彼女の失踪における可能性としては、①家出、②誘拐、③某国による拉致の3つだが、③について、今の時期に日本人を拉致するメリットはなく、可能性は極めて小。よって家出か誘拐であろう。先ずは家出の線から思考してみる。家出といっても、①単独、②協力者の存在、が考えられるが、単独行動にしては目撃情報もなく定点カメラで確認もされていない。
財布・携帯不所持に制服姿という、生きて行く面からみても単独家出の線は薄いし、家出動機も不明。親との喧嘩や、言い合いした後に感情的に手ぶらで家を飛び出す事はあり、親に心配をかけるための"プチ家出"というのが言われたりの時世だが、家出と違ってプチ家出は2~3日で帰るとか、寝るときと食事時だけ帰るとか、まあ、情けない甘ったれた家出である。
杏花さんと親とはそういう状況になく、親も家出するなどの心当たりはないと言う。となると残るは誘拐か?児童誘拐には2種類あって、2014年7月にあった岡山女児誘拐監禁事件は、女児の自宅近くの路上で連れ去る際、刃物のようなものを突き付け、「殺すぞ」と脅して連れ去り、自宅などに監禁ケースと、少女があらかじめ顔見知りの男と合意の上に逃避するケースがある。
後者は威圧的・暴力的ではないが、18歳未満の婦女を合意といえども、連れまわすのは青少年保護育成条例違反に該当するが、杏花さんのように長期に及ぶ場合は、未成年者略取誘拐となる。高橋ジョージと三船美佳も当時は15歳と39歳であり、青少年育成条例違反などと言われたが、30歳と18歳未満の少女であっても恋愛関係なら法に該当しないという例外規定がある。
男女間の恋愛に法は無力であるが、13歳の少女を親権者以外が連れまわすのは、双方が恋愛と言い張っても未成年者略取誘拐で起訴されるだろう。少女に乞われても懇願されても、夜の遅くまで引き回すなどとんでもないし、家に帰るよう説得するのが真っ当な社会人である。「家に帰りたくない。ずっと一緒にいて…」などの言葉でデレ~と鼻の下を伸ばすようではダメだ。
母親のいうように家出の理由、つまり家にいたくない理由があったかなかったかは、本人以外は親といえども分らない。杏花さんが残した手書きのメモには「家も学校もちょっと休みたいです。しばらく友達の家です。さがさないでください」と書かれてあった。この"家を休みたい"という耳慣れぬ言葉に正直驚いた。学校を休む、会社を休む、クラブを、塾を休むというのはある。
が、「家を休む」という言葉はこの世に存在するのだろうか?杏花さんが始めて使った言葉ではないか思うが、どうしてこういう言葉が生まれたのだろう。「家を休む」とは何を意味するのか?この斬新な言葉の意味をいろいろ考えた末に、家を休むとは、"子供である事を少し止めたい"の言い回しではないのか?つまり、家とは親と子で成り立っている。その家を休むと子どもが言う。
これは子ども(でいることを)休みたいと聞こえるのだ。子どもである事を休みたいなら家にいては成り立たない。だから家を出る。彼女はそれを実践した。子どもである事を休みたいのは、子どもであることが嫌だったにちがいない。このような言い回しをするような子は、親に反抗できない、あるいは、嫌なことを嫌と言えない性格であり、ハッキリものを言う子ならこうは言わない。
「家が嫌なのでしばらく出ます。さがさないでください」などと書くのでは?家出をすれば学校は必然的に登校できないので、あえて書く必要はない。彼女は家を出たかった理由を「家を休みたい」と表現したのだろう。彼女の今までの親におもねた生き方からして、親が嫌だった、ウザかった、苦痛だったなどの強い言葉を発せない、発したくないお利口さんであったと推察する。
それが家を休みたいという表現になったと見る。子でいることが嫌だったと見る。子にとって家庭は生活の源泉である。親が嫌いでも家庭を捨てることはどういうことか?たちまち生きるを放棄することになる。なぜなら、親と大喧嘩しても親は飯を食わせてくれるわけだ。親憎しといえども、家庭を捨てるのは容易でない。ところが、彼女はそれを実行した。
「お母さんもお父さんも大嫌い」といわれるより、家出される方がショックは大きい。確実に親を否定された訳だから。にも関わらず杏花さんの親は、嫌われる理由はない、うまくいっていたと言ったりするところに、子の心に気づかない抜け落ちた部分があったはずだ。心当たりがないというくらい鈍感な親ではないのか?別段この親に恨み辛みはないが、親が好きなら家を出ない。
杏花さんの親は家出などと思いたくないではなく、寸分家出などと思っていないように思う。本音は分らないが、これだけ家出の状況が濃いにも関わらず、自分たちは拒否された、見棄てられたとは思えないのだろうか。再度いうが、親が好きで大切なら家出はしない。だから誘拐となる。親子の問題が何もないという前提なら100%誘拐であろう。本当にそういえるのか?
親の子どもに対する基本的な姿勢は、「うちの子に限って…」であろう。しかし、これは自分に言わせるとメデタイ親である。あらゆる可能性と、子の心親知らずという危機感に即して子どもと接していれば、「うちの子に限って…」などの言葉は出てはこない。子どもが成人していろいろなことを子どもたちから聞き及ぶに、親ってのは子どもの10%も知らなかったである。
自戒ではなく、そういうものだという親子の摂理として感じたこと。子どもは澄ました顔をして親に隠れて生きているものだし、それを何でも知っている、分っているなどという親は危機感のないメデタイ親である。こういう親ほど、子どもが起こした行動にショックを受けるのではないかと。物事を善意に、いいようにしか解釈しないから、裏の部分に眼が行かない。
行かない=ない、と断定してオワリだ。「知らない」ことは「ない」ではないということ。単に知らないだけであるということ。齋藤杏花さんの行方不明の根本としてそこを感じる。親を好きで愛していれば、心配をかけるような事はしない。多少の落ち度や過ちは起こしたとしても、心で親に詫びるものだ。が、杏花さんの行為が家出であるなら、親が障害であったのだ。
よって男といる事は何ら苦にならない。学校や塾や家庭から自由になる事がこれほど楽しいことかと感じるはずだ。さほど今までの生活に深刻な問題がなくとも、それらを上回る自由さが新鮮に感じられる。男との性的な問題は、これは人によっても違うから、虜になる子もいれば、さほどという子もいる。もし、性的強要が苦痛や負担というなら、逃げ出す算段をするかも…。
実は正月5日に中学二年生の女子に相談を受けた。彼女は母親を極度に嫌っていたその理由は、携帯にあった学校の友人以外のアドやメールや電話番号を全て消去されたこと。それで彼女がした事はネットで出会った男のアドや携帯電話番号を別の秘密のノートに書き写し、1回1回メールや電話はその都度時分で消していたという。結局、携帯を持っている以上こう言う事ができる。
それを親が消したから安心と思っているのだからお笑いだ。で、結局彼女は22歳の男と数度のメールで処女を渡したという。男とはそれ以後プッツンとなったという。男から見れば大体の事情は飲みこめるが、そこは中二の少女。きっと連絡がある事を信じて待ち続けているという。メールをしても電話をかけても音沙汰ない相手に対し、事情を呑み込めないでいる。
自分にとってのよくないイメージで想像する事もしない。ただただ、ひたすら待ち続けるという。罪な男だが、彼女にとっては罪ではない。あわば、彼女は男の罪というものを理解できない憐れな子羊である。彼女の居住する湘南から荻窪まで会いに行った行為を無防備と思うが、この子らに「無防備」という言葉は死語のようだ。会いたいから会う、とただそれだけ。
会ってどうなるという想像力より、会いたいが優先するから危惧は相殺されるだろう。何が起こっても当たり前という感覚だから、それを「無防備」と言う。厳し過ぎる親に対する反動が、彼女が彼女自身を粗末にしているといえば言い過ぎだろうか?少女にとって自分を大切にするとはどう言う事かが判っていない。せめて、親を心で裏切らないでおこうという気概もない。
親に粗末な扱いを受けていると感じ、彼女の無防備な行為が自虐的であるかないかも判断できない。親に対する敵対心が自虐心を増幅させているように思う。やり逃げ同然の男でも、親よりは数倍大事にされたのだろう。ラインのやり取りのコピーを見て、少女に今後の防備を教えるのは難しいが、少なくとも親の傲慢さが少女を「家庭」の外に追い出している。
彼女の行為を親は目糞ほどとて考えられないだろう。決して不良ではないし、素行が悪いという少女ではない。いわゆる真面目な部類であるが、そういう真面目な子であるがゆえに親が傲慢でいれる。して、親がこういう子を崩していくのかも知れない。締め付けに対する反動は怖い。少女の相手、22歳の男はイケメンであった。だから少女はすぐにヨレてしまう。
ジャニーズ系に憧れる少女が誰しもかかるハシカのように。おじさんが中学生の少女に「無防備」を説教する時代ではないと言えるほどに、無防備など当たり前の少女の感性だ。ネットというひろ~い世界の中で、少女がイケメンと出会うことの確率が高まり、それが見知らぬ相手といえども、すべてを投げ出してもいいほど満足感をイケメンは彼女たちに与える。
韓流イケメンにうつつを抜かすオバサンと変わりはない。サカリのついた女が出会い系でいとも簡単、その日のうちに見知らぬ他人と会う時代である。これも現代風的"いきずりの恋"というのだろう。道端がネットになっただけのこと。不安よりも性欲が優先し、手軽に叶うツールを時代は生んだ。一生懸命に女を口説いた時代の勇士から見れば、なんと殺伐とした時代であろう。
ネット世界の怖さは、メールや掲示板で少し話しただけの見知らぬ相手は、見知らぬ相手でなくなってしまう。道で声をかけられるのも、ネットで声をかけられるのも同じという時代になってしまった。知らない人に道で声をかけられると警戒するのに、なぜかネットでは警戒心が薄れてしまう。その大きな原因は姿形が見えないのと、自分を秘匿できるからだ。
こちらから言わない限り、一切を秘匿できる気軽さが気を大きくさせる。20歳の男に道で声かけられてすぐにアパートまでついて行く少女はゼロに近いくらいに少ないが、ナンパをされたいという意思を持っている少女なら多少数字があがる。に比べて、自分が相手を求めて参入するネットは「わたしは異性を求めていますよ」という合図を相手に発信している。
これならバカでもチョンでも女をゲットできる。口説きの上手さ、言葉のニュアンスなど無用の長物であり、無機的な文字会話のみで事が足りる。「出会い系」なるサイトでは、数分で話がまとまるなど当たり前の時代。鎧や兜をかなぐり捨てた女が、「ムラムラしてるので会える人いませんか?」と呼びかける時代。下半身に人格を持たない人間が中学生頃から養われていく時代。
初体験年齢が小・中・高では女子が男子を上回る時代など、我々には考えられなかったが現実となる。少女の「無防備」さが死語になったならそれも当然であろう。社会が純潔を煽る時代にあっては少女は煽られ、社会が性を煽る時代に少女は煽られる。いつの時代もマーペースなのが男である。いや、むしろ草食系男が増加しているという現象も、我々には信じ難い。
もし、齋藤杏花さんがネットで好意的男の存在があったなら、警察は彼女の相手との通話やメールを確認していると思われる。しかし、10か月経っても進展しないのは存在の確認が出来ていない可能性が高い。不明になったときの書置きメモは全文公開されたが、9日後に上尾局の消印で父親宛に届いた手紙はなぜか断片的な文言のみしか公開されていないのは何故?
「県警生活安全規格課によると、手紙は19日昼前に届き、ノートを切った1枚の紙に「元気ですごしている」、「迷惑をかけてごめんなさい」などと書かれ、女子生徒の署名もあった。「しばらくは帰らない」という内容も記され、居場所などは書かれていなかった。母親は女子生徒の筆跡と確認した。
手紙は父親宛て。15日付の「上尾」の消印が押されており、上尾郵便局管内のポストに投函されたとみられる。縦約20センチ、横約9センチの茶封筒表面に差出人名はなく、切手も添付されていなかった。着払い扱いだったため、投函から4日後に届いたとみられている。朝霞署は引き続き、事件、事故、家出など幅広い視点で調べている。」
「元気で過ごしている」、「迷惑をかけてごめんなさい」、「しばらくは帰らない」をわざわざ告げた理由は何だろう?杏花さんの筆跡であるという。自分の想像は、同伴の男によって書かされたもので、投函の意図も当然同伴者である。その意図はおそらく、騒ぎになっている現状にあえて波紋を投げかけ、それによってどういう反応があるか、記事が出るかを気にしたのでは?
殺人犯は殺害現場を再度訪れるというが、このケースも似たようなもので市井の反応が気にして"様子伺い"の投函したと推察する。齋藤杏花さんは自宅の前で10代風の男と話していたといわれるが、携帯、財布が家に置かれたままというなら、一旦自宅に戻って、外に出たということだ。たまたま外に出たのか、電話などで呼びだされて出たのか?逃避行なら後者だ。
呼ばれて出たなら着信記録に相手の番号が、たとえ非通知であっても警察の捜査で特定できる。警察はその情報をもっているのか?それとも用意周到、呼び出しに公衆電話を使ったのか?9日後の手紙も"不自然、今どきの子は電話で済ますよ"の声もあるが、親の声を聞きたくない、会話したくないなら手紙はおかしくない。切手を貼らなかったのは、意図的か単純に忘れたか?
手紙投函慣れしていないなら、意図というより単純に忘れたのだろう。また、消息を絶った9日後に1回だけの連絡のみで、その後に沙汰がないのは、生死の問題とも受け取れるが、駆け落ちでどこかの地方で暮らしているなら、今さら帰ってもという羞恥心、あるいはこのまま同伴者と暮らそうという諦観なのか。生活の新鮮さは10か月もすれば消滅している。
1946年の住友邦子事件の場合、誘拐されたにも関わらず、犯人は「いい人」と漏らしたほどに自由のない窮屈な住友家であった。邦子は小6で12歳であり、逃げる機会もあったが助けを求めていない。岡山誘拐事件の森山咲良は11歳の小5で、いずれも誘拐犯は従僕的に少女に親切である。齋藤杏花さんの結論は、なにより不明時の書置きメモのインパクトからして、男との逃避行と見る。