自分がブログをやってることを周囲に言うことはない。読んでほしいわけでも、読ませたいわけでもないが、他の理由として、世間が捉えている自分と書くだけのブログ主の自分が違って見えることもあるだろう。そういわれるのも、それに返答するのも、煩わしい。「面倒くさい」を禁句にしているから、「煩わしい」。どちらも自分だが、「違う」といわれると返答が面倒だ。
「忙しい」、「めんどう」、「疲れた」を、三禁句と心掛けているが、意識して口に出さないと決めているだけで、そうならないのではない。それが心掛けというもの。面倒くさいは、「めんどう」と一緒。にしても、「面倒」をなぜ、「面倒くさい」というのか?なんでも疑問に思う癖がふと沸いた。とりあえず自分で考え、分からなければ調べる。要は、「くさい」という接尾語の用法だ。
① …のようなにおいがする意を表す。「汗くさい」、「こげくさい」
② …のような様子であるの意を表す。「年寄りくさい」、「オトコくさい」
③ 上にくる語の意を強める。「ケチくさい」、「テレくさい」
② …のような様子であるの意を表す。「年寄りくさい」、「オトコくさい」
③ 上にくる語の意を強める。「ケチくさい」、「テレくさい」
これらから、「面倒くさい」は、上記の③の用法と思われるが、「これは面倒」の意を強めて、「これは面倒くさい」と表記する。「くさい」は、「臭い」であるから、臭いに関連する言葉との先入観があって、それでいろいろ考えた時に、「面倒」の後に、「臭い」を持ってくることに違和感をもったが、「様子を表す」、「意を強める」の、「くさい」であるのが分かった。
「バカくさい」は標準語的で、関西では、「アホくさい」といい、口語的には、「アホくさ」、「アホくっさ~」などといわれる。これは②であろうか、③であろうか?「あいつはアホだ」を、「アホくさ」というのは、本当はアホではないが、アホに見える場合の用い方。「年寄りくさい」を、年寄りにはいわないのは、言わなくても年寄りだからであり、むしろ若者に向けていう。
「その洋服、年寄りくっさ~」などの言い方は日常的にある。よって②でもあり、③のニュアンスもあろうか。「その洋服、年寄りっぽい」を、「年寄りくっさ~」と強調する。まあ、日本語用法のテストじゃないし、どっちだってヨカである。例の似非学者なら、「間違い!」というかもだが、誰も正しく生きてるわけではないし、いつでもどこでも「自分が正しい」は嫌われる。
人は、「ぞんざい」である方が人間的であり愉快である。自分は、「どっちだっていい」の「ぞんざい派」。あまり重要ではないことにゴチャゴチャいうのがバカに見える。先日、有吉が、「出前の寿司桶を洗って返さない人に激怒!」という見出しがあったが。こんなことで「激怒」というのもテレビの煽りであって、近年何かにつけて、「激怒」で注目させようが丸出し。
テレビは観るほどアホになっていくのは、バカ芸人を観るからか?有吉、坂上、マツコ、マッチャンら、「激怒屋」が多すぎる。くだらん事にいちいち激怒するなと言いたいがテレビのやらせ。ふと思い出したが、「禁酒と断酒」は語句が違うように意味も違うが、「同じ」といえば似非学者が食いついた。間違って使うと戦争が起こるんか?細かくしつこい男を「女の腐った奴」という。
●禁酒
・誰かに酒を飲まさないようにすること。
・飲まないように我慢していること。
・酒を飲む人から酒をとり上げようとすること。
・酒のない社会を目指すこと。
*禁酒とは、酒との闘いである。
●断酒とは?
・自分自身で、酒を飲まない生き方を選び、実践すること。
・酒を飲まないだけでなく、より心の健康を増進させる(成長する)為の努力を通 じ、アルコール依存症から回復していくこと。
・素面で生きること。
・世の中の酒は他人の問題だからとやかく言わないが、自分は酒を飲まない生き方を目指すこと。
*断酒とは、酒を飲まない生き方を選択する事。要は、自分自身の生き方の問題である。
ここまで考えて物をいう必要はない。「ワシ、今日から禁酒する」といったときに、「禁酒じゃない。断酒!」と水を差せば、「やかましい、どっちだっていいだろが!」となる。素直じゃないというより、しょぼい正しいは必要ない。学者がいちいち世俗に口出すなである。「禁酒」はお酒をやめたけどまた飲むかもしれない状態、「断酒」は一切お酒を絶つこと。
3年も前故失念も仕方ないが、禁酒・節酒論争也。これすらどっちでもいいが、節酒という言葉初耳
であろうが細かすぎる。作家が断筆宣言をし、後に覆さなかった者などいない。筒井康隆も断筆を止めた。彼の断筆理由は、自著で「癲癇」という言葉を使ったところ、「日本てんかん協会」から抗議を受け、話し合いの末決裂。友人の大江健三郎には、「社会に言葉の制限があるのならば、新しい表現を作り、使っていくのが作家ではないか」と批判を受けた。
さらに大江は、「炭坑内の有毒ガスにいち早く反応して危険を知らせるカナリアになぞらえた筒井を、『太ったカナリア』」と揶揄した。他にも吉本隆明、浅田彰、絓秀実、柄谷行人、渡部直己、村上龍、三田誠広、島田雅彦、田中康夫らから批判を浴びた筒井は卑屈になったのか、泣き言をいう始末。「断筆して以後、『文壇』というものがある、とよくわかった。
去って行く者に追い打ちをかけたり、つばを吐きかけたり、反感がすごい」。「ぼくを中傷することによって自分が浮上することだけを考えている。今までぼくを認めるようなこと言っていたやつまでですよ」と慨嘆した。批判もあれば擁護派もいた。曾野綾子、瀬戸内寂聴、安岡章太郎、平井和正、小林よしのり、石堂淑朗、井上ひさし、内田春菊、井沢元彦、夢枕獏ら。
ところが、「筒井の尻馬に乗って表現の自由をうんぬんしている作家たち」という岡庭昇や、みなみあめん坊(部落解放同盟大阪連合会池田支部代表の南健司)の発言が出てくると、小林よしのり以外はみな沈黙してしまった。作家の断筆は、思想・信条を貫く点で評価もできるが、食い扶持を失うことであるのは紛れもない。一生食える蓄えはあるにしてもだ。
それ以上に、芸術家が自己表現を搾取されるわけだから、困窮だけの問題ではない。筒井は水面下で、「日本てんかん協会」と交渉、断筆解除にこぎつけた。ま、意地もほどほどにすべし。方やチャラオの断筆宣言もあった。チャラオとは百田尚樹。彼の断筆宣言の理由は、「悟り」ともいえるような、当初は静謐で説得力のある言葉であった。経緯を以下に示す。
故やしきたかじんさんと妻・さくらさんとの闘病生活を綴ったノンフィクション『殉愛』をめぐり、出版差し止め訴訟に発展したことで、「断筆宣言」。その理由がカッコイイ。「もともとデビューした時、十年で引退と思っていた。来年で九年。一年早く辞めたってどうということはない」と、頭に毛を増やしてやりたくなるような彼の言葉は社会から注目を浴びる。
ところが2日後には、「嬉しそうに記事にしてからに。気分悪いから、死ぬまで作家やってやろう」(原文ママ)とツイッターに投稿したのには、「ガーン」である。なんだい、この年でこのチャラさは…。これが2014年で、2015年3月に再び、「断筆宣言」をツイート投稿。百田は出版業界の不振に触れ、「僕も来年の還暦を機に引退しよう」とこれまたカッコイイ。
さらに、「私はたまたま売れたけど、そんなものは一時的なブーム。売れなくなる前に筆を折る」などと発言した直後…、「たったの一時間で、もう私のツイートがネットニュースになってる」とし、「腹立つから、引退撤回! 80歳まで書く!」と言い出す彼には、「またかい」であった。人間が言行不一致であるのは仕方がない。言葉を所有する動物に許された行為だ。
言葉と行動が一致しない人間などいない。とはいえ、あまりにそれを多用すると信用されなくなる。そこは理解しておくべきだ。あらゆる高等哺乳動物にあって、その中でさらに高い知性を有する人間に言葉が与えられたのは、己の心を隠すためにである。女性はそのことで身を守ってきたが、封建時代の男中心社会で男にあっては、何より、「信用」が大事になる。
「男の一言」はそのために生まれた。男が、「言行不一致」に自主規制をし、無益な争いよりも信頼関係を構築するためには、「男の一言」、「武士の一言」が土台にあるべきだった。こんにちでもそうあるべきと思っている。だから、百田尚樹のようなチャラい男は、作家というよりただのハゲ。あの性格では人から金は借りれない。だからしっかり稼いだらよい。
有名人がツイッターをしていながら、「発言が一時間にネットに広まったから頭にきた」などの言い方は、自分が有名人であることの自負で、表現を変えて述べているだけだ。そうしたところも子どもじみてチャラい。年齢を聞かなけれな自分よりはるか年上に見える百田は年下である。60歳を超えた世代は我々同様、「羞恥の世代」でとされる。つまり恥を知る世代。
「ヤンチャはいいが、チャラいは止めてくれ」と言いたいが、視点を変えるとフレキシブルな人間である。人の社会で、人に好き嫌いがあるのは仕方ないが、作家の才能とは別に絶対に付き合いたくない人間の一人である。彼にも若き頃はあったわけだし、一体どんな面をしているのか興味もあって、「百田尚樹 若き頃」で検索してみた。出た画像がまたもや、「ガーン」であった。
この画像の百田はオカシイ。いやいや、なぜにオカシイのか?普通の若者である。なのにオカシイ?なるほど…、こういうことだ。こんにちつるピカハゲ丸百田は、今が普通なわけで、こんなにモサモサ毛があることがオカシイとなる。言い換えると、今がスタンダード、つまり基準となっている。それからすると、この画像が百田であるのを笑わぬ人はいないだろう。
不条理な宿命だが、これもまあ、彼の徳(チャラさ)にも関係している。だから、ふさふさの昔がカッコイイとならない。普通のハゲびとは、昔のふさふさを見るとカッコイイとなるのが一般的。わりとチャラい系の松山千春でさえ、昔の雄姿はカッコイイと感じるが、残念ながら百田は過去の画像を捨てた方がいい。が、見方を変えれば、「百田さん今がカッコイイ」。