『ブルマーの謎』(青弓社) という本が紹介されていた。[産経新聞 3/22(水) 14:50配信] なので新刊と思ったが、2016年12月発刊であった。著者は女性かと思いきや、関西大学社会学部の山本雄二教授である。列記とした男性で、なんでまたブルマーを?だが、社会学者ということだ。ズロースについては多少なり素養はあるが、ブルマーには謎があったようだ。
山本はブルマー教授といわれ、ブルマー研究の第一人者ということだが、「ちょっと待った!」と、おだやかならぬ女性が出現した。彼女の名は小松聰子といい、関西大学社会学部で山本ゼミの生徒であった。彼女こそ大学時代にブルマーに取り組み、研究を行い、ブルマーで卒論を書いたひと。大学卒業後、京都の通販会社に勤めたが、学究意欲冷めず会社を退社する。
上京し、早稲田大学大学院商学研究科専門職学位課程ビジネス専攻卒業した。山本氏が『ブルマーの謎』を出したとき、過去の自分の研究であったこともあり、小松さんは嫉妬に見悶えたという。その彼女がゼミでブルマーに取り組んだ時の経緯を語っている。時は元禄15年…、これは「赤穂浪士」の出だしだが、時は今から15年前、大学三年の山本ゼミでのこと。
卒業グループ研究のテーマを決める打ち合わせの最中に、小松さんが、「若者のファッション論で進めたい」と主張するも、「ありきたりだよね」と、山本教授に上目線秒殺された。一瞬の沈黙の後山本教授は、「男子体操のユニフォームの変遷なんかどう?」と提案があった。小松さんは、「な、な、なんと、だ、だ、男子の、た、た、体操服ですと?」と泣きそうになった。
(何よ、男子の体操服って…、そうじゃない私たちはもっとオシャレで楽しい事がやりたいんだ!)と心で叫んだという。しかし山本教授は乗り気満々、このまま押し切られたら終生の不覚。一計を案じた小松さんは、「そうだ!ブルマーがある」と閃いた。何をおいてもブルマーは、男子のダサい体操服より輝きがあり、きっと体操服の匂いよりいいはずなのだと…
彼女は意気揚々と言った。「先生、そーゆー物なら何でもいいんですよね? だったらブルマーの研究をやります!」。これが山本ゼミ・ブルマー研究班誕生の瞬間だった。山本の著書が出た時彼女は、「先生は忘れているかも知れないが、発案者はこの私だった。もし、あのまま研究に身を捧げていたならば、この私がブルマー本を書いていたかも知れない…」。
と、嫉妬したという。しかしながら、大学卒業と同時にブルマーを捨てて社会人となった彼女と、その後もブルマーに取りつかれた山本との差は歴然である。「現象自体は誰もが知っているのに、その経緯については誰も知らない。こういう事柄には案外、大事なことが隠れているのではないか?」との山本の言葉は、学者として、研究者として、歩むべく王道である。
経緯は分かった。ブルマーには秘められた謎が多くあるのも分かった。が、この本を買う気のない自分は、自分なりのブルマー体験並びに、ブルマーの思い出などを記してみよう。ブルマー体験といっても、コスプレイではない。そんなブルマーを穿かせたり、脱がせたりにはとんと興味がない。著者の実家は衣料品店であったそうだが、自分の隣も衣料品店だった。
隣のNとは幼馴染の同級生。彼女の家の屋根裏部屋のような、洋服などが山のように積んであるところで、殿様ゴッコなどして遊んだ。衣料品店なので、いろんな服がおいてあり、それらを着て遊んだが、脱がすような遊びはしていない。山本の実家からは、初期、普及期などのブルマーや、箱に入れられたまま陽の目を浴びぬ、ミイラ化したブルマーも見つかったらしい。
自分たちはブルーマと呼んでいた。(したがって以後はブルーマ)、あの東京オリンピックで金メダルに輝いたバレーボール日本代表の穿く、奥ゆかしきチョーちんブルーマ全盛の時代だった。バレーチームのブルーマはそれほどふわふわ感はないが、まさしくチョーちんブルーマであった。当時の小学生のブルーマは、原爆のキノコ雲がごとき巨大だった。
そのブサイクさといったらない。当時の写真など見ると、ブルーマのブサイクさにあどけなさがかみ合い、特に小学生低学年女子の盆提灯のようなふわふわブルーマ姿は、聖少女の神秘性が感じられる。それらは今にして思うことで、当時はそれが普通であった。高校1年の頃だったと記憶する。衣料品店のNが、こんな自慢をしていたのをハッキリ覚えている。
「うちのブルーマは評判いいんよ。みんなウチに買いにくるし」。どんなブルーマかに興味はなかったが、この頃に主流となり始めたふわふわチョーちんブルーマでなく、ピッタリ体にフィットした密着型である。まさに、時代の変遷である。それにしても古来のブルーマは、なぜにあれほどにふわふわだったのだろうか?おそらく著書には書かれているだろう。
買って読みたいが、本の置き場所がなく、余計なものは買わない。古本を処分すればいいのだろうが、知りたいことはあれ、脳の定量の問題もある。Nが自慢するように、密着型はスタイリッシュでも親が購入する。体を冷やさないようにと保守的な親は、ネル地の分厚いズロースを子どもに履かせる。その結果、ブルーマからちょろりパンツがはみ出ることになる。
外より中が大きいために起こる不可避現象である。誰ともなくこの状態を、「はみパン」というようになった。学校内に性的な物の抑止に努めるなか、はみパンとブラの横線は、この時期の男にとって、まさに春の呼び声であったろう。ところで産経新聞のネット配信に、少しだけブルーマの沿革がある。それによると、ブルーマ導入は1900年代前半頃とされている。
理由は、女子が袴姿で体育を受けるのが不向きとされ、膝下まで大きく膨らんだニッカーボッカー風ブルーマが採用された。ニッカーボッカーズはズボンの一種で、長さが膝下までですそが括られた短ズボン。野球、ゴルフなどのスポーツウェアとして広まり、現在日本では土木・建設工事の作業服として多く見られる。日本では鳶服などと呼んだりする。
そのニッカーボッカー風ブルーマの長さは次第に短くなり、緩やかに尻を包み込むちょうちんブルマーが60年代半ば頃までの定番となる。その後、あっという間に密着型ブルーマ全盛となっていく。それがはみパン現象を生んだのは仕方のないことだ。ミニが流行ってパンツが見えやすくなると同じ論理である。はみパンは体操座りの後に起こりやすい。
こまめに調べて直す女性もいれば、われ関せずのおくて女もいる。山本教授は、「校内に性的な要素を持ち込むことを警戒していた学校が、なぜ密着型ブルーマを了承したのかが不思議」といっていた。そういえばNの店の密着型ブルーマは教師に注意をされながら、それでもどんどんと普及しいていったところが、女性のおしゃれに関するパワーである。
そもそも密着型が普及した理由、人気を得た理由は、選ばれた理由や背景は諸説あるようだが、有力なのは、「64年の東京五輪で旧ソ連の女子バレーボールチームがはいた密着型ブルーマに少女たちが憧れた」という説。日本はソ連に勝利したが、ブルーマのブサイク度においては、完敗であった。誰が見ても密着型ブルーマの圧勝であり、少女はめざとかったのか?
これには山本教授は否定的である。「仮に憧れがあったとして、これまで学校が少女の憧れを制服に反映させたことがあっただろうか」。山本教授は密着型普及の迅速さや規模からみて、当時の全国中学校体育連盟(中体連)に注目、発言権を得るために資金を必要とした中体連が学生服メーカーと組んで、従来とは全く違う製品で体操服の総入れ替えを図った。
中体連が普及に協力する代わりに一部を寄付金として得る。「これによって、まず東京の学校に浸透し、他社も参入して全国に広がっていった」と指摘する。そういえば思い出した。隣のNの店のブルーマは注意されながらそれでも穿くものが後を絶たずに普及したが、うるさ型の親はそれを認めず、チョーちんブルーマを強いられしぶしぶ穿いている女子がいた。
そんな中で、「うち(お店)のブルーマはかわいい」と鼻を高くしていたNの顔が思い出される。当時、チョーちん型と密着型で親と争った女子はいるかもしれない。考えてみれば女子だけが特殊なものを穿かされていたものだが、今やブルーマはショーパン、半パンツ、ジャージに代わってしまったものの、ブルーマは、懐かしくも郷愁をそそる記憶の中の風物であった。