリズムの波に乗れていないと感じることもある。

相反するものである以上、どちらかを採ればいいというものではない。日本人的な自己をもって、世界に向け、未来にはばたくにはどうあるべきか。自分ごときに答えは出せないが、シドモアは、「日本人の民族性は、普遍化することも要約することも不可能」といった。言葉を返せば、日本は特殊であると言っている。それが日本人には分からない日本人観である。

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さらにシドモアは、「日本人は西洋人とは全く類似点のないほどに正反対の性格を持ち、かつ矛盾に満ち、他のどのアジア民族とも全く類似点がない」と分析した。なるほど、日本的な自己とは、西洋的な、「アイデンティティという自己決定的な自己」というのではなく、共同社会の外圧に従い、その都度決定される自己。つまり、環境変化に応じて自己を限定する。

その場の空気や状況といった環境に合わせて自己を作っていくというのが、日本人的な自己の在り方である。これくらいは日本人でありながら、客観的な日本人観として把握している。が、自分はどちらかといえば、付和雷同、集団主義という日本人観に抗って生きてきた。しかし、周囲が保守的である以上、少数派でいるためにはめげない精神力が必要だった。

日本人の御都合主義、建前主義、形式主義よりも、いかなる場において、「自分を見失わない」西洋的アイデンティティが優れてると思ったからだ。日本社会がそれらを受け入れないのは文化的側面であって、決して正しいとは思わなかったが、一般的には、日本人文化を踏襲する自己の在り方が理想とされ、そういう自己を目指そうとするのが日本人である。


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